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80歳の挑戦、エベレスト

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★同じ80歳、いろんなことにチャレンジはしているが、

『エベレストを目指す』と言われたらこれは脱帽するほかはない。

 

三浦雄一郎さんのエベレストを目指す写真と記事が『産経フォト』に載っていた。

 

 

ちょっと坂道を登っても息が切れるのに、8000メートル歩くのではなくて、8000メートル以上の高地を目指すというのである。

 

 

 

 

 

 確かに独りで登るのと、シェルパが援けてくれるのとでは、大きく違うとは思うが、

酸素が薄いだけでも大変だし、80歳にもなって、それに挑戦しようと言うのがスゴイ。

同じ年齢で、三浦さんのような話を聞くと、頑張らねばと、思ったりする。

 

 

 

キャンプ地までは、カメラマンでも同行しているのだが、それでも標高5600メートルとある。

高いところからの眺めは、確かに気持ちはいいのだが、

高い山と言っても六甲山や高野山ぐらいしか登ったことはない。

 

多分、もう山登りなどしないだろうから、一生登山の経験なしに終わるのだろう。

『高地恐怖症』だから、とても高いところなどには、登ろうとも思わない。

 

まさに『神々が住む聖域』と言う言葉はぴったりである。 

 

 

 

 

 

それはともかく、 この産経フォトは、なかなかいい。

『お気に入り』なのである。

 

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今朝のネットのニュースから

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★毎日、NPO The Good Times の会員さんの『いい呟きや情報』はリツイートすることにしている

三木市の広報JJさんから発信される『情報』はなかなか貴重でオモシロイ。


 



今朝は三木市のトーヨーセーフテイというメーカーさんが造っているという折りたたみのヘルメットである。



毎日新聞の記事で紹介されたようである




 

★昨日ブログにアップした三浦雄一郎さんの80歳のエベレスト挑戦  スゴイなと思っていたら、

昨日どこかのテレビで98才の現役剣士が出ていて、これにはビックリだった。


そんなことでビックリしていたら、
今朝はアメリカの孫が アカデミーでサッカーをすることになったという。


次男の大きな大きな夢はスペインでサッカーをすること。

その前の目標がDevelopment Academyでプレーすること。
Development Academy とは

Following a comprehensive review of elite player development in the United States and around the world, U.S. Soccer created the Development Academy in 2007 to improve the everyday environment for the elite youth player.

The Development Academy is a partnership between U.S. Soccer and the top youth clubs around the country to provide the best youth players in the U.S. with an every day environment designed to produce the next generation of National Team players.

簡単にいうとUS.SOCCERが将来のナショナルプレーヤーを育成する組織。



どこまで夢がかなうのか?  

そのためにアメリカのハイスクールでは、スペイン語を習ったりしている。
日本生まれのためアメリカ国籍がないので、資格がないと思っていたら、なぜか今回は入れたようである。

そんなことが今朝の娘のブログ『Danthree in California』にアップされていた


 

いいニュースである。
なかなか難しいとは思うが、頑張って欲しい。

エベレスト挑戦  とか  98歳まで現役剣士  でいることよりは簡単かも知れない。

薔薇の成長

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★5月の週末と言うのに、生憎と雨である。

5月11日、薔薇の蕾も膨らんだ。

あと数日で咲くだろう。

来週は間違いない。 季節はいつもちゃんとやってくる。

 

 

雨に濡れる葉、  もうつぼみはいっぱい。

 

 

てっせんは花をつけた。

 

 

 

今のところ順調である。

 

 

 3月5日の薔薇、新芽の季節である

新芽を出したところである

でもまだこんな感じ。

 

 

 

 

★さらに、1ヶ月ほど前、1月28日、冬の庭である

ホントに枝だけなのだが、それが後ろが見えなくなってしまう。

これはちょうど1枚目の写真の位置なのである。

 

 

 

 こんな薔薇が、約3ヶ月経つと様変わりである。

 

今度は、花いっぱいのところを、お見せしよう。

 

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みきのネット活動

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★三木に住んでちょうど40年になる。
現役のころは、三木は文字通りベッドタウンで、夜眠るために戻ってくる町だったのだが、
パソコンを買って、ネットをやりかけてから、俄然三木とも関係が深くなった。
それからもう、7年が経とうとしている。

今の私の生活のベースになっているのは、
NPO法人 The Good Times の活動なのだが、このベースになっているのが、
カワサキ と みき なのである。

カワサキは、40年以上お世話になったし、三木も40年も住んでいるのだから、この二つがベースになっているのは当然なのかも知れない。

NPO The Good Times
異種、異質、異地域をみんな結んで楽しくいい時を過ごそう が基本コンセプトだから、当然いろんな地域とも関係はあるのだが、その中心は三木なのである。


その情報発信の中心が『 Good Times Plaza 』だと言ってもいい



★この三木での、ネット活動の原点は、『三木市役所』であった。

7年前は、三木市の行政に非常に関心を持ってそこからネット活動が始まったのである。

●市長になったばかりの薮本吉秀さんを応援しようと
●全国の各市をマーケッテングしていたら、高槻の市長公室長樋渡啓祐さんを見つけ
●そんな影響も受けて私もブログを始めたし、三木市もネットの取り組んだのである。
●当時は三木市と武雄市は繋がっていたし、市役所の職員だったJJさんやさるとるさんもその当時からお付き合いが始まった

ある意味、三木市のネットの原点を持ち込んだのは、私かもしれぬし、それに大きな影響を持ったのは樋渡啓祐さんなのである。
樋渡啓祐さんは、今や全国区だが、殆ど無名であった高槻市の市長公室長の時に見つけだし、三木市に繋ぎブログにもアップできたのは、運が良かったこともあるが、私の自慢でもある。


★ そんなことで私の『お気に入り』には三木関連のブログなどもいっぱいなのである。



●まだ、他にもあるのだが、毎朝チェックする三木のブログたちである。

●上の方に並んでいるのが、三木のブログの原点で、今でも三木市の広報のJJさん と三木市の職員さるとるさんは私のネット生活のキ―パーソンである。
そして、お二人ともNPO The Good Times の発起人みたいな存在なのである。

●それからスタートして、これらのブログたちが、何となく繋がっているのが、
三木のネット社会の特徴なのである。

●それを代表しているのが『三木 おもろいわ』でその原点となったのが『三木おもろいわ』なのである。

●ここに並んだブログの持ち主、殆どがNPO The Good Times の会員さんでもあり、いろんなところで繋がっている。

●『いい音楽@みき』は NPO The Good Times の特別プロジェクトでもある。

●こんなネット活動が出来ているのは、全国でも三木だけだと秘かにおもっている。




 

 

 

 

 

 

 

 

 ★つい先日、私の今後2年間の目標 をブログにアップしたが、これは勿論NPO The Good Times の活動がベースなのである。

この活動の中で、二輪関係の方はどんどん活発に前進している。その仕組みは、間違いなく進歩していくだろうとそんな勢いを感じているのだが、

一般的な活動は、まだまだ個別活動で終わってしまっている。

個別活動を単に集積したら、素晴らしい活動になるのか?

