Quantcast
Channel: 雑感日記
Viewing all 5073 articles
Browse latest View live

カワサキ単車物語50年  その5  川崎航空機時代の国内対策

$
0
0

 

★ 昭和40年(1965)がカワサキが本格的に単車事業を川崎航空機の経営の一つの柱とすべく決心をした年と言っていい。

従来の国内市場一本からアメリカ市場開拓を大きな柱にA1などの新機種も開発されて、カワサキにとってはアメリカ市場での華々しさが非常に顕著な時期ではあったが、日本国内に於いても販売会社や明石工場内での事業運営体制が着々と整備されていったそんな時期、そのころは未だ川崎航空機だったのである。

 

『販売会社体制』

★メイハツ、メグロの人たちが中心のカワサキ自販が東京に本社機能を持って全国を統括していたのだが、

カワサキオートバイ販売に社名変更すると同時に、その企画中枢を東京から明石に移したのである。それは、岩城良三常務が自ら社長を兼務されて、当時の川崎航空機の事務屋の精鋭たちが、集められたことから始まったと言っていい。

その中心となった営業企画部門には本社から川崎航空機再開の定期採用第1期生の矢野昭典さんが赴任され、誰が見ても会社としてここに全力投球だ ということが解るそんな体制だったのである。当時アメリカを担当された浜脇洋二さんも東大だが矢野さんはその1期上で本社人事課長からの異動であった。

販売促進部には販売促進課と広告宣伝課が創設されたのだが、販促が八木健、広告宣伝課が私、いずれも未だ係長にもなってもいないのに、出向先とは言え、異例の課長抜擢だったのである。特に販売促進課には、八木健さん以下、北村敏、野田浩志、前田祐作、岩崎茂樹、鍋島秀雄と当時の川崎航空機の事務屋のトップクラスが集められたと言っていい。ただ、確かに潜在的な能力は優秀だが、バイクに関しては全くの素人ばっかりだったが、後々事業の中心的な役割を果たした人たちであったことは間違いない。

 

私が担当した広告宣伝課は、誠に対照的な高校卒の実務派ばかりで、かって野球部のマネージャーをやっていた川合寿一さん、営業の実務派大西健治さん、技術部のデザインルームから榊くんなどが明石で、東京にはカワサキ自販以来の広告宣伝課のメンバーの下原さん以下がいて、主として東京モーターショーを担当していた。担当する範囲は、単なる広告宣伝でだけではなくて、当時のファクトリーレース活動をカワサキのイメージ戦略と位置付けて、契約ライダ―達は全員が広告宣伝課の嘱託として名を連ねていて結構な人数だったし、当時のライダーたちはやんちゃなのも多かったので、エリート揃いの販売促進課に比べたら、おもろい元気なのばかりの集団だったのである。

カワサキ自販時代の企画戦略の中枢であり、カワサキコンバットの産みの親、私にも大きな影響与えた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの実弟)は、この機に退社されたのである。

ただ、広告宣伝費予算は、本社から事業開発費として1億2000万円もの膨大な予算が3年間与えられていたのである。これは単車再建のための市場調査を行なった日本能率協会が事業再建の条件の一つにあげたもので、当時の単車事業の総売上高が10億円そこそこの時期に1億円を超す額は普通では考えられない額なのである。サラリーマンの年収が40万円ぐらいの時期だから、その額の大きさがお解り頂けるだろう。1年目は7000万円しか使えなくて、『お前らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。

こんな予算を目当てに、大広、電通、博報堂などの広告代理店は神戸の支店ではなくて、本店の企画メンバーが担当で、当時の日本のマーケッテング関係ではトップクラスの人たちばかりの超エリートメンバーでもあった。この時期この人たちから得たマーケッテングのノウハウなどは、カワサキにとって大きなソフトの資産になったことは間違いない。

広告宣伝の世界では、例えば『カワサキ』と言う4文字のレタリングを『ちょっと有名な人にやって貰いましょうか』と言うので『そうしよう』と言ったら、オリンピックのポスターのデザイナーの亀倉雄策さんの見積が出てきて、そのデザイン費用が7000万円だと言うのでビックリしたリした。

本来の広告宣伝のテレビ番組などは、1億2000万円あっても簡単には使えない額だし、何よりも当時のカワサキの主力市場は実用車が主体の田舎ばかりで、東京、大阪、名古屋地区は要らない と言うものだから、テレビも、新聞も全国版は使えないのである。だから地方紙ばかり50紙をかき集めて広告したり、現実的なライダ―の契約金をちょっと弾んだり、中古のヘリコプターを所有して、地方のイベントやレース会場に参加したり、結構派手にはやっていたのである。

少なくとも、私の現役生活で、一番自由に金が使えた3年間であったのである。

広告宣伝価格と言うのは、その効果などが基準で、『カワサキ』と言う4文字はどの広告にも使われる『広告のもっとも基本的な4文字』だから高いので、これがZEPHYR のような商品名であったりすると、7000万円と言う値にはならないのである。同じタレントさんを同じ時間占有しても、それを全ての媒体に使う場合と、雑誌だけに使う場合では値段は違う、そんな世界なのである。そんな発想の仕方も、広告を本格的にやって広告代理店の本社の連中と付き合っていろいろ教えてもらったのである。

 この時期、カワサキの独特のイメージ創造にレースの果たした役割も大きくて、競合3社に対して何一つ1番になれるものがない時期に、レースだけは互角以上に戦ってきたのである。

三橋実、安良岡健、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義のほかロードレースライダーの金谷秀夫など錚々たるメンバーが広告宣伝課の嘱託社員だったし、当時厚木にあったカワサキコンバットには月20万円の選手養成費を渡し、全国から有望ライダーを集めて育成に務めていて、星野一義などもその中の一人で全部で何人いたのかはよく解らなかったのである。年間契約金もトップライダーたちには100万円を越す金額を払ったが全体の広告宣伝費の予算から言えば大した額ではなかったのである。

広告宣伝的な効果としては、何度も全日本MXを制覇したし、『赤タンクのカワサキ』と一世を風靡したレース活動は、その後もカワサキのイメージ創りに大いに貢献したと言えるだろう。

 

 (MCFAJ全日本MX 朝霧高原、ヘルメットにタテの1の印はカワサキコンバットの選手達。 山本隆、歳森康師の二人は神戸木の実クラブ、星野一義もいるから多分昭和41年度の春、全日本の写真である。)

 

★第1線の販売網対策として、、特に兵庫県などは幾つもの営業所を造り、川崎航空機から多くの人たちが出向し、現場第1線の経験を積んでいったのだが、みんな二輪の営業などは素人もいいところで、運転免許の取得から始まったりしたのである。

このころの先生役を務めたのが、兵庫メイハツから参加した平井稔男さんなのである。

だから、彼は『カワサキの真打ち』と自ら称しているのだが、言われても仕方のない実績なのである。後々カワサキの国内の二輪もジェットスキーの販売の中核を果たした藤田孝明君などもこのころからの参加で平井門下生の一人なのである。

さらに昭和41年度からは、カワサキオートバイ販売としての定期採用者の採用を開始するのである。その第1期生が昭和41年度の富永邦彦、渡部達也さんの二人だが、42年度は大量な採用で、これらのメンバーがその後のカワサキの国内市場を支えたことは間違いない。

この時期に、国内市場としての販売台数はそんなに芳しい結果は残してはいないが、単車事業を進める上での基本的なノウハウなど、全くの素人から、それぞれが身につけて行ったことがその後の事業展開に貢献したのである。

昭和40年から45年までの創成期の初期は、未だ地方代理店の時代であったが、その先駆者としては、後イギリス、、ドイツなどヨーロッパ市場を開拓し、カナダも担当した内田道夫さんを挙げねばなるまい。彼は元々メグロの出身だが、当初は北陸の代理店を担当し、後岡山に移った後川崎重工に移籍してヨーロッパ市場開拓の先駆者となるのである。営業だけでなく、レースにも熱心で、カワサキが初めて鈴鹿を走ったジュニアロードレースには山本隆とともに走った塩本選手を北陸から送ってくれたのである。イギリスの社長時代もヨーロッパのファクトリーレースをケン鈴木さんなどと引っ張り、カワサキのKR時代を演出したのである。

川崎航空機から最初に現地に出たのが井川清次さんで、当時の全国カワサキ会会長の荻原さんがおられた山梨カワサキに出向した。後ドイツの社長などを務められている。さらに、野田浩志さん(後アメリカKMC社長)が長野県のデ―ラ―に出向したし、営業企画部長の矢野さんご自身も岩崎茂樹くんと九州事務所を創って博多に出向されたのである。

そして私自身も、当時カワサキ最大の市場であった東北6県も担当として仙台事務所を創設するために仙台に異動となったのである。

後UKの社長などを担当した永友節夫さんや中島直行さんなどもこの時期の現地出向組なのである。

 

 『明石の工場体制』

 ★この時期には明石工場内の体制も、大きく整備されていったのである。特筆されるのはサービス、品証体制と部品補給体制だと言っていい。

まず、サービス体制だが、昭和36年(1961)12月、私が単車の営業に異動した時にもサービス機能はあったが、吉田、福田、福井のサービス員3人だけの体制だたのだが、昭和40年JET部門から田村一郎さんがサービス部門に来られてから急激にその体制強化が図られたのである。

単なるサービスから、品質保証と言うコンセプトも含めて、現地第1線にいたメイハツ、メグロの経験者や当時の開発のテストライダーたちもその傘下に入って綜合的なシステム構築がなされたのである。田村一郎さんは、ユニークな人が揃っている単車グループの中でも突出した存在で、カワサキの単車では誰知らぬ人はいない有名人である。

その田村さんが一番最初にされたのは、当時の兵庫メグロに弟子入りして、自ら二輪の整備技術を学び、『整備士2級』の難しい資格を所得することからはじめられたのである。そんな実戦的なところがすごかったし、いろんなサービス関連の冊子などを作ったりするのに、広告宣伝費をと仰るので、当初の立ち上がりは結構な額を提供したのである。

下のメンバーもテストライダーには清原明彦、山本信行の今では有名人も揃っていたし、ユニークでオモシロイ人いっぱいだった。

この時期に、カワサキのJ1が富士登山に成功したことなどご存じの方はおられるだろうか? 

