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本来の目的は何なのか?

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★ 最近、私のパソコンには三木市のFMみっきぃ のラジオ放送がBGMのようにずっと流れている。

昨日は、たまたま三木市議会で議会の様子がラジオで流れていた。

 

聞くでもなく聞いていたが、

市議会と言うのは何のためにあるのだろう?

と言うのが聞いていての感想である。

ただ、淡々と議長の司会?で一つ一つこなされている。

まだ、国会の予算委員会の質疑の方がましである。

規模も人の質も小粒だがやることだけは、国会より仰々しいのである。

 

市議会に傍聴に行ったことも何度かはあるのだが、

その時もこんな議会など、別にあってもなくても一緒だなと思ったが、ラジオで聞いていると余計にその感を深くするのである。

 

★たまたま、質問者は板東聖悟さんであった。

共産党だが、彼はバイクにも乗るし、粟生線の未来を考える市民の会でも一緒だし、よく知っている。

別に、私自身は共産党の支持者ではないのだが、板東さんについてはその人柄も解っているし、質問の意図もよく解るのである。

元来、めちゃ真面目な方である。

 

彼のブログに、今回の質問内容が記されていて、その質問項目を順次質問し、市当局がそれに答えていたのである。

順次質問して、1時間も掛ったのだろうか、

終わってみて、これで一体何があったのか? 行政の進め方などに何か役にやったことが一つでもあったのだろうか?

 

質問する方も答える方も、『これで無事終わった』と言うことだけではないだろうか。

板東さんの考え方は解ったが、三木市当局は何を考えているのかサッパリわからぬ答弁だった。

この議会があってもなかっても、行政が進める仕事など何一つ変わらないのではなかろうか。

と言うことは、やっても、やらなくても全く同じなのである。

 

板東さんの方は、まだ三木市の住民たちへの協働の姿勢などを追求はしていたが、答える方には全くその意思はなくて、単にその場を繕って時間が過ぎればいいという感じがありありなのである。

なぜ、こんなことになってしまうのだろうか?

質問の個数も多すぎるような気もする。こんなことなら一つのテーマに絞って徹底的にやるとかしたらどうなんだろう。

いずれにしても、何のために議会があり、何のためにこんな時間を掛けてやっているのか、それこそ『前例を踏襲』しているだけのようなものである。

 

★大阪など、都と市を一つにしようなどと乱暴なことをやっているのだから、

議会のやり方なども少しは変えていけばいいのである。

もっと原点に戻って、市の行政は一体何をやるのか、市会議員は何のために要るのか?

今のような、議会や議員ならなくても、市民の生活など変わったりはしないような気がする。

 

毎年、繰り返して行われる、イベントや行事ごとなども3年ぐらい経ったら一度1年休むぐらいでちょうどいい。

そんなもの、大概がなくても大丈夫なのである。

 

三木鉄道のように年間6000万円の出費が惜しいと止めてしまったら、

ハコものなどに10億円も使って、さらに毎年8800万円の費用が要るようになったとか。

これは大西ひでき さんのブログにそんなこと書いていた

なぜこんなことが許されるのだろうか?

 

ブログで書かれるのもいいけれど、なぜ議会でそれが徹底的に追及できないのか。

こんなのは、間違いなく薮本さん一人の判断でこうなってしまったのだから、市長辞職ものなのだろうが、

その形としては、多分、当時の議会でもそれはなあなあにして、廃線を認めてしまったに違いないのである。

 

市長も市会議員も、市議会も、  本来の目的はこんなことではなかったはずである。

三木市だけではないのかも知れぬが。

 

chiki2913‏

三木市議会もアホな連中がのさばっている。教育長もアホ。市長がアホやからどないもなりまへん。三木市歴史・美術の杜構想で三木市が活性化するなんてどんな妄想やねん。そんなことに10億も使って、おまけに図書館もみみっちい新築移転でごまかして。今日の市議会中継聞いてまた腹が立ってきたよ。

 

こんなツイッターも見つけた。

 

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日常生活の中のネットのニュース

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★毎日の生活の中でパソコンの前に坐っている時間が一番長くなっている。

10時間ぐらいはパソコンに向かっているのではなかろうか。

一体何をしているのか。

ちゃんと分析したことはないが、大体以下のようなことではなかろうか。

 

◎ ブログをアップするなど情報発信           3時間

● 定期的な情報収集                    2時間

● Facebook 関連                     2時間

●  囲碁を打ってるか、検索などで遊んでいる     2時間

● その他、パソコンの前に坐っている          1時間

ブログは毎日欠かさず2つをアップしているが、このgooは必ず、前の日に完成させておいて、朝起きたら発信するだけである。exciteは、朝起きていろんな情報などチェックして、思いついたことを書いている。

それらを中心にツイッターとfacebook で情報発信すると3時間以上は掛っているのだと思う。これは最低やっているゴルフに行ったり、遊びに行ったりするときはカメラ持参で半ば情報発信のネタ探しみたいなものである。

帰って出かけている時の方が、情報発信はやり易いような気もする。

 

★昨日のように、終日家にいて予定がないと逆に情報発信のネタを探さねばならない。

ネタに困ったときによくお世話になるのがGIGAZINEである。 先日は『飛田新地』をアップしたら1000近いアクセスがあって、その後もコンスタントにアクセスに繋がっている。

今回は『若い人の方が恐ろしく簡単なパスワードを使う傾向がある』 である。

 

 

簡単なベスト500が表示されていた。

確かに、これは簡単である。

私のパスワードは確かに、そんなに簡単ではナイ。自分で作ったわけではなくて、パソコンを買ったときにセッテングに来てくれた人が作ってくれたものをそのまま使っている。

8桁でなかなかややこしいのだが、今でもそのまま使っている。

 

いろいろ調べていると Password Generator などと言うのもあってオモシロイ。

ここに出てくるパスワードは結構難しいのだが、

8桁までは『弱』と表示される

難しいパスワードとは、最低9桁なければダメなのである。

こんなことをして遊んでいるのでどんどん時間は経ってしまうのである。

 

 ★今、ツイッターのフォロワーの数は、23万人になっている

これを維持するのも結構時間は掛る。放っておくと毎日200人近くかってに減ってしまう。維持するためには少なくとも200人ほどを増やさねばならない。

そのためには毎日結構な数のフォローを続けなければならないのである。

今でも惰性になっていて、毎日500人以上はフォローするので、傾向としては増え続けているのである。

20万人になったら維持するだけにしようと思っていたが、23万人まで来た。多分25万人までは行くだろう。そうなればまた上を目指すのである。

こんなのは、別にMUSTでも、WANTでもないのだが、性分なのだろう。

これも1時間ぐらいは掛っている。

 

★昨日のニュースの中で、野田政権の原発情報『隠蔽』で遠のく東京五輪 と言うのがあった。

どうせダメだろうと思っていた『五輪招聘』だが、一次審査が通ったとなると、

もう一度日本で五輪があってもいいような気がする。

かっての東京5輪がどうだったのかは、よく覚えてはいないが、あの頃の日本は一途に発展でよかったと思う。

 

石原慎太郎の『太陽の季節』からは少しあとだが、裕次郎全盛期だったと思う。

最近の石原慎太郎は至って元気だが、私の一つ上、裕次郎は一つ下である。

どうなるかは解らぬが、ここまできたら、みんな応援すべきかなと思っている。

 

 

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鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第1回)

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★鈴鹿サーキット50周年という。

カワサキZ1発売40周年である。

そして今月、NPO The Good Times のプロジェクトとして『二輪文化を伝える会』がスタートした。

で出しから、非常に好評である。既に100近い『いいね』を頂いている。

 

   

これは東京の村島邦彦さんや、松島裕さんが、レースを中心に『二輪文化』を語り継いでいこうというプロジェクトである。

たまたま、カワサキの創成期のレース環境についてもよく解っている。

 

資料を纏めておられる松島裕さんのために創成期のカワサキの特にレース関連を記述してみたい。

1966年までレースを担当したが1965年までは時系列にあったことを中心に、最後の1年はこの時期の纏めも兼ねて、2回に分けて記述してみます。

今年の10月、『二輪文化を伝える会』の第1回講師は山本隆君に決めているようなので、足らぬところは彼が補ってくれるでしょう。

日記から辿っているので日時などは間違いありません。

 

ご関心のある方はお付き合いください。

 

 

1961(昭和36年)

 この年から、明石でのカワサキの二輪車の一貫生産が始まった。車種はB-7。

私はこの年の12月に新設された発動機事業部営業部の単車係に異動、出来たばかりの新職制であった。

この時期の営業はカワサキ自販という別会社で担当されていて、レースなどやったとしても販社ベースのレースであったはずである。

フィリッピンの小野田中尉の弟さん、小野田滋郎さんなどが、三橋実などに接近していたはずである。厚木のカワサキコンバットはこのあたりから生まれたもので、川崎航空機にその後引き継がれた。

 

1962(昭和37年)

この年までは、単車事業は非常に不安定であった。B-7はクレーム発生でこの年1月度の出荷台数を上回る返品があって、生産台数がマイナスになったりした。

3月に発動機と分離され単車部業務課となったと思ったら4月15日には発動機事業部第2営業部単車営業課になったりした。

この年の8月に125ccB-8の発売準備に入っている。まだレースなどの雰囲気はそのカケラもなかったのである。

 

●この年の9月20日に鈴鹿サーキットがオープンしているのである。

●10月4日、スタートしたばかりの鈴鹿サーキットに私は行っている。

これは協同広告がサーキットに広告を出さないかという話があり、そのための現地調査だったのである。

阪東調帯の方と一緒に、大阪駅10時半に車でスタート、勿論地道、栗東経由で鈴鹿着13時。

まだメインスタンドも土だったと思う。建設途中だという認識であった。コースは勿論出来ていて、レーサーが130キロで走っていて、そのノイズに驚いたのをよく覚えている。

●  この年の11月に第1回全日本ロードレース大会が 鈴鹿サーキットで行われている。

●これは、推測だが、

この11月のレースをカワサキの単車工場の人たちがバスを仕立てて観戦した。多分仕掛け人は兵庫メグロの西海社長だと思う。単車工場の中村治道さんや高橋鉄郎さんなどが行かれたのだろう。このレースを見て、カワサキのレース熱は一気に工場を中心に燃え上がった。高橋鉄郎さんはこの話をしょっちゅうされるのである。

昨年の『カワサキの想い出そして未来』の時のご挨拶もこの話から始まった。

 

 

1963(昭和38年)

この年の1月に、発動機事業部営業部管理課が出来て発動機と単車の全体の管理担当になった。

●そして5月19日に

兵庫県青野ケ原でのモトクロスのレースが行われその結果は1位から6位まで独占 という考えられない結果となったのである。

このレースが川崎航空機が行った初めてのレース活動であった。

 

このレースに使われた車はB-8、会社が予算をとって承認したレースではなかったので、多分マシンも工場が何とか捻出したのだろう。

兵庫メグロから川崎航空機の工場に入られた松尾勇さん独りで造り上げたはずである。その松尾さんは西海社長がカワサキでレースをやるために送り込んだのだと思う。

それを受けてマシンを造りチーム編成をしたのは、中村、高橋さんらを中心とする工場の熱心なメンバー達だったのである。

マシン制作も時間外にボランテイァでやられていた。こんな動きがあることは、社内でも当然噂になって、当時の勤労部長や企画部長はどちらかと言うと『苦々しく』思っていたことは間違いない。ただ技術部の山田さんや営業の小野さんのように陰で支援された方が居たのも事実である

全然予算もなくて、私の上司の故小野助治さんが営業の予算を管理していた私に『ちょっとパン代でも出してやれ』と言われて、幾らかのお金を調達したのである。そしてチームの面倒を私と一緒の職場にいた故川合寿一さんが野球部のマネージャーの経験を生かしてみることになったのである。

当日はレース場にも行っていないし、みんな聞いた話である。

マシンはB-8に市販車改造、ライダ―は全て社内のテストライダーや、バイク好きな社員。この大会には鈴木、ヤマハの契約ライダーも、のちカワサキの契約ライダーになる山本隆君たちも、みんな出場していたのだが、結果はカワサキが1位から6位まで独占の完全優勝を飾ったのである。

 

この完全優勝は、当日雨が降って水たまりがいっぱい、他メーカーの早いマシンやライダーたちはみんな水を被って止まってしまったようである。防水対策を万全にしたカワサキだけが走りきった結果のようである。これら防災対策などは工場関係の技術者が多く参加していた賜物かも知れない。

このあたりのことは山本隆君が非常に詳しく彼一流の話術で話しますので、松島さん60おじさんにお聞きください。

 

 

 当時の懐かしいメンバー達である。

 

 

 

●この青野ケ原を機会に、単車事業の様相が一転したのは事実である。

●この年の後半から、ライダー契約も始まって、関東には厚木に三橋実がカワサキコンバットと言うクラブを立ち上げ、梅津次郎、岡部能夫などのライダーを集めたし、関西では神戸木の実クラブの歳森康師、山本隆などと契約することになるのである。

それらは川合寿一さんがそのまま引き続いてマネージャー役を果たしていた。カワサキコンバットの契約はカワサキ自販の方で担当していたはずである。川崎航空機には予算など殆どなかったのである。そしてチームは営業の要請を受けて地方回りばかりやっていて、連戦連勝だったのである。何も分からぬ私などはホントに強いのだと思っていた。

 

1964(昭和39年)