これは『錯覚』で、個別の活動がいっぱいあってもそれだけでは『素晴らしい全体』にはならないのである。


Facebook がなぜ、こうも活発なのか?

佐賀県武雄市が、樋渡啓祐さんが、なぜ今全国区なのか?

これな『仕組みシステム』の中でコントロールされているからなのである。


みきのネット活動ももう一歩上のレベルに上がるためには、そんな仕組みみたいなものが要る。
そんな大きな期待をしたらプレッシャーだとは思うが、



菊澤こゆりさんの想いの『Piece & Peace 』はそんな可能性を秘めている。




と思って、大いに期待しているのである。
三木だけでなく、世界を視野に活動出来る可能性があるのがいい。

 

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ニュース二つ

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★ 参議院選挙に向けての安倍さんの人気きとり戦術も、ここまでくれば立派だなと思う。

 

 

 

先日は、長嶋茂雄と松井秀喜と一緒に、96番のユニフォームをまとって球場に現れたかと思ったら

今度は、南こうせつのコンサートの舞台に登場、歌まで熱唱したとか。

ここまで徹底すると、

 

安倍さん、やるね―!      と言わざるを得ない。

 

 

★ もう一つは、幾らかは関係のあるニュースだが、

ただ、大きくなるだけでは、あまり意味がないので、どちらかと言うと、『実現しなければいい』と思っていた、

川崎重工業 と 三井造船 との統合話。

 

 

 

★これはなかったようで、『ホッとした』感じである。

折角、川崎重工業のイメージが幾らかよくなっているのに、こんな話は、『イメージを重たくしてしまう』 何の効果もない統合ではないかと思っていた。

 

カワサキ単車物語50年  その8  単車事業第2期の始まり

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★1965年から 1975年まで、

それまでの国内市場、実用車のカワサキから、アメリカ市場、中大型スポーツ車のカワサキに脱皮し、大いに業容を伸ばした10年間だったのである。

 

この10年間は、カワサキの単車事業の第1期の『カワサキの躍進時代』と言ってもいいのだろう。

アメリカ市場では、ヤマハを抜いてシェア2位を確保したり、国内市場に於いても中大型スポーツ車のスポーツ車中心の販売に合わせて新しい二輪専門の販売網『特約店制度』の全国展開が実現した。1972に発売されたZ1はアメリカ市場のみならず、世界的に好調で、これをベースにヨーロッパ市場への進出もスタートしたのである。

業容の拡大に伴って、単車事業の経営内容も飛躍的に改善されて、この間3社合併して、川崎重工業となったのだが、その川重の中でも非常に大きな影響力を持つ事業部に成長していたのである。

 

★私自身のことで言うと、1965年にカワサキオートバイ販売に出向し、広告宣伝、ファクトリーレーシングチーム、東北、北海道の代理店営業、大阪、東京、名古屋地区の直営部担当、さらには全国的な特約店展開などなど、販売第1線での初めての業務を経験することが出来たのである。

そして、1975年(昭和50年)の10月、カワサキオートバイ販売への10年間の出向期間を終えて、川崎重工業 発動機事業本部 企画室、企画グループに異動したのである。

出向した10年前は、川崎航空機工業だったのだが、1969年に3社合併があり、復職時には川崎重工業となっていた。

 10年ぶりに戻った当時の事業本部は、、事業規模も大きくなり、合併当時と比べると川崎重工業の中でもそれなりの事業規模となり、川重そのものの経営にも大きな影響を与える経営環境になっていた。

過去10年間事業を引っ張ってきたアメリカ市場にもやや陰りが見え、今後の事業展開のコンセプトを如何に設定すべきか、そんな検討に迫られていたのである。

二輪事業は、川重の他の事業部のような受注産業ではなくて、自らの意思で商品開発を行い、世界のどの市場にどのように展開するのかは、全くの自由なのである。そういう意味では将来の姿をどう描くかは、白紙に絵を描くように自由なのである。

アメリカ市場中心の大型車中心の基本方針をどのように修正し、新しい長期計画を組むのか、そんな時期に私自身は企画室の企画グループ、すなわちその直接の長期計画を担当することになったのである。

当時の発動機事業本部(発本)の最高責任者は吉田専務で、塚本事業本部長、青野副本部長、そして堀川企画室長と言うトップ陣で、吉田専務、青野副本部長、堀川室長は旧川崎重工出身の方で、この布陣を見ても、如何に全社的に重要な地位にあったかが解るのである。

過去10年間は、一言で言えば 『アメリカ市場がカワサキを引っ張った』=『アメリカの責任者浜脇洋二さんがカワサキを引っ張った』 そんな時期だと言っていい。アメリカのKMCは、未だ浜脇洋二さんが社長だったが、厳しい経営環境にあって、従来のように単車事業部全体をリードするような状況ではなかったのである。

 

★1975年10月企画部企画グループに復職した時には、既に『CMC』 と称するコンパクトな小型車を想定し、超効率的な生産方式を採用し、コストを武器に大量生産を目論む試案が、吉田専務と生産部門の田中秋夫部長との間で進められていたのである。

安い車さえ創れば、幾らでも売れると言う発想で、自動生産装置を駆使して無人で24時間造り続けるという、まさに生産指向的な発想なのだが、トップの吉田専務が後ろ盾のプロジェクトなので、これから7年間ほど単車事業部の中に存在したのである。

当然、それに反対する人たちもいて、吉田専務が旗を振ってもなかなか首を縦に振らないので、上の言ったことには、100%従う受注部門育ちの吉田さんは、

『事業部は言うことを聞かないので、国内のカワ販と組んでやる』などと本気で仰ったりしていたのである。

一番の反対者が、企画室長の堀川運平さんだったのもオモシロイ。

こんな『小型車主流の事業部を目指す』と言うCMCプロジェクトが何年間も事業部の中に存在したことなど、少なくとも外部の方は初耳だと思う。

 

そんなややこしい時期に企画に戻ってきて、長期計画を創ることが私の企画へ戻っての初めての仕事だったのである。

 

 

★ トップの吉田専務は、『画期的な生産方式で低コストの小型車を造れば必ず大量販売は実現する』と言う発想が基本的で、それに製造部門が乗って主たる事業部の流れは、そんな方向だったのである。

具体的には生産方式の内製化で画期的なコストダウンを図ると言う『100億円プロジェクト』だとか、1980年には70万台の生産販売規模にするなどの、勇ましい方向が主流で進められて来ていたのである。

このままの計画ではダメだと思ったが、10月に異動してきた直後だったし、既に正規に認められている専務直轄のプロジェクトをひっくり返すわけにも行かず、何となくそんな方向で纏めた長期事業計画を年内に纏めて、経営会議で一応認めらたのである。

