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KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE

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  昨日、もう一つのブログに、『KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE』のことを書いた。   Zファン達の、Zに懸ける想いは、なぜこうも…と思われるほど強烈である。 その中心人物、カバン屋さんこと、登山道夫さんが、今回の『仕掛け人』みたいなものである。   そんな登山さん、私のブログをシェアして、その上にこんなことを書き綴られたので、ご紹介を・・・       私が大好きなオートバイ「カワサキZ1/Z2」。
その発売40周年記念イベントが、地元三木市に在る「グリーンピア三木」で開催される事が正式決定しました。
その昔、私がイタリアから輸入した1972年製造のカワサキZ1を、川崎重工さんの歴史車輛として買って頂いた際の事を思い出しました。
. .. 1973年式として川崎重工明石工場歴史資料館に保存展示されると、川重社員さんが言わはりました。
思わず私は、「いやこれは1972年製造ですから1972年式と表示してください」と言いましたが、 その川重社員さんは「Z1もZ2もオフィシャルでは1973年発売開始です」と答えられました。 それ以来、私の頭の中では、1973年(昭和48年)こそが、Z1/Z2が発売された年と考える様になりました。   と言う事で、2013年の今年こそが真の40周年♪ そのお祝いが地元三木で開催され、また裏方でお手伝い出来る事が、とても誇らしく光栄な事だと感じる次第です。
幸い日本国内に限らず、世界中のとても素敵なメンバー&友人達に恵まれてますので、きっと大成功間違い無し!と、今からポジティブ思考を爆発させてます。

今から40年も前に、小さな明石と言う隣街に有る工場から・・・、世界中がまさにひっくり返る位の、名実ともに世界一のオートバイが生まれたのですから
ソレだけでも、本当に痛快な出来事ですよね♪♪         ★昨日はNPO The Good Times の理事会だった。

『よくここまで前向きでいられるなあ、と思うほど、理事さんは前向きなので、コーヒーやケーキを食べて、議題を話していると、精神力が復活、ネガティブな発想が消えていく。
こっちのマイナスエネルギー分が相殺されて、ゼロの状態になる。 』


bunCさんの今朝のブログからである。



最近は、二輪関係の話題が活発過ぎて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB に占領された感もある。

昨日も、7月7日にグリーンピア三木でやろうと言う、

『KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE』
の話題が中心だったので、非常に盛り上がったミーテングになったのである。




昨日の会議で、ほぼ内容も決まったので、
Facebook のKAWASAKI Z1 FAN CLUB の方から、その広報を開始することに決まった。

今年はカワサキのZ国内販売40周年なのである。
それを記念して、KAWASAKI Z1 FAN CLUB が主催、NPO The Good Times 後援で、
会員の親睦会も兼ねたパーティ―を企画中なのである。

今のところ150名限定にしようと言うことなので、KAWASAKI Z1 FAN CLUB に参加されている200名ちょっとのメンバーにちょっとだけ先に広報しようと言うことになったのである。


その開催趣旨は

カワサキZ1・Z2発売40周年を記念し、ファンの皆様や当時のZ1開発/発売に携わった:川崎重工二輪関係OBの方々を中心に、開発・評価ライダー、カワサキファクトリーライダーOB、二輪業界関係者が一堂に会し、豪華バイキングを囲みながら懇親を深める記念行事と考え企画いたしました。

世界に誇る名車『Z1』を父祖とするZ系モデルを中心に語り合い、安全で楽しい二輪車の魅力を訴え、新しいモーターサイクル文化を構築して行こうという思いを広げていきたいと考えております。

この催しが、世界に誇るバイク生産国日本の、新しい文化つくりを目指す旗手として、二輪車社会の一翼を担うことができれば、これに過ぎる光栄はないと考えております。
KAWASAKI Z1 FAN CLUB会員の皆様と思いを同じくする二輪愛好家のご参加をお待ちしております。

と格調高く書かれている。




★その参加メンバーや、イベント内容は今後開示されていくと思うが、
世界を視野に展開している KAWASAKI Z1 FAN CLUB なのだから、
このFBページと同じように、海外からのメンバーの参加でもあればいいなと思っている。


昨日も中心メンバーの一人として参加頂いた、腰山峰子さん
昨年は第1回笑って遊ぼうミキランドの企画委員長や、パウダーパフレーシングでの鈴鹿4耐監督などで活躍だった。
今年は KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE で「はっぴいえんどプロジェクト」の森田政治さん との名コンビで登場なのである。


上のネット用のポスターも、Z1のタンクに映った桜の写真も。
KAWASAKI Z1 FAN CLUB の発起人代表清水久美樹さんの作である。

『異種、異質、異地域の』メンバー達の協働で、創り上げるこのイベント、
世界の名車カワサキのZ1の40周年記念に相応しい、『高質なイベントになればいい』と思っている。


冒頭に紹介したbunCさんの

よくここまで前向きでいられるなあ

と言う前向きな姿勢がある限り大丈夫だと思っている。    

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国民栄誉賞

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★長嶋茂雄と松井秀樹が国民栄誉賞に輝いた。

テレビも新聞もその話題はいっぱいである。

 

国民栄誉賞、何となく解ったような解らぬ賞ではある。

その時の総理大臣が『やりたい』と言ってから対象者を探すのかなと思ったりする。

安倍総理にとっては、今が『やりたい時期』だったのかも知れない。

 

Yahooニュースで、この受賞は妥当ですか?

と聞いた意識調査の結果はこれである

 

● 妥当と答えた人が4分の1ほどいるが、妥当でないと答えた人も20%に近いのである。

● 大体の感じとしては、長嶋は貰って当然だがなぜ今? 松井は偉大なスポーツマンではあるが???

位が当たっているのだろう。

 

端的に言えば安倍さんが今誰かに 『国民栄誉賞』を与えて、幾らかでも参議院選挙に役立てようとした と言うことなのだろう。

 

 

★国民栄誉賞の定義があってナイような感じだが、

スポーツ選手は、何かの記録達成の時に貰っていて、文化人は長年の功績などに対しての受賞のようである。

長嶋茂雄さんは、人気は抜群、長年の功績も抜群なのだがスポーツ選手としての記録達成がはっきりしなくて受賞のタイミングがなかったのかなと思う。

 

 長嶋茂雄 私より2年下同世代なのである。

ちなみに、藤田投手は同期で、巨人に入団した年、明石球場のスタンドで談笑したりした。未だそんな時代だったのである。

長嶋も王も、巨人に入団当時は未だ明石球場で春のキャンプをやってた時期なので実際に近くで見て知っている。

確かに、スターではあったが、今みたいに周囲が騒がなかったのかも知れない。

 

 

一番印象に残っているのは、開幕デビュー戦、金田正一に喫した連続4三振である。

そのスタートから立ち直って、ホームラン王、打点王の二冠、打率も2位で、新人王に輝いた。

天覧試合のホームランなど、兎に角スター性は抜群だし、長嶋を嫌いだと言う人などいなかったのではと思う。

一番、国民栄誉賞が似会う人ではなかったのか?

 

 

せめて、こんな溌剌とした長嶋の時代の受賞であって欲しかったと思うのは私だけではないだろう。

『何をいまさら』と言う感じが、受賞に相応しくないと言う数字に表れているのではなかろうか?

 

そんな時期も、曖昧にして、今上げるとすれば『』と言うことで松井秀樹とのダブル受賞、

『なでしこジャパンの団体賞』に近い受賞なのかも知れない。

前述したように、安倍さんが今の時期に国民栄誉賞を上げたかったのだろうと思う。

 

★調べてみたら、

スポーツ選手で福本豊が辞退している。

盗塁の世界記録達成に対してのものだったようだが、『国民栄誉賞』と言うことから言えば辞退して正解だったかなと思ったりする。

 

 

イチローは、2度受賞を断っている。

現役の間は受け取らないと言ってはいるが、引退の時には受けるだろうか?

 

どこかのテレビで、最近の歴代の総理で『国民栄誉賞』出していないのは小泉総理だが、

小泉さんはそんなことをしなくても人気抜群だったからとか、解説していたが、

イチローに打診して断られたのは、小泉さんの時なのである。

 

  

 

松井秀樹、受賞に相応しくないとも言うが、

ワールドシリーズのMVPである。 

これはスターでないとなかなか実現できない、確かに大選手であったことは間違いないと思う。

 

まあ、いろいろあるが、 『お祝い事』なのだから、いいとするか。

 

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今年のプロ野球と・・・

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★今年のプロ野球は、海の向こうも、こちらも話題いっぱいでオモシロそうである。

     

藤川球児は、たった2球で、初セーブを挙げたと思ったら、

昨日はダルビッシュが9回2死まで完全試合だったと言う。

27人目、最後の打者にセンター前に打たれて、大記録はならなかった。

  

 

これはどう考えても惜しかった。

それにしても最後のバッターはよく打ったものである。

バッターの方も大きなプレッシャーだと思うのだが・・・

 

ダルビッシュはそれでも初戦が完封勝利である。 気分一新2年目を頑張って欲しい。

 

★こちらは開幕早々、

大物新人、日ハム大谷、阪神藤浪は、期待通りの活躍である。

最近の若い人たちは野球に限らず、スキ―でも、10代が大活躍である。

子どもの頃からのスポーツ選手の育て方が、昔とは全く違っていて、10代=未だこども と言った感じがもうなくなってしまっている。

 

昨日は阪神が西岡のサヨナラヒットでいい勝ち方をしたが、今は中日にリードされている。

 そのテレビの解説は吉田義男さんと矢野さんがやっている。

  

 

★ 吉田義男さん、声だけ聴いていると矢野さんとの年齢差もあまり感じない若々しさである。

1933年生まれ、今年80歳になる。私は同期性なのである。

昭和25年夏の甲子園に山城高校のメンバーとしてとして出場していた。

甲子園が終わってから、その年の出場校の山城高校、米子東高、明石高校の3校が豊岡市の市制スタート記念行事の一つとして招待され、城崎温泉の一流旅館に3校一緒に泊めて貰って、翌日2試合づつの記念大会があった。

みんな1勝1敗の3すくみだったのだが、確か山城高には4―2かで負けちゃった。その時の吉田義男さんは守備よりも小さいのに3番を打ってポカすか打たれたのをよく覚えている。そんなこともあったので、その後立命館時代にも、阪神に入団してからも、ずっとファンの一人として、応援し続けているのである。

今は、解説者だが全然年寄りじみたところのない話しぶりに好感を持っている。

そんな風には見えないと思うが、吉田さんは、野村さんよりも年上なのである。今野球界では最年長の現役なのである。

いつまでも、頑張ってください。

 

★最近は、テレビで見る限りはサッカーの方がオモシロイナと思っているのだが、

今年は、いろんな話題もあって、野球もなかなかオモシロそうである。

 

 

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カワサキ単車物語50年  その1 はじめに

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★1962年は世界の名車Zの販売40周年に当たる記念すべき年であった。それを記念してアメリカで」Reunionが行われたりした。

今年はZ2国内販売の40周年記念に当たる。

 

 

それを記念して、グリーンピア三木でイベント開催も企画されている。

カワサキの単車の歴史はいつからなのか?

