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カワサキ二輪事業と私 その39 昭和43年 (1968)

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 ★東北6県の代理店を担当するために、仙台に新しく事務所を構えることになったのだが、東北6県と言ってもその広さは、関西などに住んでいる人には想像できない広さなのである。

仙台から隣の県の盛岡までは、ちょうど200キロ離れているし、そこから隣の青森市まではまた200キロ離れているのである。関西の神戸から名古屋がちょうど200キロ 、兵庫ー大阪―京都―滋賀―愛知 と 仙台ー盛岡は隣の県だが同じ距離なのである。

こんな広大な土地の中を、車で飛び歩いていたのだが、高速道路など全くない時代だし、奥羽山脈の峠越えは当時は福島ー米沢以外は仙台ー山形でも未舗装の砂利道だったのである。仙台は雪は少ないが東北6県は基本的に雪国だから冬は雪道になる。そんな雪道を車で走っていたのだが、峠の砂利道は雪が降った方が舗装されたようになってむしろ冬のほうが走り易かったような気がしていたのである。

私自身は、元来車の運転は好きだったし、長距離は全然苦にならなかった。レース関係部門からの転勤だったので、雪道もカーブも結構楽しんで運転していたのである。まだまだ、道が車で混むというような時代ではなかったし、勿論、チェンジ車なので、回転計など付けて、タイヤは当時日本で唯一ミシュランの輸入元だった福島オートからのラジアルタイヤを履いて、スポーツ車のように、走り回っていた。ヒール&トウなどのテクニックの練習には、格好の道がいっぱいだったのである。

 

   

 東北6県の代理店は、県庁の所在地だけではなくて大舘、米沢,会津若松などの地方都市にもあったし、一度車で出かけると少なくとも何日かの出張になって、宿舎は町で泊まるよりも温泉のほうが安いということもあって、東北の温泉は殆ど知ってるし、東北の道は、東北の方より詳しくなったと言っていいのである。

それに各県で開催されたモトクロス・レースにも殆ど顔を出したので、ホントに東北の道はどこでも知っているといったことになったのである。

   

   

 

 同じ縮尺で、神戸を中心に大体同じ面積を比べてみるとこんな感じなのである。よく言われるが、日本一大きい県岩手と四国4県がほぼ同じ大きさなのである。

 

★前年度の1月に仙台にやってきて、事務所を宮城カワサキに机を置いて頂いてそこを基地にしていたが、バイパスに土地を購入し事務所と倉庫を建てたのだが、それがこの年の4月末に完成して、やっと仙台事務所という名称通りの『事務所開設』となったのである。

東京から出張ベースで来ていた、宇田川・海老沢・田中・石塚・中茎くんたちも仙台に居を持って、やっと事務所が機能し、今までお世話になっていた宮城カワサキのサービスショップも、これは逆に一部をお貸しして、メグロの白バイなどのメンテナンスをやったりしてたので、しょっちゅう白バイが出入りしていたのである。

宮城カワサキのサービス長は後、仙台でカワサキE-shopをやっていた服部謙治くんで彼はモトクロスの東北チャンピオンにもなったりしたので、そんなメンバーたちと結構楽しくやっていたのである。

 

 当時は白バイと言えばメグロだったのである。

これは東京オリンピックでの白バイ隊だが、この時はすべてがメグロであったはずである。

 

 

 

 このころになって、ようやくホンダさんが450ccの白バイを納入され始めた時期で、白バイと言えばメグロの時代が続いていたのである。

 

  

 

★『東北の4年間』私がお付き合いをした、代理店の方たちも従業員も、私の直接の部下になった方たちも、大学卒は皆無と言っていい状況だったのである。

そんなメンバーたちばかりの東北がこの4年間、ずっとカワサキのトップを走っていて、販売の約20%を占めていた。日本一の金賞の常連岩手カワサキの従業員やセールスは、中学校卒の方もいっぱいいて、この4年間の経験で、二輪事業の第1線など学歴などは『一切関係ない』と思うようになったのである。

仙台事務所のメンバーとはその後も長く、いろんな場所で関係があったのもこの時期に培われた信頼感で結ばれたのだと思う。

私自身はそんな経験から、その後の川崎重工業でも一切学歴に拘ったりはしなかったし、現実にカワサキの二輪事業でも、東南アジアのCKD事業では石井三代治・大竹英雄くんを中心に据えたし、カワ販グループでも、平井稔男・岩崎茂樹・藤田孝明くんをはじめ私を援けてくれたのはむしろ高校卒の方のほうが主力だったのである。

こんな東北での経験は、ホントに貴重だったと思っている。

 

 

★この時代の販売形態というか、日本での販売状況は、カード全盛時の今では考えられないような状況で、二輪車の販売も大変で、二輪車が売れてもホントにお金に替わるまでには相当な時間が掛って、『沢山売る代理店』ほどその資金繰りは大変だったのである。

ずっと昔に「ものを金にかえる」というテーマでこんなブログをアップしているのでご紹介しよう。

1960年代後半、東北の代理店営業を担当していた。
そのころの話だが、営業とはものを売るのが仕事だと思っていたが、「営業とはものを金に変えるのが仕事だ。」と当時、福島にいた蓬田さんが教えてくれた。

二輪車のような商品は、売ることだけならそんなに難しいことではない。
その当時売ってもなかなか、お金に変わらなかったのである。

メーカーー販社ー代理店ー小売店ーユーザーとものは売られて、その逆の流れでお金の回収がなされるのは至極当然で当たり前のことなのだが、それが上手くいかずに立ち往生することが、当時は多かったのである。

