★ やはり50年前のことを書かねばならないだろう。
カワサキの単車の歴史を造られた数々の先輩たちも、50年経つと残っておられる方も僅かになってしまった。当時入社数年目の若手であった私でも、今年80才になってしまっているのである。
ただ、カワサキの単車事業は、川崎航空機にとって初めてスタートした全く新しい事業であったために、上司でも、先輩たちも単車事業の経験など全く持っておられなかったのである。
そういう意味では、私のように一足早くこの事業に足を突っ込んだものにとっては、如何に先輩といえども単車事業の経験と言う意味においては、後からこの事業に参加された先輩たちよりも豊富であったと言う不思議な事業環境だったのである。
私が単車の部門に配属になった時は小野次長、北澤課長、壱岐係長、そして私、足立、木村君、それにサービスの3人だけで、カワサキ関係の単車担当は壱岐さんと私と木村君の3人だけだったのである。
仕事の範囲は結構大きくて、管理も、広報も、営業も、サービスなどなど広範囲であったことは確かなのである。昭和37年初めの話なのだが、車で言えばカワサキ関係は125ccのB7,50ccのモペットや井関の空水冷のモペットタフ50などもあった懐かしい実用車のカワサキの時代なのである。
この昭和37年は、私個人にとっても記念すべき年で、自分史にはこのように綴っている。
この年の12月小野さんに仲人をお願いして結婚している。
私の単車の歴史も結婚生活、も昨年は記念すべき50周年だったのである。
★川崎航空機という会社は、戦前はその名の通り飛行機を造っていて、明石はエンジン工場、岐阜が機体工場であったらしい。
戦後軍事産業だと言うことで長い中断の期間があって、昭和27年ころにようやく再開されたそんな会社なのである。会社自体も若かったし、一種独特の雰囲気があったように思う。
明石は元々エンジン工場だったので、そこに当時は東洋でたった一つのアメリカ空軍のジェットエンジンオーバーホール工場が明石にできて、常時米軍が駐在していたし、IBMの器械などもあったのである。日本には未だIBMと言う会社もなく世の中にIBMなどは無縁であった時代なのである。そんなことで、新しいアメリカの管理システムなどが入っていて、結構進んだ管理がなされていた。
私はそんな川崎航空機に昭和32年に入社し、財産課に配属されて償却計算に明けくれていたのだが、ジェットのIBMでやれば機械化出来ると聞いて入社2年目からそれに取り組んで完成したら、財産課は償却計算する人手が不要になってしまって失業した結果、新しく始めようとする単車に異動されたのである。
当時の明石工場は、なぜか『神戸製作所』という呼び名で、発動機とジェットの2部門で構成されていて、それを統括されていたのが、神戸製作所長の神武さんだったのである。私の上司の小野助治さんは、単車に異動される前は神戸製作所の庶務課長だったので、単車など何の経験もお持ちではなかったのである。
そんな小野さんが私よりは1週間だけ早い単車への赴任だったのだが、赴任早々言われた指示は『物品税をやってくれ』だったのである。当時は125cc以上のバイクには、物品税が掛けられていた。
なぜ、改めて『物品税なのか?』
当時のカワサキ125ccB7は今で言うクレームで、車体がダメで毎日、毎日返品が続いていたのである。
物品税は工場を出荷されるときに支払うのだが、支払いは至極簡単なのだが、戻し入れ『戻入』は、なかなか難しいのである。工場を出た時のままでないと戻入の条件を満たさない。メーターが回っているとダメだし、税務署員の立ち合いが必要なのである。
毎日、毎日返品車があるので、毎日毎日物品税の戻入手続きばかりをやっていた。少しでも走った車は、メーターの巻き戻しをやらぬとダメなので、工場サイドの人が来てメーターの巻き戻しなどを川崎航空機がやっていた時代なのである。12月に営業に配属されて、翌月の1月は出荷車より返却車の方が多くて生産台数がマイナスになったりしたのである。
そんな状況だから、新しい単車事業の船出は大変だったのである。昭和37年だけでも、春には単車は独立して単車部が出来たのだが、ほんの2ヶ月余りでまた発動機に連れ戻されたのである。その時ジェットから営業企画部に移って来られたのが苧野豊明さんで、私はそこの管理係に異動になったのである。 苧野豊明さんとの関係は、その後何十年も苧野さんがお辞めになるまで続いたのである。
いつ事業を止めるのか解らなかったようなカワサキの二輪事業だが、この年の秋ごろから発売されたB8がなぜか期待以上に売れだして、そして翌年5月の青野ケ原のモトクロスでの1位から6位までを独占する快挙で一気に『単車再建』と言うムードになっていくのである。
100数十社もあったメーカーがどんどん止めて、メグロも止めて川崎が吸収したそんな時代だったから、この新事業をこのまま進めるべきか、止めるのかその決断は大変だったに違いない。この時代、二輪事業から撤退したのは、ト―ハツも富士重も、そうだったし、ヤマハですら止めるのではないかと言われていたそんな時代であった。
