★この当時、日本の二輪生産台数はは1976年ホンダのロードパル、77年ヤマハのパッソルをきっかけに特に50cc分野を中心に年々大幅に増大し80年代に入っても急激な伸びを示していた。特にヤマハは81年には『100万台計画』を掲げ、国内市場シェアでホンダに僅差に迫り、首位の座を狙っていたのである。
『HY戦争』と画像検索したら、『スズキの方』が書かれたらしいこんな記事が現れたのである。
70年代はカワサキは国内では50ccモペットを持たないので一人影響を受けずに済んだのだが、80年代に入ると
この『HY戦争』がアメリカ市場にまで及んで、KMCは大きな損失を数年に亘って出し続け、その影響を受けて川崎重工業自体がKMCとの連結決算の結果『無配』に陥ってしまうという状況に追い込まれたので、『KMC対策』は単車事業部だけの問題ではなく川崎重工としての最大の課題となり、この年の初めごろから、その対策としての『人事問題』が大きな問題として検討され続けていたのである。
その結果は、6月になって『高橋鐵郎・田崎雅元コンビ』ということに決まるのだが、その間いろいろと『私自身の名前』も周囲から何度も聞かれたし、現実に山田・大西常務などからは、直接具体的な話としてもあったので、ひょっとしたらと覚悟もしていたのである。
当時・アメリカを担当していた田崎さんか、私かということだったのだろうが、私は販社経営は経験があるがアメリカ市場は未経験だし、田崎さんはアメリカ市場は経験者だが販社経営は未経験だったのだが、私は現実に『国内販社を担当していた』ので、田崎さんということになったのだと思う。
★この『カワサキの二輪事業と私』もいよいよ80年代に入り、カワサキの二輪事業で尤も危機的状況であった81年からの数年間に入っていくのだが、私自身はその当時の書類などは、今でも手元にあるのだが写真などは一切持っていないので、田崎さんに『当時の写真持ってませんか?』とメールしたら、こんな写真をメッセージをつけて、送って頂いたのである。
私は川崎航空機の昭和32年度入社なのだが、田崎さんは昭和33年入社で私のほうが1年先輩なのである。
田崎さんとは彼のジェット時代から組合関係の常任幹事会で顔を合わせていたし、田崎さんが単車に来てからも、レース関係では私の最初のレース現場だった山梨モトクロスでは、髙橋鐵郎さんが『技術関係が頼りない』と思われたのか、田崎さんを助っ人に派遣して頂いて、二人でレース現場を仕切ったりした。またカワサキが初めて鈴鹿を走った時のレースマシンは、製造にいた田崎さんが山本隆くんのために都合してくれたのである。『源平芸能合戦』というにテレビイベントに会社として出演した時には、応援団などいろいろと具体的に手伝ってくれたりしたのである。
会社の中で、『ただ知ってる』人は沢山いるのだが『一緒に何かをやった』と言う人は意外に少ないものだが、ご縁があって田崎さんとは、若い頃から現役最後まで、一緒に『いろんなこと』を『協働した仲間』なので、今でも気安くお付き合いができるのである。
今回も写真と一緒にこんなメッセージをつけて送って頂いたのである。
★この『KMC問題』は当時の単車事業部よりは、むしろ川崎重工本社財務部門を中心に対策がなされていて、このプロジェクトは単車出身の山田熙明常務(後川重副社長)中心で検討されていて、塚本本部長は、この年3月にはこの問題の責任を取って青野格本部長に交代されることになったのである。
8月からは事業部長だった高橋鐵郎さんが、自らKMC会長として出向されるのだが、高橋さんとはこの数年ずっと 開発途上国対策ーヨーロッパ営業ー国内カワ販と同じ道を歩いて来た関係もあって、アメリカに行かれてからもいろんな情報を伝えてこられて、『予想以上にに大変』だから『カワ販からも手伝え』と言ってこられたのである。
当時の単車事業本部には『開発・生産』分野の専門家はいっぱいいたのだが、『販売会社関係の特に財務関連』の分かる人は皆無と言ってもいい状況だったのである。そんなこともあって、カワ販の定期採用一期生の富永邦彦・日野勉というカワ販最優秀コンビをKHI経由ーKMCに逆出向させることになるのである。
このコンビはKMCの田崎社長、その次の百合草社長の時代、KMCの累損消去までの長い期間 KMC再建を手伝ってくれたのである。
この辺りが『高橋鐵郎さんのカンの良さ』で、カワ販出向や東南アジア合弁事業などの現場での経験から、カワ販の若手の実力を買っておられて、東南アジアにも耕守・久後というカワ販の若手がすでに現地で手伝っていたので、その延長の方策だったのである。
翌年からは、私自身もこのKMC対策をKHI企画という立場からお手伝いすることになるのだが、この時、富永・日野くんという販社経験豊富なマーケッテングや財務の解るメンバーがいてくれたので、ホントに重宝したのである。
いろんな問題を検討するときに、専門家ばかりだと『説明抜き』での話が回るのだが、そこにアマチュア入ってくると『説明』をしないとなかなか解って貰えないのである。例えば開発や生産の話に私が入ると『説明』がないと話について行けないのだが、逆に『マーケッテングやバランスシート対策』などの話に『素人』が入ると説明が必要で回りくどくなってしまうのである。
★ ちょっと違った観点から、この当時の『カワサキの二輪事業』は、川崎航空機出身の人たち中心だったのだが、『エンジン専門家』以外は二輪事業に対して全く経験のない『素人集団』だったと言っていいのだが、そこに異種・異質な人たちのいろんなソフト・ノウハウが、おおらかに取り込まれた形の運営があって『カワサキ独特の二輪事業の体質』みたいなものが出来上がっていたように思う。
その柔軟さおおらかさは特筆もので、具体的にその幾つかを思いつくまま列挙すると
● まずは国内のメイハツ・メグロの人たちの営業分野での『ソフト・ノウハウ』 の取り込み
● 開発部門などにもメグロの技術屋さんが特に『車体関係』のノウハウを持ち込んだ
● たまたまBSやダイハツからカワサキに移った人たちも多く、そのノウハウが生きた
● 生産分野では、ジェットエンジン部門からの異動が多かったので、IBMや進んだアメリカ式生産管理ノウハウが持ち込まれた
● 主力市場の『アメリカ』では二輪に詳しいアメリカ人達が中枢にいて特に『開発分野』や『スタイリング』で機能した
● レース関係では、兵庫メグロの元オートレースライダー西海社長や片山義美さんのプロの意見が大きなウエイトを占めたし、契約ライダーたちが、新車の開発試作車のテストを手伝ったり、意見具申などもしていた。
● 一番は、そんな末端の人たちの意見やソフト・ノウハウをおおらかに取り入れる『そんな雰囲気』がベースあった
当時から50年以上の月日が流れて、カワサキの二輪事業も独特の『ソフト・ノウハウの蓄積』もあり、プロも多いのだと思うが、この辺りの『柔軟性』がやや失われて『大企業の行儀の良さ』みたいなものばかりが目立つような気がしてならないのである。
★ 田崎さんのコメントの中にもあるように、
今思えば、当初の2年間は、もともと技術職として、品質管理、補給システムのプロとして活動してきた私にとって、未経験な分野を学びながら常識を信じて走り続ける毎日だったが
『常識を信じて』というのが結構正しいのである。
昭和51年(1981)は、単車事業部長であった高橋鐵郎さん自らが『KMCに出向』というちょっと普通では考えられない人事が行われた年だったのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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