そのスタートはいろいろあるのだろうが、単車事業としてちゃんとスタートしたのは、125ccB8が発売された昭和37年(1962年)と言うのが一番適当ではないかと思っている。

 

メグロとの提携があったり、単車準備室が造られたのはその2年前昭和35年のことなのだが、それはまだそんな形があったと言うだけのことであった。

私自身は昭和32年川崎航空機入社で、そのころは未だ単車は殆ど意識されていなかったと思う。

昭和36年にもなると、明石の川崎航空機の発動機営業部から明発工業にエンジンが出荷されたり、そのあとニューエ―スや、B7という完成車がカワサキ自販と言うメイハツ、メグロの人たちがいた販売会社に販売されたりはしていた。

 

昭和36年(1961)の12月、私は突如発動機の営業部門に新設された単車部門に異動になった。

私の移動先は企画だとばかり思っていたら、突如単車営業となったのである。私が動く1週間前に小野助治次長がその部門を担当されることになり、突如私を指名されたのだと思う。

それ以来、私の人生は単車と繫がった。そして今でも密接に繋がっている。

粗っぽく言うと50年とちょっと、カワサキの二輪事業の歴史も私と同じ時期に始まったと言ってほぼ間違いない。

川崎航空機の特に営業や管理系の人で私より旧い人は今はもういないと言ってもよくて、強いて言うなら、平井稔男さんが旧メイハツ時代から約60年、最古の人だと言ってもいい。

 

★カワサキの単車事業の歴史は、その製品年次とともに語られることが多く、技術屋さんの分野、製品の分野は非常に細かく正確に記録としても残っているのだが、単車事業全体としてどんな動きであったのかは、アメリカ創成期を除いて殆ど語られていないのである。

幸いにして、私自身は企画、管理にいた時期も長く、それぞれの時期の事業のトップ責任者と現実に密接に繋がっていたので、二輪事業を客観的に眺められる位置にいたとも言えるのである。

そんなことから、私がこの目で見てきたカワサキ単車事業を私なりに纏めて見ようと思い立ったのである。

60年間書き続けている日記も手元にあるし、1976年KHI企画以降は、会社での基本方針的な書類も全て手元に残っている。

どんなものになるかはよく解らぬが、雑談的に、気ままに書いてみたい。

 

★まず最初に、カワサキの単車事業を引っ張ってきた人たちはこんな方たちなのである。

 

下の名前が定かでない方もいるのだが、

神武事業部長―岩城良三事業本部長―山田熙明事業部長―塚本頌春事業本部長―青野格事業本部長―大庭浩事業本部長ー高橋鉄郎事業本部長

この7代の事業部長に全て直接繋がって関係があったし、直接呼ばれて直接の指示を受けることも多かった。

塚本さん以降は企画などや、出向当時は社長―常務、専務の関係で繋がっていたし、単車事業が危機的な状況の時代は川重本社の大西副社長、山田熙明副社長、松本新副社長などからの直接の指示で動いていたのである。

その後、田崎雅元、大前太、百合草三佐雄、佐伯武彦さんなどに引き継がれていくのだが、これらの方は私より年次は若かったし、一緒に仕事をした仲間でもあったので、いろんなことがよく解ったし、田崎さんはその後川重の社長にもなられて、今もなおお付き合いがあったりするのである。

カワサキの二輪事業は、カワサキに取って全く未経験の新しい事業であったこともあり、こんなトップの方のほかに事業の方向を左右するような大きな仕事をされた方も何人もおられるのである。私より先輩の方で何人かを挙げるなら、国内の販社を統括された田中誠社長、苧野豊明専務、アメリカ市場の開拓者浜脇洋二KMC社長、Z1開発責任者の大槻幸雄さん、カワサキ生産方式を造られた安藤佶郎さんなどがカワサキの歴史を創り上げられた方々だと言っていいのだろうと思う。

勿論、そのほかにもいっぱいおられるが、事業全体から見て言うならこんな人たちがカワサキ単車の歴史を創り上げたと言っていい。

 

★ カワサキ単車のイメージは一種独特のものがある。

ホンダさんを始めユニークな企業の多い二輪業界でも一種独特の『カワサキイメージ』が、一般のユーザーも惹きつけているのだと思っている。

そんなカワサキも、もう50年の歴史を迎える。

私自身が単車に関係してもう50年である。

ご縁があって、今でもカワサキに幾らかでも関係して生きている。

 

そしてこの7月には、KAWASAKI Z1 FAN CLUB が、国内Z2販売40周年を記念してのイベント開催である。

こんな機会に、カワサキ単車の50年間をいろいろと書き残しておこうと思い立ったのである。

今までにもいろいろ書いている。そこに未だ書かなかったことばかりに絞ってみたいと思うのである。

時系列には特に拘らないが、旧いところから始めるのが順序かも知れない。

 

 

 昨年10月に纏めている創成期のレースの話、なかなか確り書けている。

 

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伽耶院とカタクリと

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★昨日は雲ひとつない絶好の天気であった。

三木のちょっと遅い桜も咲きだしたので、近くの桜を見て回った

日本国中桜はどこでも観ることが出来る日本の花なのだろうが、

兵庫県三木市はその本数では、奈良の吉野山といい勝負だろうと秘かに思っている。

どこに行っても桜だらけだし、ゴルフ場は25もあるし、その中の一つ『チェリーヒルズcc』だけでも5000本の桜が植えられている。

何本なれば日本一の数かは知らぬが、広大な三木には本数だけは、何本なるのか解らないくらいなのである。

 

10万本の○○○はそれだけで観光のうたい文句になったりする。

 

 

 

名刹伽耶院は、家から車で10分ほどのところにある。

不思議だと思われtるだろうが、NPO The Good Times の団体会員さんなのである。そんなことで伽耶院のホームページのお手伝いをしている

伽耶院の風格を保つようなものでないとイケナイと思って気を遣ってお手伝いをさせて頂いている。

 

昨日は伽耶院のしだれ桜の写真を撮りに行ったのだが

 

境内で、カタクリのことを熱心に広報されているボランテイァグループにお会いして、このブログで紹介することにした。

ちょっと字が小さいが、ぜひお読み頂きたい。

 

 

子どもの頃、食したこともあるカタクリは今絶滅危惧種に指定されていて、

この伽耶院の自然環境が適しているので、カタクリの群生を育成する<かたかごプロジェクト>を立ちあげておられる三木のボランテイァグループがある。

かたかご とは万葉集に詠まれた歌の中にあるカタクリと言う言葉だそうである。

万葉の時代に建てられたお伽耶院に カタクリの群生地を造ろうと言う、なかなかいいと思った。

 

 

以前からかたくりが植えられているのは知っていたが、そんな活動をなさっていることは初めて知ったのである。

 

 

境内の何箇所かに、このように植えられていて今紫の可憐な花をつけている。

伽耶院  確かに かたくりの花の似会うお寺である。

 

 

新緑にはもう少しだが、

桜もなかなか似会っていた。

 

 

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がばいばあちゃん、アメリカで

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★ がばいばあちゃん アメリカに渡るかも というブログをアップしたのは、2008年の夏だから、もう5年も前のことです。

 

 

三木ホースランドパークに遊びに行った時の二人は、未だこんなに おぼこかった のです。

二人ともよく肥えて、ブクブク、

武雄市長の樋渡啓祐さんに初めて三木でお会いしたのもその年の5月のことでした。

その時、お土産に頂いたTシャツを、末っ子の孫が気に入って、アメリカまで持って帰ると言ってたのです。

幼稚園児のクセに、ちょっと大きいけど大人のシャツが着れたりもしたのです。

 

 

背中に書かれた文字も、言葉の意味も、どれくらい解っていたのかどうかは、よく解りません。

私は、なかなかいいな と思っていました。

 

 

★そんなことはすっかり忘れていたのですが、

昨日だったか、アメリカの娘のブログ Danthree in California に突如このシャツが登場したのです。

 

 

アメリカでも気に入ってずっと着てたようです。

 

  

 

小さい頃の誕生日の時も、トモダチの家に遊びに行った時も

 

   

 

そして、ちょっと前までも。

もともとはおじいちゃんのTシャツ。
日本に帰ったときになぜか気に入り無理言ってもらって帰ってきました。

 

     

 

そして、とうとうこんなになってしまったようです。

それでもまだ、捨てきれずに

 

 

 袖を切ってこんな形にしてまで、着ようと言うのでしょうか。

あの夏、あげてよかったなと思います。

 

今末っ子も、次男もサッカーに夢中です。

二人とも、いいチームに入れて貰って、次男はスペインを末っ子はドイツをと、

勝手なことを言っています。

 

人は死ぬまで夢をもて!

その夢が 叶わなくても、 しょせん 夢だから

 

男の子だから、頑張って欲しいと思います。

長男は、なぜか日本が好きなようで、この夏には日本の大学受験に日本にやってきます。

 

長男がコーチを務めるこれは日本人の子たちの大会で、みごとチームは優勝したようです

 

次男も、ちょっと生意気そうに なりました。

 

みんなそれぞれ育つものです。

こちらが歳をとるのも当たり前かも知れません。

私も 負けずに  死ぬまで夢を持って生きようかな  と思っています。

 

 

今朝のFacebook にもこんなにアップしました

昨日からカバン屋さん、登山道夫さんに教えて貰った『Snipping Tool』  切り取りツール が使えるようになりました。

 

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橋下徹 「週刊朝日、朝日新聞を訴える」

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★産経新聞の記事にこんな報道があった。

橋下さん、本気で朝日新聞と喧嘩する気だろうか?

 

4月6日には、読売新聞をボロかすに書いている。

そして昨日は、朝日新聞である。  流石に両紙にはこの記事は載っていないのだろう。

産経新聞が取り上げている

 

昨日は、朝日新聞問題をツイートで取り上げている

21ツイートもあるので、これは140字のツイッターではなくて、2940字のブログみたいなものである。

 

全てお読みになりたい方は、リンクをご覧になって貰うことにして、

その主張の大筋はこんな風に書かれている。

 

僕が週刊朝日や朝日新聞を訴えることに関して、もう終わった話では?  と思っている人も多いでしょう。

僕は自分が公人だと言う立場も考えて、法的措置をすることは事実上控えていただけ。週刊朝日の謝罪は受け入れましたが、慰謝料を請求するかどうかは別問題。朝日新聞はいつも言ってるじゃないか。日本国はアジア諸国に大変な苦痛を与えたのだから、60年経った今も謝り続けなければならない。朝日新聞は、自分たちがやった過ちはわずか6か月で全て忘れているようだ。こういうはちゃめちゃな朝日新聞グループに対してはきっちりと慰謝料請求することに決めた。

腹が立つのが、週刊朝日には許してもらったと言う感覚が全くないことなんだ。自分たちが何をしでかしたのかの反省も謙虚さもない。メディアだから、そのことはすっかり忘れて、権力を揶揄するのは当たり前と言う意識か。朝日新聞グループは、本来なら即廃業に追い込まれるほどの人権侵害をやってのけた。朝日が理想とする人権を尊重する社会が実現したら朝日は廃業だよ。分かっているのかね

 あまりにも朝日新聞グループは、自分たちのやったことに対する認識が甘いので、慰謝料請求します。

 繰り返し言う。朝日新聞グループと俺は、加害者と被害者の関係なんだ。これは俺が生きている限り、そして俺の子孫が生きている限り付きまとうことだ。それだけのことをしたんだ。そこを忘れるな。もう一度、グループあげて、被害者への謝り方、償い方を研修しろ。いつもあんたらが紙面で言ってることだ

 

★ この話、一体どんな方向に進むのだろうか?

 

慰謝料の額はどのくらいを要求するのだろうか?

こんな話になると、橋下徹さんの弁護士の資格と知識がモノを言う。

言っていることはよく解る。これだけ真っ正面に大きく取り上げたのだから、本気だと思う。

当事者の朝日新聞は、その進捗状況を、どのような記事にするのだろうか?

 

既にネットの世界では、賛否両論いっぱいである。

ただ、ホントに裁判などしたら、それでなくても忙しいのに、大丈夫かな?と思ったりもする。

どんな進展を見せるのだろうか?

