★ 40年以上もカワサキの二輪事業に携わってきたのだが、『商品企画』には殆どタッチしていない。
技術的に全く素人でよく解らないからである。
そんな私だが、たった一度だけ 技術本部の会議に呼ばれて、私自身が 東南アジア向けの新商品 をお願いしたことがある。
それが GTO 110cc で、カワサキの二輪の歴史の中で、群を抜いてNo.1の販売台数を誇った大ヒット商品であることはあまり知られてはいないが、間違いないのである。
それは開発途上国でのCKD生産なので、明石の工場サイドでは、部品出荷はあるのだが、二輪車の完成品としての台数がカウントされないので、台数記録が残っていないのである。
『カワサキ GTO 110cc』 と検索すると結構なサイトがずらーっと並ぶのだが、殆どが海外の人たちの発信なのである。
1976年11月に『市場開発プロジェクト室』を立ち上げて、私はその中枢として企画とタイプロジェクトを担当していたのだが、最も早く合弁事業の進んだタイ市場の特にバンコック対策として『高性能のスポーツ性の高い』二輪車の上市が必要だったのである。
当時のタイ市場は、小池博信くんが、現地責任者として滞在していて、彼は退職後こんな自分史を『発行』しているのである。
当時、一緒にタイプロジェクトを推進した『仲間』で、その冊子には、頻繁に私自身も登場するのである。客観的に、カワサキのCKD 事業の進捗状況を見る上で貴重な文献なのでその引用も含めて、振り返ってみたいのである。
★現在の日本の二輪事業は、各社とも開発途上国市場がその中心で、カワサキもタイ生産の二輪車が国内に輸入されたりしているのだが、1976年当時は、CKD事業は未整備の時代で、営業部門が独自に細々と展開していたそんな時代であった。
カワサキの二輪事業の主体は、あくまでもアメリカを中心とする先進国市場で、中大型のスポーツバイク中心の事業展開だったのだが、前回の自分史で纏めたように、『開発途上国市場』の開拓を文字通り進めようと『市場開発プロジェクト室』が創設されたのである。
小池くんの冊子には、『その経緯』がこのように書かれている。
たまたまだが、タイプロジェクトを私が担当することになったので、タイの華僑側との折衝にも私が先頭に立ったのである。
当時の交渉の様子を小池君くんはこのように書いている。
この時私は1ヶ月近くバンコックに滞在したが、その殆どをタイ市場や、マーファミリ―のマーケッテングと、雑談ばかりに終始して具体的な合弁交渉などは一切していないのである。
当時小池君たちは合弁企業の『事業計画』などをつくり、販売計画が赤字になるので、その補填をどうするか?などと真面目なことを言っていたが、『若し販売が赤字』なら、そんな事業を、さらに生産工場に投資してまで、合弁を進めようなどとは思わないはずで、『間違いなく販売事業は黒字のはずだ』と言うのが私の仮説だったのである。
当時マーさんグループの二輪事業を担当していた番頭役のチャンさんと言う方に二輪事業をどのようにやっているのか?と聞くと
『必要な金は、給料・経費などすべてマーさんから貰う』そして『モノが金に変わったら』『すべてそのままマーさんに渡す』そんなシステムで、毎月マーさんに渡すほうが、『貰う金より多い』と言う。まさに資金繰りだけで事業を見ている『華僑商法』なのである。
それなのに、『なぜ、販売が赤字なのか?』と聞くとチャンさんは、『私は聞かれたことを答えただけで、事業計画などは創っていない』『あれは小池さんたちが勝手に創ったのでよく解らない』と仰るのである。
みんなまじめすぎるのだと思う。
営業の上のほうも『事業計画を作れ』などと指示するものだから、こんなことになってしまうのである。
帰国する間際になって、黒板を使って 『正直・誠実・勤勉』『信頼・互譲・協力』と書いたのは、それが川崎航空機の社是であり、執務態度の指針であったからなのだが、初めての海外での仕事で『英語がよく話せなかった』のが最大の理由なのである。
それはともかく、タイサイドとの合弁交渉はその後順調に進んで締結されたのである。
★ その時の出張で、実際に観たタイ市場は、田舎とバンコックに完全に分かれていて、農村中心の田舎では委託販売で長期分割でその金利収入が一番の利益という『二輪車=質ぐさ』という商売だから、仕組みとしてはややこしいのだが、一番根元は毎月動く現金のプラス・マイナスで単純化しているのである。
そしてバンコックでは、仕切り販売で台数も『売れる』のだが、当時はバンコックでカワサキを見ることは難しいほど全く売れていなかった。その『最大の理由』はカワサキのバイクは実用車で、最高速などの都会人が好む『スポーツ性』などが全くなかったからなのである。
その時の出張でタイ側との『信頼関係』は図れたので、さらにそれを確固としたものにするためには、販売量の見込めるバンコックで売れる車の提供が、メーカーとしての最大の責務だと思ったのである。
CKDの合弁事業となると、現地サイドは、相当の生産投資額を必要とするし、生産する車が数多く売れないと、事業性の確保がなされないのである。
小池くんの冊子の中に、こんな文章が残っている。
この件については、『そんな対応をしたかどうかは、私は全く覚えてはいない』のだが、担当のご当人が言われているのだから、そんな対応であったことは、間違いないのだと思う。
そんな回答をしたからかどうかは別にして、私自身後にも先にも初めての『商品開発』について、『100,125ccの商品企画について』と題する商品企画書を1977年10月2日に出していて、結果的には小池くんに回答した『車種開発』については自分で動き出しているのである。
その企画書の中の6ページに書かれている具体的な商品のイメージは以下の通りである。
などと書いている。 いま読み返してみても、大丈夫ちゃんとしていると思う。
★冒頭に書いた『技術本部の会議』に呼ばれたのは、年が明けた53年2月のことである。
当時の技術本部長は大槻幸雄さんで、『そんな100㏄など小さなものをやる積りはない』と仰るのである。
大槻さんはレースで一緒だったし、私としては言いやすかったのでいろいろと粘っていたら、『カワサキの2サイクルエンジン開発で知られる松本博之さん』が、http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/867cd9bc05e3705af5fff1fb401e8465
『私がやりましょう』と助け船を出してくれて、この GTO110の開発 が決定したのである。
『最高速120㎞』を確実に出せること
が第1の目標だったので、結果的には 110ccになったり、スタイリングにもいろいろ改良が加えられて、最高のマシンに仕上がり そのネーミングはGTO となったのである。
私は、上記の『基本コンセプト』で技術部にお願いしただけで、開発が始まってからは、一切細部の開発などには関わっていない。小池くんや当時のタイの販売会社の責任者チャンチャイさんや当時私の後、CKD市場を担当された石井三代治さんなどの努力で出来上がったGTO110 なのである。
ネット検索で現れる GTO の写真、
このGTOは、カワサキのCKD事業の救世主となったのである。
その後、タイのバンコック市場では、まちはGTOで溢れ、インドネシアでの販売も凄まじかったので、カワサキのCKD事業は一挙に軌道に乗ったのである。
そういう意味では、私にとっても懐かしい、想い出いっぱいのGTOなのである。
★ このGTOのタイでの発表が行われたのは、1979年9月とあるが、私は出席していない。
その頃には、また別の事業部での大きな課題、ハーレーのダンピング対策としての 国内市場の構造対策 が緊急課題となっていて、この問題を担当していた田崎雅元さんに頼まれての『国内構造対策』をスタートさせた頃だったのである。
次から次に問題が起こっていた時代なのだが、この話はまた・・・・
● カワサキの二輪事業―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c
● カワサキの二輪事業―その2 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b