★鈴鹿サーキット50周年という。
カワサキZ1発売40周年である。
そして今月、NPO The Good Times のプロジェクトとして『二輪文化を伝える会』がスタートした。
で出しから、非常に好評である。既に100近い『いいね』を頂いている。
これは東京の村島邦彦さんや、松島裕さんが、レースを中心に『二輪文化』を語り継いでいこうというプロジェクトである。
たまたま、カワサキの創成期のレース環境についてもよく解っている。
資料を纏めておられる松島裕さんのために創成期のカワサキの特にレース関連を記述してみたい。
1966年までレースを担当したが1965年までは時系列にあったことを中心に、最後の1年はこの時期の纏めも兼ねて、2回に分けて記述してみます。
今年の10月、『二輪文化を伝える会』の第1回講師は山本隆君に決めているようなので、足らぬところは彼が補ってくれるでしょう。
日記から辿っているので日時などは間違いありません。
ご関心のある方はお付き合いください。
1961(昭和36年)
この年から、明石でのカワサキの二輪車の一貫生産が始まった。車種はB-7。
私はこの年の12月に新設された発動機事業部営業部の単車係に異動、出来たばかりの新職制であった。
この時期の営業はカワサキ自販という別会社で担当されていて、レースなどやったとしても販社ベースのレースであったはずである。
フィリッピンの小野田中尉の弟さん、小野田滋郎さんなどが、三橋実などに接近していたはずである。厚木のカワサキコンバットはこのあたりから生まれたもので、川崎航空機にその後引き継がれた。
1962(昭和37年)
この年までは、単車事業は非常に不安定であった。B-7はクレーム発生でこの年1月度の出荷台数を上回る返品があって、生産台数がマイナスになったりした。
3月に発動機と分離され単車部業務課となったと思ったら4月15日には発動機事業部第2営業部単車営業課になったりした。
この年の8月に125ccB-8の発売準備に入っている。まだレースなどの雰囲気はそのカケラもなかったのである。
●この年の9月20日に鈴鹿サーキットがオープンしているのである。
●10月4日、スタートしたばかりの鈴鹿サーキットに私は行っている。
これは協同広告がサーキットに広告を出さないかという話があり、そのための現地調査だったのである。
阪東調帯の方と一緒に、大阪駅10時半に車でスタート、勿論地道、栗東経由で鈴鹿着13時。
まだメインスタンドも土だったと思う。建設途中だという認識であった。コースは勿論出来ていて、レーサーが130キロで走っていて、そのノイズに驚いたのをよく覚えている。
● この年の11月に第1回全日本ロードレース大会が 鈴鹿サーキットで行われている。
●これは、推測だが、
この11月のレースをカワサキの単車工場の人たちがバスを仕立てて観戦した。多分仕掛け人は兵庫メグロの西海社長だと思う。単車工場の中村治道さんや高橋鉄郎さんなどが行かれたのだろう。このレースを見て、カワサキのレース熱は一気に工場を中心に燃え上がった。高橋鉄郎さんはこの話をしょっちゅうされるのである。
昨年の『カワサキの想い出そして未来』の時のご挨拶もこの話から始まった。
1963(昭和38年)
この年の1月に、発動機事業部営業部管理課が出来て発動機と単車の全体の管理担当になった。
●そして5月19日に
兵庫県青野ケ原でのモトクロスのレースが行われその結果は1位から6位まで独占 という考えられない結果となったのである。
このレースが川崎航空機が行った初めてのレース活動であった。
このレースに使われた車はB-8、会社が予算をとって承認したレースではなかったので、多分マシンも工場が何とか捻出したのだろう。
兵庫メグロから川崎航空機の工場に入られた松尾勇さん独りで造り上げたはずである。その松尾さんは西海社長がカワサキでレースをやるために送り込んだのだと思う。
それを受けてマシンを造りチーム編成をしたのは、中村、高橋さんらを中心とする工場の熱心なメンバー達だったのである。
マシン制作も時間外にボランテイァでやられていた。こんな動きがあることは、社内でも当然噂になって、当時の勤労部長や企画部長はどちらかと言うと『苦々しく』思っていたことは間違いない。ただ技術部の山田さんや営業の小野さんのように陰で支援された方が居たのも事実である
全然予算もなくて、私の上司の故小野助治さんが営業の予算を管理していた私に『ちょっとパン代でも出してやれ』と言われて、幾らかのお金を調達したのである。そしてチームの面倒を私と一緒の職場にいた故川合寿一さんが野球部のマネージャーの経験を生かしてみることになったのである。
当日はレース場にも行っていないし、みんな聞いた話である。
マシンはB-8に市販車改造、ライダ―は全て社内のテストライダーや、バイク好きな社員。この大会には鈴木、ヤマハの契約ライダーも、のちカワサキの契約ライダーになる山本隆君たちも、みんな出場していたのだが、結果はカワサキが1位から6位まで独占の完全優勝を飾ったのである。