これにチャレンジしたのが、当時の品証の福田、加藤さんなどのメンバーである。加藤さんとは今の八尾カワサキの加藤さんである。確か、夏休みの時期だったが、山頂まで登って、ちゃんと写真を撮ってきたら、成功報酬で広告宣伝費で費用を見てあげると言う約束でのチャレンジだったのである。当時のレース職場でモトクロスタイヤを装着したりして、見ごと成功、当時のオートバイ誌にちゃんと写真付きで収録されている。昭和40年ごろの話である。

現場のサービス員3人でスタートしたサービス部門だが、この時期以降、単車事業の骨格の部門となって行くのである。

 

もう一つの部門が、部品部門と言えるだろう。この部門もメイハツから来られた正垣さんたちが、何となく細々とスタートしていてたのだが、アメリカの市場を経験された桑畑禎文、田崎雅元さんが担当して、急激に様変わりして行くのである。

アメリカの部品流通システムなども経験されたのだろうが、それ以前のJETエンジン部門で、アメリカ的な管理方式は、既に基礎として身についていたのだと思う。当時建てられた部品の自動収納、自動取り出し方式の倉庫は、50年近くたった今もそのまま使われているような当時としては画期的なシステムだったのである。

部品NOの付け方などもカワサキは車種から始まるものではなくて、JETの部品と同じ、部品そのものからスタートする先進的なものが使われて、その後の部品の共通化などの対策が容易に行われたのである。この時期の単車事業部の技術屋さんは、JET部門から来られた方が中心で引っ張ったので、生産関連はJET部門の当時では新しい管理方式や発想が次々に採り入れられたのだと思う。

『航空機の技術』と当時の広告にはよく使われたコピーだが、商品だけではなくて生産技術にも、それは活かされていたのである。

 

★昭和40年からの5年間、国内の販売や工場の体制は、このように着々と進行したのである。

クルマで言えばA1からH1ぐらいの時期、未だ川崎航空機であった時代であった。

『カワサキのイメージ、カワサキの単車事業の基盤』は川崎航空機時代に創られた と言っていい。

昭和44年に3社合併があって、川崎重工業となり、Z1が発売されてまたちょっと違ったカワサキに向けて進んで行くのである。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 


Facebookの賢さ加減

$
0
0

 

★この頃は、1日の内でFacebook と対峙している時間が一番長いかも知れない。

兎に角、オモシロくて、飽きさせない。

対応も、極端に言うと秒単位で反応する。

その反応が見たくて、いろんなことにチャレンジして、チェックして見るが、期待通りの反応を示してくれるところがいい。

得られる情報も貴重で、高質なものも多いから、こんなのが見られないようにしている行政など、これはどんどん遅れてしまうのである。

 

ところで、これが私のFacebook ページだが、このブログをお読みになる方の何%ぐらいの方がこのリンクの内容をご覧になれるのだろうか?

 

 

 

★ リンクが見られない方、リンクが貼ってあってもそれを開けない方もおられるので、その画面を切り取ってきたのがこちらである。

 

私が開くとこんな画面なのだが、これは世界で私だけのもので、

多分私以外の方が、幾ら私のFB画面を見ても、こんな画面は絶対に現れないはずだと言うのが、今現在の『私の仮説』なのである

 

 

まず上の9画面は、1000人を超えるトモダチの中の9人なのである。

この9人が どんな基準で選択されているのか?

もしお解りの方がおられたらぜひ教えて頂きたいのである。

 

この9人のうち、息子と娘、孫二人に娘婿の5人は何となく解る。身内だと言うことで、もう一人孫はいるが、トモダチになっていないので、除外されているのだろう。

問題はあとの4人である。この4人の方は、確かに身近な方であることは間違いないのだが・・・・

なぜ、カバン屋さん と、60おじさんなのか?

さらに、女性がなぜ 菊澤こゆりさん と 陸井薫さん なのか?

確かにNPO The Good Times でも関係はあるし、親しいお付き合いであることはよく解っているのだが・・・・

 

 

★いろんなトモダチの画面をチェックして見たがどうもそのルールがよく解らない。

 

   

 

 これは三木の森田優さんの画面を私が開くと、こんな私と共通のトモダチが現れるらしい。

武雄の樋渡啓祐市長や箕面の倉田市長などが現れる。

 

その樋渡市長をクリックすると、右側の画面、

ずら―っと三木のメンバーと服部吉伸さんが並んだりした。

なるほど、

これは全て私中心にFacebook が瞬時に反応しているので、 

私以外の方が、森田さんや樋渡さんをクリックしても、決してこのような画面が現れたりはしないはずである。

 

確かに、Facebook が賢いと言うことはよく解ったが、

最初の私自身の画面の4人の方は、どんな位置づけなのだろうか???

 

こんなことして遊んでいたら、1時間以上も過ぎてしまった。

こんなのを好奇心と言うのだろう。

みなさんは、あまり気にも留めていないのだろうか?

 

私がなにを言ってるのか、お解りにならない方が、多分殆どだろう。

ぼちぼち、ボケたかと思われるかも知れない。

この私の仮説、多分、半分は、間違っていないとは思うのだが・・・・・ 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

ユニクロの世界同一賃金

$
0
0

 

★ユニクロが『世界同一賃金を発表』というニュースが新聞のトップを飾った。

 

 

優秀な人材を確保したいからなのか?

同一賃金にして、トータルの賃金を下げたいのか?

いろいろ意見はあるようだが、

ネットでもいろんな意見がいっぱいのようである。

 

 

★いずれにしても、学者が言っているのではなくて、企業経営者が言っているのだから、

そのベースには『企業経営の効率化』 ということがあって当然なのだが、

一方で『企業の社会性』その国の、その環境に如何に、健全に適合するかと言う問題もあるのだろう。

 

ユニクロと言う同じような形態の多店舗店舗を世界に展開する場合は、特に現場の店長以下のクラスに、そんなに飛び抜けて優秀な人材がいても、いなくても結果はそう変わらないのではなかろうか?

商品の開発、商品の品揃え、陳列の方法、仕入れの方法、広告の内容など企画的な面は、確かに人材の優劣が付くのだろうが、現場の第1線は、誰がやっても同じ結果の出るようなトータルシステムの構築が、ベースなのだろう。

最終的には『年収100万円でも仕方がナイ』という方向に集約されてしまうのではなかろうか。

『世界同一賃金を発想する』トップは、年収4億円が、本当に妥当なのか、高いのか?

それは、誰の判断でそう決められるのか?

こちらは同一と言っても、一人しかいないんだから『同一』と言えるのだろうか?

 

こんなのは、正解があってないようなものだけど、

人数的には、低賃金で抑えられる人たちが多くなる計算になるはずなのである。

そうでないとすれば、個別の店舗ごとの収支が果たして成り立つのだろうか?

 

よく解らないけれど、間違いなく 『話題は提供する』 出来事ではある。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

カワサキの単体エンジン時代の話

$
0
0

 

★『二輪文化を伝える会』 という NPO The Good Times の特別プロジェクトがあります。

 

 

昨年の夏に立ちあげられましたが、日本の二輪文化を伝えるべく非常に地道な活動を続けています。

その中心の実務を担当しておられるのは、松島裕さんです

今から30年かかって纏めると、壮大な夢を語っていますが、たった半年ほどですが、既に立派な資料がいっぱいです。

二輪文化にご関心のある方は、xぜひご覧になってみてください。 非常にまじめな取り組みであることがお解りになると思います。

このブログでも、新しく『二輪文化を伝える会』と言うカテゴリーを創って、ご紹介をして行きたいと思います。

 

昨日はそのFacebook ページに、こんな記事が載りました

 

 

以下ご紹介する記事は、そこに紹介されているブログの記事です。

『詳しい人からすれば、違うよ〜、という事もあるでしょうが、少ないなりに一応それなりの資料を参考にしていますので、大きな間違いはないと思います』

と書かれていますが、殆ど間違いないと思います。

昭和28年に発動機の単体エンジンからのスタートですが、そのように聞いています。

私は昭和32年に川崎航空機入社ですが、ここに書かれているような話はよく聞きました。

高槻工場でもバイクのエンジンをやっていたようです。単車事業本部長、KMJ社長など歴任され、後川崎重工業の副社長をされた高橋鉄郎さんは、高槻工場でバイクのエンジンやられてたと、ご本人から聞きました。

大日本機械や、川崎明発工業などの名前もよく聞きます。私が単車に異動した昭和36年末には、カワサキ自動車販売に既になっていました。

そしてクルマとしてはB7の時代です。既にそのころは完成車になっていました。

カワサキのエンジンの時代のことが、今解る方は 平井稔男さんだけかも知れません。

 

こんなに、ちゃんと纏められて書かれてあるのは、初めて見ましたので、ご紹介したいと思います。

 

 

<メイハツKB−1/2/3>(1953〜)

「カワサキ」としてのモーターサイクル事業は小型エンジンの供給から始まっています。

まぁ、会社としての成り立ちが複雑で、名前が変わったり分裂したりくっついたりと、どこから「カワサキ」として扱っていいのか分かり難くて大変でしたが、原付の歴史ということで考えれば、やはりここが起源でしょう。

とりあえず「カワサキ」の成り立ちを要約しながら、順に進めていきたいと思います。
詳しい人からすれば、違うよ〜、という事もあるでしょうが、少ないなりに一応それなりの資料を参考にしていますので、大きな間違いはないと思います。