 

 

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カワサキ単車物語50年 その2  50年前の時代は

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★ やはり50年前のことを書かねばならないだろう。

カワサキの単車の歴史を造られた数々の先輩たちも、50年経つと残っておられる方も僅かになってしまった。当時入社数年目の若手であった私でも、今年80才になってしまっているのである。

ただ、カワサキの単車事業は、川崎航空機にとって初めてスタートした全く新しい事業であったために、上司でも、先輩たちも単車事業の経験など全く持っておられなかったのである。

そういう意味では、私のように一足早くこの事業に足を突っ込んだものにとっては、如何に先輩といえども単車事業の経験と言う意味においては、後からこの事業に参加された先輩たちよりも豊富であったと言う不思議な事業環境だったのである。

私が単車の部門に配属になった時は小野次長、北澤課長、壱岐係長、そして私、足立、木村君、それにサービスの3人だけで、カワサキ関係の単車担当は壱岐さんと私と木村君の3人だけだったのである。

仕事の範囲は結構大きくて、管理も、広報も、営業も、サービスなどなど広範囲であったことは確かなのである。昭和37年初めの話なのだが、車で言えばカワサキ関係は125ccのB7,50ccのモペットや井関の空水冷のモペットタフ50などもあった懐かしい実用車のカワサキの時代なのである。

この昭和37年は、私個人にとっても記念すべき年で、自分史にはこのように綴っている

この年の12月小野さんに仲人をお願いして結婚している。

私の単車の歴史も結婚生活、も昨年は記念すべき50周年だったのである。

 

★川崎航空機という会社は、戦前はその名の通り飛行機を造っていて、明石はエンジン工場、岐阜が機体工場であったらしい。

戦後軍事産業だと言うことで長い中断の期間があって、昭和27年ころにようやく再開されたそんな会社なのである。会社自体も若かったし、一種独特の雰囲気があったように思う。

明石は元々エンジン工場だったので、そこに当時は東洋でたった一つのアメリカ空軍のジェットエンジンオーバーホール工場が明石にできて、常時米軍が駐在していたし、IBMの器械などもあったのである。日本には未だIBMと言う会社もなく世の中にIBMなどは無縁であった時代なのである。そんなことで、新しいアメリカの管理システムなどが入っていて、結構進んだ管理がなされていた。

私はそんな川崎航空機に昭和32年に入社し、財産課に配属されて償却計算に明けくれていたのだが、ジェットのIBMでやれば機械化出来ると聞いて入社2年目からそれに取り組んで完成したら、財産課は償却計算する人手が不要になってしまって失業した結果、新しく始めようとする単車に異動されたのである。

当時の明石工場は、なぜか『神戸製作所』という呼び名で、発動機とジェットの2部門で構成されていて、それを統括されていたのが、神戸製作所長の神武さんだったのである。私の上司の小野助治さんは、単車に異動される前は神戸製作所の庶務課長だったので、単車など何の経験もお持ちではなかったのである。

そんな小野さんが私よりは1週間だけ早い単車への赴任だったのだが、赴任早々言われた指示は『物品税をやってくれ』だったのである。当時は125cc以上のバイクには、物品税が掛けられていた。

なぜ、改めて『物品税なのか?』 

当時のカワサキ125ccB7は今で言うクレームで、車体がダメで毎日、毎日返品が続いていたのである。

物品税は工場を出荷されるときに支払うのだが、支払いは至極簡単なのだが、戻し入れ『戻入』は、なかなか難しいのである。工場を出た時のままでないと戻入の条件を満たさない。メーターが回っているとダメだし、税務署員の立ち合いが必要なのである。

毎日、毎日返品車があるので、毎日毎日物品税の戻入手続きばかりをやっていた。少しでも走った車は、メーターの巻き戻しをやらぬとダメなので、工場サイドの人が来てメーターの巻き戻しなどを川崎航空機がやっていた時代なのである。12月に営業に配属されて、翌月の1月は出荷車より返却車の方が多くて生産台数がマイナスになったりしたのである。

そんな状況だから、新しい単車事業の船出は大変だったのである。昭和37年だけでも、春には単車は独立して単車部が出来たのだが、ほんの2ヶ月余りでまた発動機に連れ戻されたのである。その時ジェットから営業企画部に移って来られたのが苧野豊明さんで、私はそこの管理係に異動になったのである。 苧野豊明さんとの関係は、その後何十年も苧野さんがお辞めになるまで続いたのである。

いつ事業を止めるのか解らなかったようなカワサキの二輪事業だが、この年の秋ごろから発売されたB8がなぜか期待以上に売れだして、そして翌年5月の青野ケ原のモトクロスでの1位から6位までを独占する快挙で一気に『単車再建』と言うムードになっていくのである。

100数十社もあったメーカーがどんどん止めて、メグロも止めて川崎が吸収したそんな時代だったから、この新事業をこのまま進めるべきか、止めるのかその決断は大変だったに違いない。この時代、二輪事業から撤退したのは、ト―ハツも富士重も、そうだったし、ヤマハですら止めるのではないかと言われていたそんな時代であった。

 

 

★そんな初期の時代、カワサキはレースに対しては、結構本気で取り組んでいたのである。

カワサキのレースを引っ張った人たち、兵庫メグロの西海義治さん、この方が若しいなかったらカワサキもちょっと違った方向に行ったかもしれない。上記の写真の青野ケ原の快挙があって、カワサキの二輪事業の再建が決まったとするならば、それを陰で支えた人は間違いなく西海義治さんだと思う。

当時の兵庫メグロの社長だが、それ以前はプロのオ―トレーサーなのである。豪快な性格のようで戦略は綿密であったように思う。

川崎航空機は飛行機メ―カ―で明石工場はエンジンの専門工場、従ってエンジンの専門家はいっぱいいたのだが、オートバイはフレームがあって初めてマシンとなる。

レースをやるには、エンジンも要るがフレームが解る人、マシンが解る人が要るが、『そんな人材はカワサキにはいない』 と言う仮説を西海さんは立てたに違いないのである。

そして兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の生産工場に送り込んだのである。誰がそれを受けたのか定かではないが、多分それは技術部長の山田熈明さんだと私は思っている。少なくとも、入社を決定できるのは、部長などと言う格の要る話なのである。

鈴鹿サーキットがオープンして、日本で初めてのレースが開催されたのが昭和37年の秋である。昨年はその50周年記念であった。そのレース観戦に製造部はバスを仕立てて大勢の人が観戦したのである。そのレースを見て、その勢いで翌年の5月の青野ケ原のモトクロスへと繋がっていくのだが、このレースそのものを企画したのも西海さんだったし、このマシンを創り上げたのは、西海さんが送り込んだ松尾勇さんだったのである。

さらにこのレース参加は会社の意思で行われたものではなくて、製造部の中村治道さんや高橋鉄郎さんが勝手に企画し動いたのである。マシンを造ったのは松尾勇さんたちだが、会社が終わってからボランテイァでの活動だったし、むしろ企画や勤労など会社の中枢は、しかめつらでヨコから見ていたのを思い出す。営業関係は小野助治さんだけが応援スタンスで、野球部のマネージャーの経験ある川合寿一さんに面倒を見るように、私には『忍術を使って、残業時間のパンでも買ってやれ』と指示されて、営業の金から幾らか拠出したりした。青野ケ原モトクロスで私が果たした役割は、ただそれだけだったのである。

 

 

★その青野ケ原のモトクロスレース当日は雨で、防水対策を完璧に行ったカワサキ以外のマシンはみんな止まってしまって、カワサキはモトクロス初出場で1位から6位独占の快挙を果たすのである。

青野ケ原のレースで勝って事業部の意気も大いに上がり、日本能率協会の事業診断もGOと決まって、昭和39年1月、正式に単車事業本部の再建が決まり、岩城良三常務が総責任者で神武事業部長が担当されることになったのである。

この時点で、川崎航空機の総力を挙げての体制となったのである。

JETエンジン部門から神武さんを筆頭に、田村一郎、田崎雅元さんらが、本社からは矢野昭典さんを筆頭に、上路、前田、岩崎など、神戸製作所からも八木、北村、藤田、発動機からは苧野豊明、野田、企画からは山下、黒河内、藤田、鍋島、井川さんなど後単車を支えた事務系の人たちが集められた。

私は日本能率協会が条件に挙げた広告宣伝部門の担当となったし、広告宣伝費は本社開発費で3年間、毎年1億2000万円の予算が計上されたりしたのである。

この時はまだ国内市場だけの時期で、その翌年ぐらいから、本社企画の浜脇洋二さんがアメリカ市場開発をめざし、一般には有名な種子島経さんなども単車のメンバーに参画してくることになるのである。

 

この時期の動きは、カワサキ単車50年の歴史の中でも、最も迫力のあった時期だったかも知れない。

『隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず』

総大将、岩城良三常務が毎回訓示の前に言われるこの言葉通りの陣頭指揮だったのである。

その岩城さんには直接呼ばれて幾度となく薫陶を受けた。広告宣伝とレースを当時の1億2千万円と言うべラボ―な額を任されてある意味大変だったのである。4年目に新たに仙台事務所を新設するための異動の時もわざわざ私の席にまで来て頂いて声を掛けて頂いたりした。

 

★この岩城良三さんが、単車事業部を総責任者として引っ張られたのは、年次で言うと、昭和40年(1965)ごろの話である。

私自身の立場で言えば、広告宣伝課が川崎航空機に初めて出来て、その部門を担当することになった。昭和41年にはカワサキオートバイ販売に社名変更がなされ、川航の企画、販売促進部門のメンバーは全て出向になって、広告宣伝課が創られ、私は川航では未だ係長でもない時期なのにカワ販では課長任用されたりしたのである。

本社の浜脇洋二さんがアメリカ市場の開拓を始めたのもこのころだし、開発部門がA1を開発して世に送り出したのもこのころのことである。それまでは国内市場の実用車メーカーから、中型スポーツ車の分野への転向を果たし始めたそんな時期であった。本に書かれている『アメリカの7人の侍』と言われた時期なのである。

7人の侍とは、アメリカに渡った順番から言えば浜脇(リーダー)、杉沼(ト―ハツから)、渡辺(本社企画)、久保(本社、財務)田崎(単車、技術)、黒田(単車、部品)種子島(単車、営業)のことを言うのだろう。

当時の明石事業部サイドは、神武さんが事業部長だったが、

技術部は山田煕明部長でその下に安藤佶郎係長、大槻幸雄係長、生産技術、生産関連は中村治道課長、高橋鉄郎課長営業はカワ販の苧野専務などが実質事業を動かしていたそんな時代であったと言っていい。このメンバーがそっくり当時の『レース運営委員会』のメンバーで、その事務局を担当していたのが私なのである。

何一つ、ホンダ、スズキ、ヤマハに勝てることはないので、せめてレースだけでも1番になろうと頑張っていたのである。

レース体制も、エンジン開発は技術部、マシンとして創り上げるのは生産部門のレース職場、ライダー契約などは金をもっている広告宣伝課と言う体制だったので、『レース運営委員会』と言う組織でそれを動かしていたのである。その生産関連のレース職場を担当していたのが田崎雅元さんで、彼はその後アメリカにも渡って、7人の侍にもその名を連ねているのである。

そして、このカワサキのレースを裏で支えてくれたのは兵庫メグロの西海義治社長であり、山本隆、歳森康師、金谷秀夫と言うファクトリーライダーをカワサキに出してくれていた神戸木の実クラブの御大片山義美さんなのである。

このレース運営委員会のメンバーは、カワサキの単車事業部も間違いなく支えたし、後川崎重工業の社長を田崎さんが、副社長を山田さんと高橋さんが、大槻さんは常務を務めたし何よりもZ1の開発、安藤さんはF21Mの開発など、大きな貢献をされているメンバーなのである。

 

 

これはずっと後、私がカワ販専務をお引き受けした時に開催した『ファクトリーチーム結成25周年』のOB会の写真である。

前列中央に川重の副社長経験者お二人のまん中におられるのが兵庫メグロの西海社長で、右から大槻、、中村、苧野、高橋、西海、山田、松尾、糠谷さんである。2列目には私、田崎、平井、大西と会社側のメンバーもいるが、清原、山本、和田、安良岡、金谷、岡部たち当時のライダーたちもいる。歳森は3列目、星野一義は最後尾の右端である。このOB会で、OBの末席を務めたのが星野一義と清原明彦なのである。もう二人ともパリパリの有名人ではあったのだが・・・・

この会には現役ライダーたちも参加している。今まであまりレース活動にも力を入れてこなかったが、私が国内を担当する限りは、レースは頑張ってやりたいという意思表明でもあったし、当時のカワ販社長高橋鉄郎さんには、販売台数7万台を目標にすると約束しての専務就任だったのである。10月1日付けで新任務につき、10月15日にこのOB会を開催している。

初仕事であったことは間違いない。私のある意味所信表明みたいなところがあったのだが・・・・

 

 

こちらは3年前、清原明彦くんが、幹事で開催されたOB会、さらに20年の歳月が流れて、メンバーの顔ぶれも変わった。

ここにはカワサキのOB会なのに片山義美さんが顔を出してくれたのである。片山義美さんは、一度もカワサキとは契約関係はなかったのだが、神戸木の実クラブと言うチームではメンバー達がカワサキとは密接に繋がっている。そんなことから片山義美さんの引退パーティ―の主賓のご挨拶は私が引き受けたり、神戸木の実クラブの解散パーティ―の司会は平井稔男さんが引き受けたりしているのである。