 

 

★川重の企画に戻った1975年10月から、事業の推移を示す資料を1996年ぐらいまでの20年間分を、個人的に、今でも私は持っている。

このころは上場企業でもまだ、ファイリングシステムも、勿論パソコンなどない時代だから、稟議書や決算書などの正規の書類以外は、会社にも残っていないだろうと思う。

 写真の資料は、75年10月から78年までの3年間だが、月別にも詳細な資料が残っていて、カワサキの方たちも、多分ご存じない資料が殆どなのである。

このような詳しい資料が手元に残っているので、全てを開示する訳には行かないが、

今後、『カワサキ単車物語50年』は、出来るだけ忠実にカワサキの単車事業の推移を振り返ってみることにしたいと思っている。

(このブログを川崎重工業の現役の諸君も、ご覧になっていると思うが、もしご所望なら15冊ほどあるこんなファイルをお貸してもいいと思っている。激動の20年間、後半は国内市場だが、カワサキの単車事業部の本流のデータ―であることは間違いないのである。)

 

 ちょっと脱線したが、

企画グループが創った長期計画が認められた直後に、堀川運平企画室長自らが、自筆で書かれた事業計画を経営会議に提出されたのである。

こんな事業計画があったことなど、殆どの方はご存じないし、ましてやその原本など、多分どこにも存在しないだろうと思う。

 

 

 

この内容を開示する訳には行かないが、

吉田専務の拡大生産基調とは真っ向から反対する方向で纏められている。

ご自身が管轄する企画部門の部下が纏めた長期計画は一応認めたうえでの個人的な意見と断っての提出で、如何にも堀川さんらしいのである。

その内容は

● 常に過大な販売目標を立て、それに見合った技術、生産、販売、人員増加固定投資の先行が問題で、計画と実績の乖離が甚だしい。

● アメリカKMCに対しても、極めて批判的な内容になっている。

少々極端ではあるが、方向としては当たっている と当時そう思ったし、直接の上司の本音が解って、その後の企画方針を立てるのに大いに役立ったのである。

 

 

★この事件があったのが異動後3カ月の年末だったのだが、アメリカ中心の市場戦略から、ヨーロッパ市場へもUK 、ドイツを中心に進出が始まっていた。

正規で決まっている長計には、小型車分野への進出も言われていたので、その市場戦略として、開発途上国市場への調査と展開を企図したのである。

これは、誰もやらなかったので自ら手を挙げて計画を纏めたのである。

 

それは吉田専務の仰る小型車戦略ではあるのだが、開発途上国市場と言うことで、

進められようとしている生産指向的な明石での大量工場生産とは基本的に異なるコンセプトなのである。

 

なぜ、開発途上国市場なのか?

● 開発途上国市場は確かに小型車ではあるが、125ccが中心で、国内市場のような50ccモペットではない。

● 基本的に完成車輸入は認めておらず、現地でのKD生産方式なので、明石での完成車生産とはならない。

● 当時は未だCKDで現地での生産部品もごく僅かで、生産機種の数も数種、現地へのワ―キングパーミットも人数制限があり、ホンダ、ヤマハ、スズキなど小型車が得意のメーカー相手なのだが、競争制限があるので、何とか戦えるのではないか?

● 多分将来は発展する市場だろうし、CMC展開から幾らかでも目先を変えられる時間稼ぎになるとも思ったのである。

こんなことは、今初めて公にしているのだが、堀川さんが反対ということが解ったので、少なくとも企画室長は応援をしてくれるという仮説に立っての旗揚げだったのである。

 

 

★この時期は、ホントにややこし時期ではあった。

この10年間この事業を引っ張ってきたKMCの浜脇洋二さんは、あくまでもアメリカ中心の先進国への中大型車中心の主張で、小型車には勿論反対、開発途上国市場への進出も経営資源の分散になると、反対の方向であった。

当時の企画室のメンバーは、堀川室長の下に高橋宏部長がいて、4人の課長のグループ制が敷かれていた。企画班が私で事業計画、長計など部内の纏めを、田崎雅元さんがアメリカKMC、特にリンカーン工場関係を担当。田付さんが発動機関係を、そして種子島経さんがアメリカから戻っていて、次にヨーロッパにと待機中だったのである。

技術総括部長が高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんでヨーロッパと開発途上国を担当されていた。

当時の直販会社としては国内のカワ販とアメリカのKMCは別格扱いで、企画室が直に繋がっていたそんな時期であった。

アメリカは事業部の非常に大きな部分だったので事業本部長以下、トップレベルでの対応であったと言っていい。

KMCに関しては、オイルショック以来、市場としては陰りも見えたが、カワサキはZ1の発売でそんなに大きな影響もなかったのだが、リンカーン工場でのスノ―モービル事業などが『雪不足』などもあって、商品はよかったのだが、季節商品の在庫が出来て、こちらが大きく足を引っ張ったのである。この担当窓口が田崎さんで、いろいろあって大変だったのを覚えている。

 

 

このような状況から始まる1976年からの10年間は、カワサキにとってまさに『激動の10年間』だったのである。

そんな荒波の中の、ど真ん中に坐っていたような10年間でもあったのである。

 

 

 

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KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE

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★昨年は世界の名車カワサキZ1の生産開始40周年でした。

今年は、国内にZ2が発売されて40周年にもなります。

 

主催者の一人Zオタクを自称するカバン屋さんこと登山道夫さんは、このイベントへの想いをこのように述べています。

 



今後、どんどんイベント内容の具体的な発表がありますが、期待を裏切らないものに仕上がると思います。




★具体的な内容は以下の通りです。







これはNPO The Good Times
特別プロジェクトのKAWASAKI Z1 FANCLUB が主催です。
三木にこんな事務局を持っています。



昨日の日曜日には、こんなファン達が集まったようです。

   

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慰安婦制度は必要だった

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★昨日、あちこちに『慰安婦制度は必要だった』と言う記事が流れた。

 

 

日本維新の会の橋下徹共同代表は13日、第二次大戦中の従軍慰安婦について、「銃弾が飛び交う中で、精神的にも高ぶっている集団に休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる」と述べ、慰安婦制度は必要だったとの認識を示した。

 橋下氏は大阪市役所で記者団に、「日本軍だけじゃなくて、いろんな(国の)軍で慰安婦制度を活用していた。韓国とかいろんなところの宣伝の効果があって、(日本が)レイプ国家だと見られてしまっているところが一番問題」と主張。

「謝るところは謝って、いわれなき評価については、言うべきことは言わなきゃいけない」と持論を展開した。

 日本の植民地支配と侵略を謝罪した村山談話については

「侵略の定義が学術上ないことは、安倍晋三首相の言われているとおり」とした上で、「敗戦の結果として、侵略だとしっかり受け止めなければいけない」と話した。

 

橋下さんらしいホンネトークだが、また物議を醸すことにならなければいいが、

どんな進展を見せるのだろう。

 

 

★政治家や首長でも、或いは普通の日本人の旧い人たちは何となく、みんなほぼ橋下さんに近い思いを持っているのではないかと思う。

 

●まず、このようにホンネで話されることには、個人的には好感を覚える。

●ただ、政治家として、非常に影響力のある橋下徹さんなのだから、「政治的なヨミ」をどのように考えたのだろう?