まず、1878年(明治11年)に川崎造船所がスタートします。
1937年(昭和12年)に川崎航空機工業(株)が分離独立し、軍需産業として大きく成長します。
しかし、敗戦後の混乱で川崎航空機は川崎産業(株)となり、さらに(株)川崎都城製作所、(株)川崎岐阜製作所、川崎機械工業(株)の3つに分裂します。

その川崎機械工業の播州工場が、1953年1月に自転車補助エンジンKB−1型を生産開始します。

また、川崎機械工業の高槻工場では、1953年2月から4ストローク150?エンジンのKE−1、KE−2、KE−3が作られていました。
KE−1の設計はKB−1より早い1952年2月頃には出来上がっています。

ちなみに、カワサキワールドにはKE−1は1952年に製造販売となっていますが、どっちが本当でしょうね。
設計完了から生産開始までちょうど1年間ありますが、実はこの間に製造販売が出来ていたのでしょうか?
まぁ、とにかく、この2つのエンジンが「カワサキ」のオートバイ産業の原点でしょう。

そして、原付バイクの原点は、KB−1です。

その後KB−1は、同年3月に明石工場に生産を移して、同年8月にはKB−2型が生産開始します。
翌1954年2月には、川崎機械工業が再び川崎航空機工業(株)となり、同年3月にKB−3型が生産されます。

KB−1は、提携供給先の大日本機械工業にて自転車に搭載され、「電光号」として発売されますが、後に同社は業績不振でバイク産業から撤退しています。

川崎工業製エンジンは、他にも数社に供給されていたようですが、新たに発足した明発工業が、川崎機械製エンジンの総発売元となり、「メイハツKB−1」が誕生することになります。

エンジン単体と、専用の自転車に搭載されたものとが販売されていたようです。
50?を超えていますが、1955年の法改正までは原付として乗れました。

その後、「メイハツKB−2」「メイハツKB−3」と続いていきます。

メイハツKB−2は、ペダルスタートではなく、キックスターターを採用し、2段ミッション付きでした。

メイハツ製バイクは、造船・航空機などで有名だった川崎製のエンジンを搭載しているということで、人気があったそうです。

明発工業は、川崎機械の明石工場で作った発動機(エンジン)ということで、当時すでにあった「トーハツ(東京発動機)」に対抗して「メイハツ(明石発動機=明発)」と名付けられたそうです。

後に川崎明発工業(株)となり、さらにカワサキ自動車販売(株)、そしてカワサキオートバイ販売(株)となって、現在の(株)カワサキモータースジャパンになっています。

(メイハツKB−1)空冷2ストローク単気筒ピストンバルブ58.3cc、ボア×ストローク:42×42?、最大出力2ps/4,500rpm、最高速度45?/h

(メイハツKB−3)空冷2ストローク単気筒ピストンバルブ58.3cc、ボア×ストローク:42×42?、最大出力2.5ps/5,500rpm、最高速度45?/h

 

★実は昨日は久しぶりに、川崎重工業の明石工場を訪ねました。

川崎航空機が再開されて、本部があった『3研』という建物です。

懐かしかったので、写真撮ってきました。

単発エンジンをやってた50年以上も前の頃も営業部門は、この建物の中にありました。

『単車準備室』もこの建物の2階にあったのです。

戦前の川崎航空機時代からの建物ですから、天井も高く階段もこんなに、広いのです。

 

 

 

懐かしい、会議室です。前方に見えるのが単車の組み立て工場です。

 

 これは、プレジデント室のある3階です。

 

『二輪文化を伝える会』  今後もいい資料をいっぱい集められると思います。

 

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

シクラメンの夏越し方法

$
0
0

 

★ シクラメン、この冬ずっと綺麗に咲いた。

夏を越して来年の冬も咲かせたいのだが、上手く夏が越せるだろうか?

 

 

こんな二つの方法があるようだが、夏水を切る方が面倒でないのでそちらにすることにした。

いずれにしても忘れないようにブログに記録しておくことにする。

 

★めちゃ天気がよかったので、近くの公園まで行ってちょっとダッシュなどして戻ってきた。

 

 

     

公園の藤たな、藤は今からかな。

チュウーリップも綺麗だった。

 

 

 

前のお宅のクリスマスローズは見ごとである。

 

 

我が家の薔薇も、ようやく蕾を付けたあと2週間ほどかな。

侵略や国益や、靖国問題などなど・・・

$
0
0

★安倍さんの支持率は非常に高い。

中国や、韓国に対しても毅然とした態度であるのはイイ。

私自身ももどちらかと言うと『右寄り』だとは思うが、昨今の中国や韓国との対立も、もう少し何とかならぬのかなとは思っている。

 

 

特に、『侵略の定義は、学問上確定していない』と安倍さん国会で仰ったらしいが、

確かに『侵略』とは、どんなことを言うのであろうか?

 

もし、戦前の韓国の状況を『侵略』と言うのであれば、私はその『侵略状況のど真ん中』で中学時代まで過ごしたことになる。

当時、日本は韓国に進出していたし、満州、今の中国北部にも色濃く関与していた。

子どものころだが、それは至極普通のことのように思っていた。

決して侵略していると言う意識などもなかったし、今もそう思っている。

ただ、中国との戦争が始まって、どんどん中国を占領していった事実は、これは『侵略』かなと、今でもそう思う。

 

 

★『侵略の定義』などなかなか難しいのだろうが、人類の歴史を見ると、世界各国『侵略の連続』であるようにも思える。

大体、人間は自分の支配する範囲を広げようとしたがるのは本性のような気もする。

侵略ではないが、経済におけるマーケットのシェア競争なども、自らの勢力を拡大しようという動きであることは間違いない。

こんな動きは、単に利益確保のためではなくて、シェアアップそのものが目標になったりする場合も多いのである。

 

かって欧米諸国が中国に対しても、東南アジアに対しても、アフリカに対しても取った態度は、植民地化政策などと言われてはいるが、侵略とどのように違うのだろうか?

そんな態度は『間違ってた』から、今はなくなっているのだろう。

それはそれでいいが、何十年経った現在も 『謝れ』とか『反省しろ』とか、言い続けているのは、これはまたどうかと思うのである。

そんなこと言われているのは、日本だけである。

 

★国益と言うことも、よく言われるようになったが、国益とは文字通り国の利益、国民の利益、 日本に有利になるように動く、ことなのかな?と思う。

同じことに対しても、必ず意見は別れるものだと思う。

それ自体は、それでいい。

でも、どちらかと言うと、自分の国が有利になるように、自分の家庭にプラスになるように、動くのが普通なのだが、

特に、戦後日本の知識人と称する人たちが、むしろ日本に対して厳しく考え過ぎたその反動、みたいなものが今の右傾化に繋がっているように思えてならない。

 

靖国神社参拝の問題も、言われていることは当然のことが多いのだが、

私は未だお参りしたこともないし、今後も行くことはないだろうと思う。戦死をした伯父もいるのだが、靖国神社に祀られていると言う実感はない。

日本国民の方で靖国神社にお参りされた方は、何%位なのかなと思う。

 

 

個人の意思で、個人が国のために尽くされた人たちに感謝の念を持つ、そして靖国神社に参拝する。これは何等他国から文句を言われる筋合いはないと思うが、

なぜ、国会議員が、あんなに大挙して群れをなしてデモのようなお参りの仕方をするのか?

みんなで渡れば怖くないと言うようなそんな感じなのだろうか?

 

★安倍さんは、私はイイと思う。

ただ、一国の総理で、国を纏める立場におありなのだから、ぜひ国益を考えて、確りとやって頂きたいと思う。

一つ一つ取り上げたら、いろんな意見があるのは当然である。そんな意見が自由に言えるから民主国家なのだと思う。

戦争に負けて、そんな世の中になったことは、事実なのだが、

戦前が全てダメなどと言うことではないと思う。

 

そんなことを国民が、「ちょっと考える」そんな時代にようやくなったかなと思っている昨今なのである。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

朝日相扶製作所  と 『差別化』

$
0
0

 

★ 私が生きてきた、その基本コンセプトは『差別化』 であったと言っていい。

『差別化』と言うのは、基本的にマーケッテングの世界で特に使われる言葉なのだろう。

あまり一般社会では使われてはいないが、広告やマーケッテングの分野では『差別化戦略』などと、その発想の根幹をなすものなのである。

 

若いころ広告の分野を担当した時期に出会った言葉で、当時は仕事の中でもしょっちゅう出てきたのだが、

そのうちに、自分の生き方までも『差別化』が基本となってしまった感がある。

 

ちょうどそのころは『差別』が世間で問題になっていた時期で、『差別』と言う言葉自体が、なかなか口にするのが難しかったそんな時期だったように思う。

会社の『市場戦略』などの書類に『差別化戦略』などと書いたら、

『区別』ではダメなのか?  と上司に言われたことがあったりした。

『区別』では ダメで、『差別化』でなければならないのである。

 

ちょっと普通とは変わっていて、そしてちょっとだけでもいい『高度』と言うか優れていて、一段と高いレベルの差がなければならないのである。

ただ単に変わっているだけでは単なる変人だが、少しでも普通のことよりも『いい方に差がある』ことがMUST なのだろう。

ブランドイメージなどでも、そこには『イメージの高質化』がなくてはならないのである。

 

★生き方なども『差別化』は非常に意識して生きてきたので、

いろんな意味で『差別化』出来ていると、勝手に自認しているのである。

このブログにしても、

ツイッターでも、

今、やっているNPO The Good Times のNPO法人についても、それは『差別化からの産物』なのである。

 