前年度、カワサキの単車事業をどうすべきか、日本能率協会の調査チームが入っていて、その調査結果に青野ケ原のレースは大きく影響しているのである。

調査レポートは、『現場は意気まだ盛んである。事業として継続すべし。その条件の一つとして広告宣伝課を創ること』が上げられたのである。

そして昭和39年1月より新たに発動機から分離し、単車事業部が発足して、新しく出来た広告宣伝課を担当することになったのである。

その予算は年間1億2000万円、当時の私の年俸が40万円ほどだったからべらぼうな金額で、これは川崎航空機の開発費として本社予算で計上されたのである。

この開発費が本社が計上してくれた3年間、私は広告宣伝課を担当し、使いきれないほど裕福な予算を持って、その管轄の中にレースも入れて統括することなったのである。当時明石工場の誰よりも大きな予算を持っているのは、まだ係長にもなっていない私だったのである。

 

●この年の春、MFJの第1回日本グランプリが相馬が原で開催されている。地方回りでアレだけ連戦連勝であったカワサキも他メーカーのファクトリー相手では全然歯が立たず6位にも入れぬ惨敗に終わった。

●それでも、以降マシン開発も、ライダー契約もカワサキコンバットへの支援も、膨大な予算の中から充てて、カワサキコンバットには月20万円のライダー養成費を渡たし、全国の有望ライダを集めて強化していったのである。その中にいたのが星野一義であり今星野インパルを経営担当している金子豊もその中の一人なのである。

安良岡健がカワサキコンバットに参加したのもこの年からである。資金は豊富だったから日本のトップラ―ダ―を全部契約したら勝てるなどと思ったりした。

●春のMCFAJの朝霧では、山本隆がオープンクラスで初めて優勝を飾った。カワサキの全日本クラスでの初優勝である。

●この年、90ccJ1が世に出て、そのレースマシンが9月13日の山梨モトクロスにデビューした。この時初めて私はレースチームのマネージメントを現地で担当した。当時のレーシングチームは技術部ではなくて松尾勇さんがリーダーの製造部のモトクロス」職場がマシンを担当、レースの指揮は三橋実。技術部はエンジン供給だけ、運営費は全て広告宣伝費で私が担当していたのである。

初めての現場は技術オンチの古谷では頼りないと、高橋鉄郎さんが当時工場にいた田崎雅元さんをつけてくれて、一緒に甲府へ行ったのである。今でも田崎さんと仲がいいのはそんな時代のレース仲間だからである。

このころには結構カワサキのレーシングチームも力をつけていて、優勝するのもおかしくないまでにはなっていた。

●そして10月10日、東京オリンピックの開会式の当日、

伊豆丸の山高原で行われたMCFAJのモトクロスには4種目中3種目を制して、日本選手権は山本隆が久保、荒井を抑えて獲得したのである。これがカワサキのレースを確固たるものにしたと言えるであろう。

●モトクロスをより一般的なスポーツにすべく、毎日広告を通じてスポニチ主催のモトクロス開催を仕掛けていたのである。

当時地方の草レースでの連戦連勝の結果を各新聞に送っていたので各紙にその結果は小さくではあったが、報道され続けていた。そなことをしていたのはカワサキだけだが、広告宣伝課自体がレース担当していたのと、各紙は膨大な予算を持っているカワサキを無視出来なかったのである。電通、博報堂、大広などの広告代理店もみんな出先ではなくて本社企画の担当だったのである。

この第1回大会が和歌山紀の川で、11月8日に行われた。この日の朝の練習で岡部能夫が荒井市次と接触して指を怪我してしまったのである。MFJもMCFAJも関係ない、スポニチ主催のモトクロスだったので、

岡部の代わりに、岡部の名前で出場したのが、カワサキコンバットの運転手で来ていた星野一義なのである。そんなことで出場した星野だが、何周もしないうちに転倒、脳しんとうで救急車で病院行きになってしまったのである。

当時は名もない新人だから誰も気に懸けていなかったのだが、昼から戻ってきて、オープンに走らせてくれと言うのである。そのオープンで6位ぐらいに入ったのが、星野一義のデビュー戦なのである。それがきっかけで星野はその後のレースも走るようになったのである。

星野が初めてレース場を走った日  雑感日記参照

 

1965年(昭和40年)

●この年の2月13日、突如山本隆、歳森康師の二人から辞表が出て、BSに移籍するというのである。これまではライダー契約は川合寿一さんが担当していて、私はヨコから見ていたのだが、この事件のために神戸木の実の御大片山義美さんと話をすることになったのである。いろんな話が出たのだが、カワサキのライダー管理がもう一つだというのである。片山義美の言うことも一理あって、結局『じゃ私がやりましょう』とレースライダーの契約など直接担当することになるのである。

この話は、西海さんと片山から、山本、歳森にカワサキに留まるよう言い渡されて無事解決したのである。

●そして3月にあった名古屋東山の第2回MFJ 全日本では星野、歳森がもう一歩のところで優勝を逸したがまずまずの成績、4月朝霧のMCFAJの全日本はアマチュアクラスで星野が優勝を飾っている。前年度11月のレースデビューなのだがそれなりの素質があったのだと思う。MFJのレースもぶっちぎりだったのだが最後の1周でパンクでリタイアだったのである。

●5月の鈴鹿で行われたジュニアロードレース、このレースに山本隆がどうしても出たいという。

会社ではロードレースへの出場はまだ認められてはいなかったのだが、松尾勇さんにマシンは造れるかと聞いたらYesと言う返事なので、鈴鹿モトクロスに行くということで出場を決めたのである。山本独りでは心もとないので、北陸の塩本と言うロードをやっているライダーと2台のマシンを都合してくれたのは工場にいた田崎雅元さんなのである。

5月3日、当時の鈴鹿は雨になった。全体のタイムが落ちて滑り易くなって、モトクロスライダーの山本隆には有利に働いた。

ホンダの神谷忠さん、もう一人のホンダに続いて、カワサキの山本隆が3位で表彰台に上ったのである。

会社への報告はホンダに続いてカワサキだったということで一気にロ−ドレース熱も燃え上がり、翌月6月のアマチュア6H耐久には3台のマシンを用意することになったのである。

カワサキが初めて鈴鹿を走ったライダーは、モトクロスライダーの山本隆だったのである。

カワサキが初めて鈴鹿を走った日  雑感日記  参照

 

●この6月13日の鈴鹿6H耐久がカワサキの正規のロードレース参戦で、この時初めてレースチームに監督が誕生したのである。

それまではカワサキコンバットの三橋実と松尾勇さんで現場は仕切っていたのだが、このレース監督が大槻幸雄さん、のちZ1開発を担当された大槻さんである。そして助監督が田崎雅元さん。豪華メンバーだが当時は単なる元気のいい若手であった。私はレース運営のお金とライダー関係を担当していた。

車は3台、1台はテストライダーチームもう1台はカワサキコンバット、そしてもう1台は神戸木の実の歳森康師なのだが、山本がジュニアの資格になっていて、『早いのが居るから連れてきてもいいか』と歳森が言うのである。

そして連れてきたのが金谷秀夫であった。契約など一切なしで乗った金谷だが、タイムは金谷が一番早かった。

星野も金谷もカワサキのデビュー戦は、誠に『いい加減な』スタートなのである。『いい加減』なのは私の特技みたいなものだから、これでいけたのである。

 

●7月にはBSが日本GPに出場するとか言う話もあって、カワサキのロードレース熱も一挙にヒートアップしていくのである。

ところが7月にはレースチームの大槻さんはドイツへ留学、田崎さんはアメリカへの異動が決まって、8月にはお二人の送別会をやっている。

そして私は、MFJの運営委員会の委員に出席することにもなったのである。ホンダ、ヤマハ、スズキはみんなパリパリのエライさんなのにカワサキはまだ係長にもなっていない私が委員なのだが、残念ながらカワサキにはまだレースなど分かる人はほかにいなかったのである。

●7月31日には鈴鹿24H耐久レースが開催された。

MFJの運営委員もしていた関係で現場にいた。夕方の5時スタートだった。初めての本格的な耐久レースでもあり、出場車両は数台のヤマハ以外は全てホンダであった。確か24時間で走る距離は香港ぐらいまで行けるとか言ってたと思う。いろんなことがあって24H耐久レースはこの1回だけで終わってしまったはずである。

●9月には日本GPの出場も決り10月のGPには安良岡健がエントリーはしたのだが、結局予選2周でリタイヤしてしまったのである。

 

★鈴鹿サーキット関係の二輪レースはこの年で一段落して、翌年はFISCOでの開催が計画されるのである。

この年までの3年間が、鈴鹿サーキットについても、カワサキのレース展開も全くの黎明期と言えるのだろう。

モトクロスなどではまだまだMCFAJが主力で、クラブチームがメインの展開であった。

むしろメーカーが直接力を入れて主導権を持った運営をしていたのはカワサキだったのかも知れない。

鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第2回)

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★1966年(昭和41年)は、広告宣伝課最後の年、3年間ものレースの直接担当の最後の年だったのである。

広告宣伝課と言うよりもレースに明け暮れた1年であったし忘れられない出来事も多かった。

FISCOでの日本グランプリが終わり、続いてあった東京モーターショーが終わってホッとする間もなく、東北6県の仙台事務所を設立するために、仙台への異動を言われたのである。

広告宣伝の時もそうだったが、前任者は誰も居なくて、白紙に勝手に絵が描けたのである。

 

この年のレースの出来ごとまず列記してみる。

如何にいろいろあったかお解り頂けると思う。

 

★1966年のカワサキのレースの出来事(まず項目だけ並べてみる)

1月5日   藤井敏雄君明石に現れる。 カワサキと契約、これはGP関連だったので技術部が決めたようである。

1月10日  この年からカワサキコンバットの梅津、岡部、星野 明石在住とする。  この時期ファクトリーライダー全員広告宣伝課の嘱託扱い

1月17日  FISCOの第1コーナーが危険という指摘があり、四輪で現地走行、須走り落としにビックリした。

1月19日  藤井敏雄とGPマシンの貸与契約を結ぶ。

2月12日  鈴鹿でGPマシンテスト  ライダー藤井、三橋、金谷  タイム2分48秒〜2分52秒

2月27日  山本隆結婚  その仲人をする(初仲人34才) 大変だった。

3月     鈴鹿で練習中に三橋実転倒、腰骨骨折入院

4月3日   MFJ第3回全日本モトクロス 高松   セニァ、ジュニア優勝なし、アマで木村夏也(大阪赤タンク会)が優勝

4月    ライダー関係、いろいろ大変だった。 三橋、清原、星野、金谷 みんな元気過ぎた?

5月     藤井敏雄  西ドイツGP 出場

6月23日  MFJ 運営委員会 ホンダFISCOでの日本GP 不参加を表明

7月11日  250ccモトクロスマシンF21M製作、その第1号機完成、エンジンは技術部車体他モトクロス職場で松尾勇さん手作り

7月20日  MCFAJ 全日本青森岩木山にF21M7台デビュー(三橋、安良岡、山本、歳森、梅津、岡部、星野)F21M時代の始まり

8月15日  A1R の製作決定

8月27日   藤井敏雄 マン島プラクティスで転倒、死亡の連絡(FISCOでマシンテスト中、そのまま東京赤羽の藤井宅訪問)

9月1日     遺体羽田着(マン島では大槻さんが、羽田は私が)  9月3日 告別式

9月5日   日本GP体制決定   ライダーはデグナ―との契約を軸に  総監督 中村 GP 大槻  JR 安藤  マネージャー 古谷  総責任者は技術部山田部長

9月18日  FISCO JR ロードレースで初めてカワサキ優勝、  90cc 村上、歳森、金谷   250cc  金谷、三橋

9月19日  谷口尚巳 と契約

9月23日  デグナ―との契約についてホンダ前川さん(MFJ 運営委員)に教えてもらいに鈴鹿に

9月26日  デグナ―来社、契約

9月28日  デグナ―、FISCOで練習中チェン切れで転倒、入院

10月16日  日本GP FISCO      GPは7位  JR 250は ガリーニクソン、金谷が2位

10月21日  仙台異動の内示

10月23日  MCFAJ 全日本モトクロス  250ノ―ビス  星野  セニァ 山本   オープン  山本  これが最後のレースだったが完勝

11月        翌年度ライダー契約   山本、歳森、岡部、星野、金谷

12月      東北、仙台新事務所関連の検討

 

 

★以上の通りで、広告宣伝課の仕事をしなかったわけではないが、1年中レース関係のことで多忙を極めたのである。

 

この年はカワサキがレースに本格的に進出して3年目で、

モトクロスについては、F21Mのデビューもあったし、ライダーも育ってカワサキは確固たる地位を築いたと言えよう。

ライダーも山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫と揃って万全であったし、ノ―ビスクラスも星野一義が飛び抜けたはいたがそのほかにも木村、西など多士済々であった。

当時はまだ、アメリカ市場もスタートしたばかりで、ホンダ、ヤマハ、スズキに勝てるものは、何一つなかったのである。

『レースでは一番』になるという目標は、完全に達成できたと言ってもいい。

 

ロードレースについても、GPはまだまだ実力差はあったが、

JRのレベルでは90ccも互角に戦ったし、250ccではA1Rを開発して、日本国内では圧倒的な優位を誇ったのである。日本GPの時にはヤマハがアメリカのプロ、ガリーニクソンを連れてきて、金谷と壮絶なバトルを演じ両者が最高ラップを記録するなど、当時はまだ新人であった金谷秀夫が頭角を現していたのである。

当時の技術部のレース担当が、大槻、安藤さんと言う、誠に個性豊かな、殆どの人たちが怖がる方だったのがよかったのだと思う。

マシン開発についても、レース運営についても常に前向きのエンジニアであった。

カワサキが後世に誇れるマシン、F21Mのエンジンの開発者は安藤さんである。

そしてカワサキZ1の開発が大槻さんなのである。

お二人とは私は非常にウマが合ってレースを離れてからもずっといろいろお世話になった。レース仲間であったこともあって、何でも本音でモノが言えたのである。

F21Mが連戦連勝で、この年のモーターショーも私の担当だったので、F21Mを出展すると言ったときに、安藤さんが言った言葉が忘れられないのである。

『それは止めてくれるか。 125ccのエンジンを150ccにボアアップしてそれをべ―スにさらに238ccにして、レースエンジンで持っているということは、如何に市販車のエンジンが過剰品質かということになるので、技術者としてはカッコ悪い』と仰るのである。なるほどとも思ったが『そんなの大丈夫ですよ』と押しきってしまったのである。

