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カワサキ単車物語50年  その10  小型車市場開発プロジェクトー1

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★カワサキが単車事業に本格的に乗りだしてから、昨年はちょうど50年の節目の年であった。

50年の年月のなかで、カワサキは大型スポーツ車で確固たる『独特のイメージとブランド』を築き上げてきたのだが、

今現在、事業の中枢を占めているのは、先進国の大型車ではなくて、開発途上国のKD ビジネスなのである。

1976年(昭和51年)はその開発途上国市場に対する活動が開始された年だったと言っていい。

 

 当時の事業本部では将来の方向としてCMCプロジェクト(コンパクトな二輪車を主として画期的な生産構造をベースに展開しようと言うプロジェクト)が当時の最高責任者吉田専務の下で進められていたそんな時期だった。

1975年10月に販売会社への10年間の出向を終えて事業部の企画室企画グループにに復職し、その年の年末までは『長期計画の策定』に没頭していた。

年末に承認されたその長期計画のベースには『小型車』が主流の年間50万台販売という大量生産販売計画がその骨子とし纏められていたのである。

 

★私自身、その企画案をまとめた企画グループの責任者でもあったのだが、その方向にはリスクが多すぎると思っていた。

然し事業部の中で、既に一つの流れになっているCMCをアタマから否定してかかることは非常に難しかったのも事実なのであった。

そんな状況の中で、1976年の年明け早々に起案したのが、

同じ『小型車』ではあるが、東南アジア市場の小型車戦略の展開を企図し纏めたのが以下の資料で、まず副本部長までの承認を取り、事業部各責任者にも配布して、そのけり出しを個人的に画策したのである。

 

 

 

 

結論から言うとこの年の10月には、

市場開発プロジェクト室 が高橋鉄郎技術本部長が室長兼務されて、新しい職制が発足すると言う新しい展開が実現するのである。

 

★事業本部としても、中枢のプロジェクトとしての位置付けで進められたこのプロジェクトだが、

このように順調に推移したのは、従来の主力市場のアメリカに陰りが見え、新しく進出を推進中のヨーロッパも確たる実績もなく、単車事業の将来の巾を広げるためにも、新しいプロジェクトが欲しかったそんな環境だったのだと思う。

時系列に追っかけてみるとこのようなことで、非常に迅速な展開であることがお解り頂けると思う。

 

●1月 上記『東南アジア市場に関する当面の基本方針』の 副本部長までの承認

●3月 『小型車に関する考察』を塚本本部長に報告、 小型車問題に関する意見具申を行った。

●4月 東南アジア調査団派遣が決定、塚本本部長自らが高橋技術本部長をその団長に指名、調査団メンバーの決定。

●5月、6月 約1ヶ月  台湾、インドネシア、タイ 、イラン、マレーシア の現地調査を実施。

●7月  その調査報告 と 今後の対処方針策定

●8月 『市場開発プロジェクト室』を高橋技術本部長兼任が決定

●9月 その具体的内容や陣容などの検討

●10月 新職制『市場開発プロジェクト室発足』 高橋鉄郎技術本部長が室長兼務、私も企画室より異動して参加決定

 

 

★このプロジェクトが非常にスムースに進んだのは、塚本本部長が非常に前向きに対処されたことが一番で、堀川企画室長の後押しも大きかったと思っている。

普通このような調査団の団長などは、下が決めて本部長は承認が普通なのだが、この団長の人選は本部長自らが推薦決定されたのである。

塚本さんがなぜそんなに積極的になられたのか?