特に。NPO法人については、殆どの法人が行政や大企業などからの補助金や寄付金をアテにしているところが多いのだが、

このNPO法人は、『補助金や寄付金』は一切宛てにしない仕組みになっている。

 

★そんな差別化だが・・・

昨日こんなニュースを見つけた。

こんなのが、典型的な『差別化』なのである。

 

 

 ★産経フォトにこんなニュースが載っていた。

山形県の家具やさんの椅子が、国連本部の議場に採用されたと言うのである。

 

その家具屋さんのホームページを覗いてみた。

その家具屋さんの名前は『朝日相扶製作所』  山形県の家具屋さんである。

 

 

まさに『差別化』なのである。

ちょっとどころか、相当のレベルで他との『差別化』がなされている。

量的拡大、経済大国だけを目標にするのではなくて、

今後の日本の将来は、高度な差別化こそが、いろんな意味で競争力に繋がるのだと思う。

 

農業なども、単に『TPP反対』などと言わずに、

他国の農業との差別化を目標に頑張るべきだと思っている。

農業の高質化  日本人なら出来ると思うのだが・・・

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

カワサキ単車物語50年  その6  特約店制度

$
0
0

 

★ 昭和で言うと20年代はバイクの中心はエンジン付き自転車で、カワサキですら明発工業に単体エンジンを提供していた時代だったのである。

昭和30年代の主力は50ccのモペット、その販売は全国に4万店もあったと言われた自転車屋さんで販売されていたのである。

『販売』と言ったが、正確に言うと販売ではなくて、自転車屋さんがお客さんに取りついで、その取次手数料を払うと言う『委託販売制度』だったのである。

『委託販売』とは、自転車屋の店頭にバイクを置いてもらって、それが売れたらお客とは直接地方代理店(メインデーラー)が販売し、自転車屋さんにはその『取次手数料』を支払うと言うシステムなのである。自転車屋にとってみれば、店先にバイクを置かせてあげて、客が付いたらマージンが貰えると言うそんな仕組みで、何のリスクも負担もないのである。店の面積は限りがあるので各地方代理店はそんな場所取り合戦をやっていた時代なのである。

そんな自転車屋のことを通称『サブデ―ラ―』の『サブ』と呼び、地方デーラー(メインデーラー)は、メーカーとの間に挟まって大変な時代だったのである。

『サブ殿さまのデーラー乞食』などと囁かれていた、そんな時代だったのである。

昭和40年代に入って、ようやくCBやA1などスポーツ車も世にでるようにはなったが、二輪の販売形態はそのまま、自転車屋が主力の委託販売制度が続いていた。

今のようにお金の回収が容易な時代ではなくて、田舎では盆払いだとか、秋のお米が採れたらその代金でとか、銀行には通用しない私制手形みたいなのまであって、その回数も長いし、『モノを売ってもなかなかお金に変わらぬ』そんな時代が長く続いていたのである。

 

★A1、W1につづいてマッハ?などの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。

城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキや北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。

この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。

東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。

ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。

 

 

(北多摩モータースも、城東も城北などの名前も見える)

 

昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。

それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。

それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。

 

★ 毎年日本一の実績を続けていた岩手カワサキなどの販売網は、自転車屋ベースだが、それなりにカワサキに対しても忠誠心もあったのだが、大阪に来てみると、販売網らしきものは殆どなくて、取引店の数は500店とか600店とか何店あるのか解らないほどあるのだが、年に部品を何点か購入してくれるようなところも入っていて、カワサキへの忠誠度などは殆どないそんなお店ばかりであった。

当時の中心店、船場モータースの岡田博さんなども、どちらかと言えばスズキが中心で、

『仙台ではどうだったか知らぬが、大阪でのカワサキは、「ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ」ぐらいだね』 などと言われてしまうような状況であったし、販売台数もお隣の兵庫県は地元で、平井稔男さんなどが頑張っていて、大阪よりははるかに多い販売台数を誇っていたのである。

まず特約店制に入る前に、カワサキシンパの店を創るべく『カワサキ共栄会』を組織して対策に入ったのである。この共栄会のメンバーを大阪の全販売店600店の中から選んで組織化をし、その会長を船場モータースの岡田博さんに務めて頂いたのである。

その選定は店の大きさなどよりは、店主の人物中心に、カワサキから見れば、育て甲斐のある考え方の確りした店という選定基準で徹底した。

二輪の販売網は4輪と違ってネット販売、販売網というシステムで売る訳だから、その中心の店が弱体であったのではどうにもならないのである。

なぜあんな田舎の岩手が毎年ダントツの日本一の実績を続けるのか?

それは岩手の久保克夫社長のトータルシステムの発想と、その販売網なのである。最初の営業経験で久保さんに会えたのが、その後の私の人生の基本的な発想のベースになっていて、そういう意味で久保克夫さんは恩師だと思っている。

 

★大阪商人はエゲツイなどと、よく言われるが口は悪いが結構本音が通るところだと思う。最初はマージンの額の多寡みたいなことばかりを言うものだから、営業所の仕入れ値を教えたら、その後一切マージンの額の話はなくなった。

共栄会の25店で大阪の600店全体の60%を売るような実績になったら、その時点で25店の特約店制に移行する、と宣言したら一挙にお客から『仲間』に、そして『同志』に変わっていったのである。会長の岡田博さんは、わがことのように先頭に立ってこの制度の実現に尽力して頂いたし、当時はホントに小さな店だった、伊藤モータース、今の忍者の伊藤さんなど熱心を通りこして熱烈だったのである。

共栄会時代を約2年を経て、まず大阪、京都、愛知の3県から特約店制度はスタートしたのである。

 

その特約店制度とは、

● 特約店契約を締結した店以外とはカワサキは取引しない。

● 特約店契約を締結する店は担保の提供、または保証金の積立をMUST とする。

● その最初の契約は甲乙平等の立場で、1店1店、店の希望なども入れたもので、一律に印刷された約款のようなものではなく、手書きのモノからスタートした。

● 大阪で言うと600店の店を25店に、京都では京都市以外は宇治カワサキの1店だけで京都府全体で10店ほどの徹底したスタートだった。

● 台数契約ではなく『金額契約』とし、取引価格も一応の基準はあったが、1店1店、店の希望を入れたものであった。

● 中大型車で金額も張ることから原則『委託』としたが、担保の提供のある店には買い取りも、手形による支払いも許容した。

● 特約店を育てると言うコンセプトであるから、特に財務面の徹底した経営指導を行い、これにより店の経営内容は飛躍的に改善が見られた。

● お客とはユーザーのことを言うのであって、特約店はお客ではなく、仲間、同志という認識であった。

この特約店制度がスタートたのが40年前で、カワサキの名車Zの販売された時期になるのである。特約店制度の展開にZの果たした役割も大きかったし、一挙に店の規模を大きくしていったところも現実に多いのである。

上記の中で特筆できるのが、担保の提供と保証金の積み立て制度である。担保提供した店や保証金が一定額に達した店は『手形発行』を可能とし、通常の利率の適用をOKとした。 当時の金利は『アドオン方式』と言うべらぼうに高い金利が二輪や4輪業界では一般的だったのである。担保はともかく、保証金はお金など持っているわけはないので、3年とか5年とかの長期分割の手形支払い方式であった。これはその後販社にとっては資金繰りに効果したし、特約店にとっては利益蓄積として機能したのである。

 

この最初の時期に特約店契約を結んだ店で、現在も頑張っている店としては、

●大阪では株式会社忍者、当時の伊藤モータースだったり、

名古屋のミスターバイク  当時の店名は春日井スズキ(斎藤さん)という小さなお店だったのである。

●岡崎では、今は世界一のバイク販売店かも知れないレッドバロンの前身ヤマハオートセンター(杉浦斎さん)が、当時は岡崎1店だけで、店をスタートさせたばかりだったのである。

 伊藤さん、斎藤さん、杉浦さん、それぞれなかなかのうるさ型で仕事ではいろいろとあったのだが、私は結構仲がよくていいお付き合いをさせて頂いている。40年経つと立派になるものである。

 

★そんな特約店制度は、世の中によくある全国一斉の実施ではなくて、大阪、京都、名古屋からスタートし、その後兵庫、さらには広島、千葉、福岡、などと大きな県から順次『特約店説明会』を開催し、その趣旨に共感する店だけで1県、1県順次展開していったのである。

 ●まず、各地の責任者が共感し『やる』と自ら手を挙げたところからの順次実施で、現地の責任者が『やる気』であったこと。

●全国展開の実務担当として、当時、古石喜代司くんが非常に細やかに現地と繋いでくれたのである。

●『特約店説明会』で、最も説得力があったのは、大阪の船場モータースの岡田博さんが、現地まで行って頂いて、特約店制について話して頂いたことである。

●そして、カワサキ側の厳しい条件ではあったが、現地の販売店のうち納得、共感された方だけが、特約店として仲間に入って行かれたのである。

 

 この最初の時期特約店制度の実現に関わってくれたカワサキオートバイ販売の中心的なメンバーは、(失念した人もいるのだが・・・)

 大阪 古石喜代司、宮本進(滋賀カワサキ)、竹内優、北村 

 京都 藤田孝明、久後淳一郎、関初太郎(モトボックスセキ)、柏原久 吉川健一(山科カワサキ)

 名古屋 鍋島英雄、南昌吾、五島頼孝(ファイブテン)平田篤郎さん達である。

推進した人たちとともに特約店として活躍してくれた人も多い。

兵庫地区は当時平井稔男さんが担当をしていて、大阪などよりはずっと多くの販売実績があったのだが、典型的な自転車屋の旧い店ばかりで、殆ど候補店がなくて、カワサキの従業員からの独立開業ののれん分け制度で展開したのである。

