★これは5月12日、母の日にFacebook にアップしたものである。
みなさんから沢山の「いいね」を頂いた。
母を訪ねたのに、突如インフルエンザ発生で、面会できなかったのである。
明治42年生まれ、今103歳である。
6月28日になれば、104歳になる。
この写真は、特養の部屋に飾ってあった。昨年の11月ぐらいの写真だそうである。
非常に元気そうなので、その写真を写真に撮ってきた。
今は、そんなに元気ではないのである。
インフルエンザに罹って、一度に弱ってしまった。 つい4,5日前主治医の先生からは、50:50と言われた。
そして一昨日は、今夜がやまと言われて、妹二人を呼んで、一晩特養に泊まったりした。
今日は、もう二人の高槻にいる妹たちにも見舞いに来るように言ったら、やってきた。
今日は至極元気だったという。
ちゃんと解ったようだし、喋ったし、明石の分大のもなかも食べたという。
そんなことだから、このブログも書く気になった。
103歳まで生きれたら天寿は全うしたと言っていい。
これは2年ほど前、東京の伯父夫婦が訪ねてくれたころである。
まだまだ確りしていたころである。旧い写真を見て喜んでいた。
男3人、女3人、母は長女である。
兄二人は既に亡くなっているが叔母も未だ元気だし、写真の末弟の叔父は私とは5つ違い。あまり離れていない。
戦前は、朝鮮京城、今のソウルにいた。
私は中学1年生で、一番下の妹は終戦の年に、京城で生まれた。
だから、いつも京城は、いい思い出がいっぱいなのだろう。 母も未だ30代だった時代である。
懐かしんでいろいろ言っていた。
そんなことで、私も何となくふるさとは京城、韓国のような気がするのである。
そのソウルに、ソウルオリンピックの開会式に、ジェットスキーのデモンストレーションをと、オリンピック委員会から、正規に招待を受けて、戦後初めてソウルを訪ねたのである。
日本、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからそれぞれチャンピオンを集めてのデモンストレーションで、私はその団長を務めさせて頂いた。
オリンピック村に宿舎があって、オリンピックも見れたのだが、開会式の翌日は、私は子どものころ過ごした家や、小学校が見たくてそちらの方で1日をつぶしたのである。
これが戦前の桜が丘国民学校である。 校舎はそのまま残っていた。
家は学校から300メートルほどのそれこそ名前の通りの「桜が丘町」だったので、学校を見つけたら直ぐわかった。
門の造りは少し変わったが、家の形も屋根もそのまま残っていた。
一緒に付き合って頂いた、苧野豊秋大先輩と記念写真を写してきたりした。
家の向こうの山は、何もないただの山だったのだが、頂上に大きな建物が出来ていた。
こちらは家の近くにあった奨忠壇公園である。
冬はずっとここでスケートをして遊んでいた。
これは絵葉書だが、今もちゃんと残っているようである。
この写真は、勿論母にも見せたのだが、今から思うとちゃんと見せたかどうかは、よく解らない。
気持ちだけでも、こんなブログにアップして、明日でも見せれたらいいのだが、最近の視力ではとてもかなわない。
多分未だ、明日は大丈夫だろう。
1週間遅れの母の日、みたいな感じである。