★83才になっていま、ちょっと考えていることがある。
『よく今まで生きれたな』と思っている。
20歳のころ、肺結核になって、『そんなに長くは生きられないのだから、幾らかでも足跡を残しておこう』と書き始めた日記は今も尚続いていて、お蔭様で振り返るとそれぞれの年に、その日にどんなことをしていたかは解るのである。
性格的に結構いい加減なのだが、自分で言ったこと、やったことには『責任を負うべき』というのは会社勤めの時も徹底していて、自分の意見とかやってきたことはすべて文書や、それを整理したファイルに纏めてある。
これはいま私が持っている、カワサキの二輪事業で私が担当した時の資料を纏めたファイルで、年次ごと、プロジェクトごとに纏められている。
カワサキの二輪事業の中では中枢にいたので、その記録自体が『カワサキの二輪事業』そのモノなのである。
その二輪事業のスタート昭和36年から40年間、ずっと二輪事業と一緒に歩いたので、ある意味『カワサキの二輪事業を創った』とも云えるのである。
『カワサキの歴史の本』などと言われる方もおられるのだが、とても一冊の本に納まるような量とは違うのである。
これらのファイルは、約15年の国内マーケットの第1線に出向から事業本部の企画に復帰した1976年から以降20数年間のものなのである。
こんな風に、年ごとに時系列に月ごとに纏めてあるし、その月の内容は日ごとに纏められていて、その時の資料がそのまま整理されてファイルされているのである。
川重の事業部の中には『社史』編纂のための資料もあるのだろうが、大きな流れの資料としては、これ以上のものはないと思っている。
私だけが持っていても、仕方がないので、そのうちのオモシロそうなのは、そのまま開示するのが一番正直かなと思ったりもしている。
この年当時のカワ販の企画部長から、単車事業部の企画課長に10月に異動したこの年からスタートしているのである。
国内市場の『特約店制度』や『部品発送システム』を約5年間掛かって仕上げて、国内市場も一段落した時期である。
事業本部では、アメリカ市場がオイルショック以降の陰りと、スノーモービル事業の赤字でちょっと大変な時期で、一方明石工場では『小型車市場』への進出が、『生産スタイル』から発想されていた時代で、その構想に本社の吉田専務が乗っておられたそんな危かしい時期だったのである。
このファイルにも『東南アジア』プロジェクトの文字が見えるが、小型車の対策はそんな『生産指向』的な不純な発想ではなくて、マーケットから考えられるべきだと、『市場開発プロジェクト』を私自身が提唱し、1年後には『市場開発プロジェクト室』が高橋鐵郎技術本部長兼務でスタートしたそんな時期なのである。
その時書いた『私の提案書』もそのまま残っている。
これは出来れば、そのままご紹介しようかな、とも思っているのである。
それから約30年経って、いまの事業部の事業の主体は、この開発途上国市場が中心に展開されているのである。