安藤さんらしいなと思ったが、そんな安藤さんも今は故人となられた。

もう一人の大槻さんとは今も、Z1会などでご一緒している。先日Facebookにお誘いしたら、稲村さんと一緒に参加していただいた。

   

 

★この年がカワサキのGPの実質的な初年度になるのだが、

あまり語られてはいないが、カワサキのレースのホントの推進者は 兵庫メグロの故西海義治社長ではなかろうか、と私は思っている。

 

 

 

 青野ケ原のレースも西海さんが居なかったら多分開催などされなかったと思うし、

兵庫メグロにいた松尾勇さんが、川崎航空機に入らなかったら、カワサキにレースの分かる人など皆無だったのである。

GPレースもそのマシン開発についても、当時の山田技術部長(後川重副社長)が熱心で藤井敏雄やデグナ―などの交渉も、山田さんが動かれたのだと思うが、それを動かしていたのは西海さんだと思う。ご自身が元オートレースのライダーであったこともあって当時の片山義美さんなども西海さんには、一目も二目も置いていた。カワサキのGPマシン開発の段階でも、西海さんや、片山義美の意見などが大いに生かされたのである。

私はヨコで聞いていただけだが、神戸一中、一高、東大航空機の秀才の山田さんでも、GPレーサーのことについては、小学生の知識のような感じであった。そんなやりとりの中でカワサキのGPは、開発されていったのである。

たまたま中学の後輩だということで、山田さんには特に可愛がっていただいた。デグナ―が生死の境をさまよった時も、いろいろと担当の大学の先生のところなど走りまわったのも山田さんで、私はその運転手をしていた。そして山田さんが必ず相談されたのが、西海義治さんだったのである。

西海さんが亡くなって、その兵庫メグロを引き継いで頑張っているのは、カワサキの真打ちを自称する平井稔男さんであることも何かのご縁である。

 

★この年、ライダーの事故や怪我などが続いた。

なかでも藤井敏雄のマン島の事故死は私のレース3年間で最も悲しい出来事であった。

スズキの中野さんが編集されている『日本モーターサイクルの夜明け』の中に『藤井敏雄君の想い出』として記述させて頂いている。

 

デグナ―がカワサキと契約があったことはご存じない方も多い。

その契約の時点から分からぬことばかりでたいへんだったが、転倒事故で生死の境をさまよった時は本当に大変だったのである。

デグナ―のことについても『カワサキのデグナ―』と言うブログが紹介されている。

 

こんな事故が二つ続いた直ぐ後の日本GPで、歳森康師が転倒し鎖骨骨折した。

思わず『よかったな』と言ったその時は、ホントに本音だったのである。

三橋実の入院に始まって1年間ライダの事故が続いた年であった。

 

 

★当時のレースチーム体制は、そのノウハウが社内に蓄積されていないこともあって、営業、技術、生産の3部門の2人3脚の協働体制で、ライダー契約並びにレース運営費は、本社開発費の広告宣伝費で賄われていたたのである。

●山田部長統括の技術部門は、エンジン開発を主に担当であった。

堀江、渡辺、大槻、安藤、水町さんなど、GPをやりだしてからは多くの陣容に広がっていった。

● レース職場を持っていて、マシンの完成は松尾、福田、藤原というメカニックトリオでスタートし、その後吉田、吉田などの若手が参加した。

このレース職場の統括は高橋鉄郎、田崎雅元さんの後川重の社長、副社長コンビなのである。それに生産技術の中村治道さんが川崎さんなどを従えて初期のカワサキレースグループを統括していたように思う。

●営業部門は、山田さんと同格の部長であった苧野豊明さんが直接の私の上司で私のほかに川合寿一、大西健治のお二人がレース現場を支えてくれたのである

●そしてライダーは、GPライダーを除いては全て広告宣伝課所属の嘱託課員という待遇で

関西は神戸木の実の歳森康師、山本隆、金谷秀夫のほか村上、従野など、  関東はカワサキコンバットの三橋実、安良岡健、梅津次郎、岡部能夫、星野一義など

社内のテストライダーとしてモトクロスもロードもその緒戦を走った加藤、飯原君、その下に清原明彦君が居てモトクロスなどには出場したりしていたのある。

 

ライダーたちは広告宣伝課所属だったので、カレンダー撮影などにも協力してくれたし、A1の開発などには名神のテストなどにも参加したリしている。金谷の乗ったマシンが名神でミッションが焼き付いたが、何とかマシンを制御して大事に至らなかったというのは、金谷の自慢話の一つなのである。

当時のこんな仲間たちは、50年経った今も尚、Z1会やFacebookやネットの世界でも、昔と同じようにお付き合い頂いて入りのである。

 

 

これは、いま現在。  先週の日曜日淡路で行われたトライアルでの60おじさん山本隆君である。

バイクに乗せたら、ちゃんとするのは不思議である。   山本隆君のブログから

 

 

 

★このファクトリーチーム3年間の経験を経て、新しい任地東北6県を担当するのだが、当時モトクロスが最も盛んであったのが、東北6県であった。

営業の素人も、レース参加を要請される各地代理店の社長さんには、大いにいい顔が出来た数年間であった。

仙台の4年間の間に、歳森、星野は日産に、金谷はヤマハに、岡部、梅津もカワサキを離れて、ただ一人山本隆だけが残っていた。

レースも本来の技術部の管轄に移っていくのである。

営業でレースの面倒を見ていたのは、私の後任の岩崎茂樹君の時代までだったと思う。

 

    

 

三木と 馬と障害者と 新しい仕組みと

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★『三木と 馬と障害者と 新しい仕組みと』 と題したが、そんなことをずっと考えていた1日だった。

ブログにちゃんと纏められるほど纏っているわけだはないのだが・・・・

 

昨日は11時に、三木ホースランドパークで、深津裕子さんにお会いした。

そのお名前を聞いたのは今月の7日、 翌日直接電話をかけて、『これはイケル』との感触を得て、Facebook にお誘いしたら、ホントに入って来られたのである。

そして、『一度お会いしたい』と言ったら、今日ということになったのである。

深津さんのことを紹介頂いた、陸井薫さんにも声をかけたらちょっと遅れて合流頂いたのである。

 

兎に角、11時から5時まで、いろんな話をしたのである。

このお二人、めちゃめちゃ積極的で前向きである。 そして動きが速い

深津さんの『想い』の中心である『馬』を中心に6時間も話し込んだので、間違いなく上手く行くと信じて疑わないのだが、

どんなことだったのか、纏めて書くにはなかなか難しいのである。

 

NPO The Good Times の仕組みの上に、

『三木』と 『馬と障害者』とを中心にした 『新しい仕組みの創造』が始まるだろうと思っているので、ここに書き留めておきたいのである。

 

 

 ★ここは、三木ホースランドパークである。

この三木ホースランドパークを舞台に、来る11月3、4日に第20回全国障害者馬術大会が開催されるのである。

この日に、三木の人たちに店を出すなど『手伝って頂けないだろうか?』と言うことから、この話はスタートしているのである。

実は、当日は『三木金物まつり』とぶつかっているので、『なかなか難しいね』という常識的な返事で、陸井さんもちょっと諦めかけていたのである。

その話を聞いて、そんなに簡単に諦めなくても、時間もあるし、『障害者馬術大会』だし、いろいろ仕掛けたら何とかなると私は思って、行動開始したのである。

 

もっと極端に言えば、

毎年同じようなことが繰り返されている『三木金物まつり』よりも、むしろこちらのイベントの方が、応援のし甲斐があるのではとも思ったのである。

三木市にしても、非常に関係深い三木ホースランドパークでの開催だから、そんなのを放っておくはずもないのである。

兎に角、Facebookなどに参加して、ネットの中で盛り上げたら大丈夫と思ったのである。

 

 

 

★この写真の青年は、深津類君、22才。

全国障害者馬術大会、2連覇中で、今回3連覇がかかっている。

深津裕子さんの息子さんなのである。

 

『知的自閉症』との戦いが3才の時から始まり、ふとした事から類君が馬と合うことを16歳のときに発見して、馬との鍛錬が始まっている。

お話を伺っていると、類君に懸ける深津さんの愛情は人並み外れて一途である。

ご自身はガンに侵されて2度の入院で、いま元気になられた。

深津さんの話す言葉からは、どこにもそんな暗さなど微塵も感じられないのである。

 

 

★陸井さんも、深井さんも、めちゃめちゃ明るくて元気である。

深津さんがガンであること、昨日はご自身の口からは一言も聞かれなかった。

 

 

こんな本の中に登場する深津裕子さんの項に、そんな記述があって初めて分かったのである。

私は、応援することを、今日お会いする前から決めていたのだが、

今は『応援する』と言う決意のようなものに変わっている。

 

NPO The Good Times の仕組みを使って、

三木の人たちも誘って、

未来にはばたくみっきぃタウン』をベースにした『みっきぃず』と組み合わせて、

陸井さんなど、支援するメンバーたちも加えて、

『馬』を一つのキーワードとして、

『新しい支援の仕組みの創造』をやろうと、私は今思っている。

 

類君に対するこぼれんばかりの母の愛情が『馬』と繫がっているのである。

甲南大学の馬術部が廣野ゴルフ倶楽部のすぐ裏手の方にある。

ぜひそこに行きたいと仰るので、非常に解り難い場所だがご案内をした。

11月のイベントも手伝って欲しいし、類君と同じ年代の子たちだから、馬を愛する者同士トモダチになって欲しいと言われるのである。

 

 

最初は、変なおじんと二人のおばさん、『一体 何者?』という感じであった、甲南大学の馬術部の学生さんたち、

 

 

真ん中が、キャプテンである。

帰るころには、こんな打ちとけた感じにまでなったのである。

左側の吉井君、Facebook もやっているとか。 

NPO The Good Times のホームページ見て 『スゴイ]と言ってくれたので、このブログに写真も貼付したし、

昨日は帰って直ぐFBのアルバムもアップした。  果たして見てるだろうか?

 

出来たら、甲南大学の馬術部も巻き込んだ『新しい仕組み』が出来たらと思っている。

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』

 

NPO The Good Times のシステム、深津さん熱心に聞いて頂いたが、どこまでお解り頂いたか?

陸井さんは二度目だから、幾らかは分かったと言って下さった。

『信じる者』と並べると『儲かる』と読む。騙されたと思って『信じること』と煙に巻いてきたが、この6時間で私を信じて頂いたかどうか、なのである。

79年間生きてきたが、『人を騙したり』は決してしていないと、自分では思っているのである。

 

 

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パウダーパフレーシング壮行会

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★パウダーパフレーシングの壮行会にお招きを頂いた。

 

★腰山峰子さんが監督を務める女性ライダーチーム、鈴鹿4耐にチャレンジする。

腰山峰子さん昨年の『カワサキの想い出そして未来』からのお付き合いである。

今年になってからは、5月20日に三木総合防災公園で開催された『笑って遊ぼうミキランド』の企画委員長としてお世話になったばかりである。

 

 

 大阪十三のお店を借り切って

壇上にはこんなマシンと ツナギとへるめっとレースの雰囲気いっぱいである。

 

 

メインゲスト、和田将宏、平井稔男、塚本昭一

 

 

左から  中原優香、 川原みちよ  そして監督の腰山峰子

 

 

 

初めは神妙にこんな挨拶から始まった。

 

 

平井さんが居るので、じっとしてはいない。みんな壇上に引っ張り上げられた。

 

 

 

壇上から写すとこんな雰囲気である。

 

 

塚本昭一の話を聞く二人は流石に神妙である。

 

 

花束贈呈があって

 

 

最後は定番、平井さんの締め。

 

そしてお見送りを受けて、

楽しい3時間であった。

 

パウダーパフ レーシング  『記録に拘らず、記憶に残るレースを』 と腰山峰子監督の弁。

『パウダーパフ』 堀ひろ子の想いを込めて、 30年経ったいま、『パウダーパフ、再び』なのである。

『いい時が過ごせた』と思っている。

 

堀ひろ子との30年前の想い出から名づけられた『パウダーレーシング』

腰山峰子にとっても10才も年上のあこがれのライダーであったらしい。

 

会場には、伝説の堀ひろ子の本も並べられて、

幕明けの腰山峰子さんの挨拶では、言葉を詰まらせる場面もあった。

当初は『なでしこレーシング』と言うネーミングだったのだが、

堀ひろ子に

『パウダーパフ レーシング』というネーミングを貰ったような、そんな気持ちのようである。

『パウダーパフ レーシング』は1978年に生まれた。

奇しくも、中原優香、川原みちよのペア、二人とも1978年生まれなのである。

 

鈴鹿4耐  『記憶に残るいいレース』であって欲しい。

 

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『プロボノ』の世界

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★昨日見つけた、もて木みち子さんのブログ 『プロボノ  新しい社会貢献―新しい働き方 』

これ何のことかな?と思った。

『プロボノ』と検索するといっぱい現れた。

 

● 職能を生かす  〜新ボランテイァ

● シアワセ最大化〜新しい働き方「プロボノ」 とは  「社会貢献したい スキルアップもしたい」という人たちへ

● プロボノ 〜 広がる新たな社会 貢献のカタチ  NHK

● 「ふるさとプロボノ」 〜 地域交流型 プロボノプログラム  2011年4月 スタート

 

まだまだ、ほかにもいっぱいあるが、このリンクの標題を見てもざっとは解るし

リンクをお読みになれば、大体理解されるだろう。

『もて木みちこさん』もご存じなかったようだが、 まさにこのような活動をずっと続けておられる方である。

 