●マスコミの反応、その他現在の若い人たちなど、どんな風に感じるのだろうか?

そのあたりがどう動くのか、非常に興味のあるところである。

 

★慰安婦と言うが、戦前も戦後も世界のあちこちに公然と遊郭のあった時代のことなのである。

当時は、遊郭で働く女性は、それなりに一つの職業として認められていた時代だったのではなかろうか。

そんな時代に強制的に慰安婦にした、とか無償で働かせたなどと言うのは、何となく信じがたいのである。

 

橋下さんの言ってる方が当たっているとは思うのだが・・・・・

それにしても、思いきっていうものである。

 

これとは直接関係ないが、世の中に売春などは、無くならないのではと思ったりする。

今の日本でも、『風俗』は厳然と存在するし、自ら進んでそんな方向に走る若い女性もあとを絶たない。

さて、マスコミはどんな反応をするのだろう?

正面切って、その通りだと言うようなところはナイトとは思うが・・・・・

 

 

「慰安婦問題」で画像検索したら、こんな画面など現れた。

 

 

 

 

 

 

 

いろんな説があるのだろう。

 

こちらは、橋下さんの記者会見ノーカット版である。

 

 

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ツイッターのフォロワー30万人達成!!

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★ツイッターのフォロワーを増やそうと思い立ったのは2010年4月のことだから、約3年前のことである。

別に有名人でもないので、勝手にフォロワーが増えたりはしないのである。

増やそうと思えば、毎日コツコツと積み上げることしかないのである。

 

でも、なぜフォロワーを増やそうと思ったのか?

ツイッターには『リツイート』と言う機能がある。

『リツイート』すればフォロワーの数通り、兎に角情報発信出来るのである。

仮に1万人になれば1万人の人たちに情報発信出来るので、勿論自分の情報もさることながら、NPO The Good Times の会員さんのツイートをリツイートしたら、その会員さんのフォロワーに関係なく、私のフォロワーの数に向かってその情報は発信されることになる。

NPO法人The Good Times の公式ツイッターとして、その『情報発信力の強化』のために、まず10万人にしようと思ったのである。

 

 

★ところで、どのようにしたら増えるのか? 

以下は、私がやっている方法で、別に難しくはない。毎日コツコツとそれが出来るかどうかである。

細かいところは、省略するが、おおざっぱに言うとこう言うことなのである。

 

● 一般に、フォローするとフォロー返しがある。 その比率は大体50%と思えばいい。 100人フォローすると50人増えると言う理屈である。

●1日にフォロできる人数は制限があって、1000人以上はフォローできない。1000人フォローすると1日に500人増える計算になる。1日に500人増えると1ヶ月には15000人増える計算になる。

●5月に本格的にスタートして10万人には、約7ヶ月で2010年11月に到達したのである。

●同じ10万人を増やすのに、20万人にはちょうど12か月かかったし、30万人には1年半掛っているのである。-ー

 

別に、だんだんとサボったわけではなくて、フォロ-解除する人の%が、多分1%ぐらいは毎日あって、10万人なら1%でも100人、20万人母数になれば200人も減ってしまうので、最初のように増える一方と言う訳にはイカナイのである。

さらに、細かいこともあるのだが、そんなことは省略して、今でも毎日1000人をきっちりと、フォローし続けて来たのである。

 

 

そしてこれが今の状況なのである。

 

 

NPO The Good Times は、ネットをベースにしたこんなNPO法人で、

ツイッターも、会員さんのブログも、tumblrも、 Facebook もいろいろと駆使するトータルシステムそのものである。

それ自体は活動したりはしない。

例えば,

会員さんのこんな活動を支えている。  その一つのツールなのである。

 

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慰安婦問題

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★昨日は慰安婦問題に対する橋下徹さんの発言『慰安婦制度は必要だった』と題してブログを発信した。

 

 この問題は、橋下さんの登庁時の記者会見の中で、

高石さんの『侵略発言』についての意見を聞かれた中で、橋下さんの方から例として語られたものである。

その『ノ―カット版』がこれなのだが、確かに新聞報道で書かれたことを言ってはいるのだが、

その真意は新聞の見出しになっているようなものではナイ。

そして退庁時に記者からの『慰安婦問題』の質問があって、その中でもホントに最後の方に『慰安婦制度はいいとは言わないが、当時としては必要だった』と一言話の流れの中で発言したら、それが見出しになってしまったのである。

 

 

 

 

その時思った危惧が現実のものになっている。

ブログに取り上げる前に、この問題も橋下さんのノ―カット版のテープを聞いてみた。

二つで10分以上もあるのだが、その発言内容は何等問題はないのだが、マスコミに流れたら、果たしてどんなことになるのか?

非常に問題だなと思って、昨日のブログは書いている。

 

 

その通り以上のことになってしまっている。

 取り上げている人たちは、新聞報道がベースだから、その報道が橋下さんの真意と違っていたら、橋下さんの発言が誤解されたままの批判になってしまっている。

これは、非常に怖いことである。

 

それがある程度解っているから、政治家は建前しか言わないのだろう。

然し、ネットと言う自分で発信出来るシステムも今はあるのだから、

もう少し『本音のトーク』が聞いてみたいのである。

 

 

★昨日、今日、橋下さんがツイッターで発信された長文の要約である。

そんなにおかしなことを言っているわけではナイ。

ご一読、頂きたい。

 

 

 第二次世界大戦について侵略と植民地政策の歴史認識は日本国民は敗戦国民としてしっかりと持たなければならない。しかし日本国「だけ」がいわゆる慰安婦制度を持ったレイプ国家だと言う批判についてはきちんと反論しなければならない。現在において慰安婦制度を肯定するのではない。

 第二次世界大戦当時は、戦場の性の対応策として、いわゆる慰安婦制度なるものが必要とされ、日本国だけでなく世界各国も同じような制度を活用していた。国の関与の仕方は様々であるし、現地の私娼を利用していた国もある。いずれにせよ、戦場に性を切り離すことはできなかった。これが歴史上の事実だ。当時意に反してそのような職に就かざるを得なかった方は大変不幸であり、その心身の苦痛は筆舌に尽くし難いものがある。

日本の慰安婦制度を正当化するつもりはないが、僕らの世代以後の多くは日本国だけが慰安婦制度を持っていたと認識している。従軍慰安婦問題の報道等でそのように刷り込まれた。これは誤りだ。第二次世界大戦当時、日本国軍だけでなく、世界各国の軍もいわゆる慰安婦制度を活用していた。当時は必要とされ、これが戦場での性の現実だ。今後は同じことは許されないが、当時はそうだった。日本だけが不当に侮辱を受けることには反論しなければならない。