財満君(灘カワサキ)が第1号店で、次々にカワサキ関係者の出店が続いたのである。西宮カワサキ、明石カワサキ、姫路カワサキ、加古川カワサキなど、みんなそうだし、大阪なども八尾カワサキなど全国的にカワサキ関係者からの独立が多いのも特約店制度特徴と言えるだろう。

と書いていたら、山本レーシングサービスの山本隆くんに『私が抜けてる』とオコラレタ。彼はちゃんと特約店説明会から出席したようで、その時の話をよく覚えていていろいろ話してくれたりした。

 

この特約店制度は、大阪でカワサキ共栄会からスタートして、約5年の歳月を経て全国展開がほぼ完成したのである。

全国約1000店の二輪専門店網が、ホンダ、ヤマハ、スズキさんに先んじて、カワサキ独特の制度として完成し、その後各メーカーも、同じような方向での販売形態を取り現在に至っている。

カワサキは、特約店ARK(Authorized & Reliable shop of Kawasaki)などの時代を経て、現在に至っている。

独りカワサキだけでなく、国内の二輪販売網の嚆矢としての役割を果たしたものと思っている。

 

昭和45年から、この特約店制度展開の5年間は、国内のカワサキにとってはZ2の発売があって、初めて『バックオーダー』を体験するなど、特筆すべき5年間だったのである。

私自身は、この特約店制度のほぼ完成を見て、ちょうど10年間のカワサキオートバイ販売の出向期間を終り、川崎重工の発動機事業部企画室への異動となり、また違ったカワサキの単車事業の展開を経験して行くことになるのである。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。


NPO The Good Times 理事会

$
0
0

 

★毎月1回、NPO The Good Times の理事会が開催される。

通常の理事会などとは、ほど遠い雰囲気で行われる会議だが、理事さんのほかに会員さんでも希望される方は出席OKだから、議事も全くオープンなのである。

 

 

 

昨日は、こんなパリパリのKawasakiのニューモデルに乗る会員の藤原さんが先月に続いての飛び入り出席だった。

昨日の正規の議題は、5月に行う予定の『総会マタ―』であった。

決算と事業計画を兵庫県に提出しなければならないのだが、そんな資料のレベルは上場企業並みに確りとしたもので提出される。監事の小川さんも、管理部長の吉田さんも、どこでも通用する実力者だから任しておけばいい。

今後1年間の活動の方向の基本コンセプトさえ纏めておけば、熱心な団体会員さんの活動も、最近はホントに充実してきて、高いレベルでの展開が予想されるので、全く大丈夫なのである。

 

★今年は、このNPO法人も、5年目を迎える。

今年は改選期なので、理事長の任期も来るのだが、もう1期、2年だけは私が務めるが後は、山本隆さんに理事長を引き継いでもらうことを宣言して、理事長職を引き受けることにしている。

『来年のことを言うと鬼が笑う』のに『再来年のことを言うと誰が笑うのか?』などと山本隆くんは、言ってるがこんなのは公にして、その気になって貰わぬと困るし、あと2年もあれば、盤石のものにNPO自体を仕上げたいと思っている。

大体、半年あれば、殆どのことは何とか形になる。 半年経っても出来ないものは、10年掛っても出来る保証などないのである。

安倍さんの動きを見ても、大阪の橋下さんでも、武雄の樋渡さんでも、ちゃんとやりきる人は半年あったらちゃんとやっている。

 

昨年7月に立ちあがった『二輪文化を伝える会』 

9月に立ちあがった『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』 

そのFacebook ページの『いいね』の数は、800 と 1000を超えたところだが、どんどんその中味は充実して、世の中から客観的に認められるレベルに既になったと思っている。

 

 

★ これは昨日のFBに登山さんがアップしたものだが、ご覧の通り世界へ向けて英文なのである。その内容も世界中の人が解る内容なのである。

 理事会の途中に、突然ニュージーランドから本が本人のサイン入りで送られてきた。

送り主はこの本の著者、世界的に有名なスター クロスビーなのである。

 

何の関係も、関心もないところに、こんなに沢山の本など送ってくるわけはないのだが、今年はこのように世界的な活動になるはずなのである。

どんどんオモシロく、なかなかメーカーでも出来ないようなことにチャレンジしたいのである。

 

 

クロスビーについては、こちらのブログに、本を送ってもらった登山さんが、早速アップしています。

 

 

★『二輪文化を伝える会』のその内容も、半年間でこんなホームページの内容になった

関心のある方は、ご覧になればいい。その辺の専門誌を十分に凌駕している内容になっている。

7月には、こちらも独自でまた、いいイベントを東京で立ちあげる計画のようである。

 このように、NPO 本体は何もしなくても、末端はどんどん活発に動くのである。

 

さらにこの4月、三木でも具体的な新しい動きがスタートした。

このところ、あちいこちで広報されている 『粟生線 Y's フォトコンテスト』だがこちらを主宰されている山本医院の山本篤先生は、NPO The Good Times の会員さんだし、関係されているメンバーも、みんな会員さんなのである。

そして、『粟生線の未来を考える市民の会』の世話人代表なので共催となっているのである。

NPO The Good Times も共催となってはいるが、そのシステムで広報のお手伝いなどはいろいろ頑張ってやろうと思っている。

 

 

 4月に始まったばかりだが、既に私のブログなども、ホームページに載っている。

昨年も『笑って遊ぼうミキランド』などもお手伝いしたが、こちらは一歩進んで『仕組みがベースのイベント』なので、どんどん実績は積み上がって行くのだろうと思っている。『Piece & Peace』 も同じようにシステムの上に積み上げた展開になるので大いに期待大なのである。

 

★そんなことで今年のNPO The Good Times の計画は、非常に充実したものになるだろうと思っている。

理事会と言っても非常に気さくな会である。

 

上の本の写真も、郵便物が着いてすぐ議題を放り出して、そちらの話題に集中したし

    

これは途中の煙草喫煙休憩である。 休憩の間も、実際は話は続いているのだが、直ぐ脱線してしまう。

もう一つの写真は、小川監事の家の燕の子たちの写真で、Facebook に載せられたものだが、これは5羽ともヒナだそうである。ひとしきり燕談義になったりした。

 

そんな雰囲気だから、いい案がいっぱい出るのだと思っている。

これは、私流のやり方で、川重の現役時代も大事な会議はこんな雑談形式で自由に検討したものである。

大した内容ではナイ伝達や報告会は、普通の会議のようにきっちりとやったが、きっちりとやる会議は、そんなに重要な会議ではないような気がする。

みんな『重要』だと錯覚しているのだと思う。

 昨日も、そんなことでいい理事会が出来たと思っている。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

菊澤こゆりさんを応援します

$
0
0

 

 

★ 菊澤こゆりさん、 三木市出身のイラストレーターです。

大阪にお住まいですが、

三木市の『ふるさと三木応援大使』として、三木のいろいろなことに協働されています。

 

 

 

ご自身のFacebook にアップされた情報です。

熱い思いをブログに、と言われているブログです。

 

その中に載っている写真の幾つかです。

 

 

   

 

★菊澤こゆりさんとは、ちょっと繋がっています。

NPO The Good Times の個人会員さんでもありますし、Piece & Peace という特別プロジェクトでも、今後活動が期待されます。

単なる 

イラストレーターの発想ではなく、ものごとをシステイマティックに対応されようと姿勢が、今回のこのプロジェクトにも見られます。

最初は、せんべいに金物キャラクターの焼き印を押して
新商品をつくりたいというお話でしたが
ただ焼き印を押すだけでなく
このせんべいを三木のお土産として売り出しましょう!
と、ラベルデザインも一新。
化粧箱や包装紙も新しくつくりました。

 

どのようにして、これが完成したのか? 

こゆりさんのブログを読まれると解ります。

 

『今お声かけいただいてる仕事が全部おもしろくて
一番やりたいPiece&Peaceに手がつけられないくらい身動きとれなくて・・・・・』

と先日、メッセージを頂いた時、書いてあったお仕事がこれだったのだと思います。

 

 

 

これは今注目の佐賀県武雄市のFacebook のイラストです。

 

 

これは、2月に京都で1ヶ月やっておられた展示会です。

 

単にイラストを描くだけでなく、いろんな行動が、一緒に付いているのがいいと思っていますし、

『応援したいな』と思っているのです。

 

三木でも、武雄でも、京都でも・・・

ひょっとしたら、海の向こうの海外でも、

piece & peace  の活動の一環として、

NPO The Good Times が応援出来たら、オモシロイな と思っているのです。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

同窓会雑感

$
0
0

 

★昨日明石高校の同窓会誌『自彊会だより』が送られてきた。

 

 

小学校、中学校、高校、大学と一応学校は卒業しているが、そしてどこにも同窓会はあるのだが、

実はどこにも同窓会費を納入していないし、納入した実績もないのである。

それぞれの学年の同窓会と言う催しは、何回かあって、それには出席したことはあるのだが、それもあまり熱心な会員ではなく、何となくお付き合いで、何回かに1回出席する位なのである。

 

なぜ、そんなことになってしまったのか?