もて木みち子‏m_moteki

プロボノ ー 新しい社会貢献 新しい働き方ー

さんがリツイート  

 

こんなツイッターを発信されたので『リツイート』させていただいたのである。

 

★上にリンクした中の内容を抜粋してみる

 

プロボノ(pro bono)という新しいボランティア手法が注目されている。「知識労働者が自分の職能と時間を提供して社会貢献を行うこと」を意味する。・・・・

 プロボノは「pro bono publico」を略した英単語。直訳では「公益のために」(for the public good)程度の意味になる。一方、実際の意味は「公益のために無償で仕事を行う」ことを指す。

ボランティアとプロボノとの違いは、従事者の職能を生かすかどうかにある。まず狭義のボランティアは、従事者の能力を問わず「時間」(単純労力)のみを提供する。一方プロボノは、その人が自分の職業を通じて身につけた「職能」を提供する。

さて近年、プロボノ活動に従事する人の職業が、弁護士以外にも広がっている。具体的にはマーケティング、広報、人事、デザイン、システム開発、営業、プロジェクトマネジメントなどのあらゆる職種に広がっているのだ。 ・・・・・・・・・・・ 

 

などの多様な活動をスキルを持つ専門家たちと、NPOなどの組織を利用して多彩な活動が、アメリカなどでは展開されているのだが、

 

実は、日本では多くのNPO組織が零細であるため、そもそもマッチングシステムを受け入れるだけの素地がない(プロジェクトの窓口として時間が割けるスタッフが存在しない)という問題も抱えている。

とはいえ間口の広い社会貢献手法として、プロボノの可能性に期待する声が大きいのも事実だ。今後、日本型のプロボノがどのように育っていくのかが注目される。

 

などと記述されている。

 

★『プロボノ』について、率直な感想を言えば、日本ではなかなか難しいのかな? と思う

NPO が『零細であるから』その素地がないのではなくて、このような『仕組み』を生かした『ヨコ型の発想』そのものが苦手なのだと思う。

 

NPO The Good Times は、間違いなく『プロボノ』のようなシステムだなと思った。 自然にそんなコンセプトに出来あがっている。

『異種、異質』の高いノウハウを持った人たちを『みんな繋いで』グッドタイムになるような『公共性の高い活動』が既に出来てしまっている。

先日の『笑って遊ぼうミキランド』などは、専門的なレベルのいろんな人たちが集まって、極めて公共性の高い『防災意識の向上』を笑って遊びながら仕上げたのである。

その主催者はNPO法人BERTでは、あったが、中枢で動いた人たちは、NPO The Good Times のメンバーとその仕組みがベースになっている。

 

手法はどんな形でもいい、『新しい社会への貢献の仕方』が従来の単純な機能のNPOでは出来なかったことに、『新しい仕組み』で『新しい公共』を目指して、現実に既に動き出している。

『プロボノ』と言うアメリカでのシステムが入ってきたら、それをそっくり真似ようとするのが日本型である。

もて木さんのブログでは、その候補になるために今審査を受けておられるようである。これも如何にも日本流である。

その根本にあるコンセプトをちゃんと理解して、自分流にアレンジして実行出来ないようなことでは、幾ら資格認定を受けてみても、なかなかその実は上がらないような気もする。

 

★いま、NPO The Good Times では、かっての二輪のプロたちが、そのノウハウを生かして、

『孫文を語る会』とか、

『二輪文化を伝える会』  さらには『二輪文化を語る会』

などに向かって動きだしているのだが、

 

このほかに、『地域の活性化』や『子どもたちのスポーツ活動』や『障害者への支援活動』などという、

社会のニーズに向かって具体的な取り組みをしよううという『芽』みたいなものが芽生え掛けている。

このグループは、『専門家』や『その道のプロたち』の集まりなのである。

 

佐賀県武雄のFacebook ページ、そのバックを担当し、樋渡さんのイラストも創った『こゆりさん』など多士済々なのである。

イベントのプロもいれば、ネットに詳しい人たちもいる。

「世界の」とか、「日本の」と言う有名人もいっぱいなのである。

『笑って遊ぼうミキランド』はその一つの小さな実験だったのかも知れない。

見事従来の行政などではとても実現できないレベルでの大成功だったのである。

 

★ 『未来にはばたくみっきぃタウン

三木を中心にした地域活動を、末端の市民レベルの力を集めて、まさに『未来にはばたく地域の活性化』を目指そうとしている。

具体的には、そんな『みきに想いを持つ みっきぃず』3万人をまず集めようと、既に動き出している。

三木おもろいわ』にこんなブログをアップしたら、

Facebookには直ぐリンクを貼った反応が現れた。

 

● その中心になって活動するメンバーは、30代を中心にした若手メンバーたちなのである。

● それを支え協働しようとする組織は、ボランタリー活動プラザみきや、FMみっきぃ や 関西国際大学など、など

● べースになるシステムは、『みっきぃ情報ミュージアム』やFacebook やツイッターなどなど 

● それらを総合して支えるシステムは、NPO The Good Times の総合システムなのである。

 

別に資格など頂かなくても、既に十分に機能するレベルに出来あがっているし、益々その機能は強化されるだろう。

一行政や一企業では、なかなか難しい高度なレベルの具体的な展開が出来るのである。

それは『異種、異質、異地域の連携』なればこそ、可能なのである。

 

間違いなくこれは『プロボノの世界』である。

そんな世の中になりつつある、その先頭グループに位置していることは間違いない。

今後の展開が、楽しみである。

 

 

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台風

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★台風が久しぶりに近畿に上陸するようである。

いま6月19日の14時。

夕方ぐらいから風雨が強くなるとの警報が出ているが、いまのところ兵庫県三木市は非常に静かである。

三木市に移り住んで40年近くになるが、台風などきたという記憶があまりない。

大体、台風と言えば、夏が過ぎてからだとばかり思っていたので、6月に台風など来るわけがないというのが、私の常識である。

 

高校生のころから10年間ほど、明石に住んでいたが、毎年のように台風は関西にやってきた。

そのころは、台風に名前などつけられていて、

今でも一番覚えていて、印象に残っているのは、『ジェーン台風』 である。

 

概要  ジェーン台風は、9月3日高知県室戸岬のすぐ東を通り、10時頃徳島県日和佐町付近に上陸した。台風は淡路島を通過し、12時過ぎ神戸市垂水区付近に再上陸、速度を上げて北上し13時半頃京都府舞鶴市付近から日本海に進んだ。その後北東に進んで4日04時頃北海道渡島半島南端に上陸、北海道を縦断してオホーツク海に進んだ。
 降水量は、四国東部で期間降水量が200mm以上となったほかは、全般的に少なかった。台風の中心付近で非常に風が強く、和歌山で最大風速36.5m/s(最大瞬間風速47.2m/s)となったほか、四国東部、近畿、北陸、東海で最大風速が30m/s前後の暴風となった。台風の強風による吹き寄せで大阪湾や北陸沿岸で高潮が発生した。大阪湾では満潮時より2.1m以上高くなり、地盤沈下の影響もあって多くの家屋が浸水した。

 

リンクの中にこのような記述がある。

台風はその中心の右側(東側)が最も風が強いという。

ジェーン台風と言う記録的な台風の、その一番強いだろうと思われる場所で経験をしたのである。

 

★1950年(昭和25年)9月3日である。 高校2年生の時だった。

明石高校野球部にいて、その日は京都で練習試合だったのである。

台風が来ることは解っていたのに、京都に向かって電車に乗ったのである。   なぜ?

当時の明石は強豪で常に兵庫県では優勝候補に挙げられていた。昭和23年の夏の予選、その時が一番強かったのではないかと思われたその年の夏の予選に、明石は雨が降っていて、これは試合中止と勝手に判断して西宮球場まで行かなかったのだが、西宮は晴れていて不戦敗になってしまったのである。

それ以来、どんなことがあっても試合地までは行くというのが、不文律になっていたのである。台風が来ていることは解っていたが、京都行きの電車に乗ったのである。

電車は大阪を過ぎたところで止まってしまった。台風の中心は神戸あたりを通ったものだから、その右側の一番風の強い地域で、台風を経験した。

ちょうど止まっている前に消防署があって、その家屋が一瞬のうちに風を含んで浮き上がったかと思ったら倒壊した。

電車は揺れたが何とか大丈夫だったのである。昼過ぎに台風は通ったのだが、電車が動いたのは夕方だった。

 

★そんなこともあったが、当時は台風が来るのは、関西から西ばかりで関東の人は台風の経験は少なかったと思うのだが、最近は逆に関西に台風が来るのは珍しい。

今住んでいる地域は、少々雨が降っても水害などは絶対に大丈夫な緩やかな傾斜地である。

傾斜地だが、がけ崩れがあるほどの傾斜ではナイ。

風だけだが、多分今回も中心の左側(西側)なので大丈夫だと思っている。

 

 

★『台風』と検索すると、気象庁のこんな予想図が現れたりする。

60年も経つと世の中は一変してしまうものである。

1960年に若しこんな予報があったなら、台風に向かって遠征するような暴挙は、やっていないと思う。

 

台風が来るまであと5時間余り、果たしてどんなことになるのだろうか?

 

★一夜明けて翌朝である。  台風は東側の進路になって、殆ど風は不可なかった。

 

 

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政局の行方は? 

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★消費税法案はどうなるのか?

そして、政局はどう展開するのか?

いろいろと解ったように言う解説者や評論家はいっぱいいて、聞いていると『なるほど』と思うところもあるのだが、

現実は、あまり評論家の意見のようにはならないことも多いので、あまり信じないことにしている。

 

どうなるかはよく解らぬが、政治の世界がオモシロく動くであろうことは間違いない。

先日、『野田第二次内閣改造』と題したブログの中で、次の様に書いたが、今でも同じように思っている。

 

★今の政治問題、ややこし過ぎてよく解らないし、こんな事にはならないとは思うが・・・

こんなことになればいいのにと思っている。

● 消費税問題は、野田さんのいう増税法案が通って

● 消費税問題が解決したら、可及的速やかに解散、政党再編が行われ、維新の会がその中心になり、

● 小沢さんや橋下さんが言う『政治の仕組みの改革』 『中央より地方の主権を』の流れが実現して、

● そして、憲法改正も、首相の公選制も実施される方向となり

● 原発は廃止の方向で、新しい日本のエネルギー政策を確立され、その中心は原発に替わる太平洋の黒潮利用の『海流発電』

などなどである。

来年の今頃、果たしてどんなことになっているのだろうか?

 

★消費税法案は自民党がいろいろ言ったりしてはいるが、どうも通りそうである。

その時、民主党の小沢グループが反対することも、そんな流れになりそうである。

造反者の数がどのくらいになるのか?

世の中には、こんな意見も、ネットの世界では流れている

 

要は、『いつ選挙になるのか?』

その時、『橋下さんはどうするのか?』

どんな『公約を旗印に上げるのか?』

その動きに『既成政党はどう対応するのか?』

『小沢さんのグループはどう動くのか?』

 

自民党や民主党が『躍進する』などは、どうも考え難いのである。

一番大きいとされる浮動票、『無党派層』がどう動くかに掛っているように思う。

 

★私などは、間違いなく『浮動票』であり、『無党派層』なのである。

個々の政策、例えば原発問題でも、消費税でも、そんなにはっきりと自分の意見が言えるほど、ちゃんと分かってはいないのである。

だが、いまの政治家で一番期待したいのは『橋下徹』さんだから、

今なら、『橋下徹さんの行う政策』に無条件で1票を投じるだろと思っているし、彼の推す候補に1票である。

そういう意味では『無党派層』では、ないのかも知れない。

 

野田さんも、そんなにおかしいと思っているわけではない。

むしろ、従来の政治家に比べて、ブレナイし信頼は置けると思っているのだが、どちらかと言えば橋下さんなのである。

小沢さんが橋下さんと組んでも、そちらを推すし、

可能性は、極めて薄いが野田さんが橋下さんと組むのなら、それはそれでもいいのである。

 

★個別政策を推進できる政治家は多いが、

政治の仕組みを変えることが出来る政治家は、今ものところ橋下さんが断然他を圧倒してリードしているし、

この3年間の実績を見ても、その『スピード』が素晴らしい。

 

橋下さんをダメだという人たちも当然いるのだろうが、その人たちは、ではどんな人がいいと仰るのだろうか?