この完全優勝は、当日雨が降って水たまりがいっぱい、他メーカーの早いマシンやライダーたちはみんな水を被って止まってしまったようである。防水対策を万全にしたカワサキだけが走りきった結果のようである。これら防災対策などは工場関係の技術者が多く参加していた賜物かも知れない。
このあたりのことは山本隆君が非常に詳しく彼一流の話術で話しますので、松島さん60おじさんにお聞きください。
当時の懐かしいメンバー達である。
●この青野ケ原を機会に、単車事業の様相が一転したのは事実である。
●この年の後半から、ライダー契約も始まって、関東には厚木に三橋実がカワサキコンバットと言うクラブを立ち上げ、梅津次郎、岡部能夫などのライダーを集めたし、関西では神戸木の実クラブの歳森康師、山本隆などと契約することになるのである。
それらは川合寿一さんがそのまま引き続いてマネージャー役を果たしていた。カワサキコンバットの契約はカワサキ自販の方で担当していたはずである。川崎航空機には予算など殆どなかったのである。そしてチームは営業の要請を受けて地方回りばかりやっていて、連戦連勝だったのである。何も分からぬ私などはホントに強いのだと思っていた。
1964(昭和39年)
前年度、カワサキの単車事業をどうすべきか、日本能率協会の調査チームが入っていて、その調査結果に青野ケ原のレースは大きく影響しているのである。
調査レポートは、『現場は意気まだ盛んである。事業として継続すべし。その条件の一つとして広告宣伝課を創ること』が上げられたのである。
そして昭和39年1月より新たに発動機から分離し、単車事業部が発足して、新しく出来た広告宣伝課を担当することになったのである。
その予算は年間1億2000万円、当時の私の年俸が40万円ほどだったからべらぼうな金額で、これは川崎航空機の開発費として本社予算で計上されたのである。
この開発費が本社が計上してくれた3年間、私は広告宣伝課を担当し、使いきれないほど裕福な予算を持って、その管轄の中にレースも入れて統括することなったのである。当時明石工場の誰よりも大きな予算を持っているのは、まだ係長にもなっていない私だったのである。
●この年の春、MFJの第1回日本グランプリが相馬が原で開催されている。地方回りでアレだけ連戦連勝であったカワサキも他メーカーのファクトリー相手では全然歯が立たず6位にも入れぬ惨敗に終わった。
●それでも、以降マシン開発も、ライダー契約もカワサキコンバットへの支援も、膨大な予算の中から充てて、カワサキコンバットには月20万円のライダー養成費を渡たし、全国の有望ライダを集めて強化していったのである。その中にいたのが星野一義であり今星野インパルを経営担当している金子豊もその中の一人なのである。
安良岡健がカワサキコンバットに参加したのもこの年からである。資金は豊富だったから日本のトップラ―ダ―を全部契約したら勝てるなどと思ったりした。
●春のMCFAJの朝霧では、山本隆がオープンクラスで初めて優勝を飾った。カワサキの全日本クラスでの初優勝である。
●この年、90ccJ1が世に出て、そのレースマシンが9月13日の山梨モトクロスにデビューした。この時初めて私はレースチームのマネージメントを現地で担当した。当時のレーシングチームは技術部ではなくて松尾勇さんがリーダーの製造部のモトクロス」職場がマシンを担当、レースの指揮は三橋実。技術部はエンジン供給だけ、運営費は全て広告宣伝費で私が担当していたのである。
初めての現場は技術オンチの古谷では頼りないと、高橋鉄郎さんが当時工場にいた田崎雅元さんをつけてくれて、一緒に甲府へ行ったのである。今でも田崎さんと仲がいいのはそんな時代のレース仲間だからである。
このころには結構カワサキのレーシングチームも力をつけていて、優勝するのもおかしくないまでにはなっていた。
●そして10月10日、東京オリンピックの開会式の当日、
伊豆丸の山高原で行われたMCFAJのモトクロスには4種目中3種目を制して、日本選手権は山本隆が久保、荒井を抑えて獲得したのである。これがカワサキのレースを確固たるものにしたと言えるであろう。
●モトクロスをより一般的なスポーツにすべく、毎日広告を通じてスポニチ主催のモトクロス開催を仕掛けていたのである。
当時地方の草レースでの連戦連勝の結果を各新聞に送っていたので各紙にその結果は小さくではあったが、報道され続けていた。そなことをしていたのはカワサキだけだが、広告宣伝課自体がレース担当していたのと、各紙は膨大な予算を持っているカワサキを無視出来なかったのである。電通、博報堂、大広などの広告代理店もみんな出先ではなくて本社企画の担当だったのである。
この第1回大会が和歌山紀の川で、11月8日に行われた。この日の朝の練習で岡部能夫が荒井市次と接触して指を怪我してしまったのである。MFJもMCFAJも関係ない、スポニチ主催のモトクロスだったので、
岡部の代わりに、岡部の名前で出場したのが、カワサキコンバットの運転手で来ていた星野一義なのである。そんなことで出場した星野だが、何周もしないうちに転倒、脳しんとうで救急車で病院行きになってしまったのである。