 

 

そして、この写真は、昨日私のブログでアップし、Facebookにも載せたのだが、

ここに登場する中村治道さんが、上記のレース運営委員会の中村治道さんなのである。

岩城良三さん体制の頃、事業部で一番元気が良かったのが、『中村治道』さんなのである。

カワサキの単車事業再建の一つのきっかけにもなった昭和38年5月の青野ケ原のモトクロス、この総指揮を執られたのが中村治道さんなのである。レース当日は風邪か何かで現場監督は高橋鉄郎さんがおやりになったのだが、このレースを引っ張ったのは中村さんである。

生産現場ではなくて、生産技術部門の長をされていた。年次で言えば高橋さんよりちょっと上の方で、私は明石高校の先輩にも当たるのである。甲子園の中京―明石の25回戦を現場で観たと仰るのである。私は明石の野球部なのだが後明石南校がが甲子園に出場した時に、『女学校が甲子園に行くと言うのに、明石はどうなってるんや』と私は責められて困ったことがある。明石南を今どき『女学校』と言う人も少ないが、中村治道さんは、そんな方だった。

昭和41年、FISICOでのカワサキのGP初レースの総監督が中村さん、GP監督が大槻さん、ジュニア監督が安藤さん、そのマネージメントが私、総責任者が山田煕明さんだったのである。

そのレース、あのデグナ―がカワサキのライダ―として走るはずだったのである

その契約書を創ったのは私、英訳をされたのが山田煕明さんなのである。練習中に転倒入院してしまって、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。

 

書きだすと切りがないので、このあたりで止めておく。


新芽の季節

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★この地区のちょっと遅い桜も散りかけて、新芽の季節になった。

葉の色が一番生き生きとした、そんな季節である。

 

 

 

 ついこの間まで、枝ばかりが目立った薔薇も新しい葉をつけた。

 

 

紅葉も赤い新しい葉を

薔薇には小さな蕾も見える。

 

 

 こちらの紅葉も初々しい。

 

     

 

 春になった。

 

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KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE

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★ KAWASAKI LEGENDS & FUTURE

というイベントが7月7日、グリーンピア三木で開催される。

KAWASAKI Z1 FAN CLUB の主催、NPO The Good Times の後援行事だが、ネットがベースだから、世界展開なのである。

だから、日本語だけでなく英語バージョンも同時に進行しているのである。

 

 

 

  

 

★Z2の国内発売40周年を記念して、

40年前の創成期のカワサキ時代を忍び、

その時代にカワサキのLegends を創り上げた侍たちを集めて、さらにまた未来を見つめて頑張ろう 

 

どんな人たちが集まるのか?

どんな内容になるのか?

未だスタートしたばかりで、確りと固まってはいないのだが、

Zの開発責任者の大槻幸雄さんたち開発に携わった人たちや、当時のファクトリーライダーたちも、

ドイツからはあのMicky Hesseも参加すると言ってるし、出来ればフランスからマセックも、アメリカからもニュージーランドからもと

そんなことで英語のバージョンもつくっているのである。

 

カワサキが単車事業をスタートさせて50年。

その間築き上げてきた『カワサキブランド』の『更なる高質化』 を目指してのイベントなのである。

 

7月7日のたった1日だけではなくて、

事前事後の広報活動を含めて、100万人の世界のカワサキファンへの情報発信を目指している。

昨年秋立ち上げたKAWASAKI Z1 FAN CLUB のフェイスブックページだけでも、既に204000人を超える人たちが訪れている。

 6月には『カワサキZ1の源流(仮称)』 三樹書房が発刊される運びだし、その執筆者たちも多く顔を揃えることになるだろう。

 

現時点ではFacebook 上だけに、こんな情報発信だが、もう直ぐ、一般にもその詳細が発表されることになるのだろう。

 

 

 

★ カワサキZは、昨年から今年にかけて40周年である。

昨年は、鈴鹿サーキット開設50周年であった。

3月にはマウンテンライダース創立50周年も開催された。

日本に二輪産業が生まれて、本格的なレースがスタートして50年が経とうとしている。

カワサキのレースファクトリーチームスタートからも50年なのである。

私自身の単車事業に関わってちょうど50年、今ちょうどそんな時期に来て、記念行事がいっぱいだが、

そんな創成期に二輪関連のいろんなことに携わった人たちも、それなりに50歳の年月を重ねている。

 

私自身ももう80歳なのである。

ひょっとしたら、こんなイベントも最後かな? などと思いながらやっている。

出来れば、カワサキに関係したいろんな人たちに集まって欲しいと思っている。

精魂込めて立ち上げた『カワサキ特約店制度』も今年が40周年なのである。

 

7月まで、未だ3ヶ月近くもあるので、さらに充実したものになるように頑張りたい。

このイベントを主催するKWASAKI Z1 FAN CLUB の渡部達也代表は、カワサキオートバイ販売定期採用の第1期生である。

ぜひ、後輩たちも、関係あった人たちも、応援してあげて欲しいなと思っている。

 

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カワサキ単車物語50年  その3  地方代理店、アメリカ進出スタートの時代

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★戦後二輪車産業は、自転車にエンジンを付けたりする形のモノも含め、100社以上のメーカーが乱立する時代があった。カワサキもメイハツ工業にエンジンを提供していた時代もあったのである。

そんな戦後の日本の二輪車産業を個人の方が纏めておられる文献がある。

 

その表題は意味不明のようなところもあるが、内容は極めてきっちりと纏められている。

そんな中から現在は4社になっている二輪企業についてにグラフと記述がある。1950年当時は80を超えているのだが、その後10年で激減したのである。その記述の幾つかをご紹介したい。

 1950年代に入ると、二輪車産業へ参入する企業が急速に増加し、ピーク時の1953年に80数社となっていますが、実際には200社以上のメーカーが存在していたとも言われています。

1950年代後半から1960年代前半にかけては、多くの企業が二輪車生産から退出していきました。直接の原因は販売不振ですが、退出にはいくつかのパターンがあるように思えます。

? 他企業への吸収合併
陸王内燃機、目黒製作所、新明和興業、北川自動車工業、昌和製作所、板垣

? 本業へ集中
宮田製作所、ブリヂストンタイヤ、新三菱重工業、富士重工業、スミタ発動機、東京発動機。

?その他 廃業 丸正自動車製造ほか多数、

日本の二輪車産業はホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの四社に寡占化し、世界一になります。それは、前述のように一時期、数百社といわれるメーカーが参入し、競争をした結果、技術力が急速に向上したからです。成功したのはすべて戦後に二輪車を手がけたメーカーです。戦前からの二輪車メーカーは戦後の競争に全く生き残れませんでした。これは、戦前からのメーカーは古い技術にこだわりすぎて技術革新を怠ったからだとする見方もあります。

 

★このように分析されているのだが、確かにそんな時代であった。

撤退して行ったメーカーの中に三菱重工業始め大企業も含まれている。本業に集中と言えば恰好いいが、みんな浜松のホンダ、鈴木、ヤマハの3社との競争に敗れ、駆逐されてしまったのである。

そんな中でなぜ、カワサキだけが生き残ったのか?

その理由は単純ではないと思うが、私なりに次の二つだと思っている。

● 一つは、モペットなどの国内での小型車種での競争を避けて、市場をアメリカを中心とする海外に求め、中大型スポーツ車に集中するなど、事業形態の差別化を徹底したこと。

● もう一つは、国内の営業の実戦部隊がメイハツ、メグロなど、川崎航空機のメーカー出身者でなかったこと、これは海外でも全く同じで、実際の販売を担当したのは、現地の人で日本人ではなかったこと。

二輪事業の販売第1線で、ホンダ、スズキ、ヤマハの人たちに対応するには、とてもメーカー育ちの体質では無理だと、ホントにそう実感したのである。これは、3年間ファクトリーのレースの世界を経験し、そのあと東北で4年間代理店営業を経験した私の感覚からの感想である。川重の課長任用論文に、カワサキが生き残れたのは、メーカーの人間が第1線の営業をやらなかったからだ と書いて渋い顔をされたのを覚えている。

二輪業界をリードしたのは間違いなくホンダであり、本田宗一郎さんだったのである。そんな二輪業界の雰囲気は独特であった。そこには大企業の体質など微塵もなかったように思う。三菱などの大企業はそんな体質になりきれなかったのはよく解る。川崎航空機は確かに大きな企業であったが、戦後の長い中断があったりして、会社全体が若かったし、特に新しい事業を担当したメンバーたちが実質的に若かったので、何でも躊躇なく取り入れることが出来たのかも知れない。

 

★兎に角、上のグラフにある様に数年の間に、メーカーの数は激減してしまって、最後にはブリジストンも撤退してホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢とカワサキの4社だけになってしまいのである。

昭和30年代のカワサキは、二輪車の市場も日本国内一国だけみたいなものであった。

その当時の国内の販売方式は、現在とは全く異なる『代理店方式』で、問屋さんが地方にあってその下に販売店が付いているそんなスタイルだったのである。

カワサキの場合は、川崎航空機が直接その代理店とつながったのではなくて、もう一段階『カワサキ自動車販売』という販社が存在し、そこには旧メイハツ、旧メグロの営業の人がいて、地方の代理店を管轄しているというスタイルであった。そのカワサキ自販が東京の神田岩本町にあったのだが、多分そこを知っている人は川崎航空機籍では東京の加茂さんと私の二人だけになってしまったのではないかと思っている。その後川崎航空機の東京支社の中に移ったのである。

当時のことで特筆すべきことは、それら地方の代理店の扱いはなかなか大変だったのである。所謂バイクを売って頂いているお客様で、今のようにメーカーの下に販社があるのではなかったのである。代理店の工場見学などで、代理店の社長さんからの技術屋さんへのクレームや問題提起なども非常に厳しくて、当時の山田技術部長など、技術屋さんの対応は大変だったのである。中でも鹿児島の金谷さんだとか、新潟の鍋谷さんなどは有名で、めちゃくちゃ厳しかったことをよく覚えている。

これがいわゆる『自前(自己資本)の代理店時代』のことで、その後各メーカーが台数競争に入り、販売台数が増加して行くとともに、多くの台数の販売を目論んだ代理店は、その回転資金の負担に耐え切れず、メーカーの資金援助から、だんだんと資金参加そして直営化への道筋を歩むことになるのである。

カワサキ陣営の中で言うと、、内容のいい確りとした代理店は、そんな台数を求めるメーカーの姿勢には追随せず、二輪業界から撤退して行った代理店も多かったのである。どちらかと言うとメグロ系の総じて内容の良かった店は撤退していく方向であったのかも知れない。

 

★台数を売るとどうして資金負担が生じるのか?

