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2020年は カワサキ単車事業60周年   4

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★今年はカワサキ単車事業60周年なのである。
ご縁があって、単車事業のスタートから約40年事業の推移を見ることが出来たし、企画などの中枢にもいた時もあって、その事業そのものの展開に色濃く携わることが出来たのも幸いだった。


カワサキ自体が全くの新事業で社内の先輩たちは、重工業の開発・生産・受注などのノウハウはお持ちなのだが、民需産業、それも末端の不特定多数のユーザーを相手の『マーケッテング・ノウハウ』など、極端に言うと『何のノウハウ』もお持ちでなかったし、
私自身がそれを学んだのは、その殆ど全てが社外の方たちからだった。特に、二輪事業そのものが新しい産業であったし、そのトップを走っていたホンダさん,本田宗一郎さんに学ぶところが多かったように思っている。

★昨年、カワサキがその歴史を纏めるべくOBたちのインタビューを実施されて、 私も約1時間お話をしたのだが、その時の資料を纏めて頂いているので、 非常に重宝しているのである。

これは入社以来の私の経歴なのである。
   
     
● 1957年に入社して財産課に配属されたが、ここではIBMでの償却計算のシステムを全社で初めて創り上げたのだが、これはいま思ってもなかなかの大仕事で、これがその後の自信に繋がったし、システムというか仕組みの効果を身に染みて解ったのである。 この時代IBMなどは日本には存在していなかったのだが、当時の川崎航空機にはジェットエンジンのオーバーホール工場があり、米空軍が駐在していて、IBM室があったのでそれを利用したのである。 会社としても一般事務に使用するのは初めてのことでそれも本社も岐阜工場も巻き込んでの大掛かりなシステムを創り上げたのである。
● IBMの償却システムが完成したら、償却計算に掛かっていた何人もの人たちが不要になってしまって、私自身も新しく出来た『単車営業課』に異動することになったのである。ここでも、完成車の販売などは全く新しいことだったし、それに関わる事務一切、今の企画室の仕事の分野を、ホントに数人でこなしていたのである。めちゃくちゃ忙しくて、上司から『ボーナスの点は100点を付けてやる』と公然と言われたりしていたのである。
●その後、新しく出来た広告宣伝課を任されて、本社から開発費として年間1億2000万円の膨大な予算を3年間任されることになるのだが、こんな予算を狙って各広告代理店は本社企画の優秀なメンバーがやってきて、この人たちから『マーケッテングの本質』を勉強できたのは、人生である意味一番大きかったかも知れない。この広告宣伝課時代には、レースなどにも関与して、ライダーたちや他メーカーのレース関係者など、社外のいろんな人たちに出会えて、それが今でも役に立っているのも貴重な財産なのである。
●そのあと、突然『仙台事務所を創れ』と、ホントに明石からは独りで放り出されたりするのである。 仙台には当時ホントに全く何もなくて、当時の代理店宮城カワサキに文字通り机を一つ置かして頂いてのスタートだったのである。元メイハツやメグロの人たち数人で、事務所の土地を探し倉庫を建てたりしたのも全く初めての経験で、今思えばよくやったなと思うのである。今は『仙台プラザ』になっている。
未だ30歳になったばかりの若さではあったが『仙台事務所長』の肩書を頂いて、主として資金繰り対策などを、銀行支店長や年上の社長さんとの対応などが主だったのだが、『経営の本質は資金繰り』だということが身に染みて解ったのである。
ここまでの10年間が私の勉強期間で、今の時代にはなかなか経験できない貴重な体験だったと思う。
 特筆できるのは、新人時代であったにも拘わらず、『引き継ぎ』がなかったし、業務に対する『上からの指示』も全くなかったのである。




★ 第1回目のカワサキオートバイ販売への出向期間は10年間で、前半の5年間は、広告宣伝と仙台事務所だったのだが、1970年からの5年間は大阪を皮切りに、当時としては業界初の二輪専門販売店の仕組み『カワサキ特約店制度』を展開したのだが、当時は二輪販売店の殆どは『自転車屋』さんで、二輪専門店など珍しい時代だったのである。これはカワサキが3社合併を機に、50ccの小型車の生産を打ち切って『中・大型スポーツ車』へとその基本方針を変えたためのカワサキ独自の対応策だったのである。大阪―名古屋―東京から展開し、さらにはその全国展開をカワサキオートバイ販売の本社に戻って担当し、それの完成を見て、1975年に事業本部の企画室に戻ることになるのである。
このスタートの10年は国内市場経営的には苦しい時期が続いたのだが、全体の事業として支えたのは、アメリカ市場のKMCで、特に1978年に上市されたZ1/Z2がその後のカワサキの事業を継続する力になったのである。