そんな人たちに乗ってみても、決して日本は変わったりはしないのである。

それは、従来の日本の政治の実績が証明していると思っている。

 

この際は、『橋下徹さんに乗る』のが一番いいと私は思っている。

 

 

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Z140周年

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★先日『鈴鹿サーキット50周年』というブログをアップしたが、

今年は、『日中国交正常化40周年』であるらしい。

外務省は、こんな記念行事に支援、するなどもやっている。

 

昭和47年、まだ『昭和』で言う方が一般的だった、そんな時代である

 

昭和47年 1月24日 グアムで横井庄一さんを発見 2月 3日 札幌五輪冬季大会が開幕 19日 連合赤軍が浅間山荘に立てこもり 4月16日 ノーベル賞作家・川端康成氏自殺 5月13日 大阪・千日ビル火災、118人死亡 15日 米国から沖縄が日本に返還 30日 テルアビブ空港銃乱射事件 6月14日 インドで日航機墜落、死者86人 7月 7日 田中角栄内閣発足 8月26日 ミュンヘン五輪開幕 9月29日 日中国交正常化 11月29日 モスクワで日航機墜落、死者62人

 こんなことがあった。よく覚えていることが多い。

 

★このほかに、カワサキにとっては特筆すべきことがあった年なのである。

『カワサキZ1 900cc 発売』 された年なのである。

 

それまでに、A1 、マッハ?、W1などカワサキの中大型スポーツ車分野への進出によって、カワサキのイメージも徐々に変わりつつあったが、

それを確固としたものにしたのが、このZの出現であった。

それから、今年は『40周年』なのである。

40年経った今も、市場でそれも世界中の市場で人気があり、世の中を走り回っている商品など、ホントに珍しいというか、そんな例はほかにナイと言っていいだろう。

 

川崎重工業、メーカーとしても、『Z40周年記念行事』ぐらい盛大にやればいいと思うのだが、

確か発表されたのが秋口だったので、もう少し先にでも、発表されるのかも知れない。

 

★そんなことを思っていたら、

私の周りのカバン屋さんが、欧州で盛大に行われる『Z40周年イベント』の記事をFacebookで紹介している。

 

そう言えば、今年でKAWASAKI Z1 が量産開始40周年ですよね。ヨーロッパの中心で有るドイツの、そのまた中心に有るカッセル近郊で、ヨーロッパZ1誕生40周年記念ミーティングが開催されます♪ 7月6日から3日3晩をかけて、ヨーロッパ中から、Z1クラブやZ系ショップ、そしてZオーナー達が集まりドンチャン騒ぎ(笑)をするそうです。その時期にドイツに行かれる予定の方は、是非訪ねてみて下さいね!

http://www.z-rally.eu/

内緒のお話ですが、ミーティングの会場運営は、ドイツのハーレーミーティングを会場運営されているプロ集団らしいですので・・・きっとド派手なミーティングになると思いますよ♪

 

こんなことになるらしいのである。

Zオタクを自称するカバン屋さん、Zに関する情報はいっぱいお持ちである。日本でもどこかでZのユーザーが集まるらしい。

 

★そんな『Z40周年の記念行事』なのだが、私に入っている情報では

それこそZの開発、販売の本場アメリカで、当時Zに関係した人たちが集まって記念パ―ティを9月8日にやろうということになっているらしい。

先日のZ1会のミーテングの席上、Zの開発責任者であった大槻幸雄さんから発表された。

日本からも大槻さんを始め、当時のアメリカの総責任者浜脇洋二さんや開発担当したキヨさんの後輩山本信行さん、キヨさんも行くとか言っていた。

大槻さんから『おまえも来い』と誘われているのだが・・・・  

 

それとは別に、いまFacebook 上でも、NPO The Good Times のプロジェクト上でも、

二輪文化を伝える会』が立ちあがっていて、

こんなFacebook ページには、既に100名を越す『いいね』が集まっている。これなどもZの人気の証明みたいなものである。

つい先日FBには、大槻さんも、エンジン開発者の稲村暁一さんも参加されたので、そんな『Zの真打ち』を入れた『Zのファンクラブ』をFacebook 上に立ちあげようかという、ユーザーレベルの動きもある。

『Z40周年』 これから秋口にかけてどんな動きになるだろうか?

 

 

 

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パンクと記憶とその他いろいろ

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★二日ほど前の午後、家の前に止めていた車が突然パンクした。

『シュ―』という空気抜けるような音が10秒ほど聞こえて、『何かな?』と思って出てみると後輪がパンクなのである。

 

 

★ さあ、どうするか?

何の疑いもなく、スペアタイヤに代えてスタンドに行って、パンクを直してもらおうと思った。

もう、何十年もパンクなどで、自分でタイヤ交換などしたこともない。

『上手く出来るかな?』 とも思った。

トランクを開けてスペアタイヤをと思って、スペアタイヤのあるところを見たのだが、そこにはスペアタイヤがナイのである。

 

なぜ? どこで消えてしまったのか?

『どうなったのか?』

その記憶が全くないのである。 今の車は約10年も乗っている。パンクしたのは1回だけだが、その時はスペアタイヤなど替えていない。

『なのに?』

 

人間の記憶も、この年になると頼りない。なぜこんな事態になっているのか、サッパリ解らないのである。

然し、どうする?

車は動かせないし、どうしようもないのだが、こう言う時に相談できるところがあるのがいい。

平井稔男さん、兵庫メグロの社長さんだが、昔からの仲間である。

電話したら、ちょうどKMJに行っていて清水君と面談中だという。『明日でも取りに行きます』と言うことになった。

清水君と久しぶりに話も出来た。

夕方、突然平井さんが現れて現物を見て、明日朝、レッカーか何かで取りに来てくれるということになった。

 

★それで、一応、ひと安心、Facebookにこの結末をアップしたら、

『いいね』がいっぱい集まって、10件を超えるコメントも頂いたのである。

 みなさん、『いいね』ありがとうございます。平井さん、直ぐ来てくれて、もう治っています。パンクではなくてバルブが悪かっただけのようです。
でも、スペアタイヤはナイ状態のままです

とコメントしたら、こんなコメントが続いたのである。     長田 智剛 最近の車にはスペア・タイヤはついてないのが当たり前らしい!
パンクしたらと思うとゾーとしますね!     古谷錬太郎 ホントですか? もしそうならパンクしたら大変ですね。   吉田 靖秀 なんだか小さなボンベが付いていて、それを注入することで応急のパンク修理になるらしいです・・・。でもなんか怖いですよね・・・。   山本 靖 お助けマンがスグに来てくれて良かったですね。 今回のようなバルブからのトラブルでは、小さなボンベで応急の、、、、という手は通用しませんので、やはりスペアタイヤは有った方が安心ですよね。 ですが、コストダウンとトランクスペース拡大や軽量化を考慮すると、滅多に使わない(殆どの車は使わずに解体)から無くしたい気持ちも解りますけど。   古谷錬太郎 技術的にはなんにも解っていませんので、『知らぬが仏』みたいなものです。 長田 智剛 数日前にFitが納入され、「スペアタイヤは?」と聞いて解ったのですが特に女性はジャキーアップも出来ず、タイヤ交換も無理。また応急ボンベが入っているが使用するとその他イヤーは使い物に成らないので、使用しないでほしいとの事。ここ5年位前はスペアと言っても近くのガススタンドまで行ける黄色いホイルのあんちょくタイヤでした。今はなし。JAFに来てもらう方法と聞き、唖然としました。特に小さいタイヤは余計にやばいのでは!     古谷錬太郎 そんな時代になったのですね。確かに昔に比べてパンクなどしないですね。勉強になりました。家の前だからよかったですが・・・・ 山本 靖 昔、ダンロップ・タイヤが耐久レース用にパンクしてもピットまでは帰って来られるような“デンロック・タイヤ”というのを造りました。 これはホイールも特殊なので市販車ではスグには普及させるのは厳しいでしょうけど、この様なタイヤ・ホイールに成らない限りスペアタイヤは無いと不安に思います。 吉田 靖秀 なんだかほんとに知らぬが仏的な車造りには唖然ですが。これが世界の現状なんだから、流れってもんでしょうね。でもスペアは交換できる人間にとっては無いと心細いものです。しかしまぁボンベは使ってはイケナイのなら、あのボンベは何の意味もありませんよね。 佐藤 正樹 わたしも最近車を買い換えたとき、スペアタイヤがないと聞いてびっくりしました。なんか小さなパンク修理キットみたいのをもらいましたが、やっぱり不安です。 川井 隆史 走行中でなくて何よりですね。タイヤは、ボンベ使ったあと言われるままに買い換える方が殆どかと思うので、それでよいのでしょうね。遠出には修理キットと簡易なポンプを持つようにしてます。    どうも最近の車は、スペアタイヤなど付いていないようである。

そんなこと知らないのは私だけなのか。 それにしても高速でパンクなどしたら、これは大変なことである。

みなさん、いろいろ仰っているように、これが今の常識のようである。

10年に1度起こるか起こらぬかのためにスペアタイヤを持つのも、確率の問題から見て非効率であることは間違いない。パンクしたら『運が悪かった』と思うしかないのである。

 

★たまたま、家の前でパンクしたこともラッキーだったし、

平井さんなどと言う、仲間が居て直ぐ全てをやってくれたし、

Facebook のトモダチがいっぱい親切に、助言頂いて、

今の世の中の流れがよく解ったのである。

 

KMJの今ではNO.2 の清水君とも、久しぶりに直接喋る機会も出来て、万事OKだったのである。

ちなみに、このブログ北海道川重建機の方、ご覧になるかどうか?

一昨日、大滝さんから電話のあった『モトクロスライダー竹中純矢くん』のことも、平井さんからちゃんと伝わったようである。

 

なにがあっても、『万事OK』と思ってしまう、『いい加減なネアカな性格』は生きていくには都合がいいと思っている。

今回もまた、『万事上手く行きました。』

 

 

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二輪業界から初の受賞者と・・・

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★二輪車新聞が送られてきた。

 

一面にAJ 全国オートバイ協同組合連合会の記事とその左側には、

国土交通省の大臣表彰の記事などが載っている。

 

『国土交通省近畿運輸局が行う12年度の表彰式が6月6日大阪市内のホテルで開かれ二輪業界から初めて4人が表彰を受けた。さらに6月7日には国土交通大臣表彰の二輪車業界における推薦団体として、NMCA 日本二輪車協会とAJ(全国オートバイ協同組合連合会)の2団体が指定された。これによりこれまでなかった二輪車業界からの大臣表彰も誕生することになる。・・・・

然し自動車流通関係のなかで二輪車販売業界からはこれまで表彰を受けていない。”省スペース、省資源の乗り物として社会に大きく貢献する二輪車を販売する業界から過去に一人も表彰を受けていないということは二輪車業界そのものを軽視する現れではないか” という声が二輪車業界からも強まっていた。そうした中での今回の受賞は国交省もそうした業界の声に目を向け二輪車に対する認識を高めてきたためとする向きも強い。

 

と記事には書かれている。

 

★確かに、同じ自動車工業会の中にいても、四輪に比べて二輪のウエイトは非常に低いと言わざるを得ない。

極端に言うなら、二輪業界は、お国の援助などなしにここまで来たような気もする。それが、官などには頼らない二輪業界独特のものにはなっているのだろう。

そのような環境の中で、

AJ 全国オートバイ協同組合連合会は、兵庫、大阪で産声を上げ今年は全国26都道府県に展開する組織に発展したのである。

そのAJが国交省の大臣表彰を受けることは誠にご同慶の至りなのである。

AJを引っ張ってきたのは吉田純一会長である。今回近畿運輸局から表彰を受けた4人のうち3人は、須川モーターサイクルの須川健仁さん、姫路カワサキの島津龍さん、エントリーの山本信行さん、とみんなカワサキの仲間たちなのである。

このAJの特徴と言うなら、日本のこのような業界にありがちな堅苦しさや、業界然としたところがナイところだろう。

ある意味それは、吉田純ちゃんや、龍さんや、め―ちゃんなどが持っているかってのカワサキ独特のムードなのかも知れない。

吉田純一会長のリ―ダ―シップもあるだろうし、その人柄にもよるだろう。

国会議員の先生方とも、非常に仲良くお付き合いがなされているはずである。

 

 

 

★これはごく最近、吉田純一さんがFacebook に流した写真で、

 

全国オートバイ協同組合連合会会長吉田純一さん。

流石にこんな方とのツーショット写真では、『純ちゃんいいね』とは、いい難いのですが、それでもそう言えるところが、カワサキの仲間のいいところです。
当時のカワサキの仲間の持つ『カワサキのよさ』だと言えるでしょう。

 

という、コメントを付して、私もシェアさせて頂いたが、吉田純一さんのFacebook はこちらである。最初は私と二人きりの寂しいFacebookだったが、いまは170人ものトモダチも出来て、こんな楽しいものになっている。

 

先日は、こんなBERTのイベントに顔を出ししてくれた。こんなメンバーが集まると、右から順番にエラクなったりするのである。

この後、彼にFacebookを、私が薦めたのである。最初は私と二人きりの寂しいFacebookだったが、いまは170人ものトモダチも出来て、こんな楽しいものになっている。

もう少し『二輪文化を語る会』などが纏ったら、AJとも一緒にやれるかも知れないなどと夢っみたいなことをその時二人で話していたのである。

吉田純ちゃんはNPO The Good Times の会員さんなのである。

 先日、東日本大震災の災害救助活動でAJや吉田純一会長が表彰されたが

この推薦者はNPO The Good Times のアドバイザ―松島裕さんなのである。そして彼は、いま  『二輪文化を伝える会』というプロジェクトを立ち上げて活動を開始した。

FBをおやりでない方は、残念ながらご覧になれないのかも知れぬが、こんなレベルで進行しているのである。

 

★国交省大臣表彰のもう一つの団体が NMCA である

その設立には色濃く関わった。その理念には

人々の暮しが、豊かになるにつれ、時間的ゆとりや、心の解放、自然への関心が急速に高まっています。
二輪車は本来、便利な生活の道具としてばかりではなく、人に近く、また地球にやさしい遊びや文化としての楽しさを兼ね備えています。
このような時代だからこそ、人と社会に、二輪車の「夢」と「素晴らしさ」、「楽しさ」をもっと伝えたい。もっと分かちあいたい。

私たちはそう考え、国内二輪車4メーカーが発起人となって、1997年1月、NMCA日本二輪車協会を設立しました。
二輪車ユーザーと 二輪車に関心を持つ人、二輪車販売店、卸、メーカーが一体となり取り組む、それがNMCA日本二輪車協会です。

 

と書かれているのだが・・・

最初に『二輪車ユーザーと 二輪車に関心を持つ人』がきて、メ―カ―は最後であったはずなのだが、今はほかの団体と同じくメーカーが真っ先に来るピラミッド型の組織になってしまっているように思う。

特に『二輪車に関心を持つ人』への対応を忘れてしまっているように思えてならない。

こんな理念も初めて見たという方も多分おられるのだと思う。

 

★つい先日書いた、『Z1発売40周年』には、1000人を超すアクセスがあった。

確かに、Zは、いまメーカーでは売られてはいない。然し関心は、発売40年経った今も尚、非常に高いものがある。

そんなユーザーを大事にする気持ちが、新車の販売にも大きく影響するのだと、私自身は今でもそう思っているのである。

 