★そんな初期の時代、カワサキはレースに対しては、結構本気で取り組んでいたのである。
カワサキのレースを引っ張った人たち、兵庫メグロの西海義治さん、この方が若しいなかったらカワサキもちょっと違った方向に行ったかもしれない。上記の写真の青野ケ原の快挙があって、カワサキの二輪事業の再建が決まったとするならば、それを陰で支えた人は間違いなく西海義治さんだと思う。
当時の兵庫メグロの社長だが、それ以前はプロのオ―トレーサーなのである。豪快な性格のようで戦略は綿密であったように思う。
川崎航空機は飛行機メ―カ―で明石工場はエンジンの専門工場、従ってエンジンの専門家はいっぱいいたのだが、オートバイはフレームがあって初めてマシンとなる。
レースをやるには、エンジンも要るがフレームが解る人、マシンが解る人が要るが、『そんな人材はカワサキにはいない』 と言う仮説を西海さんは立てたに違いないのである。
そして兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の生産工場に送り込んだのである。誰がそれを受けたのか定かではないが、多分それは技術部長の山田熈明さんだと私は思っている。少なくとも、入社を決定できるのは、部長などと言う格の要る話なのである。
鈴鹿サーキットがオープンして、日本で初めてのレースが開催されたのが昭和37年の秋である。昨年はその50周年記念であった。そのレース観戦に製造部はバスを仕立てて大勢の人が観戦したのである。そのレースを見て、その勢いで翌年の5月の青野ケ原のモトクロスへと繋がっていくのだが、このレースそのものを企画したのも西海さんだったし、このマシンを創り上げたのは、西海さんが送り込んだ松尾勇さんだったのである。
さらにこのレース参加は会社の意思で行われたものではなくて、製造部の中村治道さんや高橋鉄郎さんが勝手に企画し動いたのである。マシンを造ったのは松尾勇さんたちだが、会社が終わってからボランテイァでの活動だったし、むしろ企画や勤労など会社の中枢は、しかめつらでヨコから見ていたのを思い出す。営業関係は小野助治さんだけが応援スタンスで、野球部のマネージャーの経験ある川合寿一さんに面倒を見るように、私には『忍術を使って、残業時間のパンでも買ってやれ』と指示されて、営業の金から幾らか拠出したりした。青野ケ原モトクロスで私が果たした役割は、ただそれだけだったのである。
★その青野ケ原のモトクロスレース当日は雨で、防水対策を完璧に行ったカワサキ以外のマシンはみんな止まってしまって、カワサキはモトクロス初出場で1位から6位独占の快挙を果たすのである。
青野ケ原のレースで勝って事業部の意気も大いに上がり、日本能率協会の事業診断もGOと決まって、昭和39年1月、正式に単車事業本部の再建が決まり、岩城良三常務が総責任者で神武事業部長が担当されることになったのである。
この時点で、川崎航空機の総力を挙げての体制となったのである。
JETエンジン部門から神武さんを筆頭に、田村一郎、田崎雅元さんらが、本社からは矢野昭典さんを筆頭に、上路、前田、岩崎など、神戸製作所からも八木、北村、藤田、発動機からは苧野豊明、野田、企画からは山下、黒河内、藤田、鍋島、井川さんなど後単車を支えた事務系の人たちが集められた。
私は日本能率協会が条件に挙げた広告宣伝部門の担当となったし、広告宣伝費は本社開発費で3年間、毎年1億2000万円の予算が計上されたりしたのである。
この時はまだ国内市場だけの時期で、その翌年ぐらいから、本社企画の浜脇洋二さんがアメリカ市場開発をめざし、一般には有名な種子島経さんなども単車のメンバーに参画してくることになるのである。
この時期の動きは、カワサキ単車50年の歴史の中でも、最も迫力のあった時期だったかも知れない。
『隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず』
総大将、岩城良三常務が毎回訓示の前に言われるこの言葉通りの陣頭指揮だったのである。
その岩城さんには直接呼ばれて幾度となく薫陶を受けた。広告宣伝とレースを当時の1億2千万円と言うべラボ―な額を任されてある意味大変だったのである。4年目に新たに仙台事務所を新設するための異動の時もわざわざ私の席にまで来て頂いて声を掛けて頂いたりした。
★この岩城良三さんが、単車事業部を総責任者として引っ張られたのは、年次で言うと、昭和40年(1965)ごろの話である。
私自身の立場で言えば、広告宣伝課が川崎航空機に初めて出来て、その部門を担当することになった。昭和41年にはカワサキオートバイ販売に社名変更がなされ、川航の企画、販売促進部門のメンバーは全て出向になって、広告宣伝課が創られ、私は川航では未だ係長でもない時期なのにカワ販では課長任用されたりしたのである。
本社の浜脇洋二さんがアメリカ市場の開拓を始めたのもこのころだし、開発部門がA1を開発して世に送り出したのもこのころのことである。それまでは国内市場の実用車メーカーから、中型スポーツ車の分野への転向を果たし始めたそんな時期であった。本に書かれている『アメリカの7人の侍』と言われた時期なのである。