当時は名もない新人だから誰も気に懸けていなかったのだが、昼から戻ってきて、オープンに走らせてくれと言うのである。そのオープンで6位ぐらいに入ったのが、星野一義のデビュー戦なのである。それがきっかけで星野はその後のレースも走るようになったのである。
星野が初めてレース場を走った日 雑感日記参照
1965年(昭和40年)
●この年の2月13日、突如山本隆、歳森康師の二人から辞表が出て、BSに移籍するというのである。これまではライダー契約は川合寿一さんが担当していて、私はヨコから見ていたのだが、この事件のために神戸木の実の御大片山義美さんと話をすることになったのである。いろんな話が出たのだが、カワサキのライダー管理がもう一つだというのである。片山義美の言うことも一理あって、結局『じゃ私がやりましょう』とレースライダーの契約など直接担当することになるのである。
この話は、西海さんと片山から、山本、歳森にカワサキに留まるよう言い渡されて無事解決したのである。
●そして3月にあった名古屋東山の第2回MFJ 全日本では星野、歳森がもう一歩のところで優勝を逸したがまずまずの成績、4月朝霧のMCFAJの全日本はアマチュアクラスで星野が優勝を飾っている。前年度11月のレースデビューなのだがそれなりの素質があったのだと思う。MFJのレースもぶっちぎりだったのだが最後の1周でパンクでリタイアだったのである。
●5月の鈴鹿で行われたジュニアロードレース、このレースに山本隆がどうしても出たいという。
会社ではロードレースへの出場はまだ認められてはいなかったのだが、松尾勇さんにマシンは造れるかと聞いたらYesと言う返事なので、鈴鹿モトクロスに行くということで出場を決めたのである。山本独りでは心もとないので、北陸の塩本と言うロードをやっているライダーと2台のマシンを都合してくれたのは工場にいた田崎雅元さんなのである。
5月3日、当時の鈴鹿は雨になった。全体のタイムが落ちて滑り易くなって、モトクロスライダーの山本隆には有利に働いた。
ホンダの神谷忠さん、もう一人のホンダに続いて、カワサキの山本隆が3位で表彰台に上ったのである。
会社への報告はホンダに続いてカワサキだったということで一気にロ−ドレース熱も燃え上がり、翌月6月のアマチュア6H耐久には3台のマシンを用意することになったのである。
カワサキが初めて鈴鹿を走ったライダーは、モトクロスライダーの山本隆だったのである。
カワサキが初めて鈴鹿を走った日 雑感日記 参照
●この6月13日の鈴鹿6H耐久がカワサキの正規のロードレース参戦で、この時初めてレースチームに監督が誕生したのである。
それまではカワサキコンバットの三橋実と松尾勇さんで現場は仕切っていたのだが、このレース監督が大槻幸雄さん、のちZ1開発を担当された大槻さんである。そして助監督が田崎雅元さん。豪華メンバーだが当時は単なる元気のいい若手であった。私はレース運営のお金とライダー関係を担当していた。
車は3台、1台はテストライダーチームもう1台はカワサキコンバット、そしてもう1台は神戸木の実の歳森康師なのだが、山本がジュニアの資格になっていて、『早いのが居るから連れてきてもいいか』と歳森が言うのである。
そして連れてきたのが金谷秀夫であった。契約など一切なしで乗った金谷だが、タイムは金谷が一番早かった。
星野も金谷もカワサキのデビュー戦は、誠に『いい加減な』スタートなのである。『いい加減』なのは私の特技みたいなものだから、これでいけたのである。
●7月にはBSが日本GPに出場するとか言う話もあって、カワサキのロードレース熱も一挙にヒートアップしていくのである。
ところが7月にはレースチームの大槻さんはドイツへ留学、田崎さんはアメリカへの異動が決まって、8月にはお二人の送別会をやっている。
そして私は、MFJの運営委員会の委員に出席することにもなったのである。ホンダ、ヤマハ、スズキはみんなパリパリのエライさんなのにカワサキはまだ係長にもなっていない私が委員なのだが、残念ながらカワサキにはまだレースなど分かる人はほかにいなかったのである。
●7月31日には鈴鹿24H耐久レースが開催された。
MFJの運営委員もしていた関係で現場にいた。夕方の5時スタートだった。初めての本格的な耐久レースでもあり、出場車両は数台のヤマハ以外は全てホンダであった。確か24時間で走る距離は香港ぐらいまで行けるとか言ってたと思う。いろんなことがあって24H耐久レースはこの1回だけで終わってしまったはずである。
●9月には日本GPの出場も決り10月のGPには安良岡健がエントリーはしたのだが、結局予選2周でリタイヤしてしまったのである。
★鈴鹿サーキット関係の二輪レースはこの年で一段落して、翌年はFISCOでの開催が計画されるのである。
この年までの3年間が、鈴鹿サーキットについても、カワサキのレース展開も全くの黎明期と言えるのだろう。
モトクロスなどではまだまだMCFAJが主力で、クラブチームがメインの展開であった。
むしろメーカーが直接力を入れて主導権を持った運営をしていたのはカワサキだったのかも知れない。