それは3月に纏めて本部長に報告した『小型車に関する考察』によることがが大きかったのではと思っている。

これは本文25ページ、数値資料25ページで本文は私、数値資料は武本一郎さんの二人で纏めた自分で言うのもおかしいが『労作』なのである。

私自身入社以来初めて、塚本さんに対する報告書であったと思う。そういう意味で塚本本部長も新鮮であったに違いない。

 

ちょっと横道にそれるが、私の川崎航空機の入社試験時塚本さんは人事課長で、面接の時の第1声が塚本さんで、『君は成績わるいねえ』から始まったのである。

大学時代野球ばかりで教室には殆ど出ていない。そんなことで成績は最低だったのである。『会社の仕事ぐらいなら、人に負けずにちゃんとやれると思います。』とずうずうしく応えたのを覚えている。

塚本さんはそれを覚えておられたかどうかはよく解らぬが、私は面接の時自分で言った言葉は、退職するまでよく覚えていて、『ちゃんとやれた』と思っているのである。そんな塚本さんへの初めての私自身の想いの籠った書類だったので、意識して『ちゃんと創った』のである。

 

その項目は以下のようなものなのだが、

その内容はそなに大したものではなく、もしホンダさんなど他メーカーなら全然必要のない内容も多いのだが、当時のトップも殆ど二輪のことをご存じないので、まず初歩的な説明から入っているのである。

これは本部長に説明したものだが、同時に企画グループの私の部下たちへの説明にもなっているのである。

事実塚本さんにも『非常によく纏っていて、よく解った』とお褒めを頂いたのだが、同時に企画グループの部下たちにも非常に好評だったのである。

後段では、方針について述べているのだが、前段は全くの初歩的教科書的な内容なのである。

そんなことを書かねば前に進まなかったところが、当時のカワサキの事業部の状況で、技術、生産分野はともかく、マーケッテング分野については、極端に言えば素人の集まりだったのが、カワサキの特色だったのかも知れない。一課長が提案すれば、半年後に新しい職制が出来あがったりしたところが、またカワサキらしいのである。

 

 

 

この中で、特に[?、?項] は、全く基本的は説明なのだが、小型車の世界は、カワサキが従来走ってきた中、大型スポーツ車とは、全然異なる範疇のものであることを、徹底して述べている。

特にホンダのロードパルコンセプトや意匠登録など、そのあたりが、上の方にも下の人にも新鮮に映ったに違いないのである。

単に、10年間マーケットの第1線でマーケッテングの世界に浸かっていた経験だけで書いたものだが、その時期そんな経験をした人は、少なくともカワサキの明石工場にはいなかったのである。

 

 

 

 

 

 ★兎に角、この『小型車に関する考察』は本部長に報告承認、了解を受けて前に進むことになるのだが、

この答申書の中の最初をこんな書き出しでスタートしているのは、上記のような当時の環境では仕方がなかったのである。

 

 

 

そして、事業部での当時のCMCプロジェクトの視点からは、完全に末端市場が抜け落ちており、当時の直販会社の状況など、殆ど加味されず単に、生産構造上の技術的な問題や、台数ばかりが先行していて、個人的には『危険極まりない』と思ってはいたのだが、

事業本部の長期計画の方向の中で、それを担当している企画グループ長としては、そんなにあからさまに私見を述べることまでは、許されておらず、

このプロジェクトは、『からめ手からの戦略』であったことは間違いなかったのである。

 

そのようなことを下記のような『総論』から、間接的に述べているのである。

 

メモは私の資料なので、勝手に本音を書いている。

 

 

★こんな本部長への報告があって、本部長自らが乗り気で、調査団団長を選ばれたのだが、塚本さんが最初に指名されたのは、大槻幸雄さん、あのZ1の開発責任者だったのだが、そのオファーを大槻さんは断られているのである。

多分、『Mr ホースパワー』とあだ名されていた大槻さんは、1300ccの大型車には興味、関心があったのだが、小型車など全然関心外だったのだと思う。本部長に言われても断られるところが、また大槻さんらしいのである。

そんな経緯もあって、団長にはさらに一段格上の技術本部長高橋鉄郎さん に決まったのである。

  

 

 

このプロジェクトの具体的な中味は改めて書くことにしたい。

 

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