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65歳からの3年間 北海道川重建機時代    自分史

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★1988年から担当していた国内販社関係も1996年10月で後輩に引き継ぐことになって、それ以降は自動車工業会関係など業界団体の仕事ぐらいになって、サラリーマン生活も最後の段階となっていた。 そんな97年3月19日に家に突然川重副社長の髙橋鐵郎さんから電話が入ったのである。『札幌の川重建機の社長を2年間ほどやってくれないか?』と仰るのである。 あまりにも突然だったのでその日は返事を保留したのだが、結局は『お引き受けする』ことに決めたのである。
『北海道川重建機』という社名からは川重の子会社のように思われると思うが、 確かに川重の建機事業部の製品の販売を扱ってはいるのだが、 川重の資本も入ってはいるが、子会社ではなくて自前の代理店なのである。  建機事業部としても子会社ではないので、地元資金だし当然ながら地元の人たちで経営もされていたようなのだが、社長が亡くなられて地元の方が社長をおやりだったのだが、何かいろいろあったようで『川重に社長を出してくれるように依頼があった』ようである。 その候補に私が指名されたのは、かって若い頃に東北で『自前の代理店』を扱っていた経験があったからだろうと推測する。確かに直営の販社は部下みたいなものだから、そんなに問題もないのだが、『自前の地元資本の会社』となるとなかなかムツカシイ面もあるのはよく解る。

★ 実は高橋さんから電話があった当日、東京本社で高橋さん以下当時の建機事業本部の幹部メンバーが何か人事をやってるところに私が顔を出したのだが、『なかなかムツカシクて困っている』というようなことだったのである。
私自身は『単車一筋』で建機事業部など何の関係もなかったから、そんな社長候補に挙がることなどないはずなのに、そんな検討会議の場面に顔を出したものだから、『そうだ、アイツがいる』ということになったような気がするのである。

そんなことでその年の5月末から札幌に単身赴任で勤務することになったのである。



★まずこの会社でのスタートはゴルフ会から始まった。 その辺が自前の会社らしい。 そして直ぐ取締役会があったが、会社のメンバーの他に株主たちが出席されていて 議題は『前社長の退職金の額』というようなことなのだが、 その議論がなかなか『厳しい意見続出』で大変なのである。 初めての取締役会がこんなことだったのだが、 こんな場面の処理はどちらかというと『得意分野』で、 そんな対応からスタートした新会社の社長業だった。
 自前の代理店は、メーカーの子会社と全然違うのである。 社長には当然車が付くし、『運転手をつけましょうか?』と仰るのだが、 運転手は断ったら、『車は4駆のクラウンの新車』が用意されたのである。
 札幌は所謂大会社の『支店長文化』みたいなのがあって、 宿舎もそんな支店長がいっぱいのホテルのような立派なところだったし、 大体、二輪業界はあまり『社用族』のような風潮はないのだが、 業界が異なって、建機業界の交際費などはちょっと桁違いなのである。 これにはちょっとビックリした。  会社幹部の定時後の定位置は毎晩のように『すすきの」だったのである。  車のチケットなどは、何枚ではなくて『一冊』渡されたし、 毎日定時まで社長室にいたら、『なぜそんな時間までおられるのか?』 というのである。 かっての社長さんは、幾つもの会社の兼任だったようで、 ひとつの会社に定時までいることなど、むしろ出来なくて、 幾つもの会社に顔を出していたようである。

★ 会社の性格もあるのだろうが、札幌は5月からのゴルフシーズンは 札幌の支店長などばかりが集まるコンペがいっぱいあって、 5月から10月までの短いシーズンに50回以上のゴルフで、 それも土日を除いたウイークデイばかりの開催なのである。  北海道のゴルフはアウト・インがアメリカなどのように連続なので、 朝スタートすると2時ごろには出社できるのである。 所謂支店長たちは朝はゴルフ、昼から出社という人も多かったようである。
 当時は私もゴルフのスコアは30代の後半から40代前半ぐらいでは回れていたので、 ゴルフは結構楽しませて頂いたし、『いい賞品』など沢山頂いたのである。

★ このように書くと、ずっと『遊んでいたのか?』と思われるかも知れぬが、社長としての仕事はちゃんとしたと思っている。 この会社は道内に10以上の支店があってそこに顔を出すだけでも結構大変なのである。 私は車の運転は好きなので、すべて自分で運転したのだが、 前社長などは運転をされなかったようで、 広い北海道だから、支店の方たちはその送迎に大変だったようである。 そういう意味でも、支店の人たちから『私は好評』だったと思っている。
 二輪車とはその販売方法も全く異なるし、 今更商品の特徴など覚えてみても仕方がないので、 商売の方は専務以下に任して、 『建機の販売のシステム』などは全く覚えたりはせずに、 会社の『経営システム』や『管理システム』など経営本体の分野は、 遅れていたので『その分野』については改善できたと思っている。
 当時の従業員の方にも、ちゃんと受け入れて頂いて、今でも年賀状が届いいたりする。 
★ 私は子供の頃は、今のソウルにいて、寒さには強いほうだったので、 北海道の寒さにもあまり困ることはなかった。  車は『4駆のクラウン』だったが、『4駆』は雪道を走るには最適である。 若い頃、二輪で東北・北海道を担当したこともあるので、 雪道走行は解っているのだが、『4駆』はその安全性というか、桁違いなのである。  それにしても、北海道は車で走るのは最高である。 北海道各地に10以上の支店があって、それを殆ど車で走ったので、 北海道の道は殆ど知っていると言ってもいい。 そういう意味では、まさに『いい3年間』だったのである。 有名な観光地も、一度ならず何回も行ったことがある。    

  北海道の地図を見ると懐かしい。 襟裳も網走も稚内も国道は殆ど走ったと言っていい。

★ そんな懐かしい北海道なのだが、 2年目の98年3月14日に、突然『くも膜下出血』で倒れたのである。 駐車違反で車をレッカーで持っていかれてしまったのである。  札幌の冬は『駐車違反』には非常に厳しいのである。 川重建機も除雪機が主要製品だったのでその辺の事情はよく解っていて、 駐車違反は除雪に困るので厳しいことはよく解っていた。 だから、確かに『駐車違反』ではあったのだが、『除雪』の邪魔にならないところに止めたのに、 『レッカー』で車を移動されてしまったので、 そのことを警察の本庁で文句を言ってたら、 タマに血が上って、『くも膜下出血』に突如なったのである。
 倒れた場所が警察だったから、救急車はすぐ来て15分後には、 こんな立派な『脳外科専門病院』に担ぎ込まれたのである。

         
  この病院は『脳外科専門』で 脳外科の専門医が30人近くもいる、文字通りの専門病院なのである。
 非常にムツカシイところからの出血だったので 『手術』などせずに、ただ『安静』にしていたら 10日ほどで『集中治療室』から個室に移って 入院期間1ヶ月ちょっとで退院できたのである。
 68歳の時の春だから、もう20年程前のことなのである。
 いろいろあった北海道時代だが、現役時代の最後を、 ちょっと今までとは違った仕事を経験できたのはよかったと思っている。
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