これはその時代の販売形態に原因があって、当時国内で売れている単車は圧倒的にモペットであり、その販売形態も何万店もあった自転車屋さんに委託車を預けそれを売って貰うと手数料を支払う委託販売方式だったのである。従って委託車は第1線の自転車屋さんの店頭にはあるのだが、実質的にその在庫負担は代理店が背負っていたのである。数を売るために委託店を増やしそれに比例して委託車輛もどんどん増えて行くのである。

さらに、末端のお客さんからの支払いが、田舎などでは盆払いや年末払いなど私制手形などまであって、商品が売れてもなかなかお金にはならないそんな資金がべらぼうに要るシステムだったのである。

そんなこともあって資金に詰まった代理店はメーカーからの融資を受けたりしている内に自然に資本参加の方向になっていったのである。

 

★そんな時代、昭和41年(1966)までは、私自身は広告宣伝とファクトリーレースの担当で、一番代理店が厳しかった時代は、ヨコから眺めているだけで、殆ど代理店には関係なくレースに没頭していたのである。ようやく国内だけではなくて海外、特にアメリカでの市場開拓が始まった時期で、車で言えばA1が世に出て、1966年のFisco での日本GPには、カワサキはGP初出場を果たしたし、ジュニアロードレースに金谷秀夫がA1のロードマシンで出場した時期である。モトクロスではF21Mが松尾勇さんの手によって世に出た時期でもあった。

 

左から杉沼浩、アランマセック、浜脇洋二、岩城良三さん、右二人は解らない。

 

昭和41年には、カワサキ自販の名称は『カワサキオートバイ販売』に改称されたりしたし、アメリカ市場は浜脇洋二さん以下の新市場の開拓時期で田崎雅元さんも7人の侍の一人として海を渡っていて、シカゴにAmerican Kawasaki が設立されたりした。内容は部品販売会社であったはずである。そしてその部品担当で黒田君、会社設立や財務担当で本社から久保君などがアメリカチームに加わったりしたのだろう。アランマセックが加わったのもこの年だし、トーハツから杉沼浩さん(後川重ーMFJ常務理事)が7人の侍に加わったのもこの時期なのだと思う。

ただカワサキのマシンは2サイクル社が主力で、W1も持っていったが、アメリカの高速道路には耐えきれなかったそうである。『このW1をアメリカのハイウエイで始めて乗った日本人は私だ』が、後川崎重工の社長も務めた田崎雅元さんの自慢なのである。確かに彼はアメリカに渡る前から、レースチームの一員だったし、日本でもバイクに乗っていて、ちゃんとバイクには乗れたのである。『7人の侍でバイクに乗れたのも私だけだ』などとも言っていたが、ホントかも知れない。

 

そんな若いころの田崎雅元さん(左) と浜脇洋二さん  珍しい2ショットである。

 

★昭和41年までは、アメリカ市場もスタートしたばかりなのである。日本は地方代理店の時代であった。

昭和39年カワサキの単車事業の再建が川崎航空機として決定されてから、のこの3年間でカワサキの単車事業の再建の基盤が出来た時期と言えるのだろう。

二輪事業について殆ど何も知らなかった人たちが、この3年間でいろんな経験を積んでいろんな知識も吸収していき何となく二輪事業が解りかけてきたそんな時期だったのかもしれない。

開発部門は、B8やモペットなどの実用車から、初めてA1と言う中型スポーツ車を開発できるまでになったし、いち早く手を付けたレースの世界、特にモトクロスの分野ではF21Mを擁して赤タンクのカワサキの名を確固なものにしたし、ロードレースのGPの分野にも進出したのである。

国内市場はシェア的にはまだまだではあったが、多くの人たちが販売第1線を経験したし、カワサキオートバイ販売は自らの定期採用者第1期生を取ったのがこの年からなのである。生産サイドも、品質保証も、形が整って単車事業展開の形が出来た3年間ではなかったかと思うのである。

 

そして、なぜか不思議なほど、これらを担当した人たちが『よく言えばユニーク』はっきり言うと『ちょっと変わっていた人たち』ばかりが多かったのではなかろうか?

これが、現在のカワサキブランドのユニークさの根源であるのではと思ったりする。

総大将の岩城良三自体がユニークだったし私たちのすぐ上の先輩たちも、それに続いた後輩たちも『ちょっと変わった人たちの集団』であったような気がするのである。

 

 

 

★そして、昭和42年(1967)頃から、カワサキの単車再建の第2期に入っていくことになるのである。

単車再建のスタートとして川航本社が開発費として予算化してくれていた120百万の膨大な広告宣伝費も昭和41年度で終わり、私自身は当時の国内最大市場であった東北地方の管轄拠点としての仙台事務所新設の命を受けて仙台に異動になったのである。

当時は地方代理店に一部メーカーが資本参加をしだした微妙な時期だったのである。東北6県にも各県に自前もしくは一部資本参加した代理店があって、その代理店の経営を支援する拠点としての機能を持つ仙台事務所を創ることが任務だったのだが、『仙台に事務所を創れ』だけが会社の命令で、それ以外の指示は一切なく、『お前が考えてやれ』と言うこと以外、会社の上司も具体的な知恵はなかったのだと思う。

大体、仙台事務所が出来た経緯は、当時の岩城常務が東北に行かれた時の代理店会議で『仙台に出先を創ってくれ』と言う代理店側の要望に『直ぐ創る』と即答されたらしいのである。その話は直ぐ伝わってきて、その時岩城さんのお供をしていた販売促進課の八木さんが行くものだとみんな思っていたのに、突然の指示だったのである。岩城常務がわざわざ私の席まで来られて、『ご苦労だが頼む』と一言仰っただけなのである。

この時のことは私の自分史、昭和42年度-1にも詳しく書いているが、特に昭和42年度ー2に具体的に詳しく書いてあるので読んでみて欲しい。

 

★私にとっては初めての場所の変わる異動だったのだが、経験がないので異動とはこんなものかとも思ったが、全てのことを一から全て自分の想うように、自分で決めてやったのである。

日本であったから、言葉も通じるし未だマシだったのかも知れない。

当時も、それ以降も海外市場に進出するときなどは、全て同じような状況だったに違いない。会社も上の人たちもコンセプトは言えても、具体的な指示などは、前例がないのだから何にも指示出来ないのは当然なのである。

当時はカワサキに限らず、二輪メーカーはみんなこんな状況だったのだと思う。海外などでも特に二輪メーカーのリーダーホンダは、商社を使ってやる『輸出』ではなくて、自らが現地に新しく事業を立ち上げてやる『事業展開方式』であったし、当時の通産省などの国の支援など一切受けない形での『海外進出』だったのである。このあたりが、国の手厚い保護で海外に出た四輪とは全く異なっていると思う。

国内市場においても、メーカーの籍の人がこのような地方拠点の責任者で出たのは川崎航空機としては九州事務所と仙台事務所の2か所だけで、九州は当時の課長職の矢野さんがおやりになったのだが、仙台事務所は未だ係長の分才でそれこそ百戦錬磨の地方代理店の社長さんがたを相手の営業初経験だったのである。

 

私自身にとっては、広告代理店の本社の企画の人たちと付き合った広告宣伝とファクトリーレースを担当した4年間と、東北の4年間代理店の社長さんたちから教えて頂いて身についたノウハウ、ソフトや体質が、今もなお生きているのだと思える貴重は8年間だったのである。

 

 

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ネット選挙解 雑感

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★ネット選挙が解禁になった。

以下は新聞の記事の抜粋である

 

ネット選挙:発信強化へ各党躍起…参院選で解禁へ

毎日新聞 2013年04月12日 07時57分

 インターネットを使った選挙運動を夏の参院選で解禁する公職選挙法改正案は11日、衆院政治倫理・公選法改正特別委員会で全会一致で可決された。12日に衆院を通過し、月内に成立する。

 ◇著名ブロガー擁立検討/ 習熟度別「松竹梅」で研修/ 選挙事務所に最高情報責任者

 改正案は公示・告示後に政党や候補者、有権者が交流サイト「フェイスブック」などを含むホームページを使い、投票呼び掛けなどの選挙運動を行うことを解禁する。党の取り組みがネット選挙の成果に直結しかねないだけに、各党とも力が入る。

 「他党の追随を許さないぐらい先に行こう!」。今回のネット解禁を主導した自民党では、小池百合子広報本部長らを中心に態勢作りが進む。またネット上で知名度の高い人材を参院選比例代表で追加擁立することも検討しており、ブロガーとして著名な評論家らも浮上している。

 日本維新の会は橋下徹共同代表の発信力に期待を寄せる。橋下氏のツイッターのフォロワーは3月末に100万人を突破した。ただ、首相や橋下氏のように解禁を歓迎している政治家ばかりではない。改正案ではホームページ上に中傷文書があればプロバイダー(接続業者)は候補者らの要請に応じて2日後に削除する。それでも「炎上被害が出ればひとたまりもない」

 

 

★ この記事の中にもあるように、

「他党の追随を許さないぐらい先に行こう!」

と自民党が言っているようだが、ネットの世界では、圧倒的にリードしているようなデータ―になっている。

この表を見る限り、民主党はなぜこうもダメなのかと思ってしまうようなデータ―なのである。

おじいさんばかりかと思った自民党が、不思議なぐらいのリードだが、Facebook の『いいね』の数など安倍さんが一人で稼いでいるのではと思ったりする。

維新の会のツイッターのフォロワーの数なども。橋下さん一人で100万人もいるのだからこんなグラフになるのだろう。

 

新しい政治体制を目指したはずの民主党がどうなってしまったのだろう。

 

 

 

★これは、安倍さんのFacebook から拾ってきた。

『なぜ民主党は昨年の総選挙で大敗したのか?』

とこれは安倍さんのFacebookでアップされたものである

この記事に寄せられた『いいね』の数は7000どころか27000を超えているのである。

 

こんな一人のネットの活動が、党全体のムードになってしまうのがネットのスゴさなのかも知れないのである。

 

 

 

★ ネットの場合は、一人のスーパーリーダーが引っ張れば、全員が力を合わせて頑張らなくても大丈夫なのである。

安倍さんも、橋下さんも、武雄市長の樋渡さんもそんな力を持ち合せているように思う。

それに、ネットの世界は、双方向の情報発信なので自然に繫がった相手の人たちとの『いい人間関係の創造』に繋がるのだと思っている。

そんな時代になってきたので、みんなで頑張ろうスタイルもいいが、

世のリーダーを目指す人たちは、政治家であろうと、企業家であろうと、特にFacebook やツイッターの仕組みを上手に使われたら、

目指す目標の実現が『より容易に』なるのではなかろうか?

ネットの世界は幾ら上手に、幾ら頻繁に使われても、全て無料なのである。

 

そんなことが出来ない人は、今の世の中、リーダーの地位を返上した方がいいのかも知れない。

 

 

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ダルビッシュ  と 岩隈久志

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★アメリカ大リーグ、昨日はダルビッシュ  と 岩隈久志 の大リーグ2度目の対戦だった。

アメリカでも結構注目されていて、スポーツ紙もこのように取り上げていた。

 

ダルVS岩隈にワシントン監督「ビッグマッチ」 スポーツ報知

 レンジャーズのダルビッシュ有投手(26)が11日、12日のマリナーズ戦での岩隈との直接対決に向け、キャッチボールや短距離ダッシュで調整した。その後、D・ローと壁当てで制球力を競うなど、終始リラックスムード。マ軍について「いろいろな選手が入って、強力になっているのではないか」と話していたが、ミーティングでの情報を頭に入れ、準備を整えた。

 2人の直接対決は、日本では6度あって、ダルが3勝で、岩隈が2勝。メジャーでは、昨季9月14日のレ軍本拠地での投げ合い以来、2度目になる。前回は7回1失点のダルが、5回1/3を2失点の岩隈に勝利した。ワシントン監督は「日本にとってもビッグマッチ。共にすばらしい投手が、大きな舞台で投げ合う。均衡した試合になる」と予想。米国での名勝負の第2ラウンドが幕を開ける。

 

 ネットのサイトでも、今まで見たことのないようなこんな扱い方であった。

 

 

 

7回の途中で岩隈も降板したが、3-1のままマリナ―スの勝利となり岩隈が今シーズン2勝目を挙げたのである。

昨日は岩隈久志の32才の誕生日であったとか、誕生日が勝利投手で飾れてよかったと思っている。

 

 

★岩隈らしいいいピッチングであった。

大リーグにも日本からいろんな選手が行くようになったが、最初から期待されてそのまますっきり行く選手もいるが

岩隈は確か1年目は話が纏らなかったし、マリナ―スでも最初はなかなかすっきりとは行かなかったのでどうなるかと思っていたが、実力の持ち主だけに昨シーズンの実績から今シーズンあたりはすっかりマリナーズの主力投手として期待されているようである。

そんな岩隈の幸先良い2勝目でよかったと思う。

岩隈は、日本人らしいピッチャーで快速球を投げるわけではないのだが、なかなかのピッチャーだと思う。

打者でも、日本でもは何度も首位打者を取ったのに、体が小さいかったからだろうか、青木が最初はテスト生のような扱いであったが、今シーズンの活躍など見ると流石である。大リーグにはピッチャーもバッターも力で勝負と言う選手はいっぱいだが、そんな中で岩隈や青木が活躍してくれることは、日本の野球が通用するように思えて、いいことである。

野球とは全然違うゴルフの話だが、今アメリカではマスターズが行われている。野球と違ってゴルフはそのプレーの半分以上が寄せとかパットと言った繊細なプレーなのだが、ゴルフに関して言うなら、そんな繊細さを欧米人の方が持っているような気もしてちょっと不思議に思っている。

 

ちょっと脱線だが、ダルビッシュはあと一人で完全試合達成と言うビックリするような今シーズンの出足だったが、昨日は初回が荒れて3点を取られてしまった。その後は立ち直っていいピッチングだったのだが、