 

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二輪文化を伝える会

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★昨日はNPO The Good Times の6月度の理事会でした。

NPO The Good Times は3年前の6月に立ちあがりました。

どんなことになるのか、予想すら付かなかったのですが、3年を経過して、何とかその形も見えて、4年目にスタートしようとしています。

 

今、約7000人の個人会員さんと、約70の団体会員さんに支えられて、これら会員さんの活動を支援するシステムもそこそこのところまではきました。

NPO The Good Times は、ブログやツイッターやFacebook など最先端のネットのシステムを総合した『トータルシステムそのもの』です。

システムそのものですから、NPO自体は何もしないのですが、会員さんを支えるシステムは常に前進しています。

 

● そのホームページがこちらです。  つい2,3日前に、HPを訪れた方は5万人になりました。

● NPO The Good Times の公式ツイッターのフォロワーは、23万人を数えています。毎日会員さんの発信するいい情報を『リツイート』しています。

● 会員さんのツイッターもブログも、自動的に纏めていますが、その中からさらにタンブラーで纏めています

● スタート以来のTumblr もこのように見ることが出来ます

● 毎朝、NPO The Good Times 新聞が発行されます。

 

 

★4年度を迎えて、

この1年、最も力を入れようとしているのが、やる気のある団体会員さんを仕組みで支える『プロジェクト』です。

 

NPO The Good Times はシステムですから、やる気のある上手にその仕組みを使おうとするグループにとっては、非常に重宝に機能する筈です。

このNPOは、三木の人たちと、カワサキのバイクの仲間たちとで立ちあげましたので、そちらの方向からの『プロジェクト』が主力で引っ張る形になるでしょう。

昨年末には、『孫文を語る会』がスタートしました。

このプロジェクトから、NPO 第2期がスタートしたと言えるでしょう。

 

今年は、『二輪車関連全体』 と 三木を中心にした『地域活性化』 を中心にした新しい展開が始まると期待されます。

特に、二輪車関連については、既に5月あたりから、いろいろと具体的な動きがありました。

このNPO の基本コンセプトは、

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』です。

 

ネットをベースにした展開ですから、どんなものでも上手に無料で繋いでいけるところが自慢です。

この3年間に積み上げたノウハウも、ソフトも、いろんな組み合わせで、取り入れています。

 

 

★その第1弾が 『二輪文化を伝える会』です。  

関東で立ちあがりました。未だスタートしたばかりの『ひよこ』ですが、

どのような内容になるのか? 未だスタートしたばかりのホームページの項目を見れば大体の進行が予測されます。

 

 

そのFacebook ページもスタートしたばかりですが、既に110人を越す『いいね』を頂いています。

 

二輪文化を伝える会 投稿もできるようにしてみました。

すでにたくさんの「いいね!」ありがとうございます。
いろいろテストしながらやってます・・・。 二輪文化を伝える会 ポチリポチリとホームページを動かし始めました。
当面は年表、出来事、人物伝あたりが主なコンテンツになります。
日々進化、完成形なし、長期計画で取り組んでいきますのでお付き合いください。
http://2rin-tsutaeru.net/ 二輪文化を伝える会 ‎2rin-tsutaeru.net   二輪文化を伝える会 ブログもスタートしました。
こちらは編集後記といいますか、編集前記といいますか、ページを作る上で見聞きした事や思いついた事を書き込んでいきます。
http://2rin-tsutaeru.blogspot.jp/ 二輪文化を伝える会・ブログ ‎2rin-tsutaeru.blogspot.com

 

 

いろいろとこんな風に動き始めています。

 

★昨日は、この動きを受けて、各地で今後立ち上がるいろんな活動の受け皿として、

『二輪文化を語る会』の基本コンセプトの検討をしました。

Z1発売40周年を記念して、Facebook 上に『Zファンクラブ』を立ちあげようという動きもあります。

『二輪文化を語る会』プロジェクトは、それらを包括して支援する仕組みで考えています。

 

今後の動きにご期待ください。

既にFB上にスタートしている『二輪文化を語る会』は既に270人のメンバーになりました。

共感される方、参加歓迎します。

 

 

 

浅間火山レース

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★『浅間火山レース』というレースがあったことは、何となく知ってはいたが、詳しいことはなんにも解っていなかった。

まだ、カワサキは二輪事業はまだやっていなかった時期の話なのである。

 

昨日も触れた、『二輪文化を伝える会』のFacebook ページの付録に、

浅間火山レース』が添付されていたので、暇にまかせて読んでみた。

 

それが結構ややこしいのである。

詳しく知りたい方は、原文を読まれることをお勧めする。

 

★初めて行われたのは、

1955年(昭和30年) 第1回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久レース) と言う。

これは公道を使って行われた。 勿論、制限速度のある公道使用だから、最高速などは公表されなかったようである。

 

これがそのポスターなのだが、以下のような記述がある。

 上の写真は、浅間記念館に展示してある1955年(昭和30年)公道を閉鎖して行われた、第1回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久レース)のポスターです。

 1955年の第一回大会は、警察、町、県などのお目こぼし的に公道閉鎖という形で行われましたが、(さすがに制限時速を大きく超えるスピードで公然と走らせるわけにはいかなかったと見えレース結果のタイムは公表されず、トップとのタイム差のみが発表されるのみ)2回目以降の開催については公道使用は認められませんでした。

 

★ 1957年(昭和32年) 第2回浅間高原レースが行われているが、この時は浅間高原に未舗装のテストコースを造って行われている。

 だから、1回と2回はレースの内容が異なるのである。

そこで、オートバイメーカーが国よりの補助金も受け浅間牧場内に専用サーキット「浅間高原自動車テストコース」を建設し、1957年、1959年に第2回・第3回のレースが開催されました。浅間の火山灰を踏み固めた未舗装のコースでしたが国内唯一のクローズドサーキットであり、浅間は日本のモータースポーツのメッカとなったのです。

  

こんなコースだったようである。

 

★1958年(昭和33年)には 第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースが行われ

1959年(昭和34年)には 第3回浅間火山レースと 第2回全日本モーターサイクルクラブマンレース が併催されたようで、以下のような記述がある。

MCFAJのレースは、58、59年の2回行われたと言うことなのだろうか?

第一回浅間高原レース後、以降の開催には専用のサーキットが必要とされました。オートバイメーカーが資金を出し合い、国からの援助も受けて、群馬県の農業試験場である浅間牧場の一部を借り受け日本初の専用サーキット「浅間高原自動車テストコース」が1957年に完成しました。
その年10月に第二回の浅間火山レースが行われ、交通の便も悪い中1万5千人もの観客を集め、大いに盛り上がりました。
翌年は第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース大会が、そしてその翌年1959年には第3回浅間火山レ−ス(耐久レース)と第2回全日本モーターサイクルクラブマンレースが併せて開催され大盛況となるのですが、この大会を最後に浅間では大規模なレースは行われることなく、本来の目的である耐久テスト、寒冷地テストなどに使用されその後浅間牧場との貸借期間終了とともに閉鎖されました。

 

★ 私は昭和32年川崎航空機に入社しているのだが、この時期はまだカワサキは二輪事業には本格的に参入していないので、知る由もないのである。

浅間高原レース発祥の地碑(セーブオン駐車場にあります)

今はこんな碑が立っているらしい。

 

第2回火山レースで優勝を飾った メグロRZ

 

こちらは、第3回火山レースで優勝した CB92 である。

 

 

★以下はWikipedia からの時代背景である。

当時はこんな時代であった。まさに二輪車の黎明期と言えるだろう。

100社を超えるメーカーが存在したはずである。

 

1949年、2輪車を製造するメーカーや販売業者によって日本小型自動車工業会(小自工)が設立され、小自工主催により戦前の日本では唯一の常設レース場(オーバルのダートコース)だった多摩川スピードウェイで戦後初のレースイベントである全日本モーターサイクル選手権大会、通称「多摩川レース」が開催された。戦前のレースが観客からの収入を目的とした興行としてのものであったのに対し、130台の参加台数と2万人以上の観客を集めたこのイベントは、オートバイ業界から行政への規制緩和を求めるアピールの意味合いが強いものであった。

1950年には、千葉県の船橋にオートレース場が開設された。

こうした動きにも助けられて二輪車業界は活気づき、一時はオートバイメーカーが150社を超えるという盛況を迎える。

一方で駐留軍のアメリカ兵がBMWやトライアンフといったオートバイを持ち込んだことにより、外国製オートバイと日本製オートバイの圧倒的な性能差も明らかになっていた。オートバイ産業を重要視した政府は、オートバイ生産に対する補助や輸入車への高関税などにより国産オートバイに対する保護策をとり、1951年には通産省の主導により東京〜神戸700キロ耐久テスが行われた。

また前記の多摩川レースの成功もあって、乱立していたメーカーの間にも手っ取り早く自社のオートバイの性能を世間に認めてもらう手段としてのレースの有効性が認知され、やがて業界の中でマン島TTレースのようなレースを開催するという機運が高まっていた。

通称「富士登山レース」は地元富士宮市の観光協会主催であり、他のレースのようなオートバイ業界団体による主催ではなかったために個人で参加できるレースとして盛り上がりを見せ、1956年の第4回まで開催される大きなイベントとなっていった。

1954年3月には、ホンダ社長の本田宗一郎が突然マン島TTレース出場宣言を発表し、世間を驚かせた。

そんな状況にあって、国産オートバイの性能向上に自信を持ち始めた二輪業界の中で、もっと本格的なロードレースを開催しようという声が大きくなり、その実現に向けて小自工も具体的に動き始めた。

岩手県盛岡市郊外、東京都青梅市周辺、山中湖周辺などのいくつかの開催地案の中から浅間山麓周辺が開催候補地となり、地元の有力者である三代目星野嘉助の協力もあって群馬県や警察の認可を得ることができた。そして1955年、第1回全日本オートバイ耐久ロードレース、通称「第1回浅間高原(火山)レース」の開催が決定した。

 

★こんな記事を纏めたお陰で何となく状況が理解できた。

7月1日には、東京で 『酒井文人&クラブマンレースを語る会』というレース関係者の会合も開催される。

本田技研の元社長河島喜好さんも、浅間火山レースの監督などされていた関係で出席されるとか、

私も、平井稔男さんと山本隆君などと出席する予定なので、その予習みたいなもので、いい勉強になったのである。

スマホ― と ガラケー

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★『スマホ― と ガラケー』  何のことか解らなかったが、先日の『たかじんのそこまで言って委員会』の中で出てきた言葉である。

スマホーはスマートフォーン、言われてみると、これは何となく解った。

ガラケーは、旧い携帯電話と言うか、日本の携帯電話のことらしい。

 

お断りしておくが、私は携帯なるものを持っていないし、今までに常時使ったことは一度もないのである。

と言うと、ちょっと違うので、正確に言うと、

家には携帯電話はある。ただこの電話番号を知っているのは鎌倉の息子家族とアメリカの娘家族だけなのである。

東京に出た時などだけ携帯する。そこに掛けたこともあるが、大体携帯に電話が掛ってきたことがない。

だから、持っていないのと同じことなのである。

 

『ガラケー』とは、あとで調べてみたら、こんなサイトがあってよく解った

 

ガラケーとは、簡単に言うと「日本独自で出回っているケータイ」のことをさします。

日本のケータイは、世界的にみても独自といわれています。そこで「ガラパゴスケータイ」と呼ばれるようになり、それが略されて「ガラケー」と呼ばれるようになりました。

 

ガラパゴス、とは外の世界と断絶された環境をあらわす、という意味です。ガラパゴス諸島が、外部から断絶された場所であったため、生物が独自の進化をとげたとされていることから、こういう意味になりました なぜガラパゴスと呼ばれるようになったのか? 独自進化した理由

まず、1点目に、通信方式が世界標準でなかったため、日本に海外のケータイが入ってこなかった点があります。

そのため、海外ケータイが入ってこない市場になった上、日本のケータイも海外に向けて販売を積極的にしなかったため、日本市場だけをみて売るということになりました。

だからこそ

iモード専用のサイトという概念が出てくる オサイフケータイ、ワンセグなどがついたものがでてくる 絵文字、赤外線などの機能がついてくる

など、独自の進化をとげたのです。

ガラケーじゃないケータイって何?

しかし、今では、世界のケータイがどんどんと日本で普及してきています。たとえば、iPhoneなどが有名ですね。iPhoneなどのことを「スマートフォン」と呼びます。

iPhoneでは世界中で同じ端末を使え、またアプリも共通です。つまり、日本向けだけにアプリを作るのとは違い、世界中で売れるため、市場が大きいとされています。

また、検索エンジンで有名な、Googleもケータイに参入してきています。

ガラケーはダメなの?

iPhoneなどが好きな人がたまに「ガラケーはダメだ!」「ガラケーは時代遅れ」ということがあります。

たしかに世界標準からみると、はずれているケータイではあります。一方で、世界でもっともケータイを使ったビジネスがさかんであり、ずいぶん前からケータイサイトでの課金化や、アプリの販売市場というものがありました。

つまり、日本独自のものといっても、機能が劣っている、というわけでは決してないのです。

世界でもっとも進んでいるからこそ、世界がついてこれなかったという考えもあります。

ガラケー=フィーチャーフォン
最近は、ガラケーの代わりに「フィーチャーフォン」という言葉がよく使われるようになりました。「ガラケーはイメージが悪い」と考える人が多いため、携帯電話会社はガラケーという言葉は使わず、「フィーチャーフォン」と呼びます。意味はガラケーと同じです。  

とこんな解説がなされている。

 

★ 『スマートフォー―ン』は薦めてくれる人が沢山いて、その名前だけは知ってはいるが、今のところ持つ気は一切ない無縁のものである。

この携帯電話に関しては、10年前の現役時代は、既に沢山の人が持っていた。

会社で用意しますから『ぜひ』と薦めて頂いたが、結局持つことはなく、現在に至っている。多分将来も使うことはないだろう。

なぜ? 