日本国が慰安婦制度を抱えたレイプ国家なら当時の世界各国も全てレイプ国家だ。

侵略の定義が学術上定まっていないのは安倍首相の言われるとおりだが、敗戦の結果として、侵略だったことを受け止めなければならない。戦争で負けるとはそう言うもの。負けは負け。潔く負けを認めなければならない。そして周辺諸国に対しても多大な苦痛と損害を与えたのも事実。反省とお詫びをしなければならない。

この大原則を踏まえた上で、それでも重大な事実誤認によって日本国が不当に侮辱を受けることに関しては、きっちりと主張しなければならない。

 日本の慰安婦制度が世界的な非難を浴びているのは、国を挙げて暴行脅迫をもって女性を拉致して慰安婦にさせたとされている点。この点については2007年の閣議決定で、それを裏付ける証拠は見当たらないとなっている。ただ国を挙げて韓国女性を拉致して強制的に売春させた事実の証拠がないことも、厳然たる事実。世界が誤解しているなら、日本が不当な侮辱を受けないために言うべきことは言わなければならない。

だいたい、アメリカはずるい。アメリカは一貫して、公娼制度を否定する。建前は禁止でも、軍人の性的欲求が0になるわけがなない。何らかの解消策を真正面から考えないといけない。普天間の司令官に、風俗業の活用を進言したのは、法律違反のことをしろと言っているわけではない。朝日の記事によれば、米軍報道担当は、「法律違反の事はしない。橋下は馬鹿げている」と言ったとのこと。僕は、法律上認められている風俗業を活用しろと言ったんだ。日本国において法律で認められた風俗業を否定することは、それこそ、自由意思でその業を選んだ女性に対する差別だと思う。

 これまでの政府や政治家は、歴史認識になると、反省とお詫びだけで何も言わないか、それとも自己正当化だけで反省とお詫びを全くしないか、どちらかだった。敗戦国として反省とお詫びをしなければならないところはしっかりやる。ただ、不当に侮辱を受けるようなことに関してはしっかりと反論する。これが、本来の政治家の態度振る舞いだと思う。

 

 

私は橋下徹さんが、そんなにおかしなことを言っているとは思えない。

ただ、現実は、世の中の人たちは、そんなにちゃんと調べてまで、判断はしないのである。

そういう意味で『マスコミの報道』がコワイなと思っている。

全て、信実が伝わっているわけではないが、全てが違っているわけでもない。

ちゃんと解ろうと思う人は、自分で調べたら、いろいろな情報はいっぱいある。そんな時代に生きているのである。

 

 

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我が家の薔薇 5月15日

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★きのう今日、やっと花が咲きだしました。

三木あたりは、神戸や大阪に比べると、同じ関西ですが季節は1週間ほど遅れます。

 

 まだまだ蕾の方が多いのですが、

 

 イングリッシュローズの方が咲きだしました。

 

 早先のもっこう薔薇も未だ残っています。

 

 

 カクテールは咲きだしています。

 

 

 

これは名前が解りません。

あともう少しです。

 

私の人生川の中で始まった-2

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ずっと以前に自分史で『私の人生川の中で始まった』をアップしたことがる。

その時にも大田電気のことなど検索から見つけて記述しているのだが、

 

最近になってSnippinng Tool

を覚えたのでその部分だけを、具体的に写して記録に残しておきたいと思って纏めている。

 

 

生まれた時にはもうなくなっていた祖父のことや写真が載っているのである。

だから、勿論話したこともないし、銅像はあったのだが、写真で見るのもこの時が初めてだったのである。

 

 

 ★祖父は大正13年に亡くなっているのだから、私が生まれるずっと前である。

古谷修一は伯父なのだが、未だ早稲田の学生だったか、卒業したばかりのころだったとか、父は未だ早稲田の学生だったはずである。

私は昭和8年生まれで、出生地は明石の上の丸なのだが朝鮮大田には、生まれてすぐ行ったのだと思う。伯父は社長はしていたがずっと明石にいて大田にいたわけではない。

大田のころは父も太田電気で何かしていたのだと思う。会社の社宅に住んでいたし、隣りが竹内さん宅だったのである。

川で魚をとってくれたお兄ちゃんは、竹内清次郎さんの息子さんで、後確か阪大の教授になられたとか聞いているがその後お会いしたこともない。

大田での記憶は、そんなにぼんやりしたものだが、なぜか川での魚だけが鮮明に記憶のなかにある。

 

そんなことで『私の人生川の中で始まった』と書いている。

 

 

★太田電気が南鮮合同電気に統合されたのが昭和12年とあるので、私が4歳のころである。

小学校に入る前に、太田から京城(今のソウル)に移ったのである。

多分、南鮮合同電気に統合されたので京城に移ったのだろうが、、京城では父は会社勤めはしていなかった。

 

 

★この記事によると南鮮合同電気の本社は釜山となっているが、 私が覚えている限り南鮮合同電気の本社は京城の半島ホテルのビルの中にあり、副社長をしていた伯父はの年に何回か京城に訪れて、その時は我が家に泊まったりしていた。

 

 

この資料によると伯父は15000株も持っていたようだが、多分父も株は持っていて、その配当などで暮らしていたのかも知れない。

この記録が正しいのかどうかはよく解らないが、大田電気と検索すると、ネットの中にちゃんと現れるのである。

私の記憶では、終戦時南朝鮮の電力会社は一つだったような気がするのだが、戦後に記述のような3社になったのだろうか?

本社が京城だったのはこれは間違いない。それに結構大きな会社だったはずである。伯父が明石から京城に来るときは新聞に人事往来が出たりしていたのである。

 

 

カワサキ単車物語50年  その9  昭和50年当時のメンバー達

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★1975年、私が企画に復職したころのカワサキの単車事業部は、岩城良三常務時代が単車再建を宣言した昭和40年(1965)から10年の歳月が流れていたのだが、この10年間の間にホントに第1線の現場を経験した川崎重工籍のメンバーはごくごく僅かだったのである。

これは国内に於いては、メイハツ、メグロのメンバーが第1線の主力であったし、海外に於いても日常活動をを担当してくれたのは現地のアメリカ人であったので、メーカー籍の人はホントに少なかったのである。

 

明石工場内での技術や生産部門の人たちもそれなりにいろいろな経験を積んでは行くのだが、将来のこの事業を考えるとき、単なる輸出産業ではなくて現地に販売網を創設し事業展開を行うことになるので、現地を経験し、そんなカンみたいなものが体質的に理解できないと、今後の事業展開の発想などなかなか難しい面もあるのである。

