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カワサキ二輪事業の昔話

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★時間があって閑なものだから、ネット検索を毎日楽しんでいるのだが、昨日は旧いカワサキの人たちが登場するこんな動画に出会ってびっくりした。内容は旧いが創られたのは2019年なのである。
 記事はカワサキバイクイチバン編集部が纏められたようである。
 このように説明されていた。

     


  https://www.kawasaki1ban.com/news_topics/38973/

『カワサキが「Heritage Video 2019」と題し、カワサキ創成期の歴史を3人の証言者とともに振り返った動画を公開している。動画の冒頭では、英語のナレーションながら、1924年の目黒製作所設立から1964年の川崎航空機工業による吸収、650-W1デビューなどの歴史を、当時の写真やカタログを交えて紹介。そして次のインタビューに登場するのは、川崎重工業の元社長であり名誉顧問の田崎雅元氏と、カワサキ4サイクルエンジンの元開発者である稲村暁一氏、そしてカワサキのテストライダーやレーシングライダーとして活躍した、ミスターカワサキこと清原明彦氏の3人で、当時のアメリカでのテストや開発当時の貴重なエピソードを語っている。』


★ 何でもスタートの物語は『オモシロく語られる』ものなのだが、カワサキの二輪事業のスタートは、確かにエンジンのプロたちはいっぱいいたのだが、二論車に関しては全く素人の集まりだったので、ホントのところ『何も解ってはいなかった』のである。
当時の川崎航空機に入社した人たちは『二輪車』など何の関係もなかったのだが、いざやってみると『二輪独特のオモシロさ』があって、みんな『ハマってしまった』感がある。
この動画には田崎さん、稲村さんが登場するのだが、お二人は昭和33年入社で、田崎さんはジェットエンジン、稲村さんは4輪車のエンジン開発などやっていた。私はその1年前の昭和32年の入社なのだが、川﨑航空機が二輪車の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのである。
私が単車に異動したのは昭和36年で当時、田崎さんは未だジェットにいたし、多分稲村さんも未だ単車には関係していなかったのではと思う。

最初に出した125B7がフレームの欠陥で返品の山となり、二輪事業を続けるかどうか日本能率協会が市場調査をするのだが、昭和37年の『青野ヶ原モトクロスでの快勝』もあって現場の意気は盛り上がっていたこともあって、『単車事業やるべし』との結論になるのである。
このモトクロスに関係した人たちは中村治道・髙橋鐵郎さんなど製造部の人たちだったのだが、それ以降カワサキの単車事業は本格的に動き始めるのである。



★ この動画に現れる画面から何枚かを抜き取って、ちょっと当時の状況など補足説明をしてみたい。 こんな時代のことが語れる人ももう本当に少なくなってしまったのである。
販売関係は当時は旧メイハツ工業の人たちが中心の『カワサキ自動車販売』が担当していて、市場は日本国内だけだったのである。私は初めてできた単車の営業部門で、この『カワサキ自販』への販売の窓口をやっていた。
川﨑航空機の人たちは昭和35年度(1960)に初めて二輪事業を展開するための人材が入社してこの年度の人たちは、最初から二輪事業を担当した人もいるのだろう。二輪事業が解っている人たちと言えば、旧メイハツからの人たちと、メグロからカワサキにやってきた人たちだけだったと言っていい。
 ただ当時の川崎航空機は戦後の中断があってばらばらになっていたのだが、それが集約されたのが昭和27年度(1952)からなので、会社も大企業というよりは、まさに『若い会社』で、私なども入社早々から自由に『やりたいことがやれる』そんな雰囲気を持っていたのである。 
  さて、最初の方に現れる場面だが、 この画面にはメグロから来られた糠谷さん(一番右)が写っているので 昭和39年以降のことだろう。
 