どうも、私の育った年代が、そんな巡り合わせになってしまったのだと思うが、

卒業した小学校と中学校が、無くなってしまったような感じなのである。

● 小学校は京城府桜が丘国民学校である。

今の韓国ソウル、昭和20年3月に卒業した。卒業生としては最終年次なのである。 終戦によって学校そのものが無くなってしまったのである。日本に戻ってきて何回か、全国に散らばった卒業生が、学年ごとに集まったりしていたが、だんだん人数も減って、小学校に在籍した人たちを集めての文字通り同窓会などもやっていたが、それも殆ど音沙汰無くなってしまったのである。

●中学校は所謂旧制中学の最後の学年で、 兵庫県立第1神戸中学校、(神戸1中)だが途中で神戸高校併設中学になり男女共学になって、中学校としては最後の学年になったのである。さらに学区制が実施されて、神戸高校には進学することは出来ずに、明石高校に移ったのである。神戸1中に入学した積りなのだが、今送られてくる同窓会費は、在学したことのない神戸高校からなのである。

学校に行って勉強をした、教育を受けたと実感するのは、この小学校と中学校であることは確かなのだが、その二つの学校は存在しないのである。

 

★それ以降、明石高校にも、神戸商科大学も卒業はしているのだが、勉強をした、教育を受けた とはどうしても思えないのである。

間違いなく学校には行き卒業はしたが、一切勉強はした実感はない。毎日野球をしに学校に通っていた。大学なども『野球部卒業』といった感じなのである。

中学も、高校もどちらも春夏の甲子園には出場しているので、結構ちゃんとした野球部ではあったと思っている。野球部にはお世話になったし、いろんなことを教えても貰ったし、何よりも人として育ててもらっと感じている。

だから、野球部のOB会費はちゃんと払っているし、会合などにも出席するのだが、高校、大学の同窓会費は、どうも払う気にならないのである。

そんなことだから、学歴を問われたら『中学卒』と答えるのが、正しいと自分では思っているのである。

 

ところで明石高校の同窓誌などあまり送られてきたことはないのだが、今回送られてきたのは、創立90周年の記念特集号のようである。

その中に、2012年度の年次ごとの会費納入者一覧表が入っていた。私は高校4回卒業だが同期の人たち約50名の名前が書かれている。私たちよりさらに先輩方の年次の方も、結構多くの方が会費を納入されているのである。

私の名前は勿論載っていないのだが、先輩方も含んで、懐かしい名前は相当数見つけられたのである。

 

ビックリしたのは、高校32回からだから私より30才ほど若い50才以下の卒業年次から、会費納入人員が1桁になってしまっていて高校50回ぐらいになるとほんの数人、1人の年次のところもある。

最近の若い人たちにとって、卒業した学校をどんな風に思っているのだろうか?

私も普通ではなかったが、今の人たちから見るとごく普通なのである。

今の人たちにとって同窓会とは、どんな存在なのだろう。?

 

★Facebookに、こんな非公開グループがある。

既に725人のメンバーになっているが、これは多いのか、少ないのか?

『フェイスブック上での自彊会を目指す』などと書かれている。

多分、ここでは私が一番年長者かも知れないのである。

 

 

 

 

★確かに、今後は同窓会やOB会のあり方も、変わっていくべきだと思う。

この手の会費の中の支出金額は、結構郵便費が多くを占めるのである。

明石高校の野球部のOB会は数年前まで役員をやらされていたから、解っているのだが、総勢700人もいて、総会をやっても集まるのは20人ほど、それなのに案内を出す郵便費が一番の出費だったりする。

ネットでやれば、無料なのだが、なかなかそうは行かないのが、大先輩がネットがダメだからなのである。

ちなみに、大学の野球部のゴルフコンペは、全てネット連絡である。そうすることで大先輩ばかりだなくて、若い人たちもコンペに参加するようになる。

 

世の中は、ホントに変わっているのだと言うことを、早く察知するべきだと思っている。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

北方領土問題

$
0
0

 

★北方領土問題が進展するかもしれない。

4島1括返還だとか、2島先行返還だとか、いろいろ言われているが、どうすべきかなどと言うムツカシイ問題に対しては、ちゃんとした意見は持ってはいない。

ただ戦後60年を経て、何も進展していないのだから、かって戦前4島にいた人たちが、せめている間に何らかの進展があればいいなと思っている。

 

 

 北方4島が、どんな位置なのか、ちゃんと解っている人はどれくらいいるのだろうか。

今でも地図の上では、4島は日本だと言うように示されている。 そういう意味では樺太は日本ではないと言うことなのだろうか。

樺太については、Wikipediaにはこのように記述されいるので、これはもう事実上返還問題などは存在しないのだろう。

 

1945年までは北緯50度線を境にして、南半分を「樺太(カラフト)」として大日本帝国、北半分を「サハリン」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。

現在はロシア連邦が北樺太の有に加え、南樺太をも実効支配している。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄させられた。一方で、ロシアは、日本との間に南樺太に関する条約は結んでおらず、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。従って、国際法上は日本の土地ともロシアの土地とも認められていないとするのが日本政府の立場であるが、日本の他にロシアの領有権を否定する国はない。この問題は北方領土問題との関係も深い。

 

 ★今回のプーチン、安倍会談では『北方領土問題の交渉を加速化させることで合意した』が、今後の領土問題交渉は「2島先行返還」や「面積等分」を前提に進む可能性が出てきたなどと言われている。

「2島先行返還」とともに「面積等分」については、、「択捉島の25%と残り3島を(日本に)くっつけると、ちょうど50対50ぐらいの比率になる」と言うことのようである。

「択捉島」とは4島の中で、一番北の一番大きい島だから、

『面積等分』は、4島が一応返還されたことになると思うし、これくらいなら直ぐにでも手を打つべきだと思ったりする。

 

 

 ★4島と北海道との位置関係は、こんなことになっている。

知床半島は、実際には入れないので羅臼から、根室までの335号線の道を実際に走ってみたら、直ぐ目の前に見えるのが国後島なのである。

これが日本でなくてロシアなどとは、どう考えても思えないのである。

そんな位置から眺めた方は、多分少ないだろうが、たまたま1回だけだがこの道を走ってみて、北方領土問題が身近に思えてきたし、出来る限り早い返還が望まれるのである。

 

もう10年も経ってしまうと、その土地を子どものときでも、『知ってた人』はいなくなってしまう。

子どもの頃の故郷に戻ってきたと喜べる人がいる間での返還であって欲しいと思うのである。

 

 

 

★終戦の時、私は中学1年生であった。子どものころ過ごした京城は、今はソウルでここはもう戻ってきたりはしないのである。

それでも韓国は、ふるさとのような想いもあったりする。

当時の朝鮮は戦争をした当事国でもないのに、北と南に分けられて今がある。

一番気の毒だったのは、朝鮮の人たちだと今でもそう思う。

 

戦争当事国の日本は、ある意味幸運であったと思うべきである。

なぜ、日本は分割されなかったのか?

つい先日、Facebook にこんな記事が載ってて、ビックリした。

やはり、こんな案すらあったのである

 

 

 もしこんなことになっていたら、日本など無くなってしまっていただろう。

4島一括返還などと言うような話ではないのである。

 

この日本分割案を救ったスリランカ代表のスピーチを参考までに。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

イチゴを育てる

$
0
0

 

★昨年だったか、イチゴの苗を買ってきて、庭のあちこちに植えたが、何も手入れなどせずに放っておいたら、株の半分ほどは枯れてしまった。

ところが、ひと冬越えて、今年は2株だけだが、滅法元気がいいのである。

薔薇の根本に植えてあるので、土や肥料はバッチリなのである。

 

 

赤い花のものと

 

 

ピンクの花の2種類だが、ちゃんと育っているようなので、少しやる気になったのである。

検索で『イチゴの育て方』と引くと、いっぱい詳しい資料が現れる。

 

 

その中の一つである。

どんどんランナーが伸びて増やせるようなので、オモシロそうである。

ちょうど薔薇の根っこには、ハ―ブなど植えているのだが、イチゴも実用的でいいような気がする。

 

大体が凝り性だから、やりかけると、一生懸命になる。

 

こんなことが書いてあるが、今のところよく解らないが、そんなに難しそうでもない。

 

      

 

去年アスパラガスを植えたら、今年は何本か芽が出てきたので4本ほど収穫して食ってみた。

さらに植木鉢で、トマトやナスビを植えているのだが、どれくらい大きくなるのか?どんな種類なのかがサッパリ解らない。

行きあたりばったりだが、何でも育てると言うことは、上手く育てばたのしいものである。

 

もう2週間もすれば薔薇は咲くだろうが、今年の夏は野菜もイチゴも食えるかも知れない。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

憲法記念日

$
0
0

 

★憲法記念日である。

今年は、憲法記念日に、少なくとも憲法を意識した。

憲法そのものの難しことはよく解っていない。

『憲法改正』に付いていろんな意見があるのも知ってはいるが、明確に自分の意見を持っているわけでもない。

 

 

 

 

日の丸の国旗がちゃんと家にあげられる、そんな普通の国になればいいと思っている。

今、日の丸などあげたら不思議に思われるだろう。

国家君が代を歌わない教師がいたりする。

 

国家、国旗、国歌を語れば、それは『右寄りだと』見られたりする。

そんなのは、右でも左でもない、世界の普通の常識なのである。

日本だけが戦後そんな世界の常識に背を向けてきたような気がする。

 

 

 産経新聞が独自の憲法案を示している。

 

その前文も示されていた。

細部はともかく、その骨子はいいと思う。

 

 従来、個人の権利、個人の幸福ばかりが言われ過ぎたきらいがある。

個人の権利主張も、社会や国家とのバランスの上に、その主張があって然るべきだと思う。

 

安倍さんになってよかったと思う。

自民党や、民主党や、維新の会ではなくて『リーダー次第』だと思うのである。

 

 

 

今まで BOSS型のリーダーが多すぎた。

やっと先頭で引っ張るリーダーが現れた感じである。

 

憲法改正でも、安倍さんが言うのなら、黙って付いて行こうかな と言う気持ちになる。

同じように、橋下さんが言うのなら、それに乗ろうかな と思うのである。

 

今まで、そんなリーダーが少なすぎたと思うのである。

今は、そんな雰囲気なので、憲法記念日に初めて憲法のことを書いている。

従来は単に、ゴールデンウイークの1日に過ぎなかったように思う。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

日本国征服

$
0
0

 

★『日本国征服』  に関するニュースが流れた。

何のことかと思ったら、『日本国』とは、そういう名前の山が新潟県にあるらしい。

 

 

 

 

    

 

 

 

 

