★8月15日は終戦記念日である。
昭和20年(1945)8月15日の終戦記念日の天皇陛下の詔を城東中学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いたのを思い出す。
中学校1年生の夏休み中だった。
この夏休みの間に
『我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき・・・』
で始まる『長い長い軍人勅諭』を暗唱してくる宿題が出ていて、そろそろ憶えなければと思っていた時期である。
そんなんことで残念ながら、『我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にこそある・・・』ぐらいまでしか覚えていないのである。
ムツカシイ文章だが、
『わが国の軍隊は代々天皇の統率したまう所にある。昔、神武天皇みずから大伴物部の兵たちを率い、国中の帰順せぬ者どもを討ちたいらげ、皇位につき天下を治められてから、二千五百年余りを経た。この間、世の移り変わりに従い、兵制の改革もまたしばしばであった。』とこんな意味である。
★そんな想い出いっぱいの朝鮮京城だが、当時の日本(内地)よりもある意味立派な町だったと言えるのである。
戦争中は空襲もなかったし、食料事情もよくて何の苦労もない戦時中を過ごしたのだが、8月15日の終戦記念日を機にその生活は一変したとも言っていい。
苦しいこともいっぱいだったが、未だ『中学1年生』であったこともあって、苦しいというよりも『新しく珍しい生活経験』と受け止めた面も多かったのである。
そんな苦しいことよりは、戦時中の 京城の懐かしい思い出 の方が脳裏に焼き付いているのである。
これは京城駅、今でもこの形で残っているのだと思うが、立派だった。
この駅に学徒動員で招集される中学の先輩を何度か送りに行ったのである。万歳三唱でお送りしたが、果たして生きて戻られたのだろうか?
京城駅の近くにあった『京城三越』で、当時の神戸の三越よりは立派fだったと思うし、
神戸三越から神戸の元町通りがあったように、京城三越からこんな本町通が始まっていたのである。
当時の市電だが、日本で一番の市電と言われていた『神戸の市電』よりは立派だったと思っている。
この中央の建物が『朝鮮総督府』で今も同じ形で残っているようである。
後ろの山が北漢山で、小学校の遠足で登ったこともある。
朝鮮神宮も立派だったのだが、いまはどうなってしまったのだろう。
家からそんなに遠くはなかった『将忠壇公園』は冬はこの池が凍るので、毎日スケートをしに通ったものである。
★ 世界中結構いろいろと二輪の仕事関係で行ったのだが、一番行ってみたかった『朝鮮京城=今のソウル』は二輪では関係がなくて行けなかったのだが、
1988年ソウルオリンピックの年に、オリンピック委員会から開会式の日に競技場のすぐ前の漢江(ハンガン)で『ジェットスキーのデモンストレーション』を頼まれて、日本・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアの各国の男女チャンピオンたちでチームを作り、その団長として、ソウルを訪問することが出来たのである。
その時の写真だが、その出張中に子供のころ住んでいた家を、当時の桜ケ丘小学校を見つけてそこから道を辿って見つけてきたのである。
こちらが小学校、新しく建物が増えていたが、本館は昔のままだった。
その裏門から、約300メートル、かっての『城東区新堂町桜ケ丘町』にあった『我が家』を見つけてきたのである。
塀は新しく作られていたが、家は昔の儘残っていた。
ただ、昨今のGoogleマップでこの辺りを見るのだが、小学校は残っているのだが、住宅地辺りは殆ど『ビル街』になって締まっているのである。
1988年と言えば、今から『30年前』である。
30年も経つと世の中は様変わりするのである。
毎年、8月15日になると、朝鮮京城のことを懐かしく思い出すのである。
私にとっては『懐かしい昔のふるさと』なのである。