7人の侍とは、アメリカに渡った順番から言えば浜脇(リーダー)、杉沼(ト―ハツから)、渡辺(本社企画)、久保(本社、財務)田崎(単車、技術)、黒田(単車、部品)種子島(単車、営業)のことを言うのだろう。
当時の明石事業部サイドは、神武さんが事業部長だったが、
技術部は山田煕明部長でその下に安藤佶郎係長、大槻幸雄係長、生産技術、生産関連は中村治道課長、高橋鉄郎課長営業はカワ販の苧野専務などが実質事業を動かしていたそんな時代であったと言っていい。このメンバーがそっくり当時の『レース運営委員会』のメンバーで、その事務局を担当していたのが私なのである。
何一つ、ホンダ、スズキ、ヤマハに勝てることはないので、せめてレースだけでも1番になろうと頑張っていたのである。
レース体制も、エンジン開発は技術部、マシンとして創り上げるのは生産部門のレース職場、ライダー契約などは金をもっている広告宣伝課と言う体制だったので、『レース運営委員会』と言う組織でそれを動かしていたのである。その生産関連のレース職場を担当していたのが田崎雅元さんで、彼はその後アメリカにも渡って、7人の侍にもその名を連ねているのである。
そして、このカワサキのレースを裏で支えてくれたのは兵庫メグロの西海義治社長であり、山本隆、歳森康師、金谷秀夫と言うファクトリーライダーをカワサキに出してくれていた神戸木の実クラブの御大片山義美さんなのである。
このレース運営委員会のメンバーは、カワサキの単車事業部も間違いなく支えたし、後川崎重工業の社長を田崎さんが、副社長を山田さんと高橋さんが、大槻さんは常務を務めたし何よりもZ1の開発、安藤さんはF21Mの開発など、大きな貢献をされているメンバーなのである。
これはずっと後、私がカワ販専務をお引き受けした時に開催した『ファクトリーチーム結成25周年』のOB会の写真である。
前列中央に川重の副社長経験者お二人のまん中におられるのが兵庫メグロの西海社長で、右から大槻、、中村、苧野、高橋、西海、山田、松尾、糠谷さんである。2列目には私、田崎、平井、大西と会社側のメンバーもいるが、清原、山本、和田、安良岡、金谷、岡部たち当時のライダーたちもいる。歳森は3列目、星野一義は最後尾の右端である。このOB会で、OBの末席を務めたのが星野一義と清原明彦なのである。もう二人ともパリパリの有名人ではあったのだが・・・・
この会には現役ライダーたちも参加している。今まであまりレース活動にも力を入れてこなかったが、私が国内を担当する限りは、レースは頑張ってやりたいという意思表明でもあったし、当時のカワ販社長高橋鉄郎さんには、販売台数7万台を目標にすると約束しての専務就任だったのである。10月1日付けで新任務につき、10月15日にこのOB会を開催している。
初仕事であったことは間違いない。私のある意味所信表明みたいなところがあったのだが・・・・
こちらは3年前、清原明彦くんが、幹事で開催されたOB会、さらに20年の歳月が流れて、メンバーの顔ぶれも変わった。
ここにはカワサキのOB会なのに片山義美さんが顔を出してくれたのである。片山義美さんは、一度もカワサキとは契約関係はなかったのだが、神戸木の実クラブと言うチームではメンバー達がカワサキとは密接に繋がっている。そんなことから片山義美さんの引退パーティ―の主賓のご挨拶は私が引き受けたり、神戸木の実クラブの解散パーティ―の司会は平井稔男さんが引き受けたりしているのである。
そして、この写真は、昨日私のブログでアップし、Facebookにも載せたのだが、
ここに登場する中村治道さんが、上記のレース運営委員会の中村治道さんなのである。
岩城良三さん体制の頃、事業部で一番元気が良かったのが、『中村治道』さんなのである。
カワサキの単車事業再建の一つのきっかけにもなった昭和38年5月の青野ケ原のモトクロス、この総指揮を執られたのが中村治道さんなのである。レース当日は風邪か何かで現場監督は高橋鉄郎さんがおやりになったのだが、このレースを引っ張ったのは中村さんである。
生産現場ではなくて、生産技術部門の長をされていた。年次で言えば高橋さんよりちょっと上の方で、私は明石高校の先輩にも当たるのである。甲子園の中京―明石の25回戦を現場で観たと仰るのである。私は明石の野球部なのだが後明石南校がが甲子園に出場した時に、『女学校が甲子園に行くと言うのに、明石はどうなってるんや』と私は責められて困ったことがある。明石南を今どき『女学校』と言う人も少ないが、中村治道さんは、そんな方だった。
昭和41年、FISICOでのカワサキのGP初レースの総監督が中村さん、GP監督が大槻さん、ジュニア監督が安藤さん、そのマネージメントが私、総責任者が山田煕明さんだったのである。
そのレース、あのデグナ―がカワサキのライダ―として走るはずだったのである。
その契約書を創ったのは私、英訳をされたのが山田煕明さんなのである。練習中に転倒入院してしまって、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。
書きだすと切りがないので、このあたりで止めておく。