新潟県と山形県堺にある標高555メートルの小さな山のようである。

毎年30年もの間、5月5日に山開の行事が行われていて、それを地元では『日本国制服』とずっと言ってきたらしい。

 

 

 

 

こんなサイトでも、ずっと昔のサイトだが、 『日本国征服』 と書かれている。

 

 

地元で言えば、ごく普通のことなのだろうと思う。

ところが、それが問題になり全国版のニュースになったりする。

 

多分地元振興のために、範囲を広げて、登山に成功した人に『日本国征服』の証明書を発行しようとしたのである。

話題づくりの積りが、思わぬ方向で話題づくりになってしまったようである。

 

それは問題だと抗議が来たという。何千、何万も来たのではなく、たった50件ほどである。

それが新潟県庁に来たので、お役人はビックリして中止をしたというのがニュースになっているのである。

 

 

 

★どこのセクションかと思ったら、県の地域振興局なのである。

 

ニュースには、このように書かれている。

県村上地域振興局によると、地元では三十数年前から、毎年5月5日の日本国の山開きを愛着を込めて「征服登山」と呼んでいる。県と地元市民団体は、地域振興の一環として登頂証明書の発行を企画し、名称に「征服」を取り入れた。

 ところが、県が4月24日に発表すると、「征服という言葉には違和感がある」「(尖閣問題など)領土問題で揺れている時期に不謹慎」などの否定的な意見が、メールや電話で寄せられたという。

 県の担当者は「山開きの日に現地での混乱を避けるため、一般的な言葉に変更した」と説明している。 

 

 こんなのは、放っておいたらいいと思うのだが、どうも最近のお役所や警察は、苦情に弱過ぎるように思えてならない。

『日本国征服』だからオモシロイので、こんな500メートルぐらいの山を登って『日本国登山』の証明書など貰っても何とも思わないのだろう。

 

何か、日本の国もオモシロくない国に、どんどんなって行くようで寂しい。

『三十数年前から、毎年5月5日の日本国の山開きを愛着を込めて「征服登山」と呼んでいる』

30年も地元で、自然に使われてきた言葉さえ消滅するのは誠に残念だと思う。

 

1 発行開始  平成25年5月5日(日) 10:00〜
2 受付場所  村上市小俣集落(田宮酒店・田宮彦作商店)
        ※5月5日は日本国麓郵便局脇の特設テントで受け付けます。
3 発行料金 500円(税込)
4 発行の流れ
 ?山頂で記念スタンプを押す
 ?販売処にスタンプを提示し、証明用紙を購入
 ?証明用紙に必要事項を記入のうえ、店内の専用ポストに投函
 ?日本国を愛する会が定期的に回収して、証明用紙にシリアルナンバーを入れ、証明印を押し、ラミネート加工の上、ご自宅等に郵送します。
  貼付する切手は、日本国のオリジナル切手。消印には日本国麓郵便局の風景印が押されます。
5 その他
  「ゆり花会館」・「交流の館 八幡」の入浴料100円割引券が付きます。

 
  ぜひ、世界で1枚だけの証明書をゲットしてください!

 

など計画はちゃんとしているのである。 

普通の登山証明などでは500円も出して申し込みなどしないのではなかろうか?

 

 

 

★こんな証明書だったようである。

 何でも反対する。 直ぐそれにくじけてしまう行政。

 

どなたか、いい案はないですかね?

復活にでもなれば、オモシロイのですが・・・・

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 


国民栄誉賞長嶋―松井ペアと・・・

$
0
0

 

★松井の背番号55と関係づけたのか、5月5日の子どもの日に、

長嶋秀雄、松井秀喜のお二人に安倍総理から国民栄誉賞が贈られた。

 

 

 

 

★国民栄誉賞というもの自体が、もう一つ基準がはっきりしていない。

スポーツ選手の場合は、従来は何かの記録達成が授与の基準になっていた。

国民栄誉賞と言う素直な感じから言えば、長嶋茂雄などは、真っ先に受賞していないといけないのだろうが、

王に始まって、世界記録が一つの基準になったようで、

世界一なら盗塁の福本にもと言うことだったが断られたし、イチローも辞退したりしたのは、強く印象に残っている。

 

極端に言えば、

総理大臣が『やりたい』と言えばそれは可能だ、と言うことが、

今回の長嶋、松井の1セット受賞で証明されたみたいなものである。

 

全国的にはそんなに盛り上がりはなく、

安倍総理の選挙目当ての人気取り戦術に、利用されただけという冷めた見方も多かったと思ったのだが、

今朝の朝日新聞などマスコミは、大変な記事の取り上げようである。

 

 

 

こんな写真つきで、あちこちに大きく取り上げている。

 

 

安倍さんの憲法改正、96条などにはキャンペーンを張ってまでの反対だったのだが、

安倍さんのユニホームの背番号が96番だと言う写真まで入れてのサービスぶりである。

 

 

こんな解説記事も新聞に載っていた。

96番のユニホーム、誰が見ても96条で、96代のの総理だからなどと思う人はいない。

 

この一連の 安倍さんの参議院選挙あての人気とり政策 大成功  である。

流石、世耕さん、 自民党の広報参謀はタダモノではない。 

96条反対のマスコミは、完全にお手伝いになってしまった。

マスコミ対自民党 のこの勝負、圧倒的な自民党の勝利 と思う。

 

 

★本題に戻って、 

同じ二人でも、せめて長嶋がこれくらいの時期なら、未だよかったのかも知れない。

長嶋の昨日の姿は、長嶋の最高の時代をこの目で見続けてきた世代には、『気の毒』と言う感想の方が強かった。

77歳での受賞は何と言っても遅すぎるのである。

 

そして長嶋も、松井も時代を代表する大選手であることは認めるが、記録と言う意味では、説得力のあるものは持っていないのである。

然し、昨日の表彰式、結果的に大成功である。

松井だけではこうはいかない。長嶋茂雄はやはり大スターだと言うことを改めて証明した。

 

昨日の最高の勝者は、

長嶋ー松井ペアではなくて、  安倍―世耕ペアであったことは間違いない。

その応援団は、皮肉なことに、96条改正に反対する朝日新聞などのマスコミだったのである。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

定年後の夫婦

$
0
0

 

★こんな情報が載っていた。

定年後の夫婦は、1人の時間重視の傾向がおおく、特に女性はその方向が強いという。

とあった。

確かにそうかなと思う。

 

 

 

 

★定年後と言ってももう定年生活が10年にもなろうとしているので、

定年後と言うよりも一般的に言えば『老後の生活』なのかも知れぬが、我が家は幸いに二人とも元気なので、『定年後の生活』に近いのかも知れない。

 

昨年が結婚50周年であった。

結婚前に、5年間ぐらいは付き合っていたので、もう55年にもなるのだが、

大体、女性は誠にわがままで、自分の好きなようにしか生きられない生きもののような気がする。

 

●結婚前も、新婚生活も、兎に角『一緒にす過ごしたい』と言うのは女性の方でその想いは熱烈のような気がする。

●子どが出来ると、関心の大部分はそちらの方に行ってしまうのだが、それでも遊びに連れて行けとかなど、と言って一緒に過ごしたり、里帰りに連れて行ったりはしたものである。

●子どもが大きくなって、学生生活でスポーツなどやってると、それを観に行くのには、我が家の場合は、運転免許を持っていないので私が運転手なのである。

●娘が卒業して、会社勤めになったころは、娘と二人で買い物に行ったり、フランス料理を食いに行ったりしていたが、それには一緒に連れて行ってもらったことはない。

●息子も娘も結婚するころになると、子どもたちが構ってくれないので、今度は海外旅行などに行こうと言う。この時は間違いなく一緒に過ごした時期が戻ってきたそんな時期だった。

●現役も終りに近く、子どもにも金が要らなくなって、ちょっとだけ経済的に余裕が出来たら、独りででも買い物に出かけて、結構贅沢にいいものを買ってきたりする。

●それでも免許を持っていないので、買い物には、スーパーでの日常の買い物も含めて付き合うほうである。その時は一緒だがこれは機能としては運転手みたいなものである。

●そして、定年後、まさに独りでいる時間がお互い圧倒的である。

 

★ただ、我が家の場合は、何となく分担は自然に決まっている。

外のことは大体私である。 ゴミ捨てに始まって、庭関係は全てやる。

家内はまさしく家の内側のことはバカみたいに担当して、私には手を付けさせない のである。

食事の支度などもそうだが、洗濯も掃除も一切、私は関係外である。

毎日着る服なども全て家内が出したモノをそのまま着ている。下着から靴下までちゃんと揃えてくれる。

 

これは私が頼んでいるのではなくて、私のやり方では自分が気に入らないから、自分でやっているのだと思う。

家の中のレイアウトや家具の並べ方、調度品の置き方などは、これは家内の趣味みたいなもので、私が言っても気に入らないのは解っているので一切言わないことのしている。

趣味も、だいぶ違う。家内は読書家で、本ばかり買っている。そして家にいたら本を読んでいるか、テレビを観ているか、トランプをしているか、あとは所謂家事である。

 

私の方は、昨今は家にいるときは、もっぱらパソコンの前にいる。 

10時間ぐらいになる時もある。

所謂ネット関連の、ブログ、ツイッター、Facebookなどもあるが、

 

   

 

こんな『パンダ碁』と言うサイトに登録していて、殆ど毎日何局か打っている。

今5393勝5324敗、コンピューターがちゃんと計算して段位など教えてくれる仕組みである。今は初段で打っているて、右側はさっきまで打ってた碁の途中経過だが、結果は中押し勝ちであった。

つい先日までは遊んでいい加減に打ってたら3級まで落ちてしまっていたのだが、この2週間ほどで初段まで戻したところである。

 