ここから先は、私の勝手な言い分だから、一般に受け入れられることはないのだが、

私の意見みたいなものだから、ちょっと触れてみたい。

 

● まず現役の時、下の人たちに薦められたが持たなかったのは、仕事上『私が持つ必要がない』と思ったからである。

 自分から掛けるのはともかく、外から掛ってくる電話の内容が、仕事上『役にたたない』と思ったからである。携帯を持っている人の電話の内容を聞いていると、殆どの内容が、今話さねばならぬ内容ではナイ場合が殆どなのである。そういう意味では」『迷惑電話』に近く、自分の仕事をかき回されることの方が多い。

● 一刻を争うようなことは、世の中にそんなには存在しない。

私は、結構電話自体はよく掛けるし、掛ってきた電話にはちゃんと応対する方である。それは会社のデスクの前にいる時の方が、ちゃんと話せるはずである。

● もっと極端に言うなら、周りの人が携帯は持っているので、どうしても必要な場合は、周りの人の携帯でお願いすれば済むことである。

● 私自身、そんなにケチでもないのだが、ムダに金を浪費するのはどうもイヤなのである。携帯電話の料金はその無駄金に値するところが多いのではなかろうかと思っている。

 

そんなことで、もう10年近くになって、自分自身は不便など一切感じていないので、今後とも持つことはないだろう。

スマホは、その機能がよく解っていない。

多分、いろんなことが、いっぱいできるのだろうが、『技術オンチ』の私には間違いなく使いこなせない。

今持っている『デジカメ』でも、ただシャッターを押すだけで、ほかの機能など使ったことがないのである。

 

★  

「やっぱり使いにくい!」 スマホからガラケーに戻す人たち

 

こんなサイトも見つけたので、ちょっとホッとした気分になっている。

ただ、1日に10時間近くもパソコンの前に坐っているので、『パソコンでは時代遅れ』と言われると困ってしまうのである。

 

 


信用金庫と ユニクロと 緑電機と スシローと車

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★昨日は半日、家内に付き合った。家内は運転免許を持っていないので、どこかに行くときには運転手役を引き受けている。

 

歳を重ねるにつれて、なぜか女性の方が優位になる。

旦那は妻に頼るところはあるのだが、妻の方から見ると旦那に頼るところはだんだん少なくなってしまうのである。

世の中、何でも『借り』を作った方が弱くなる。男はだんだんと日常生活で妻に対して『借り』ばかりになってしまうのである。

 

その点、我が家は、家内が車に乗れないということは、ただ一つの『貸し』みたいなモノなのである。

週に3回、水泳に行く時も送ってやるし、買い物も重いものの時は一緒に行く。

昨日も三木のまちへ行くのに一緒に行ってやらぬと行けないのである。

 

★家内の用事は、この夏アメリカの孫のところに遊びに行くのに、ドルに代えないとならぬのだが、信用金庫の三木支店に行かぬと、緑が丘支店ではダメなのである。

 

 

 

★まず、日新信用金庫の三木支店に行った。

もう何十年も私は銀行とは取引がない。 家から一番近いところが信用金庫だからである。銀行取引がないとカッコ悪いなどと言う人もいたが、現役のころから日新と郵便局だけである。

ただ、ドルなどへの換金などは銀行と違って手数は掛る。まず近くの支店ではダメだし、三木支店にも電話をかけて事前に頼んでおかなければドルなどの交換は簡単ではない。

 

家内が換金する間、店内で待っていたが、殆どお客さんが来ない。

広くて、静かで、綺麗で、従業員も沢山いるが、お客がいないのである。

世の中の組織は、末端が一番忙しくて、中央になるほど忙しくないのが普通である。

ここもそうかな?と思いながら眺めていた。緑が丘支店などは、いつでも大層な混雑なのである。

でも、最近はどこに行っても綺麗である。

 

 

★そのあと、緑電機に行った。

 

ウイークデイの午前中、ガラガラである。ここでは電動歯ブラシの先を買って700円。

小銭がないと1万円を出しかけたら、点数が残っていて400円ほどはそれが使えると結局300円の小銭を払って、この週末の土日なら来店者に景品が出るのだが、などと言ったら、

現品があるからと景品のタオルを貰ってきた。めちゃ得したような気分になるらしい。

 

 

 

そのあと、ちょっとユニクロに行ってくれるかというのである。

ユニクロも週末は売り出しで安くなるのだが、信用金庫はウイークデーしか空いていないので、なかなか上手く行かないのである。

それでも何品か買っていたのに、結局は手ぶらで出てきた。

『7月に入ったらセールがあるし、週末は安くなるので、今日は下見に来た』と隣で商品を物色していた人が言ったとかで、急にその気になったらしい。手に持っていたものを全て戻してしまったのである。

 

これで一応用事は終り。

回転すし でも行こうという。

 

運転手への慰労みたいなものである。

回転すし  結構食ったが1700円だったらしい。

 

半日、潰してのデ―ト、出費は2000円也である。

年金生活は、こんなに質素なのだが・・・・・

 

 

★日新信用金庫では、アメリカの娘のところに遊びに行くのに、25万円ほどをドルに代えていた。

上手く出来ていて、100ドルや300ドルと言うのもあるらしい。

円高で100ドルが8000円ほどである。 孫3人の小遣いに100ドルづつ1枚のチェックでやるのだなどと言っていた。

宿泊費も要らぬし、飛行機代も息子に頼んでタダなのに、それでもそれくらいは持っていかねば不安なのだろう。

こちらの2000円とは、どうも桁が違うように思う。

 

★9月半ばまで2ヶ月ほど、私は留守番だが、こちらはホントに生活費が要る。

一体幾らぐらい、おいていくのだろうか?

ずっと現役時代からだが、結構お金には無頓着だし家内に任せきりである。

 

人間、お金を使う時の感覚は、その場その場で全く変わってしまうモノである。

多分、家内の留守中に、車を買い替えることになるだろう。

まだ、どのようにするか決めてはいないのだが、この判断はちょっと変わると100万円が変わってしまったりするのだが、その時の発想の桁は、それでも『まあ、いいか』となってしまったりするのである。

車を買うことに対する家内の条件は、価格のことなど一切なくて、『色は濃いのはダメ』 その理由は汚れが目立つから。

私が、洗車などしないことはお見通しなのである。

 

どうも夫婦揃って、日常生活の金の単位と旅行や車では、ホントに同一人物かと思うような変わり方である。

人間の発想は不思議なものだと思う。

 

 

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私のトモダチたちと 『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』

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★私は、元来いろんな方と、同じようにお付き合いをしながら生きてきた。

ネットの世界に入ったから余計にそうだと思うのだが、まさに、いろんな方たちとのお付き合いがある。

結構、社会的に地位の高い人も、普通の方たちとも、そのどちらにも同じように接し、同じ言葉で喋ることが出来るのが自慢である。

世の中にそんなに『エライ人』などいないと思っているし、同時に『エラクナイ人』もまたいないと思っている。

 

★今度の日曜日、東京で

『酒井文人&クラブマンレースを語る会』というレース関係の会合があって、カワサキの関係者ではライダーを除くと私と平井稔男さんの二人だけにご招待が届いている。

MCFAJのモトクロスが華やかだった旧い旧い時代で、カワサキがレースを始めてまだ数年の時代だから、私や平井さんの年寄りにしかその資格がないのだが、そこに集まるであろうライダーや、他メーカーの人たちなどとも結構顔なじみで、懐かしい人たちは多いのである。

その会合は3時からなので、折角の久しぶりの東京だからと

 

 この人に会うことにした。

北見紀生くん。 

会社を辞めてからの方が『有名人』で雑誌に取り上げられたりしている。

 

 

mixi の中にこんな承認制のグループがある。何年か前にひょんなことで繫がって、承認して頂いてメンバーになっている。

多分かってのカワサキのメンバーの中では私一人がその中にいるのだと思う。

北見君は、私の現役時代、東京営業所の所長をしていたころのサー−ビス工場の責任者であった。

当時から腕は確かなのだろうが、少々変わっていて、変わった人が好きな私は極力面倒を見たのだが、サラリーマンとしてはなかなかいい評価が貰えなかったのかもしれない。

然し、一般社会の特にライダーたちからは、抜群の評価なのである。

大体、私が『いい』と思う人は、会社の一般的な評価はそんなに高くはないことが多かった。

変わった人、オモシロイ人はなかなか会社では『評価されない=エラクなれない』ことになっていることが多い。

だから『エライ人』はたいして『エラクない』と思ってしまうのである。昨今の東京電力や関西電力の社長さんがたを見ても、どう考えても『エライ』とは思えないのである。

 

★上に添付した写真は、昨日Facebook で 北見紀生くんを信奉する 千葉良樹さんが、

『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』 という昨日たちあがったグル―プのサイトに投稿されたものである。

サイトの中の記述の一部をご紹介しよう。

・・・・・住宅地の中のガレージに伺うとタンクを外し、10分・・・・
ポイント・点火時期・テンショナーを何やら触って、エンジンを《一発》でかけておりました。
「カワサキのバイクは壊れないんだよ・・・」
まるで別物になった我軍のZ2で、力を取り戻したエンジンは3日でチェーンを伸び切らしてしまいまた富ヶ谷に伺うことになりました。
それ以来わがバイクの主治医を無理やりやって頂いております。
画像は92年のミスターバイクBG1月号です。北見様の横に写っているバイクが私のZ2です。・・・・

千葉良樹さん、mixiでは『職権打刻』さんと仰る。どのようにして繫がったのか忘れてしまったが、兎に角繋がっている。でもまだお会いしたことはナイ。

 

 

 『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』 というこのグル―プ、Zの熱烈なファンの清水久美樹さんが立ち上げられたものである。

 

世界のZ1のFANを集めようとネーミングも英語になっている。

私にもご招待があったので、まず『Zの真打ち』 Z1の開発責任者 大槻幸雄さん、そのエンジン開発者 稲村暁一さんをお誘いし、

さらにZ1会のメンバー達でFacebok をおやりのメンバーなどをご招待をした。

カワサキ関係のメンバーが多いのは当然だが技術者だけでなく、開発、生産、品証、販社、販売店、レース、広報などなど各分野のプロたちがいっぱいなのである。

今のところ、こんなメンバー40人ほどである。 今後もどんどん増えるだろう。

 

 

●『Zが好きだ』  と仰る方、お気軽にご参加ください。

どなたでも参加できます。  

どなたでも『いいと思う方』  招待自由です。

 

 

こんな方も参加されている。

 早速、Z1のデザイン担当の多田さんから

Norimasa Tada Z1デザイナーの多田と申します。昨年、「Z1デザイン開発・モックアップ完成40周年記念回顧録」冊子を40部作成・・残部ありません。本年も「Z1生産40th記念年冊子」を30部作成。
各地のZミーティングに、夫婦ご招待を受けて飛び歩いております。
Z1デザインは、たった一か月間の期間であった。ハードスケジュール土日なんてありませんでした。今なお忘れられません・・・デザインコンセプトメーキング、スケッチ、意匠図作成、クレーモデル、木型モデル等てんてこ舞いでした。USへのモックアッププレゼンも良き思い出です。今、種子島さんにKMCミュージアム用のデザイン開発ストーリーを和英文チェック、訂正をして頂いている最中です。特に、浜脇さんと大槻さん、ALAN MASEK 氏、種子島さんにも大感謝!・・・・・多田でした。

こんなコメントが流されていた。

Facebook のシステムはよく出来ていて、英語にも自動的に翻訳が可能だし、英語も日本語に翻訳できるそうである 。

いつの日にか、かってのKMCの当時のアメリカ人の頂点、Mr. マセック など参加してきたら最高である。

 

★Facebook はオモシロイ。

 今日とりあげた、千葉さんも、清水さんも、まだお会いしたことはないのだが、『お会いしてみたい方』である。

今度の日曜日7月1日、北見くんのところで、清水さんとは、どうやら会えそうなのである。

『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』

ぜひ世界を舞台に展開出来ればいいなと思っている。

Z1の世界も、Facebookも世界展開なのである。

アメリカで開催される来る9月8日のZの関係者のミーテングが開催されるころまでには、ちゃんとした形に仕上げたい。

 

私も『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』の代表として参加出来たりしたら、最高である。

 

 

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二輪、カワサキの世界

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★なにするとなく、昨日は二輪の世界を彷徨っていた。

 

 

 カワサキモータースジャパン‏Kawasaki_JPN

【お知らせ】今週末6月30日(土)12:00〜 Kawasaki PLAZA仙台が新規OPENいたします。

東北初のKawasaki直営店が開店いたしますので冷やかし半分ぜひ遊びに来てください!!くわしくはこちら  

 

 あさ、ツイッターでこんなニュースを見つけた。

アレ、こんなに綺麗に建ったのか? と思ったのが第1印象である。

昭和43年(1968)にこの土地を見つけて買ったのは私の時代なのである。

不動産屋さんからは、『川崎が買うんだからもっとでっかく買えば。ほかの人たちは買おうと思っても理由がなくて買えないのだ。買ってさえおけば、幾らでも儲かる』

確かに、そんな時代であった。いろんな業界が郊外にどんどん大きく進出して、土地を次々に転売して儲けて行ったそんな時代であった。

 

だけど、川崎航空機は固い会社で、そんな大きな土地はダメ、と言うのでバイパス沿いの斜めの土地しか見つからなかったのである。

バイクの倉庫を建てるのだから『まあいいか』と、東北6県にバイクを運ぶ中間倉庫を建てたのである。

そんな、斜めの土地にショ―ルームなどちゃんと建つのかな、と思っていたので、添付された写真を見たときは、別に土地でも手当てしたのかな?と思ったのである

 