 
糠谷さんは実験研究などやっておられたのだが、カワサキファクトリのレース監督を大槻幸雄・安藤佶郎さんのあとおやりになったので私もよく知っているのである。 

動画では田崎さんがいろいろと話されているのだがまずはこんな画面が現れる。
  

 これは1966年のことだと思うが、アメリカ市場への進出で明石工場からは田崎さんが一番最初にアメリカに渡ったのである。丁度その頃650W1がアメリカ市場に登場するのだが、当時アメリカにいた日本人でバイクに乗れるのは田崎さん1人だったものだから、『アメリカのハイウエイをW1に乗って初めて走った日本人は私』と、これは田崎さんの自慢なのだが、このお話が登場している。
 当時はまだシカゴに事務所があるころで、ちょうどその頃、あの250A1の開発テストを百合草三佐雄さんがアメリカでやったのだが、それを田崎さんが手伝ったりしている。
  
  A1が開発中の時期には日本でも名神高速道路が出来たばかりの時期で、そのテストにはファクトリーライダーの歳森康師・金谷秀夫なども参加したりしていた。金谷は『ミッション焼き付き』に出会ったがうまく処理して『何とか怪我もしなかった』というのが自慢だったが、今になってよく考えてみると、契約条件には開発テストなどなかったから、もし事故にでもなってたら大変だったのだが、昔はそんなことは頓着なくやってたのである。


 稲村暁一さんは、この動画では技術的なことを語っておられるが、 稲村さんは『4サイクルエンジンの開発』で知られている。
   

 カワサキの4サイクルは最初のクルマがあのZ1でそれは1972年の上市なので、『それまでの稲村さんは何をやってたの?』と私は稲村さんに聞いたことがあるのだが、昭和33年(1958)の入社以来、陽の目は見なかったがカワサキの4輪車のエンジン開発担当だったらしい。

 その名車Z1は、大槻幸雄さんが開発責任者で基本コンセプトは大槻さんの発想で、そのエンジン開発を稲村暁一さんが担当されている。

 


大槻さんはカワサキの初代レース監督で助監督が田崎雅元さんだったのだが、大槻さんも私も1967年のFISCOでの日本GPを最後にレースチームを離れて、大槻さんは技術部の市販車開発部門に戻られ、私は東北6県の営業担当として仙台に異動するのである。
 1968年の初めに東北の販売店会議が開催されて大槻さんはその技術説明者として東北に来られたのだが、その時『世界一のバイクを創る』とその夢を語られたのである。 それが『Z1』になったのだと思うが、ひょっとしたらそんな大槻さんの夢を私が最初に聞いたのでは、と思ったりしている。
 Z1が世に出るまでは、それから約5年の歳月が掛かっている。 因みに、大槻さんが技術部の市販車開発に戻られて最初に世に出た車は あのH1なのである。
 

 この車の担当はあの松本博之さんだが、 初めてこの車を見た時の印象は『痛烈だった』のを思い出すのである。


★カだワサキの二輪事業の創生期に事業全体をリードしたのはある意味『レースだった』と言ってもいいのだが、当時はエンジン開発=技術部、マシン制作=製造部、レース運営=広告宣伝課という三者の協働で『レース運営委員会』でその基本方針が検討されていたのだが、そのメンバーは以下の通りだったのである。
 山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎 田崎雅元・古谷錬太郎
 そして大槻・安藤さんの後の監督が糠谷・岩崎茂樹コンビで その後を引き継がれたのが百合草三佐雄さんなのである。 その百合草さんの時代に『レース』は開発・運営が技術本部となるのだが、 その時の技術本部長は国内販社出向から戻られた髙橋鐵郎さんなのである。

★カワサキの創生期の昔話をしてきたが、ここに名前が登場した方々の内、 川﨑重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が2人と5人にもなる。 別に役職の上位が特にどうだということもないのかも知れぬが、 それはそれで大したことであるとも言える。
 何はともあれ『カワサキの創生期』はレースチームのメンバーたちが、 その事業を引っ張ったということは間違いない事実なのである。

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