★事業本部の企画室に戻った時期は、非常に好調であったアメリカ市場に陰りが見えて、カワサキも『小型車の分野を如何にすべきか』と『CMCプロジェクト』なるものがスタートしていた時期なのである。当時検討されていた『CMCプロジェクト』は非常に生産指向的な色合いが強くて、これはなかなかムツカシイなと思って、
まずは東南アジアを中心とするカワサキとしては初めての本格的CKD事業展開を起案し、その市場調査などをやったのだが、その結果『市場開発プロジェクト室』なる職制が出来てそれを担当することになり企画は1年で異動することになるのである。
更に同じ時期に『ハーレーダンピング訴訟問題』が起こって、これは田崎雅元さんが担当したのだが、その具体的対応の国内販社対策を私が立案し、その結果、直接その旗を振ることになったのである。1975、76、77年の3年間で3回異動したし、事業本部としても激動の時期だったと言っていい。
この時はまだ課長だったのだが、カワサキオートバイ販売常務として、国内市場の旗を振ることになるのだが、たまたまFX400が売れに売れて、10億もあった累損が2年で消去できるという『運の良さ』で、当時は世界各国の販売会社が軒並み赤字の時代に、国内とオーストラリアの2社だけが健全経営が出来ていたのである。

★このダンピング問題が解決した直後、国内で起こったホンダとヤマハの『HY戦争』は、国内市場にとどまらずアメリカ市場に飛び火して、そのとばっちりでカワサキの現地販売会社KMCが大変なことになっていたのである。
その赤字の規模が大きすぎて、川崎重工本社も無配に陥るようなことになって、KMCはじめ世界の『海外販社の経営立て直しが焦眉の急』となるのだが、『販社の経営』など当時は経験した人は殆どいなくて、この具体的な対応のために、私自身は再び事業本部企画室に戻り、その対応を図ることになるのである。
これが『1982年10月 単車事業本部企画室に異動』という時期で、この時期の単車再建の旗を振られたのは、川重本社の山田熙明専務で、その対策として大庭浩本部長(後川重社長)が再建屋として送り込まれたりしたのである。

★このように、カワサキの二輪事業は1960年の事業スタート以来25年間、あのZ1の時代(1978~)に一時期『いい時代』もあったのだが、経営的には山谷の多い激動の時代が続いたのである。
やっと事業が安定したのは、大庭浩本部長から髙橋鐵郎本部長にバトンタッチされて、発動機事業部との合体が実現した1986年度からだと言っていい。
 


 この時期私は企画室長として、大庭さん・高橋さんの番頭役で支えていて、経営的には大変であったが、いろんな想い出多い懐かしい時代であった。    
★確かにカワサキの二輪事業は、機種開発の分野では250A1に始まって、マッハⅢーZ1/Z2ーGTOーZX400ーNinja900と素晴らしい車が並んではいるのだが、スタートからの25年間は山谷の連続で、一言で言えば『大変な時代・激動の時期』だったと言わざるを得ないのである。
     



そんな苦しい時代を乗り越えて、『カワサキの二輪事業の経営も安定期に入った』と言えるのは、1986年の髙橋鐵郎本部長以降の時代からなのである。
私自身も1988年からは、3度目の国内市場出向となり、この最後の時代は約10年間じっくりと旗を振ることが出来たし、カワサキの二輪事業の核として国内市場が最も輝いた時代であったと言っていい。

1957~1999年まで、42年間の現役生活は、なかなかオモシロかったし、今も尚、二輪関連ではいろんな方たちとお付き合いが出来ているのは、私の一番の喜びなのである。
カワサキにお世話になった最後の10年間のことは、次回に纏めて今年60周年を迎る『カワサキ単車事業60周年』を締めくくることにしたい。
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