日本人投手の対決なので、どちらもと言う訳には行かないので、昨日は岩隈の誕生日でもあったことだし、まあいいとするかと言うことだろう。

 

 

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Facebook の『いいね』の数と・・・・

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 ★ Facebook の『いいね』の数 は、簡単なようで増やすのがなかなか難しいと言うことは、Facebook ページをお持ちの方はよくお解りだと思います。

以下はNPO The Good Times のホームページのブログにご紹介した記事をそのまま、コピーしたものです。

 

Facebookの『いいね』  投稿者 : rfuruya

Facebook の『いいね』は簡単なようでなかなか増やすのは難しいのですが、

NPO The Good Times のいずれも特別プロジェクトのFBページの『いいね』が健闘です。

 

まず、KAWASAKI Z1 FAN CLUB が待望の1000を超えました。

この夏、7月7日には、グリーンピア三木で、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE というZ140周年記念のイベントも企画して張り切っています。

 

もう一つは、『二輪文化を伝える会』のFBページ、こちらも750を超えて大健闘です。

どちらにも、リンクを貼っておきますので内容をチェックしてみてください。

 

何と言っても情報発信の内容が認められないと、簡単に数だけが伸びると言うことなどありません。

 

 

★確か『いいね』の数が30を超えると一人前と認められて、短い正規のURLが許されることになっています。1年経ってもなかなか100には達しないところもいっぱいなのです。

この二つのサイトとも、昨年の夏以降にスタートしたものですから、未だ1年も経っていません。

 

KAWASAKI Z1 FAN CLUB については、Z1と言う内容から文字通りの世界展開で、『いいね』の数もひょっとしたら海外の人と国内と50:50ぐらいかも知れません。

9月からのたった半年ですが、1000の大台を超えました。

 

二輪文化を伝える会』は、どちらかと言うと関西が活動の主体であるNPO The Good Times にとっては、活動の主戦場が東京と言う貴重なプロジェクトなのです。

 

 

 

これは昨年末、第1回のプロジェクトで山本隆くんと私がスピーカーを務めたのですが、星野一義、岡部能夫、金子豊のかってのカワサキコンバットトリオが手伝ってくれました。

最前列には、村島、松島、早川さんの東京トリオに、カワサキの西郷さんの顔も見えます。

 

いろんな活動をされていて、それこそ 日本の二輪文化の数々 を 30年かけて立派なものに仕上げよう という長期的な視点での活動コンセプトになっています。

たった半年ですが、ホームページやFacebook ページの充実ぶりをご覧になったらビックリされると思います。

 

 

これはつい先日の、京都で開催されたマウンテンライダースの50周年記念パ―テイーの様子です。

このほかにもいっぱい、カワサキのライダーたちも関係者もいっぱい登場します。

従来の4メーカーや、国内の二輪雑誌の視点などとは一味違った『二輪文化』を地道に積み上げて行って欲しいと思っています。

 

 

このお二人も来ておられました。

かっての名門城北ライダース黄金期のお二人です。

もう、40年、50年前の日本のレース界を代表するライダーでした。

 

 

 

 

★ KAWASAKI Z1 FAN CLUB  はこの夏7月7日、 グリーンピア三木で

KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE という Z2国内販売40周年を記念したイベントの開催を企画していますが、

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』という基本コンセプトのNPO The Good Times が後援のイベントですから、

カワサキやZだけには拘らず、ファクトリーのライダーたちも、日本だけではなくて海外からの参加も視野に入れてのいいイベントに仕上げたいと思っています。

この取材にも、間違いなく『二輪文化を伝える会』は参加されるでしょう。

 

カワサキの特約店制度のスタートも、ちょうど40年になるので、販売店の人たちなども参加されることになるのでしょう。

現在、いろんな企画が進行中です。

Facebook 上ではFBをおやりの方だけですが、既に60名近い方が参加表明されていて、その他お聞きしている方を入れると100名を超す人数になっています。

今後、いろいろと情報開示されると思いますが、いろんな人たちに『いいね』と言って頂けるそんなイベントに仕上げたいと主催者は一生懸命です。

 

当日の参加は勿論ですが、ネットをベースに展開がモットーですので、事前広報などにもご注目頂きたいと思います。

 

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再び『定年力』

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★1年経つと、すっかり忘れてしまうものである。

gooでは、毎日ちょうど1年前のブログをメールで送ってくれるのだが、ちょうど1年前が『定年力』というブログであったようである。

すっかり忘れてしまっていたのだが読み返してみると、こそばいぐらいの褒められ方である。

それも褒めて下さっている方が、

 

大西宏のマーケッテングエッセンス』の大西宏さん だから、ちょっと胸を張りたい気持にもなるのである。

 

大西さん、ブログの中でこのように仰っている。

 ・・・・・・・・・表情や仕草、肌の艶や目の輝きで、定年後も充実した暮らしをしているのかどうか一見してわかるので恐ろしいものです。それも「定年力」で決まってくるのでしょう。

そういえば、長年ブログを書き続けていらっしゃる「雑感日記」さんは、プロフィールを見るともう御年73歳でいらっしゃいます。ブログを拝見すると、未だにKAWASAKIのバイクのライダーで多才、さまざまな活動を精力的に続けておられるようです。
定年されているにもかかわらず、ますます人のネットワークも広がっているようで、ほんとうに「定年後」を楽しまれていることが生き生きと伝わってきます。まさに「青年」そのものです。
このブログ記事を見るだけで、暗い定年後のイメージとはかけ離れた世界の住人でいらっしゃることがお分かりいただけると思います。タイトルだけでもそれを感じます。
4月期の始まり、心弾む出来事 - 雑感日記 :

その並外れた「定年力」には敬服します。定年後の生活を楽しく充実して過ごす体力、気質、また人とつながる能力、そして行動力などをお持ちなのだと思います。

 

・・・・・・・日本の平均寿命は82.9歳です。・・・・・退職しておよそ17年から22年・・・・・・その長い期間を楽しく過ごせるのか、そうでないのかで人生も大きく変わってきます。
それを分けるのが「定年力」があるか、ないかです。

・・・・「経済力」が必要だと言われますが、いくら「経済力」があっても、「定年力」がつくとは限りません。もっと大切なことがあるように感じます。

そして、「定年力」を身につけるためには、定年が差し迫ってからでは遅いかもしれません。・・・・・若いうちからの「定年力」の貯蓄が定年を迎えた時に効いてくるのではないでしょうか。さまざまな人とつながる習慣もそうです。・・・・・・「定年力」のなかでも大切な「人とつながる力」も若い時代からの積み重ねで身についてきます。いきなり「人とつながる力」を身につけるというのは至難の業です。

 

★ 私は今年80才になりました。上記の文中の73才は間違いで、昨年の4月は79才だったのだが、若い方から見たら73才も老人なのだと思う。

歳は間違っているのだが、仰っていることはその通りだと思う。

「定年力」のなかでも大切な「人とつながる力」も若い時代からの積み重ねで、いきなり身につけるというのは至難の業です。と大西宏さんは。言われている。

確かに、『人と繋がる力』など付けようと思っても付くものではないだろう。

結構人はみな鋭くて、その人の生き方などはちゃんと見抜いてしまうのである。

20年経っても同じような付き合い方が出来るような接し方でないと、人は信じてくれないだろう。

私にもし『人と繋がる力』があるとするならば、今でも昔と同じように話せることだと思う。昔も同じように話してきた。

『何になりたい』 と思う人がダメだと思う。それが職位だったりすると最低だ。そんな人に普通の人は寄って来ないのである。もし寄ってきてたとしたら、その人にではなく、職位に寄ってきたのだろう。

『何をやりたい』 と思う人には、共感する人はみんな手伝ってくれるものである。


社会の職位などが、一番定年後では役に立たない。むしろ邪魔になったりもする。

『何になりたい』と頑張った人には、経済力などのご褒美は付くだろう。でももし80才になってみればお解りになると思うが、お金など、あまり役には立たないのである。

それよりは、誰とでも話が出来る、トモダチになれる、何となくスンナリと繋がることが出来るのは、財産である。

相手も、そんなに負担にならない気安さみたいなものを自然に感じる、こんなのは『力』ではなくて、人の生き方そのもの だと思う。

 

いつかこのブログでも書いたけど、

川崎航空機の社是と執務態度

『正直、誠実、勤勉』  『信頼、互譲、協力』 

これがホントに出来たら、『定年力』になるのかも知れない。私はこの通りに生きてきたと思っている。

少なくとも、動き方は 他人が中心で、自分ではないところがいい と思う。

 

 

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カワサキ単車物語  その4  1965年(昭和40年)からの10年間

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★ カワサキの単車事業がどのような形で進んでいったのか?

非常に粗っぽく言うなら、1960年と言う年が一つの契機になったのだろうと思う。

メイハツとはそれ以前に繋がっていたのだろうが、この年にメグロとの提携も行われている。明石の工場の中に『単車準備室』と言う職制が出来たのが1960年からである。明石での一貫生産を想定して、資材部門など部品調達なども含めた生産準備の検討を主として行う部門であったと思う。

昭和35年のスタートからこの職制もスタートしたが、私なども未だ財産課時代で単車事業に関わった人など未だ少なかったのだが、この年の4月に、なぜか大量に大学卒を採用しているのである。それが単車事業展開のためのものであったのかどうか? 多分そうだと思う。

事実、その後カワサキの単車事業展開の中心的な役割を果たした、所謂 『昭和35年組』 、その人数は例年と比べ突出して多かったのである。

 

 ★ カワサキの単車事業は実質的に事業として動き出したのは、アメリカ市場開発が始まり、国内市場に対しても積極的な出向政策などをスタートさせた1965年、(昭和40年)ごろからなのである。この年に私はカワサキオートバイ販売に川崎航空機から出向になっている。

これからの1975年(昭和50年)までの10年間は、カワサキにとって、アメリカを中心にZの大成功などもあって大きく飛躍した10年間であったと言っていいだろう。非常にハリのあった、新しい事業に参加した人たちがそれぞれに頑張ったそんな10年間だったと思う。

この期間、事業を引っ張ったのはアメリカ市場ではあったが、国内市場もカワサキのモペットなど小型車を捨てて中大型スポーツ車を中心に、それに見合ったカワサキ独特の特約店制度など、各社に先んじた新しい時代の販売網政策などに集中していた時代なのである。

 

●この期間トップで引っ張った人たちは、粗っぽく言って『大正生まれの人たち』である。戦時中に入社して、川崎航空機が中断されている間は、川崎機械などに避難?していた人たちで、技術部門が山田熙明さん、営業が田中誠さんや苧野豊秋さん、生産技術が中村治道さんなどで大体部長クラスであった。

●そして、ホントに中枢で動いた人達が 高橋鉄郎、矢野昭典、浜脇洋二、安藤佶郎、大槻幸雄、高橋宏、桑畑禎文、田村一郎さんたちなのだが、高橋さん矢野さんは海軍兵学校、他の方たちも旧制高校だとかいろいろあって、その年次がもう一つよく解らないのだが、

昭和30年までの入社なのである。

昭和31年入社が柏木茂、川崎さん、

昭和32年入社が私とアメリカの7人の侍の一人久保勝平さんで、ここまでが『昭和1桁組』なのである。

わざわざ『昭和1桁』と言っているのは、どちらかと言うと『戦中派』で 『昭和2桁』とはちょっと違っているのかなと思っている。

何と言ってもこの期間の中心は、市場で言えばアメリカ、そのアメリカ市場を強烈なリーダーシッップでひっぱった浜脇洋二さんだろう。

そしてこの時代1963年には、カワサキの世界の名車と言われているZの販売が世界で始まっている。そのZ1の開発を主導したのもアメリカなのだが、その開発の責任者がミスターホースパワーと言われた大槻幸雄さんなのである。

 

●続いて昭和33年入社が、田崎雅元、那波義治、稲村暁一と実力者揃いで、昭和34年組は、北村敏さんただ一人である。

昭和33年からは『昭和2桁組』なのだが、その筆頭格の田崎さんに言わしたら、『昭和1桁は、早飯で、女に弱くて、英語が喋れず、ダンスが出来ん』 などとよく言っていた。 言われてみると当たっていて、昭和2桁の連中は、なかなかスマートなのである。

