★ つい先日のことだが、カワサキバイクマガジンさんのツイッターに
『城東カワサキの行方』という依田きいさんの記事の こんなツイートが流れた。
http://www.kawasaki1ban.com/report/16547
その内容は、こんな記事だった。 http://www.kawasaki1ban.com/report/16547
★城東カワサキさんは、北多摩モータースと並んで、1970年代は、カワサキの販売量トップの販売店さんだったのだが、この記事にあるような最後の頃については、私もよく存じてはいないのだが・・・
昨日、東京から関初太郎さんがわざわざ三木までやってきたので、この城東カワサキの話にも及んだのである。
ずっと以前にこんなブログを私はアップしている。 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/08bcb873a63ebfe637fe5382e050c849
そこには城東カワサキのことも出てくるので、抜粋してご紹介してみたい。
★A1、W1につづいてマッハⅢなどの新機種の発売が続いて、ようやくスポーツ車が都会では人気の出始めた昭和44年(1969)ごろからカワサキだけが、それも東京だけで、スポーツ車を中心の販売網構想から、都内を約60店に絞ったカワサキ独特の販売網を敷いたのである。
城東カワサキ、城南カワサキ、城西カワサキ、城北カワサキや北多摩モータースなどの懐かしい意気盛んな時期だったのである。
この新しいシステムを展開されたのは、当時東京を担当されていた茂木所長の発想で、茂木さんの強烈なリーダーシップで実現したのである。
東京でこのような新システムがスムースに展開出来たのは、大東京の市場の大きさがあったからで、その他の地域では、自転車屋さんからの販売網の脱皮はそんなに簡単ではなかったのである。
ホンダ、スズキ、ヤマハなどにとっては、国内の販売の主力は圧倒的に50ccモペットだから、委託販売の自転車屋主力の販売方式からの転換など考えられなかったのだろうと思う。
北多摩モータースも、城東も城北などの名前も見える。
昭和44年に3社合併があり、川崎航空機から川崎重工業となって、今後の単車事業の展開を中大型スポーツ、海外市場特にアメリカ中心に展開するという方針に転換した時期でもあったのである。
それまでは、B8からB1などが中心の『実用車のカワサキ』であったし、その主力市場も、九州や東北といった地方が販売台数でもリードしていたのだが、1970年代に入って、従来一番弱かったと言われた大阪市場など注力することになり、私は仙台から大阪へ異動となったのである。1970年(昭和45年)大阪万博のあった年である。
それから約5年間、国内のカワサキは国内市場に於いて、全く新しい特約店制度展開の時代に入るのである。・・・・・
などとの記述があるのだが、当時大阪の責任者であった私が、『特約店制度のスタート』に当たって、大阪共栄会の会合に北多摩モータースの根本さんと城東カワサキの高橋恒秋さんを講師に招いて勉強会を開催したのである。
当時は東京だけが『二輪専門店』という日本でも特異な体制が敷かれていて、城東カワサキはその頂点に位置していたし、浅野輪業など城東地区の結束が非常に強かったのである。城東カワサキはまだ荒川にあった時代で、その後店舗の立ち退き移転があったころから、資金繰りなどに問題が出た時代があったりして、その後カワサキの二輪車販売からは撤退されたのではないかと思う。
その後、山城部品にいた方と組んで、部品などを中心の経営になったりしたので、『依田きいさんの記事』はそれ以降のことだと思われる。
★私自身の城東カワサキの高橋恒秋さんとの関係は、1972年1月、カワサキが業界に先駆けて販売店のアメリカ視察旅行を行った時は、全国から約100店が参加したのだが、そのうちの約半数は東京のお店で、城東地区の販売店は多数参加されていたのである。
高橋さんが大阪に講師に来られたのはその直後のことだったのである。私は視察団の副団長をしていたので、東京の販売店のみなさんとも、その時はじめて面識が出来て、そんなことが大阪の特約店制度のスタートになり、カワサキとしての全国展開に繋がっていくのである。
その後、1973年には直営部長として、東京・名古屋・大阪を統括管理することになり、東京営業所長を兼務したので、その当時は城東カワサキや北多摩モータースは、いずれも最盛期だったので、そんな時期の高橋さんの印象が一番強く残っているのである。
関初太郎さんは、その当時は京都営業所にいて、最初の『特約店制』スタート時点の活動もしたし、その後、大阪・東京なども担当し、城北カワサキ(トキワ)の中谷さんが急に亡くなられてその後の店を引き継いでくれて販売店をスタートさせているのである。
そんなことで東京の事情にも詳しいし、『当時の城東カワサキの担当者は宮本松夫くんだった』などと言う話もパッと出てくるのだが、城東さんの最後の頃は、私と一緒であまりご存じなかったのである。
昨年末、当時の 浅野輪業の息子さんにお会いした時、高橋恒秋さんがお亡くなりになったとも聞いたのだが、人生なかなか大変だなと思うのである。
私などは、高橋さんの意気盛んな『いい時代』しか知らないし、いろんな意味で高橋恒秋さんにはお世話になったので『城東カワサキの行方』などの寂しいニュースを聞くと、『いい時代のこと』もぜひ知っておいてほしいなと思うのである。
カワサキにとって東京の『城東地区の販売店』が東京をリードし、当時のカワサキの特約店を引っ張った時期は間違いなくあったのである。
そして、その先頭に立っていたのが城東カワサキさんだったのである。
この業界、よくあることで『少々頑張り過ぎた』のが災いしたのかも知れないのである。
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