特に、代理店以降が難しかった。
当時の販売店は殆どが自転車屋さんで資金力が無かったので、商品の委託販売であった。
商品が店頭に運ばれても売上はたたず、ユーザーに売れた時点でやっと売れたということになる。

東北でのユーザーの支払いは、当時盆払いとか、秋に米が獲れたらとか、直ぐにキャッシュでということではなかった。
販売店からの手形を貰っても、平均サイトが半年というようなものが多く、自宅払いとかいう銀行には持っていけないようなものまであって、商品がなかなか金に変わらないのである。

こんな状況の中で、代理店が沢山ものを売るということは、即多くの資金を寝かすということになるのである。
メーカーは当然量を売ることを望むので、メーカーの意をたいして量を売った代理店は資金繰りに窮し、メーカーの資金援助を受けているうちに自然に系列化の方向を歩むことになったのである。

当時の金利は、日歩2銭とか2銭5厘といった今でいえば高利だから、代理店経営は営業内はクロでも、営業外で赤字になるそんな体質であった。
こんな状況を、身をもって体験したことが、その後同じような状況で販社やメーカー自体が苦境にたったとき役にたったと思っている。
量産事業は数が増えることでのいろいろなメリットが生じるのは事実である。
量が増えるとコストも下がり、売上も利益も増えるのだが、要する資金もリスクも同時に増える。

簡単な理屈だが、なかなか解りにくい面もあって、長い年月遠回りもし苦労もした。

「ものを金に変える大きな仕組みが体質になって」はじめて事業が安定したと思っている。

そんな意味で、旧い時代の旧い体験も無意味ではなかったと思っている。

 その当時、在庫(2ヶ月)・委託期間(3ヶ月)販売・売掛金(1ヶ月)手形(6か月~24か月)・現金化 するのに1年~2年も掛かったので、この間の金利負担が大変だったのである。計算されると直ぐお分かりだが、1台10万円としても、10台で100万、100台で1000万、500台も売ろうとすると5000万円となって、その金利負担は大変なのである。

量産事業では、メーカーは常に台数を追っかけたがる。多く造るとコストは下がるし、量を売ると当然ながら利益は上がる。然し間違って作り過ぎると今現在でも値下げや販売対策費など大変なので『頑張り過ぎる』とすぐ経営がおかしくなるのは、シャープなどを見ても同じなのだが、そのあたりはなかなか判断がムツカシイのである。

 

 

    

 

    

 

 ★この年7月に こんな90㏄が新発売されている。

 最高速が110キロという程度だが、当時では抜群だったのである。 新事務所は仙台バイパスに面していて、当時は車は殆ど走っていないような状況だったので、テストコースのように使っていて、服部くんなどメーターで120キロ出た などと喜んでいたそんな車だった。

アメリカではA1主体に売られていて、技術陣はあのマッハⅢを開発中という時期である。

カワサキも実用車のカワサキから、国内でも幾らか『スポーツタイプのカワサキ』へと移っていく嚆矢のような車だったと思っている。

今見ても、結構カッコよくできている。

 

そして、8月には札幌でMFJ第5回モトクロス日本GPが開催されて、仙台から所員と一緒に車で本州最先端の大間から函館にフェリーで渡って、札幌手稲まで延々1000キロを入走って観戦したりしている。

その時の日記にはこんなことを書いている。

    

    

 

ここに出てくる山田・堀江技術部長と話している50ccは当時開発中の『スポーツ50』だったのだが、この機種は翌年の川崎重工業との3社合併で『50㏄からの撤退』が決められたので、陽の目を見なかった車種なのである。

 肝心のレースのほうは90、125を星野、山本、250は鈴木忠男と前年の郡山と全く同じ優勝者となったのである。

 

★この年は、カワサキの国内市場としては全国市場の中で、独り東北だけが好調を維持していて意気盛んだったのである。この日本GPを機会に東北カワサキ会と北海道カワサキ会の合同会議をやったのだが、当時は北日本営業部ということで、東北と北海道が宮川弘部長管轄下だったのである。

私はその中の東北6県を担当していたのだが、東北が上手く纏まったとということで、この年の翌年は、北海道も併せて持つことになったのである。この項の冒頭に東北の地理をアップしたが、北海道はさらにその数倍も大きいのである。翌年担当してみて『このテリトリー制はダメだ』と思った。確かに北日本ということではその通りだが、札幌に一番近いのは東京で、仙台からなど札幌に行くだけでも大変なのである。

後年、北海道は東京テリトリーの一部になったのは、一番経営的にも効率的な東京と大変な北海道を組ます方が、事業経営にはバランスが取れていいし、『実質の時間距離』でも東京が一番北海道に近いからで、これは私の経験から『私が提言』してそんな形になったのである。

同じような発想はずっとのちだがヨーロッパの部品補給をオランダに本拠を置いて、欧州各国の販売店と直結し、直送することで合理化したのも、現地を経験して『困った経験』から生まれるもので、なかなか机の上だけでは浮ばないのかも知れない。

 

そんな素人の営業が、結構好成績を残せた『東北・仙台事務所の2年目』だったのだが、これはあまり前例などには拘らずに、現地の状況を見ながら『普通の常識』で判断したのが結果的によかったのだと思っている。

そんな昭和43年(1968)なのである。

カワサキの二輪事業は、国内市場の停滞をしり目にアメリカではどんどん伸びて、その実績を背景にアメリカの販売会社KMCがスタートしたそんな時期だったのである。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 


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