 ここまでが、昭和34年(1959)までに川崎航空機に入社したメンバーなのだが、先に入社していただけで、別に単車事業に先に関係していた訳ではないのである。

 

●そんな状況の中で、昭和35年(1960)4月には大量に、新しい人たちが入社してきて、後、単車事業の中枢で活躍することになるのである。

順不同に名前を列挙しておくと、(下の名前が解らぬ人もいるが)

武本一郎、武本晃、百合草三佐雄、大前太、種子島経、斎藤定一、上月さん、角野さん未だ他にもいるのだろうが、兎に角個性派揃いで、この年次がいろいろと単車事業に影響を与えたのは間違いない。

武本一郎さんは私とは企画で2度のコンビを組んだ東大出の秀才である。武本晃さんは技術部でも、リンカーン工場でも、レース監督でもユニークだった。百合草三佐雄さん、A1の開発時代からアメリカを駆け巡り、レース監督も、アメリカKMCの社長も、ジェットスキーのエンジン440、550化には色濃く関係された。大前太さんは生産や品証から企画に。斎藤定一さんはKMCのR&Dの創立者だし、リンカーン工場を造ったし、上月さんも技術部でユニークだったがレース監督などもおやりになった。角野さんは本社からKMC その後カワ販にも。種子島経さんは一般には有名なので説明の要はないと思う。

こんな35年組で特に私とも関係の深かった方は武本一郎さん、私の企画時代を支えてくれた恩人である。百合草さんとも非常に深く関係があった。特にアメリカKMC社長時代は、一緒にやったと言う実感がある。大前さんも私が2度目の企画の時に品証から企画に招いた人材である。当時の企画部長武本一郎、生産企画部長大前太、アメリカKMC社長百合草三佐雄、特にこの3人の35年組とは一緒に仕事をさせて頂いた、そんな時代もあったのである。

●解る範囲で、昭和36年は野田浩志、佐伯武彦、 昭和37年が前田祐作、永友節雄、原田紀男、昭和38年が井川清次、鍋島英雄、昭和39年、中島直行、昭和40年、鶴谷将俊さんと続くのである。

 、

(この3社合併を遂行された、砂野仁さん、四本潔さんは、私など川崎航空機に入社したころは川航におられたお二人だったのでスムースだったのかも知れない。)

 

 

★ この期間の間には、川崎重工、川崎車輛、川崎航空機の三社合併が昭和44年に行われて川崎重工業になるのだが、

カワサキのこの期間を支えた人たちは、

●一つには、川崎航空機時代に入社の人たちであったこと、

●もう一つは、上記の大学卒の人たちだけではなくて、当時の高校卒の実力派の人たち などが第1線で活躍したのは特筆すべきことなのである。

●さらに言えば、川崎航空機の人たちだけでなく、旧メイハツ、メグロの人たちや地方代理店出身の人たち、カワサキオートバイ販売の定期採用も昭和41年度からは始まって、そんな新人達もようやく戦力化してきたそんな時代なのである。

海外で言えば、徹底した現地主義から現地アメリカ人たちが100%活躍したそんな時代であったと言えよう。

この時代の初期、レース関係のフレームなどマシンの完成を担当したのは、大学卒のエンジニアではなくて兵庫メグロからやってきた松尾勇さんだったりしたのである

大メーカー川崎重工業だけの体質ではない、そんな雑草的な強さが、その当時のカワサキにはあったと言えるのだろう。

 

こんなムードがなぜ出来たのか?

当時の単車に関係した人たちは、ホントにユニークだった。よくまあ、こんなに変わった人たちばかりが集まったものだとも思うのだが、

別に当時のカワサキが変わりものばかりが集まっていたのではなくて、普通世の中では、ユニークな人もホントは多いのだろうが、みんなその芽を摘み取られてしまっているのではないかと思うのである。大体、大きな企業になればなるほど、何もしない、ミスをしない人がエラクなるようなところがあって、みんな自分の個性を発揮できていないのではないかなと思っている。当時のカワサキにはそんなムードは微塵もなくて、職位などには全く関係なく、それぞれが個性を発揮して頑張れる雰囲気があったと思う。

この時代、単車の世界で経験豊かなのは、地方代理店や、メイハツ、メグロの人たち、アメリカ人たちで、川崎航空機の人たちは入社年次などには全く関係なく みんなヨコ一線の新人達 で、スタートラインは同じだったからかも知れない。

 二輪と言う世界は、商品の開発にしても全く自由だし、世界の市場もその環境は一つではない。未だスタートしたばかりの事業であったし、教えてくれる先輩などいないし、それぞれが自らの仕事を自分で考えてやらねばならない環境にあったのだと思う。

 

★ いろいろ理由はあると思うが、『自由にやらせた』当時のトップが偉かったと思うのである。

岩城良三さんも怖かったが、下がやることに細かく口を挟まなかったし、山田さんも、塚本さんも青野さんも、下がやることにあまり文句など仰らなかったのである。上に立たれた方たちも、ご自身に経験のあることでもないし、現地を担当する人たちを信頼して任さざるを得なかったのかも知れない。

 

この時代の人たちで一般によく知られている人で言えば、

まずは『浜脇洋二』さん、ご自身で本も書かれているし、カワサキのアメリカ市場開拓の旗を振られたことでよく知られている。もし浜脇さんが当時のアメリカ市場での成功がなかったらカワサキの単車事業がここまで大きくはならなかったのは間違いない。『種子島経』さんも本を書かれているし、二輪雑誌にも登場する機会も多いので、カワサキの顔のようによく知られている。

今年はZの販売40周年なのだが、そのZ1の開発責任者が大槻幸雄さんだし、そのエンジン担当したのが稲村暁一さんなのである。

カワサキが一番華やかであったように思われている1975年(昭和50年)ごろまでは、カワサキの中心はアメリカ市場であり、ヒット車種の中心はZで、それらによってカワサキいのイメージも徐々にだが確立されていくのである。

リンカーン工場が日本の自動車工業会のトップを切ってアメリカに進出し、Kawasaki . Let the good times roll !  と言う基本コンセプトが創られたのもこの時期だし、ジェットスキーと言う新商品もアメリカ市場向けに開発されたのである。その1973、74年当時が絶頂期であったと言えよう。

巷でカワサキのことがよく知られているのは、このころまでである。

 

★国内市場ではZ2が発売された昭和48年から大阪、京都、愛知などから新しい特約店制度をスタートさせて、日本にもようやく自転車屋中心の販売網から、二輪専門店がスタートし出したそんな時期であった。カワサキはその先頭を走っていたが、1975年には3年目にしてようやく全国展開の販売網として、ほぼ完成を見たのである。ここ国内の販売網政策については項を改めて別途書いてみたい。

その販売網の推進を直接担当していた私はその完成を機に、カワサキオートバイへの出向期間を終わって、10年ぶりに川崎重工業単車事業本部企画室に戻ってきたのである。

1975年(昭和50年)の10月のことである。

 

当時、既にアメリカの絶頂期は峠を越していた。

発動機の商品であったスノ―モービルが、雪不足で全然売れなかったこともあって、冬しか売れないシーズン商品の在庫などがリンカーン工場の足を引っ張りかけていたし、雲行きが怪しくなりかけていた時期であった。

当時の企画室は企画室長が本社財務から来られていた堀川運平さん、企画部長が高橋宏さん、その部員課長として田崎、田付、種子島さんと私で年次の関係で私が纏める立場にはあった。田崎雅元さんは、岩崎茂樹さんと主としてアメリカKMMのリンカーン工場などを担当し、スノ―モービルなども彼の担当だったのである。種子島さんは、アメリカから戻ったところで、ドイツへ行くちょっと前の時期だったのである。私のグループは35年組の武本一郎、森田進一さん(年次は多分39年)などもいたし、後単車も川崎重工も背負った人たちがいっぱいだった。

アメリカKMCは未だ浜脇洋二さんが最後のころである。

塚本事業本部長、青野副事業部長、技術本部長は高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんの時代である。

ようやくカワサキの単車事業も今後どのような展開を図るべきなのか?

本社の吉田専務が単車事業を担当されしょっちゅう明石にも来られていた。アメリカ市場の今後、スノーモービルの扱い方針、ヨーロッパ対策、開発途上国対策方針などなど、発動機を含む発動機事業本部の長期事業戦略の検討が吉田専務を中心に進められていた。

私のグループは、その『発本戦略』を直接担当していたのである。

 

これは当時私が纏めた『発本基本戦略』である。 

昭和50年(1975)自分史

昭和51年(1976)自分史   もあるのだが、

 

1976年からの10年間は、カワサキにとって激動の時代に突入するのである。

これらについてもまたいろいろと書ける範囲で、書いてみたい。

 

 

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今年のマスターズと「神戸屋スポーツ」の・・・

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★今年のマスターズは、何となくだがよく観ていた方である。

藤田は全然ダメだったが、石川遼は最初と最終日だけはよかった。

そんな日本人選手もさることながら、ウッズのピンに当たっての打ち直しや、それが誤所からのプレーで、2打罰が付くなど話題も多かったのである。

さらに、最終日のトップ争いはなかなかの迫力で結局はプレーオフでのオーストラリア勢初のタイトルだったのである。

優勝したアダムスコットがユニクロのシャツを着ていたので、応援していた。

 

 

優勝の瞬間の写真を撮って、Facebook に記事の投稿などもした。

 

 

そのユニクロのシャツは1990円だとかと言うニュースが流れたりもした。

契約は今月1日に履行されたばかりで、15日はスコットがラウンド中に着用した1990円のポロシャツの新商品発表日。カリスマ経営者として知られる柳井正会長兼社長(64)による抜てきは、世界中に大きな広告効果を生むことになりそうだ。

優勝以上のミラクルかもしれない。契約直後のゴルファーが、いきなりマスターズで、しかも晴れ舞台で着用した新商品の発表日に勝つ―。世界のユニクロが恐るべき先見の明を発揮した。

 

★そんなユニクロのニュースのことも、気にはなっていたのだが、

このブログに突如マスターズの話題を取り上げたのは、

正真正銘、このマスターズの観戦に行かれた方に、そのお土産を頂いたからである。

 

 

★マスターズ観戦に行かれたのは、稲田三郎さんである。

稲田三郎さんと言ってもお解りにならないとは思うが、直ぐ近くにお住まいの神戸屋スポーツのオーナーさんである。

神戸屋スポーツとは、三木が本店だが、神戸にも加古川にも支店があり、九州の方でもいろいろおやりで、特にミズノとはトップクラスの取引量のはずである。

このご商売の方では何の関係もないのだが、園芸など特にバラのことなどで、お宅にお邪魔したりもする。私の方が20才も年上だが、何となくトーンが合うのだろうか。

 

もう社長は引退されていて、昨年はロンドンオリンピックにご夫婦で行っておられたし、マスターズも何回か行っておられるようである。

無茶苦茶、ご夫婦仲がいい。私が先にお知り合いになったのは、おかみさん『神様』の方である。

ミズノとのお取引関係で、貴重なチケットも簡単なのかも知れない。イチローとゴルフなどされたりするようである。

ひょんなご縁から、いろいろとお付き合いもあるのだが、私の方は頂いてばかりで恐縮なのである。

 

覚えておられる方もおられるかも知れぬが、

今年の3月2日の私の80才の誕生日には、『80本の薔薇の花』を送ってくださったのも、稲田三郎さんである。

 

 

 

 ★何のお礼も出来ないので、

せめてブログにでもアップして、感謝の一端を表したいと思っている。

 

Augsta の コースレイアウト  と

初日と最終日のグルーピングとスタートタイムである。

初日は7時50分に、アーノルドパーマー、ゲーリープレイヤ―、ジャックニクラウスの懐かしい名前があるが、ラウンドしたのだろうか?