★そんなことでお互い勝手に自由な時間を楽しんでいるのである。

夫婦は性格はあまり同じでない方がいい。 趣味も違っている方がいい。

と最近はそう思っている。

 

夫婦一緒に過ごす時間と言えば、

スーパーでの買い物と、ひと月に1回薬を貰いに行く主治医の医院、毎週3,4回プールに泳ぎに行く行く時だけ、道が登り道なのでクルマで送って行くのは私の役である。帰りは下り道だから歩いて帰ってくる。

たまに行く回転寿司、最近は行っていないが、神戸まで映画を観に行くなどなどである。

殆どの場合が私の都合ではなくて家内の都合なのである。

 

夫唱婦随であったはずなのだが、いつの頃からか、その地位が逆転した。

やはり、稼がなくなった定年後からかも知れない。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

カワサキ単車物語50年  その7  コーヒーブレーク 

$
0
0

 

ちょっと『コーヒーブレイク』で、 20年も前の広告の話から

 

 

『コーヒーブレイク』というのは、僚友平井稔男さん が綴っているブログ『Team Green 』の中で使われている言葉なのでお借りすることにする。

平井稔男さんは私と同い年だが、カワサキの単車に関わった年数は私より10年ほど早い昭和27年(1952)からだと思う。今彼より旧い人はいないだろう。

カワサキの単車のこと、ネットの世界で発信し続けているのは、平井さんと私だけかも知れない。

『Team Green』 はカワサキのレース話だが、延々と続いているので、ぜひご一読を。

 

 

 

★Facebookの中に、『二輪文化を語る会』というグループがあります。

400人近い二輪の愛好家たちが集まって、毎日活発な投稿が続いています。

 

昨日そこに、こんな懐かしい広告の写真を石田哲載さんが投稿されましたので、シェアさせて頂いたら、いっぱいの『いいね』を頂いています。

当時の担当者、小林茂(Shigeru Kobayashi)くんも見つけてくれて』『いいね』をくれています。

 

 

 

 この画面は、広告の写真なのですが、それを当時のテレフォンカードにしたものです。

ZEPHYRの時代、カワサキの国内も、カワサキの広告も一番輝いていた時代だったかも知れません。

ちょうど国内市場で、『7万台への挑戦  「新しいカワサキ」のイメージ戦略』  など元気な時代でした。

 

 

平成3年4月のことですが、当時のCP事業本部の人たちに対する発表会がありその内容はこんな冊子に纏っています。

日本語と英文の二つがあって、カワサキグループの中に配られました。

 

 

 

 

その内容はこんな目次で、結構ちゃんとしているようですが、実は何の打ち合わせもないぶっつけ本番で、4人が好きなように喋ったものが収録されているのです。

この発表会は、当時のCP 事業本部長で、カワサキオートバイ販売の社長も兼務されていた高橋鉄郎さんが、『喋れ』と仰るものだから、

じゃ4人で分担して喋りましょうと気軽にお引き受けしたものです。

その冒頭の高橋鉄郎さんのご挨拶がこちらです。

 

 

高橋さんのお話も『ぶっつけ本番』なのですが、ちゃんと纏って、いいお話しをされています。

 

当時は、みんな『ぶっつけ本番』で、その日にならないとどんなことを喋るのか解らなかったのですが、何となくお互い『信頼関係』があって、勝手に喋らせても大丈夫だと思っていたのだと思います。

スピーカーはそれぞれ勝手に好きなことを喋っているのですが、こんな冊子に纏めても大丈夫なような内容になっています。

何の修正もなく『喋ったそのまま』で掲載されています。

確か、高橋さんが川重の社長以下役員全員にもお配りになったと思います。

 

 

 当時の販売促進担当の岩崎茂樹君が英訳分まで造って海外販社にも配られました。

英文版も手元にあったのですが、昨秋、アメリカに行ったときに、KMCの寺西社長に差し上げてきました。

 

 

 

★このミーテングの中の広告の話の中に、

この『タマよりも速く』の解説など、小林茂くんが喋っていますので、

 

ちょっとご紹介しようと思ったのです。

 

 

 

私が喋っている内容は、今NPO The Good Times でいろいろやってるのと、基本的に同じコンセプトです。

当時の国内のグループは、株ケイ・スポーツ・システムというソフト会社を中心に動いていたのです。

遊んでいても、自然に売れるトータルシステムの構築、その目指すところは『新しいカワサキのイメージ創造』

その結果、シェア33%、ホンダを抜いて自動二輪でトップの時代でしたが、各社の方たちとも結構仲がよくて、『1強3弱』などと冷やかされたりして、和やかだったのは、トップがカワサキだったからだと思います。

 

『新しいカワサキのイメージ創造』のために広告については非常に大きなウエイトを置いていた時代です。

 その広告担当の小林茂くんの話の一部です。

 

そして、『タマよりも速く』の解説があります。

 

 

なかなか、今読んでみてもオモシロイ話が続いています。

KAZE のユーザー対策や、レースなど『遊び半分ではいい遊びは出来ない』 と『ソフト会社』を造ってやっていたのです。

 

 

★そんな時代から、もう20年以上も経っているのですが、

当時の仲間たちが集まって、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 主催で、7月にはこんな計画を組んでいます。

 

 

ぜひ7月7日、グリーンピア三木にお越しください

期待を裏切らない、いいイベントになると確信しています。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これから2年間の目標

$
0
0

 

★5月25日は、NPO The Good Times の総会が予定されています。

 このNPO法人はちょうど4年前に設立されましたので、新しく5年目がスタートします。

ちょうど4年前のブログにこんな風に説明しています。

 



 

●このNPOは、 グッドタイム がコンセプトです。
地域限定ではありなせん。これは全国区です。世界に出て行くかも知れません。ですから名前は、ヨコ文字です。

●会員は1000人、1万人になるかも知れません。10万人、100万人の可能性もあるのです。
会員になるのは、入会金1000円だけ、団体会員は1万円だけのリスクです。

●NPO法人は何をするの? ある意味何もしません、いい仕組みを作ることに専念します。

今、そんなNPO 『The Good Times』 を設立中です。
2月はじめからスタートしましたが、6月23日に認証式に出席せよとの通知が来ましたから、7月にはスタートできると思います。


●私の生涯の最後の『仕組みづくり』ですから、今までの総仕上げとして、最高の、壮大な可能性のあるものを狙っています。
『インターネット』 というヨコ一線に、無料で、一瞬のうちに、世界に通ずる仕組みがあるから出来るのです。

●世の中にまだ存在しない、初めての仕組み ですから、初めてのものを想像するのは難しいのです。
すべてが仮説の世界なのです。

●私自身も、具体的にはそんなにはっきり解っていません。
具体例を作ってくれるのは、賛同して参加された会員の方々なのです。

 

 

★こんな事を4年前のブログに書いていますが、4年経って大体仮説通りの進行になっています。

今、現在の仕組みは、これくらいにはなりました

 

 

孫文を語る会

いい音楽@みき

二輪文化を伝える会

KAWASAKI Z1 FAN CLUB   などと 特別プロジェクトも確りとたちあがっています。

  

 

★そんな状況の中で迎える、今回のNPO法人の総会なのですが、新しく5年目を迎えて、今回は理事長の任期が新しく始まります。

新しい期を迎えて、私なりの決意表明みたいなものを、先日来明らかにしています。

 

●理事長職はこの2年で最後にして、山本隆理事に時期理事長をお願いすることを条件にお引き受けしようと思っています。

●従って、この2年間の間を、さらに充実した『仕組みに仕上げる』引き継ぎ期間と位置づけます。

 

具体的な目標の中で、これが出来あがったら最高と思っているものが幾つかあるのですが、

●従来の特別プロジェクトの更なる充実。

●新しい特別プロジェクトとして、二輪関係を全て統括する『二輪(文化)を語る会』という特別プロジェクトの創設。

●一般的なモノはいろいろ出てくる可能性はあるのですが、その中の中枢として位置づけられるように育って欲しいのが、

 『Piece & Peace』です。

●そして、二輪関係も、一般関係も、どちらも

『世界展開を具体的な視野』に入れての活動になればと思っています。

 

 

何となく、あと2年なら頑張れそうなので、こんなことを言っているのです。

過去4年間、大体思った通りに出来ましたので、今後の2年間も大丈夫だろうと勝手に思っているのです。

 

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しくブログ創りました

$
0
0

 

★ずっと以前は、10ほどのブログを毎日発信している時期もあったのですが、

●今は毎日発信しているものは

  雑感日記goo       rfuruya1     このブログと

  雑感日記excite       rfuruya2        の二つだけです。

 

ところが昨日の朝、突然excite のブログの方に写真が貼れなくなりました。

どうしても貼れないので、Facebook にそのことを書いたら、いろんな方から、いろんなご指摘を頂きました。

 

 

要は、容量が不足になったのだと思います。

いろんな対策の仕方があるのだと思いますが、面倒なので新しく創ることにしました。

 

雑感日記 excite2      rfuruya3  です。

  

 

 

 

★以前のブログは、2007年1月24日がスタートですから、6年とちょっとになります。

このgooのブログの補助的な役割で、『三木ののことなど』を中心に このgooのブログの補助的な役割で書いてきましたが、

今後は、どのような形にするのか、考えながら始めたいと思っています。

gooの方は前日に、exciteの方は、当日の朝書くと言うことは、そのままにしたいと思っています。

 

 

★ところで、このgooの雑感日記も、容量が不足になったりするのでしょうか?

こちらは、ぜひそのようなことのないように、願いたいものです。

 

こちらはexciteよりは半年早い2006年9月のスタートですので、もう少しで7年になります。

 

★NPO The Good Times のホ―ムページです。

★会員さんのブログを集めた Tumblr です。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★FBの『二輪文化を語る会』です。

 

 

 

Viewing all 5073 articles
Browse latest View live