私自身の経験で言っても、広告宣伝、ファクトリーレース、代理店営業、直販会社担当、特約店制度など販売網創設、などの業務は川重そのものにとっても、全く初めてのことばかりで、そこで得た経験は明石工場の中では得られない貴重なモノだったのである。

当時の事業本部は吉田俊夫専務がその経営全般を担当、塚本事業本部長、青野副本部長、堀川運平企画室長の4人でグループのトップ陣を形成していた。

吉田さんを除く3人が東大出身という超エリート組で、事業部にはこのほかにも東大出はぞろぞろいて営業の矢野昭典さん、KMCの浜脇洋二さん、同じ企画にいた種子島経さん、私の部下の武本一郎さんと東大だらけで、会議をすると学校別では東大が一番多いなどと言う普通では考えられないメンバーだったのだが、上司の人たちは、アタマはよくても、位は高くても、単車事業については殆ど経験をお持ちではなかったのである。

そんな事業本部の中で、いろんな発想をするとき、この10年間現場やいろんな経験を積んだ若い人たちの発言が、位は低くても結構重みがあったのである。

 

吉田専務などは川崎重工業の専務さんで、他の事業などでは課長などは直接口もきけない存在なのだが、単車の事業部では吉田さんの仰ることでも、堂々と反論する不思議な空気があって、そんな経験をお持ちでない吉田さんはそれが結構オモシロく感じられたようなところもあった。

当時の吉田語録で

「他の事業部では俺が怒ったら卒倒したやつがおったのに、単車は素人の専務はだまっとれと言うよな雰囲気だ」とか。

「単車の連中は黒人みたいだ。飛んだり跳ねたりさせたら滅法強いが、ホントにアタマはいいのかな」

などと仰ったりしたのである。

 

★企画のメンバーは勿論いっぱいいたのだが、その中で現場経験者は4人だけだった。

年次の順で言うと、昭和32年入社の私、

33年入社でレース、アメリカの創成期7人の侍の一人田崎雅元さん、田崎さんは日本に戻ってからも当時は日本でも珍しい部品の自動収納倉庫を造ったりしていた。

35年組の種子島さんも いたのだが、彼はヨーロッパに出かける直前で待機中で特に担当は持っていなかった。ちょうど本を書いてたのはそのころである。

それに高校卒だが単車に限らず博学極まる岩崎茂樹くん、彼は私の後の広告宣伝、レース、さらには九州事務所で代理店営業、さらには直営所関連などの業務をこなしていて、当時は田崎さんと組んで、アメリカとリンカーン市場を担当していたのである。

そういう意味では年次から言っても、私と田崎さんが単車については若手の中心で二人とも人一倍いろんなことを言うものだから、課長ではあったが発言にはみんな一目置いて頂いて頂いたように思う。

 

そのほかにも後川重や単車を支えた人たちはいっぱいいた。

大庭さん時代の企画部長として支え、アメリカ以外の市場へのジェットスキー導入や、電算室を明石事務所のサービス部門から企画室の中枢に持ってきた武本一郎さん

後ドイツの社長など務めた佐藤強さん、

あと本社の財務に戻ったが田崎社長時代単車の本部長も務めた森田進一さん、関連事業部やKMJ の専務やKLCの社長を務めた繁治登さんなど多士済々だったのである。

前述の岩崎茂樹さんは、私とはそのあとも密接に関係があっていろんなことを一緒にやっている。岩崎茂樹はこの物語にも今後何度も登場するだろう。

そしてこの企画グループを纏めていたのが、高橋宏部長であった。

この時点では、アメリカKMCは、まだ浜脇洋二社長であった時期である。

 

 

★そんななかで、田崎雅元さんとは年次は私が一つ上、年齢は二つ上で、私は昭和一桁だが彼は昭和二桁なのである。

田崎雅元さんとは、川崎重工業の社長を務めた田崎さんである。

 

ちょっと彼のことに触れておくと、

なぜかご縁があって、10数年前には、私は単車だったが、彼は未だジェットにいて組合の常任幹事で同じ会議によく出ていた。私も喋る方だが、組合の事項のような解らぬことは発言できないのだが、田崎さんはどんな議題でも発言するし、なかなかいことを仰るのである。てっきり事務屋だと思っていたら、技術屋だと聞いてびっくりした。

その後単車にやってきて一緒にファクトリーレースを支えたレース仲間なのである。

創成期のファクトリ―チームは技術部と製造部と広告宣伝課の3部門の協働体制だった。

元々明石工場はエンジン工場だからエンジン開発は専門家がいっぱいなのだが、車体、特にレーサーの車体については、当時は兵庫メグロからカワサキに転じた松尾勇さん個人のノウハウで持っていたところがあって、松尾さんが製造部の所属だったのでレース職場は製造部管轄で、その担当が田崎さんだったのである。

カワサキが初めて鈴鹿の6時間耐久レースに出場したときの監督は、あのZの開発者の大槻幸雄さんだし、その助監督を務めたのが田崎さんなのである。

彼はその後、アメリカに渡り、創成期のシカゴ事務所を担当したホントにアメリカ市場の先達なのである。

何となくご縁があって、その後も、特に1976年から1986年までの10年間、カワサキの単車事業のど真ん中で、二人協力していろんなことをやることになるのである。

 

★前編で、企画室長の堀川運平さん のことをちょっと書いたが、堀川さんは本社財務の超エリートで、特に大きなウエイトを占めていたアメリカKMCの財務、資金に対してのお目付け役みたいな感じで事業本部に派遣されたのは間違いない。

非常にオモシロイ独特の発想をされる方なのである。

どうせ、今から単車のことを覚えても、解る筈はないから、具体的な案件については「誰か人を決めてその人の発言に乗る」と仰るのである。例えば特に生産のことなど解らぬから、『私は安藤佶郎さんに乗るんです』とよく仰っていた。

その堀川さんには私も田崎さんもそこそこの信用があったように思う。

堀川さんが本社財務に戻られてから、国内販社の問題で、川重全体でもめにもめていた時に、私の立案について、「古谷君が1ヶ月も考えた案ならそれで行きましょう」と言って頂いて、現在のKMJの前身のカワ販改組案が通ったり、さらにその数年後、ホントに単車の存続が危なかったその時に、『何百億円の資金を単車に注いで頂いた』のは、経営会議の判断とはなっているが、実際は当時の財務担当常務であった堀川運平さんの判断によるところが大きかったのである。

カワサキの単車を支えてきたのは、ベースには極めてユニークなヒット商品があるのは事実なのだだが、カワサキの単車がここまで続いたのは、川崎重工業の『資金力』 金の力が大きかったのである。

そういう意味で、カワサキの単車事業部の現在があるのは、堀川運平さんの判断に負うところも多いのだが、そのあたりの具体的なことはまたの機会にしたいと思っている。

 

 

 

