★ 自分自身も78歳にもなって、子どもの頃の話などは昔話の範疇に入るのだろうが、
小学校から中学校の頃、伯父に昔の話をよく聞かされたものである。
不思議なほど、父はそんな話は一切しなかったのである。
長男と次男、本家と新宅の違いなのか、性格なのか、
当時は未だ本家に跡取りが居なくて、私に家を継がせようと思っていたからなのだとも思うが、
よく長寿院の先代の和尚さんのところにも連れていかれて、いろんな話を聞かされたものである。
その明石の長寿院から春の彼岸の通知と一緒にこんな冊子が送られてきた。
★こんなのが送られてきたのは初めてのことである。
いろんなことが書いてあったが、その中の明石のお殿様の話しで、
『松平のお殿様は福井から来られて、それについて明石に来たのだ』とは聞いていたのだが、
その辺のことが詳しく書かれている。
そんな話は、子どもにも話したことはないし、これからも話などすることはないだろうが、
ここに残しておけば、ひょっとして読むかも知れないので、ちょっと写しておこうと思うのである。
『明石城の築城は、二代将軍徳川秀忠の命により小笠原忠真が元和5年(1619)正月から着手しました。明石海峡と山陽道を抑えるために、姫路と明石は戦略上極めて重要な場所でした。そのため築城工事は幕府の直轄工事で始まり小笠原家の私工事へと引き継がれました。城下町の設計を、当時小笠原家の家臣であった宮本武蔵が担当したと言われています。
明石城跡は現在は明石公園となっています。二基の櫓、石垣、内堀などが残っています。
明石城の城主は小笠原氏から始まり七代の本多氏まで目まぐるしく交替しました。然し八代の松平直明公から」城主が松平家に安定し約190年続くことになります。
松平家は1682年に越前国大野から明石に移って来られました。直明公の父、直良公が越前木本上司の時、越前に長寿院と言うお寺を建立しました。直明公が明石に移る時に長寿院の住職も一緒に明石に移り、長寿院が松平家の菩提寺となりました。現在の明石の長寿院は元々名前も宗派も別のものでしたが八代城主松平直明公の時に現在のものに改めました。
その後明治維新まで松平家が明石藩を治め家臣や領民から慕われて行きました。』
などと書かれている。
長寿院はちょうど明石の天文科学館のすぐ下にある。
これが松平家の代々の墓である。
明石駅のすぐ北側、明石城の外堀である。
★ずっと昔、戦前のまだ子どもの頃、お盆には松平のお殿様の子孫の方が、墓参りに来られて、
伯父の家に泊まられていた。当時は未だホントにお殿様扱いで、子ども心に大変だなと思ったものである。
私自身は、どうも父に似ているのか、大層な付き合いなどはどうも苦手で、
そんなこともあって明石から三木に新天地を求めてやってきたようなものである。
長寿院には、先祖のお墓がいっぱいあって、大変だったのだが、阪神大震災の時に旧いお墓はみんな崩れてしまって、
お寺さんがそのあたりは全部整理をされてしまったので、今は祖父、祖母からの本家の墓と、父の墓の二つになってしまった。
最近は、こんな先祖の話など、大体何代前ぐらいまで解っているのだろうか?
ネット社会になったから、こうして書いておけば、記録は残っているのだが、
『雑感日記、長寿院』で検索すると、幾つものブログの記事が現れたりするのである。
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