 

 

 

気分だけでもマスターズをお楽しみ下さい。

 

 

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○○周年雑感

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★ このところ身の回りで○○周年行事がやたらと多いような気がする。

今年はZ2国内販売40周年と銘打って7月にこんなイベント開催なのである。

 

 

平井稔男さんに言わすと、今年はチームグリーン30周年だと仰る。

考えてみると今年は2013年だから3の付く年はみんな○○周年になる訳で、○○周年が幾つあっても当然だと言うことなのである。

 

 

 

★ 1933年は80周年、だから今年80才になったわけである。1953年は未だ小学校だが

 

★1953年は、60周年  20才

●この年は大学2回生であった。

●この年の11月8日に突如、日記を書きだしているから日記は60周年なのである。

新聞に蒋介石が30年日記を書いているのがエライとあったので、そんなことは出来るだろうとその日から大学ノートに書きだしている。それ以降は日記があるからちゃんと正確にその年のことが書けることになっている。

理由は、多分それだけではなくて、その年の秋肺浸潤だと言われて、絶対安静と医者に言われて、ひょっとしたら死ぬかもと思ったからだと思う。何か残しておきたいと思ったのだろうと思う。

一生懸命野球をやっていて結局一度も安静などせずに過ぎてしまった。翌年の3回生からはキャプテンをやらされて、休むことなど出来ない状況に追い込まれたのである。

 

★1963年は50周年  30才

●給料やっと3万円台になった。夏のボーナスは、62300円。

●5月19日 青野ケ原モトクロスで1〜6位独占の快勝。 青野ケ原がファクトリーチームのスタートなら今年はファクトリ−チーム結成50周年なのである。

●結婚1年目で、長男が生まれた。今年50才になるのか・・

●単車事業本格的再建が決定。

この年から結婚生活が始まったのである。 同時にカワサキの単車事業も本格的にスタートしたと言っていい。

どちらも一生懸命だった。

 

★1973年は40周年   40才

●高槻から1月13日に三木市に転入。 3月17日に引っ越し三木市移住40周年なのである。

●1月30日、大阪特約店会発会を 新阪急ホテルで開催、名古屋、兵庫地区など特約店説明会を。

●2月、Z2配車始まる。 Z2国内販売40周年

●3月直営部の本部を明石に移転、三木の自宅からの出勤に。東京、名古屋、近畿を直営部長として担当してた。大阪母店長平井、名古屋母店長鍋島、東京営業所長は兼務の体制、Zのバックオーダーで大変だった。

●10月に、カワ販本社管理部長 全国の特約店対策を担当することになった。特約店制度40周年と言える

 

 

★1983年は30周年   50才

●前年10月に、単車事業本部企画部長にカワ販から復帰 単車事業再建対策 第2年度に入っていた。

●78年から続いていたハ―レ―のダンピング提訴、関税45%と決まった。アメリカのダンピング対策のスタートは79年からで、田崎雅元さんさんが担当、79年の国内新体制はダンピング対策だったのである。その後HY戦争と続いて単車事業が大変な時期であった。

●6月には 川重無配転落 原因は単車事業の赤字であった。 7月には、大庭単車本部長就任と続いた。

●主としてアメリカ対策で、KMCの増減資、P/L問題、その対策としてのFinance Co設立、新事務所統合、累損消去問題など対策金額の額も大きく大西、山田両副社長や本社財務部門の若手メンバーが全力投球で応援してくれた。主として営業外対策だから技術屋さんは殆どご存じない。ドラスチックな財務対策とトータルシステムの根本的な改革で乗り切れた。あの頃から30年なのである。

●そんな経営環境だったので、ファクトリーレースは止めたが、平井さんが繋いでくれたので、Team Green 30周年になるのだと思う。

●家では、息子が大学、娘は高校。家計は苦しかったと思う。

 

 

★1993年は20周年  60才

●1月 長男に初孫、 今年成人になったのだ。

●還暦  カワサキモータースジャパン専務(社長は高橋鉄郎本部長が兼務)時代で、

●Kawasaki. Let the good times roll  !  をカワサキの基本理念として、20年ぶり国内で復活、

●世界展開のコンセプトに決定、新宿ショー−ルームのネオンにもその文字が躍った。

●6月に、博多にPlaza IMS オープン、7月のSuzukaで、  4耐月木優勝、 8耐カワサキ優勝  8耐優勝記念キャンペーンIMSで   8耐優勝20周年!

 

活気のあったいい時期だったと思う。

国内でのカワサキのイメージの確立されたそんな頂点の時期だった。

 

★余談だが、昨日このブログのアクセスは1000を超えた。

宇宙に行くと言う、岩城滉一での検索からである。岩城滉一とのお付き合い があったのはこの時期だが、この年のARKの新年会にも清水宏次郎達とやってきたし、夏の鈴鹿では、月木レーシングの総監督をやったり、J/Sのワールドカップには前夜祭からやってきたりしていたのである。

 

 

以下の写真は2013年今現在、発行されているものだが、

そこに使われている写真は20年前のものである。

琵琶湖の近江舞子で開催されたワールドカップ。

湖岸1Kがジェットスキーで埋まり、述べ3万人の観衆がつめかけた。

鶴谷JJSBA 会長時代のJ/S最高の時期であった。

 

 ●11月に、JJSBA 10周年を記念してのワールドカップを!

この雑誌、現在発売中のもので、福井昇君が寄稿している。

今年はJJSBA 創立30周年なのである。 イベントをやったの年次から言うと20周年なのである。

 

 

 

★2003年は10周年     70才

10年前は特に何もやっていない。

前年度まで顧問料を頂いていたので、敢えて言うなら、年金生活スタート10周年である。

未だ、パソコンもやっていない。のんびりと過ごしていたのだ思う。

いろいろ動きかけたのは、パソコンをやりかけた73才以降である。

 

 

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世界最高齢116歳

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★世界最高齢116才

スゴイなと思う。

明治30年とは、私の父が明治32年生まれだったから、さらに2年も年長である。

 

最近は、100才はそんなに珍しくはなくなったがさらに16年である。

写真では、ヨコになっておられるが、認定書だ、お祝いだと家族の方も大変だと思う。

 

 

 

 

★ 産経新聞の写真は確りされている。

木村さんは子供7人(うち5人が健在)、孫14人、ひ孫25人、玄孫(やしゃご)14人に恵まれた。

昨年末から体調を崩し、今月9日まで入院したが、現在は一緒に暮らす孫の妻、栄子さん(60)の介助を受け、おかゆやカボチャ、サツマイモをすりつぶしたミキサー食を1日3食ペースで食べるなど元気に過ごしている。

 

今現在家族構成は、どんなになっていて、どのようにお世話をされているのだろう。

記事では『孫の妻60才の介助・・・・』とあるが、子どもさんは5人が健在だと言うが、勿論高齢であろうし、家での介護は大変だろうなと思う。

こんな記録保持者になると、余計に大変だろうなと思ってしまう。

 

★今まで経験のない長寿社会なのである。

私自身も80才になってみて、自分のことは自分で出来る、歩けるまでは長寿の方がいいと思うが、寝込んでしまっての長寿はもう一つかなと思ってしまうのである。

自分はともかく、世話をする人が大変である。家で寝込むなど論外だと思う。

何となく家で老後をと言う風潮が強いが、それは経験のない50才や60才までの人の発想だと思う。私自身も母は家でちゃんと見てあげようと50才のころはそう思っていた。

母が90になり95になり、そのころまでは未だぴんぴんしていて、買いものも食事も自分のことは全て自分でするようになっていた。

むしろ70才代のころはご隠居みたいに、家内が食事など全部面倒を見ていたのだが、子どもたちが大きくなって食事の時間など変わって来たので、自分の好きなように自分でする方がいいと勧めたら『そうする』と言って、それ以降逆に元気になったりもした。

一緒に暮らしてはいたが、殆ど手間など掛らなかったのである。大体100才に近くなると面倒を見る方が70才を超えてしまう。我が家は、二人とも後期高齢者である。家内もお陰さまで元気だが、もし今、母が家にいてその面倒を見なければならぬとすれば、現在のような生活パターンには決してならないし、不可能だと思ってしまう。

 

★母は今年6月で104才になる。 特別老人養老施設に入れて頂いているので安心なのである。

だが、なかなか特養にはすんなりとは入れないのが現実である。申し込みをしておかないとダメだし、仮に申し込んでいても、『介護の級』が上がらないと年齢だけでは入れないのである。母も101歳までは介護1級だったので、ショートステイはOKだったが、『歩けるから』ダメなのである。『もう少しお待ちください』と言い続けられて100才を超えてしまったのである。

101才の夏に足を悪くして入院したら、病院など初めてだったものだから、突如精神的にも参ってしまって急に何にも解らなくなり、たまたまその時期が介護認定時で『介護1級から介護5級』になったので、入所資格がとれたのである。ツイテいたと言うほかはない。

特養に戻ってきたらすっかりまたよくなって、そのままお世話になっている。

 

介護○級 からと言う基準もいいが、せめて95才になったら、『仮に元気でも特養に希望する人は入れるような仕組み』 にすべきである。本人よりは介護をする側が持たないと思う。

この対応の仕組みを『50代、60代の元気な人』が考えるから間違ってしまうのだと思う。70才以上の人たちの意見を聞けばいい。

『家で介護』など耳触りのいいことが考えられるのは、50才や60才だからなのである。

 

★116才、世界一の長寿 は日本としては、大いにおめでたいのだが・・・・

一方で、大変だろうなと 思ってしまうのである。

もし私や家内に、老後の不安があるとすれば、 『特養に、どうしたら入れるかな?』 と言うことなのである。

 

 

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ネット選挙解禁

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★ネット選挙 改正法が全会一致で可決・成立したようである。

総務相が言ってるように、ホントに有権者、特に若者たちとの距離が近づけばいいと思っている。

 

日本の若者たちは、なぜ選挙や政治に無関心なのだろうか?

そういう自分も、現役のころは、殆ど関心がなかったし、選挙に行ったことも殆どなかったように思う。

幾つかの理由があるのだろうが、

●日本の選挙は国政選挙であっても、地元への利益還元みたいなのが普通である。

●そんな選挙なのに、現役の間は明石、仙台、高槻、三木、と転々として、住んでいるところが地元だとも思わなかったことがあったのだろう。

●それよりも、日本の場合、『生き方の主流』が会社みたいなところがあって、いい企業に入るために、いい学校に入る。家なども通勤に便利なところを選ぶ。など自分が住んでいる町よりも、仕事、会社優先なのである。

●『いい生き方』をするために働くと言う、欧米の発想とは基本的に違っている。

●やっと人生の目途もたった50才過ぎてから、やっと選挙などにも関心が向くのだろう。

 

自分自身を振り返ってみても、政治や選挙に関心を持ったのは、6年ほど前からである。

 

★そんな政治環境だから、政治家の視点は、年寄りに向いてしまって、若い人向きの施策が少なすぎるのである。

だから余計に若い人は、政治家から離れてしまうのだろう。

大阪の例を見ても解るように、若い人に政治家が目を向けたら、若い人が動いたら、政治の流れ、方向は変わるのである。

 

そういう意味で、今回のネット選挙の行方には大いに関心があるのである。

 

 

 

 

★先日もちょっと触れたが、 ネット選挙に対して、世の政治家たちは、そんなに万全の準備が出来ているようでもない。

不思議なぐらい自民党が圧倒的にリードしているのである。

 

 

 

 

 

★民主党など、ほんとに本気になってやらないと、全く引き離されてしまうのではなかろうか。

大体物事は何でも、マラソンと同じで、先頭グループについていかないと、どんどん置いていかれるのである。

そして、先頭グループは、勢いに乗ってどんどん引き離してしまう、これは半分気分の問題だと思う。

 

一つの例かも知れぬが、昨日 『自民党を支持する会  相互フォロー』と言うところが、

私のツイッターを『お気に入り』にしたり、 『リツイート』 したりしているのである。

別に、自民党でなくても、こんな動きをされたら、ブログにでもアップして紹介してあげようか と言うのが人情である。

  

 

★このツイートは、http://rfuruya2.exblog.jp/19828687/ こんなブログを

リンクしてツイッターで流したもので、

明日の朝は、今書いているこのブログが、リンクされてツイッターで発信されるのである。

 

何人の人が、ホントに読むかどうかは別にして、294000人に向かって発信されるので、そこそこの効果はあるのだと思う。

『自民党を支持する会  相互フォローの会』 さん 今回も見つけて『リツ―ト』してくれるだろうか?

『お気に入り』に入っていたりするのでちゃんと見つけてくれるかどうか?

その辺の『マーケッテング』ぐらいの積りで、このブログ、アップしているのである。

 

さて、どんなことになるのだろうか?

 

 

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