★ 昨日ジェットスキーのスタートの時期のことをアップしたら、 吉田純一さんから、Facebookにこのようなコメントを頂いたのである。
『古谷さんおはようございます。懐かしいですね、藤田さんと日本橋に大南さんに会いに行った事、神戸の東灘区の店を借りて頂きジェットスキー🎿のショールーム、専売店を作って頂きオープニングに家主で招待して頂きました。古谷さん藤田さんはじめ川重からも沢山の人が出席して賑やかなオープニングだったのを思い出しました。』
当時、吉田さんには本当にお世話になったのである。 国内のジェットスキーの販売網を立ち上げるのは、それなりにいろいろとあって、 大変だったのだが、 どのように進めていったのか? そのあたりのことについて、纏めてみたいと思う。
★この時期のことを時系列に並べてみると ●84年度には明石の単車企画室内で武本一郎部長が、『ジェットスキーの単車事業本部の正規製品化構想』を打ち上げ、私もフォローしたので、単車技術部内では単車事業部としてのジェットスキー開発がスタートし、国内販売関係でもレース関連のJJSBA設立のため11月に苧野KAT社長と私が渡米し、IJSBAの了承を得るのだが、その仲介をしてくれたのが田崎雅元さんなのである。 ●85年度8月にはオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんが企画室内で独りジェットスキー・プロジェクトをスタ―トさせるのだが、その時期が単車事業本部の中に正規にジェットスキープロジェクトが立ち上がった時期だと言っていい。
●86年度1月には、ヤマハの小宮常務が訪問されて、ヤマハもこの分野に進出するというご挨拶があった。カワサキとしてはプロジェクトチームが立ち上ったばかりだったのだが、ヤマハさんもアメリカの市場が一挙に24000台になったことが、この業界への進出を決心されたのだろう。
もしこの時期カワサキが正規事業にすると言うことを決めていなかったら、川崎重工業として、どのような対応をとったのだろう?ヤマハさんも、まさかカワサキの内部でこんな事情があったことなど多分ご存じなかったはずなのである。
こんな状況の中で、国内市場では、カワ販の孫会社のKATが西武自動車が輸入するJSを年間200台ほど販売していたのだが、川崎重工業は直接には何の関係もなかったのである。
★私自身は川崎重工業の単車事業部企画室長時代だったのだが、国内市場については直接担当をすることにしたのである。企画室長という激務の中での余分の仕事みたいなものだったが、国内市場という結構ややこしい流通網が解っていないと、この対策は出来ないと思ったのである。
台数は少なかったが、事業展開の主流は西武自動車で、ボート屋さんをベースにした販売網が既にあって、その辺の調整は現実には、なかなかムツカシかったのである。
少なくともカワサキが直接販売するためには、『カワサキ独自の販売網』を創るべきで、レースが中心というJSのその商品性から、独自の専門店がMUSTとは思ったが、それをどのような形で具体的にスタートさせるかが課題だったのである。
現実には国内での販売規模が200台という市場で、『そんな専門店』など最初からできるのか? と思うほうが普通なのである。
これは87年1月20日の日記である。西武自動車など関係者を集めて、初めて国内販売網形成のスタートとしたのである。
『人をどのように使って作り上げるか面白い仕事である。国内JSは第一歩を踏み出した。』 と書いている。
まさにいろんな方たちの協力で進行したのである。
それともう一つ、『半年で形が出来ないものは、10年掛かってもその実現はムツカシイ』のである。世の中の進歩は早く3年も経つと『世の中が変わっている』のが常である。そんな時代の展開に対応できる『半年単位のやり方』が私自身の発想なのである。
★2月にはボートショーもあり、これはそれなりの規模でやろうと考えていて、現実にのボートショーを見て、西武の方たちも『カワサキのやる気』を感じられたようである。そしてJSの専門販売店の『プラザ』をまず東西に創ることにして、東京には当時の二輪販売日本一を誇っていた『北多摩モータースの根本さん』に、『プラザ都』を設立して貰ったのである。
そして関西には、神戸の東灘区に吉田純一さんのお店を借りて、『プラザ神戸』を立ち上げたのが3月3日のことなのある。
これは、カワサキに色濃く関係のあった佐々木八太夫さんにお願いしたのである。根本さんにしても、佐々木さんにしても、そんなちょっと『無理かも』と言えるお願いが出来るような、『平素のお付き合い』がそのベースで、吉田純一さんもカワサキにおられた時以来の親しいお付き合いだったのである。
ショールームのような規模の大きい『JSプラザ神戸』が出来て業界の話題にもなり、これがその後の進展を容易にしたと言っていい。
6月には福井昇くんが川崎重工業を退社して『プラザ明石』を立ち上げたのである。これが実質『カワサキJSプラザ1号店』だと思う。このお店については藤田孝昭さんがホントによく面倒を見たのである。そして大阪の大南勝也さんも続いたし、その後は流れになって、スムースに全国販売網が出来上がっていくのである。
★この年の5月には単車と発動機の合併があり、私も鶴谷さんも企画から営業に異動して、ジェットスキーを正規に扱う組織が営業総括本部に出来て鶴谷将俊さんが担当し、同時に国内に関してはカワ販の孫会社KAT の社長は苧野豊秋さんが従来通り兼務され、カワ販の内部から藤田孝昭・宇田川勇さんなど販売網や技術関連の実力者が担当することになったのである。ヨーロッパについても6月にJS販売会社構想をまとめ9月には藤元社長でスタートを切ることになった。 翌88年9月には前回ご紹介した『ソウルオリンピック』への協力参加などもあり、10月には私自身が国内市場担当となり、KATというカワ販の孫会社をKJS(カワサキジェットスキー販売)という子会社に昇格させ、私自身が社長を兼務し、自ら旗を振る体制としたのである。
鶴谷将俊さんはこののちもこくないJS市場には深く関わってくれて、JJSBAの育成強化などに当たってくれたのである。
★ この時期、『7万台への挑戦』がスタートした88年10月には、年間200台の販売がその10倍の3000台の規模となり、さらに1万台を目標にするところまで、急激に成長していくのだが、このジェットスキーの国内販売網は、営業所などは一切作らずに本社だけで少人数で対応したので、『200台でもペイしていた販社』が、3000台になりさらに8000台になっていった時には、『凄まじい儲かり方』だったのである。これは『ジェットスキー・プラザ』も同様で、この数年で国内の『水上バイク市場』は確固たるものになったのである。
★ そんなきっかけを作ってくれた吉田純一さんは、カワ販の昭和42年度定期入社で、この42年度入社の人たちが、その後のカワサキの国内販売網を創ったと言ってもいい。この年次の人たちは、柏原久・関初太郎くんなど今でもFacebook で繋がっているし、いろいろと具体的なお付き合いがあるのだが、その核となってるのが吉田純一さんである。
二輪業界で広く活動されていて、
その活動が評価されて、こんな授賞も受けられたのである。
何となくいろんなご縁で繋がって、昔の想い出話も一緒に出来る間柄なのである。
カワサキの国内ジェットスキーについては、私自身密接に関係したのだが、その嚆矢(こうし)となったのが、『プラザ神戸』であったことは間違いないのである。
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