★西鋭夫さんの書かれた『マッカーサーが見た日本人の弱点』というこんな記事を読んでの感想である。
西 鋭夫(にし としお、1941)は、アメリカ在住の国際政治・教育学者。スタンフォード大学フーヴァー研究所リサーチフェロー、専門は国際政治学、政治教育学、日米関係。とある。
『マッカーサー』に出会ったのは、昭和20年、私が中学1年生の時である。
当時、『進駐軍』と言っていた日本占領軍のアメリカ人のトップが『マッカーサー元帥』だったが、何となく私は『いい印象』を持っている。その理由はよく解らないが、天皇陛下に接するときの態度が『いい印象』に繋がっているのかも知れない。
戦後の日本は急激に変わったのだが、私の通った神戸一中は結構昔の儘の教育が続いていた。中学2年生の時には、神戸行幸をされた天皇陛下が、宿舎がなくて神戸一中の教室を改造した部屋にお泊りになった。天覧事業も受けたりした。
何となく聞くところによると、『なぜ天皇陛下が、そんな学校に?』 GHQが調べて『英才教育をしている学校』ということが解って、翌年男女共学になったし、非常に厳しい『学区制』が敷かれて、私は明石高校に転校した。
ここに紹介する『マッカーサーが見た日本人の弱点』はたまたまだが、非常に興味を持って読んだのである。
『マッカーサーのこと』殆ど何も解ってはいなかったのである。
http://www.prideandhistory.jp/sp/content/macarthur.adw.php?gclid=CKG8tKL8mNUCFYssvQodF9IEIg
こんな記事の中からの抜粋を紹介する。
1941年12月8日、真珠湾攻撃と同日、マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで日本軍を迎え撃つ。
しかし日本は、初日の爆撃で大きな成果を上げ、・・・侵攻からわずか1ヶ月で首都マニラを明け渡すことになった。・・
マッカーサーは暗く狭い魚雷艇に乗って戦地を脱出していった。日本軍に追い詰められ大量の捕虜を置いて逃走した経験は、マッカーサーの軍人人生において「大汚点」となった。・・
マッカーサーが見つけた日本人の弱点とは?
マッカーサーは小さい頃父親と共に来日し、・・その生き方に感銘を受けた日本通でもあった。・・・・
日本人の強みの原点は既に見抜いていた。それは、日本人特有の精神文化、規律のとれた習慣、周りを思う道徳心。・・・・これを教育で徹底的に破壊することに力をいれる。
そのスピードは早く、占領から2ヶ月後には現行教科書の使用を停止、・・・そして1年後には、高等師範における英才教育の廃止なども行われている。そして、「教育勅語」が、「軍国主義を生む」として捨て去られる。・・
・・・結果として私たちの多くは自分の国の歴史、特に近代史を「なんとなく」しかわからない状況になり、しかも「侵略戦争をした」とする後ろめたい気持ちすら埋め込まれている。
「あの太平洋戦争はなぜ起きたのか?」・・・先人たちがどうしてあんなに血を流したのか、何のために戦ったのか、どうしてあんな戦い方ができたのか? それに答えられないままでいる。
日本が戦争した理由に答えられない日本人 ・・太平洋戦争前も、日本は驚くほど多くの大戦争をしている。しかしその前はといえば? 天下泰平の江戸時代は260年も戦争がなく平和だった。 その日本人が・・・人が変わったように戦争に走ったのはなぜだったのか?
明治以降に日本人が作り上げた教育勅語や数々の書物をマッカーサーがあそこまで徹底的に葬り去ったのは、そこには何か知られたくない秘密でもあったのだろうか?
http://www.prideandhistory.jp/lp/nikoumj/lp2/adw1.html
★ 中学時代、いろんな意味で影響を受けた『マッカーサー』には興味があったのである
私の年代はマッカーサーが教科書を破棄したために『歴史を習っていない』のである。
特に、現役時代に関係の深かった『広報』という概念を『日本に持ち込んだその人=マッカーサー』だと言われていることもマッカーサーに興味を持つ一因になっていることも確かなのである。
西鋭夫さんの一文、非常に興味を持って、読ませて頂いた。