★突然、ゴルフの優勝カップだが、これは『企営会』と言うゴルフコンペがあって、

堀川さんが単車におられた期間続いた企画と営業関係の人たちが参加したコンペだが14回ほど続いて取切り戦で私が優勝したので、私の手元にあるのである。

その第1回の優勝者が田崎雅元さんで、昭和50年12月20日なのである。

実はこの12月20日(土)に長計の検討会を須磨の翆山荘で幹部でやろうと堀川さんのところに吉田専務から電話が掛ったのだが、堀川さんは『その日はゴルフのコンペですから』と断られたようなのである。このあたりが堀川さんらしいのだが、吉田さんからはそれでは企画の若手でもということなので、『私がゴルフは止めて専務のお付き合いをする』ことになったのである。私よりさらに若い未だ係長の森田進一くんなど全くの若手と吉田専務と5人ほどでの会議をやったのである。

吉田専務は至極ご機嫌で、当日は絶好の天気で『雨でも降ればいいのに』などと言われていたが、終始和やかに若手相手にいろんな話をされたのである。

 

このゴルフコンペのことなど、こんなブログに纏めてある

昭和50年から55年まで続いているのだが、当時のこんなメンバーが優勝している。当時の事業のキーパーソンばかりなのである。

 第1回   50−12−20 田崎雅元  (企画部、課長) 
第2回   51−4−24  田中誠   (カワ販社長) 
第3回   51−10−20 橋本賢   (資材、部長) 
第4回   51−12−4  宮田敬三  (IKS社長) 
第5回   52−3−19  那波義治  (営業課長) 
第6回   52−6−18  土井榮三  (資材、課長) 

第7回   52ー9ー17  古谷錬太郎 (市場開発室、課長)
第8回   52−12−3  堀川運平  (企画室長) 
第9回   53−3−18  苧野豊秋  (カワ販専務) 
第10回  53−7−15  野田浩志  (管理、課長) 

第11回  54−3−17  若山禎一郎 (IKS部長) 
第12回  54−7−14  酒井勉    (企画室長) 
第13回  55−5−13  前田佑作  (新カワ販、部長) 
第14回  取り切り戦   古谷錬太郎 (新カワ販、常務) 

 

流石にゴルフの翌日は日曜日だったが青野副本部長以下 幹部の人たちが翆山荘に集まって、終日会議が行われたのである。

前編でご紹介した、堀川さんの自筆の事業計画は、その日付が昭和50年12月19日とあるように、翆山荘会議の前日の金曜日に経営会議が行われていて、その会議のの続きが行われたのである。

 

★1975年10月に企画室企画グループに復職した私だったが、その3カ月間で一応長期計画を形の上では纏めたのだが、

年が明けてからは、開発途上国向けの小型車に関しての具体的な活動展開に入っていくのである。

 

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山本隆くんのブログから

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★山本隆くん、カワサキの現役の時代からずっとお付き合いがあります。

最近では、NPO The Good Times の理事さんでいろいろと手伝ってもらっています。

NPO The Good Times は ネットをベースにした情報発信を主体のNPOですが、

60おじさんこと 山本隆くんもブログをやっています。

Facebook もやっています。

 

 

これは今朝のFacebook からですが、

そこに紹介されているブログがコレです。

http://blogs.yahoo.co.jp/motoyrs_spl/archive/2013/05/16

 

 

 

 

 

 

★このようにブログにアップしています。

ブログにリンクを貼るだけなら、なかなかそれを開けてみてもらえないのですが、

このようにご紹介すればみんな見て貰えます。

 

これはつい先日覚えた  Snipping Tool を使えば簡単です。

何でも切り取って貼り付けられます。

非常に重宝して毎日使っています。

 

山本隆くん、もう今年は70歳になるはずですが、

モトクロスも、トライアルも現役です。

ネットの世界でも、そんなに更新回数は多くはないのですが、全国にファンがいて人気です。

モトクロスはチャンピオンでしたが、トライアルもMFJのトライアル委員長を長く務めました。

 

 

最近はGARRRRにこんな特集も出ました。

 

明日はNPO法人の理事会ですから、またお会いできるのが楽しみです。

 

 

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貴公子ベッカム引退

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★サッカーのスーパースター  デビット・ベッカムの引退のニュースが流れた。

世界的にサッカーの名選手はいっぱいいる。

そんな中でベッカムは貴公子と言われ、奥さんともどもスーパースター、

サッカーだけでなく、ベッカムヘアーでも、有名であった。

サッカーにあまり興味のない人でも何となく知っていたのではなかろうか?

ブラジルのマラドーナなどとは、ちょっと違ったスターである。

 

産経フォトでもいっぱい写真を用意して大きく取り扱ったいる。

 

 

 

髪型だけでも、こんなにいっぱいである。

 

 

このような記事になっている。

 

 

そして、イギリス首相も引退をねぎらったという。

 

 

日本で言うなら、間違いなく国民栄誉賞だが、 世界的にその評価は高いのだろう。

最後はどこだったのか?

アメリカにもついこの間までいたようで、末っ子の孫も一緒に写真に収まっている。

ひと際大きいのが孫である。

 

 

 

 

これは真ん中の孫も、いい記念になるだろう。

 

 

 

旦那との写真では、こんな笑顔にはなりません。

 

4つの写真は娘のブログ、Danthree in California からですが、

ベッカム  Danthree 』で 画像検索すると、 こんな写真がいっぱい並びました

 

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O'sの初イベント発表されました

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★  O's   Organizational Synergy  ちょっとムツカシイ名前ですが、

『相乗効果組織』と直訳しています。

 

何となく難しそうですが、そんなことはありません。

楽しいイベントをいろんなモノを取り込んで、その『相乗効果』を目指そうと言うのです。

 

NPO The Good Times の特別プロジェクトです。

 

 

 その第1回のイベントの発表がありました。

8月4日  スポーツランド生駒です。

 

題して、  Run デBooooo!!! 2013

 

新しい形のレースを音楽イベントと同時開催することで、その相乗効果を狙っています。

 

 

主催者はO's ですが、

O's の代表は 月木康人さん  月木レーシング 月木博康さんの息子さんです。

 

 

 

こんな企業が後押しします。

 

 

 

 

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昨日は理事会でした

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★昨日は、NPO The Good Times の理事会でした。

年に一度の総会前の理事会で、総会に提出する議案に基づいた内容の検討など行いました。

全て特に問題なく1時間ほどで理事会は済んだのですが、

いつものことで昨日もそれから4時過ぎまで延々と尽きぬ話の連続でした。

 

午後からは戎さんもZ2に乗って来られましたし、飛び入りのお客さんなどもあったのですが、

みんなの一番の話題は、山本隆くんが持ってきた、和田将宏さんが鈴鹿の記録を出したというマシンに装着されていたカウリングのことでした。

 

Facebook にもいろいろ取り上げられていますが、

これは私のアップです。 いっぱい『いいね』を頂きました。

 

 

こちらは戎さんですが、

蜂の巣はバッチリ写っています。

保管状態は、まさに『適当』です。

 

 

 

これは同じニュースですが、カバン屋さんこと登山道夫さんは、   、

 

 

このカウリング一つで、1時間以上話が繋がったのですが、

ちょっと聞き洩らしたのですが、

モトクロスライダ―の山本隆くんのところになんでこんなのがあったのか????