 

貼付のサイトを見ていたら、二輪の駐車場とかで、こんな斜めのカドの写真が出てきて、間違いなくあの土地だと懐かしく思ったのである。

この場所は、昭和45年に、当時としてはまさに珍しかった、日本で初めてとも言える『メーカーの直販ショップ』を建てた場所なのである。

その責任者をしてくれたのは、今の服部カワサキの先代、服部謙治くんである、まだ宮城カワサキの工場長兼務の時代であった。

今から、42年前の話で、そのころの直販ショップは、東北モトクロスチャンピオンの服部君が担当して、最新のレースキットなどがあったりして、なかなかの話題性で、結構人たちが集まっていたのである。

直営店舗なのだから、それに見合う高いレベルのソフト、ノウハウが欲しいなと思う。 『冷やかし半分』などで来る人などに期待したらダメだと思う

 

そんな話、多分今のカワサキの人たちも知らない話だろう。 

服部謙治さんにでも聞いてみて欲しい。

 

 

★それから40年も経って、二輪の販売網は、世の中の変わりように比べたら、あまり変化もなく同じようなスタイルで動いている。

それでもこんなサイトもあったので、少しだけ安心した。

でも、Goo Bike とは一体何者なのか?   その辺のところは全くの門外漢になってしまっている。

 

 

 

★昼過ぎ、私のFacebook のウオールに突然こんな写真が流れた。

カワサキワールドの吉田高広くんがアップしているのである。

右から、Facebook に入ってきたばかりのZ1のデザイン担当の多田さん、真ん中も私が先日のZ1会の時に薦めて参加した、かっての黄金時代山本隆、金谷秀夫、星野一義などのメカニックを務めた藤原良さん、

そして左は、今や世界のZの情報は、この人が一番詳しいのではないかと思われる登山道夫さん、通称カバン屋さん。

この9月8日にアメリカで開催される『Z140周年の会場』KMCのショールームも、この春見てきているし、ドイツでZのことなら、この人と言うMick さんとはツーツーだし、

40年前KMCのアメリカ人のトップ、Mr.マセックとも繋がっていて、カワサキの内部の人より早く情報は伝わったりするのである。

NPO The Good Times の事務局長で、私と車なら3分ぐらいのところにお住まいなので、『登山情報』は私にも直ぐ伝わるのである。

今朝も、今日は多田さんや、藤原さんと会えると喜んでいた。

昨日あたりたちあがった『KAWASAKI Z1FAN CLUB』の仕掛け人ではないかと思っている。

 

こんな、Z専門の「スーパー カフェレーサー クラブ」というブログをお持ちで、そのクラブを纏めたりしておられる。

 

★この週末は、また二輪関係でいろいろある。

東京で、二輪に掛けては専門家みたいな人たちとばかりのお付き合いになるのだが、

マシンについては、殆ど分からないのに付いていけるのは、なまじっか解ろうとしないからだと思っている。

技術や、マシン以外の分野で勝負してるから、何とかなっているのだろう。

 

★ブログを書いてる途中でSkypeで電話が掛ってきた。、

これは横浜の松島裕さん、『二輪文化を伝える会』のキーパーソンである。

明日は、東京で、終日ご一緒することになっている。その打ち合わせの電話である。

 

朝、9時、羽田東急ホテルに集合。平井稔男、村島邦彦、松島裕さん、そして『KAWASAKI Z1 FAN CLUB』を立ち上げられた清水久美樹さん、初対面である。

お茶でも飲んでそのあと村島さんの車で、富ヶ谷の北見紀生さんを訪ねる。

ここにはチームイワキの高木さん、カワサキのショップをしている西郷さんも来るとか。

3時からは有楽町で『酒井文人&クラブマンレースを語る会』に平井さんと出席。山本隆君もそれに加わる。

 

最近、とみに二輪づいている。

 

 

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ユニクロ

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★昨日はユニクロに家内のお伴をして行ってきた。

少し前だが『ユニクロに立ちはだかる壁』などと言うブログを読んだな  と思いだして探してみた。検索で直ぐ見つかるから便利な世の中である。

 

 

 

そのホームページなども、店内の広告なども綺麗で派手だし、世界にどんどん店舗を拡充のようだから、

ものすごく好調なのかと思っていたが、このブログの論調ではそうでもなかったのである。

 

 

確かに、対前年度の売上対比では、この2年間ほどは前年度を下回っているのである。

改めて、大西宏さんのブログを読んでみたが、なかなかオモシロかった。

マーケッテングの観点から、その指摘は非常に興味深いものである。こんなことが書かれている。

 

ニューヨークの5番街とか、銀座とかに旗艦店を華々しくオープンさせたユニクロ、「毎日の目覚めを快適にする」をコンセプトにした新発想のソーシャル目覚ましアプリUNIQLO WAKE UPの話題もあってさぞかし絶好調か感じさせますが、国内の売上ではどうも絶好調だった2009年秋冬以降は、壁にぶちあたっている感じがします。・・・・・

5月は、ゴールデンウィークおよび下旬に実施した誕生感謝祭の販売は好調に推移いたしましたが、中旬は気温の低下により、夏物の動きが鈍かったこと、土日祝日の数が昨年に対し2日少なかった影響により、既存店売上高は前年を下回りました。

天候と土日祝日の数に不調の原因を求めるところは、なかなか優等生回答ですが、・・・・・・・ アパレル業界に消費回復の明るい話題が続いているなかで、ユニクロが伸び悩みはじめています。 売上増を出店数を増やすことに頼り始めているというのはあまり健全とはいえません。・・・・・・・
・・・・・・アパレル業界は在庫リスクとの戦いであり、ファストファッションの場合は「売れたものを造る」仕組みになっています。・・・・・ 企画から製造のリードタイムをいかに短縮するかで効率に差がつくのですが、一般には2週間程度とされています。   しかしユニクロは大量発注、計画生産が前提の仕組みで、リードタイムが6ヶ月程度かかっているといわれています。 「造って売る」ビジネスなのです。今売られているものは、半年前に企画がスタートしたものだということです。
それではトレンドを追うにはむいておらず、トレンドの影響をあまり受けない「進化した下着屋さん、実用衣料屋さん」なのです。 いかに「UNIQLO WAKE UP」で素敵な目覚めを提供してくれても、ウキウキする素敵なファッションを提供するには、仕組みという根本的な問題があって、ちょっと動きが鈍いのです。 その限界が来ていて壁にぶつかりはじめているということでしょう。・・・・・
      ★果たして、今年になってどんな推移になっているの?だろうか   上の分析は『ビジネスの仕組み』に関係していて、なかなかオモシロい。 今週はウイークディと昨日の週末の2度もユニクロに行ったのである。   上の分析にもあったが、確かにウイークデイとはなったく違った様相になっていた。   ● まず、客足が全然違う。   ● 同時に価格も、全然違うのである。  大体25%は安くなっている。   ● それに対応して開店時間も1時間ほど早くなっている。       たまたまだが、着いたら開店2分ほど前だった。並んでいる人もいるし、車の中で待ってる人もいる。駐車場はほぼ満杯なのである。         10時開店、 確かに安くなっている。           このメガネは、990円で売られていた。         10時20分ごろ、既に隣の駐車場も満員である。 先日ウイークデイに、商品を観に来ただけの人もいて、そんな人は買うモノを既に決めてから来店しているのだろう。 10時15分には店を出ていく人もいた。 店内滞留時間15分ほどである。           ★家内の買い物は、アメリカの孫へのお土産が主だから、何でもいいのである。   アレやこれやと、探すものだから、ちょうど30分掛ったのである。   一人あたりの買い物価格は、一体どのくらいのモノなのだろう。   『造って売る』  6ヶ月もの『在庫商売』、  二輪の商売とよく似ているが、競争相手は『なに?』  で 『どこ?』 なのだろう。     そして、6月、7月はどうなのだろう。   ファッションと言っても 単価の安い計画生産商品、なかなか難しいのだろうが、 中国などの開発途上国市場での、この単価はどんな位置づけになるのだろう。   バイクなども30年前と違って、今や人口の多い、中国、東南アジヤ、ブラジルなど新興国がメイン市場なのだから、ユニクロの将来も明るいように思うのは、『素人』なのだろうか?    

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頂き物

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★40年も経つと、家の中にはいろんな頂き物がいろいろとあるものである。

自分で買ったモノも勿論あるのだが、どちらかと言うと『頂きもの』が多いのである。

そして、その一つ一つにいろんな想い出が収まっていおる。

 

ふと、そんなことを思って、家の中にあるいろんなモノの写真を撮ってみた。

どなたに頂いたのか、はっきりと記憶しているものもあるし、全然忘れてしまっているものもある。

絵など芸術品の価値はどんなものか全く解っていない。

ひょっとしてめちゃ高価なモノもあるのかも知れない。

 

然し、そんなことよりも、その方との想い出の方が懐かしい。

 

 

 

 

まず、この2点、

これはヤマハオートセンター、今のレッドバロンの創設者 杉浦斎さんからの頂き物である。

品物がどうのと言う前に、 『杉浦さんから頂いた』ことが自慢である。

二輪業界では少々うるさいことで通っている杉浦さんである。私自身も彼と話しているその殆どが、仕事上の交渉事で『やり合っていた』時間なのである。朝の9時ごろから夕方の6時ごろまで、仕事の話から脱線せずにずっと議論していたような仲である。

喧嘩ばかりしていたのだが、お互い案外気があって、何度もお会いしたことがある。業界の会合などで『杉浦さんにモノ頂いた』と言うだけで、みなさんビックリなさるのである。お酒なども頂いたが、モノで残っているのは、この2点かも知れない。

ちなみに初めて杉浦さんと会ったのは、ヤマハオートセンタースタート直後、まだ岡崎の1店舗だけのころで、カワサキ特約店制は、最初大阪南、京都、そして岡崎営業所の3点でスタートしたのだが、その時の特約店だったのである。

今は、多分世界で一番大きいバイク屋さんになって、ホームページを見たら会長さんになっておられる。一度仕事を離れてお会いしてみたい方ではある。

 

 

これは、多分、宮本進君、かって大阪営業所時代の仲間である。

宮本、古石、竹内君、3人とも大阪営業所時代以降ホントにお世話になったと思っている。3人3様にほかの人にない実力者の面を備えていた。

後、滋賀カワサキなど、やられていたが、船場の先代岡田博さんなどと、ちゃんと話の出来る実力者で、カワサキの特約店制はある意味彼の力で出来たのだと秘かにそう思っている。岡田博さんがアレほど熱心に推進されなかったら、・・・と思う。『船場さんをその気にさせたのは、彼の力』なのである。

ちょっと大企業の人たちには真似の出来ないオモシロいところがあった。 昨年だったが、鈴鹿で有名な、さざきひろしさんが、出身が大津と言うので『宮本進知りませんか?』と聞いたら『親戚です』などと言ってたが、ホントかな?

 

 

これは岩崎茂樹君が、何を思ったのか亡くなる寸前に家まで届けてくれたのである。

彼も犬好きだったし、後ろの写真の3匹の子犬の母親は、岩崎君の紹介してくれた犬屋さんで買ったのである。

岩崎君とは、仕事でもレースでも、いろんなところでお世話になったが、今ネットの世界で繫がっている何人かも『岩崎茂樹君とのご縁』でつながっているのである。

 

 

 

 

このような芸術品の価値は全くワカラナイ。

ただ、何となく、『いいような気もする』のである。

親しい方からの頂き物だが、曰く

『今はそんなに高価ではありませんが、伸びる可能性のある人の作品です。』と言うふれ込みなのである。

作者がどなたなのかも知らないが、ひょっとして今なら『何百万円の価値』があるかも知れないのである。

 

 

これは寝室の窓辺に置いてある。

木彫りのトリと像はいずれも、インドネシアか、東南アジアのお土産である。

左は川重の大竹秀雄さん、右の像は吉永オートサービスの吉永興世さん、お二人ともはやく亡くなってしまった。

どちらも、かけがえのない仲間であった。

そして真ん中は、故堀川運平さんが主催された企営会の優勝カップ、銀製である。優勝カップは幾つもあるが、銀製はこれだけである。

何よりも13回の優勝者が13人いて、その取り切り戦で優勝したので家にある、これは宝物である。

 

大竹、吉永さんもそうだが、この13人カワサキの二輪事業の功労者ばかりの名前が並んでいる。

第1回  田崎雅元    昭和50年12月20日

第2回  田中 誠    昭和51年4月21日

第3回  橋本 賢    昭和51年10月2日

第4回  宮田敬三    昭和51年12月4日

第5回  那波義治    昭和52年3月19日

第6回  土井栄三    昭和52年6月18日

第7回  古谷錬太郎  昭和52年9月17日

第8回  堀川運平    昭和52年12月3日

第9回  苧野豊明    昭和53年3月18日

第10回 野田浩志    昭和53年7月15日

第11回 若山禎一郎  昭和54年3月17日

第12回 酒井勉     昭和54年7月21日

第13回 前田祐作    昭和55年5月2日

 

そして取り切り戦がいつだったのか、私の手元にカップはあるのだが、いつだったのか?

こんな想い出が、家の中にはいっぱい残されている。このほかにもいろいろあるのだが、想い出を懐かしむ年代になってしまった。

この時代、なかなかよかったのだが、まだまだ二輪事業は安定期には入っていなかった。

本社財務から堀川運平さんがお目付け役で単車に派遣されていた、そんな時代なのである。

 

ただ、不思議なことに、本社から派遣された堀川さんも、そののち来られた大庭さんも、

本社に戻られる時は、『単車ファン』になって戻られたのは、『カワサキの単車事業』に、何かいいものがあったのだろう。

 

 

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