どこかにあったのをダマッテ???貰ってきたのか?

これが私の疑問です。

 

他愛のない話ですが、なかなかオモシロイ話いっぱいでした。

 

 

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5月19日  日曜日の朝の薔薇

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★ 『5月19日  日曜日の朝の薔薇』 と題してFacebook にアップしました。

 

 

その薔薇たち、1枚 1枚の写真です。

 

ピエール・ド・ロンサール  人気のつる薔薇で4本あるが、これは刺し木から育てたものです。

 

薔薇の名前はカッコいいけどムツカシイ。

最近は覚えるのをギブアップしてしまったが、解る範囲でご紹介してみます。

 

 

 

ディスタントドラムス  難しいでしょう

 

 

これはもう何年も前の最初からあるパパメイアン。素晴らしい香りです。

 

 

ストローベリーアイス、  4本ぐらいあります。

 

 

前庭にここだけでも10本以上あると思います。

 

 

もうすぐ咲きだします。

アンジェラ、 冬近くまで咲き続けます。 2本植わっていますがいずれも刺し木から育てたもので、親木は枯れてしまいました。

 

 

庭の一番奥、

ストローベリーアイス、プリンセスミチコ、エバーゴールド、アブラハムダービー。カクテルなどなど

一面バラで埋まるはずですが・・・・

 

 

 

何となく繋がってるブログたち

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★ブログだとかネットの世界は何となく繋がってるものである。

 

今朝、こんなブログに、紹介された。

 

 

ちょっとクリックして、ご覧になればいい。

 私のブログの写真などとはちょっとレベルの違う綺麗な写真がいっぱいのブログである。

 

そんなブログに今日は、こんなことが書かれている。

 

 

 

ここで話されているのは、

山本隆くんが持ってるこのカウリングの話なのである。

ブログの主がこのカウリングのゼッケンナンバーを『手造り』でつくったのだとか・・

 

そして、ブログの主は、和田将宏が鈴鹿を走ったその現場にいたようで、こんなその時の写真がアップされている。

 

確かに、ぜっけん26番のマシンも写っているし和田もいる。

ブログの中で、このように説明されている。

 

 

 

★このブログの主は、カワサキのレースチームのメカニック和田さんなのだが、私はよく知ってるわけではない。

このブログを私に紹介してくれたのは、山本隆くんなのである

 もう何年か前のことだが、

 大津信さんが、そのブログ『野々池周辺散策』 を書きだしたころである。

 

『大津さんがブログやりだしたよ。綺麗なブログを書いてる和田の影響を受けて・・・』と私に教えてくれたのは山本隆くんなのである。

 

それ以来、私の『お気に入り』に並んでいて、毎朝見せて頂いている。

 

時代は違うが、同じカワサキのファクトリーチームの空気を吸った仲間なので、何となくいい繋がりなのである。

 

 

『一度確かめに行きますかね』と書かれているが、

和田さん、ぜひ確かめにいらしてください。

でも、今このカウリングは三木のGood Times Plazaにあります

出来たら、次の土曜日25日にいらしたら、10時からNPO The Good Times の総会ですから、山本隆くんも来ています。

総会でも大丈夫です。

直ぐすみますから、あとはまた楽しい雑談会が続くはずです。

 

 

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母の日と・・・・・・

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★これは5月12日、母の日にFacebook にアップしたものである。

みなさんから沢山の「いいね」を頂いた。

母を訪ねたのに、突如インフルエンザ発生で、面会できなかったのである。

 

 

 

明治42年生まれ、今103歳である。

6月28日になれば、104歳になる。

この写真は、特養の部屋に飾ってあった。昨年の11月ぐらいの写真だそうである。

 

 

 非常に元気そうなので、その写真を写真に撮ってきた。

 

 今は、そんなに元気ではないのである。

インフルエンザに罹って、一度に弱ってしまった。 つい4,5日前主治医の先生からは、50:50と言われた。

そして一昨日は、今夜がやまと言われて、妹二人を呼んで、一晩特養に泊まったりした。

今日は、もう二人の高槻にいる妹たちにも見舞いに来るように言ったら、やってきた。

今日は至極元気だったという。

ちゃんと解ったようだし、喋ったし、明石の分大のもなかも食べたという。

 

そんなことだから、このブログも書く気になった。

103歳まで生きれたら天寿は全うしたと言っていい。

 

 

これは2年ほど前、東京の伯父夫婦が訪ねてくれたころである。

まだまだ確りしていたころである。旧い写真を見て喜んでいた。

男3人、女3人、母は長女である。

兄二人は既に亡くなっているが叔母も未だ元気だし、写真の末弟の叔父は私とは5つ違い。あまり離れていない。

 

 

 

 

戦前は、朝鮮京城、今のソウルにいた。

私は中学1年生で、一番下の妹は終戦の年に、京城で生まれた。

だから、いつも京城は、いい思い出がいっぱいなのだろう。 母も未だ30代だった時代である。

懐かしんでいろいろ言っていた。

 

そんなことで、私も何となくふるさとは京城、韓国のような気がするのである。

そのソウルに、ソウルオリンピックの開会式に、ジェットスキーのデモンストレーションをと、オリンピック委員会から、正規に招待を受けて、戦後初めてソウルを訪ねたのである。

 

    

 

 日本、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからそれぞれチャンピオンを集めてのデモンストレーションで、私はその団長を務めさせて頂いた。

オリンピック村に宿舎があって、オリンピックも見れたのだが、開会式の翌日は、私は子どものころ過ごした家や、小学校が見たくてそちらの方で1日をつぶしたのである。

 

 

 

これが戦前の桜が丘国民学校である。 校舎はそのまま残っていた。

家は学校から300メートルほどのそれこそ名前の通りの「桜が丘町」だったので、学校を見つけたら直ぐわかった。

 

 

門の造りは少し変わったが、家の形も屋根もそのまま残っていた。

 

一緒に付き合って頂いた、苧野豊秋大先輩と記念写真を写してきたりした。

家の向こうの山は、何もないただの山だったのだが、頂上に大きな建物が出来ていた。

    

 

 こちらは家の近くにあった奨忠壇公園である。

冬はずっとここでスケートをして遊んでいた。

 

これは絵葉書だが、今もちゃんと残っているようである。

 

 

 

この写真は、勿論母にも見せたのだが、今から思うとちゃんと見せたかどうかは、よく解らない。

気持ちだけでも、こんなブログにアップして、明日でも見せれたらいいのだが、最近の視力ではとてもかなわない。

多分未だ、明日は大丈夫だろう。

 

1週間遅れの母の日、みたいな感じである。

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