★ 富士重工業がスバルに社名変更するらしい。
こんなニュースが流れた。
それはそれなりに、いろいろと理由はあるのだろうが、
取り扱い商品が変わってくると、社名が邪魔になってくるのである。
私が務めたカワサキも国内の販売会社は、このように社名は変化した。
1961年(昭和36年)に設立した当時は、川崎航空機も4輪車の開発中だったのである。 Z1の4サイクルエンジン開発で有名な稲村暁一さんは、入社以来この4輪車のエンジン開発を担当していたのである。
私が、二輪車部門の営業に異動になった当時はまだ『カワサキ自販』で神田岩本町に本社があったのだが、4輪車を諦めてしまったので、カワサキオートバイ販売に社名変更し『カワ販』の名称で長らく親しまれていたのである。
90年代になって新しく扱ったジェットスキーが7000台も売れたりして、オートバイからカワサキモータースジャパンに社名変更したのである。
当時、私は国内の責任者をしていたので、その経緯はよく解っている。
★ 昭和20年代後半から昭和30年代前半には、日本の二輪メーカーは100社を超えていて、弱小企業も含まれていたが、富士重工業も二輪メーカーであったことなどいまはご存じの方は少ないのかも知れない。
● 『ラビット』と言う名称で売られていたスクーターが富士重工業製であり、富士重工業はかっての中島飛行機なのである。
● 『シルバービジョン』と言うスクーターは、三菱重工業製である。その社名は、中日本重工業→新三菱重工業→三菱重工業このように変化して、いまの三菱重工業がある。
● 『ポインター』当時一番有名だったのがこのポインターでオートバイのことを『ポインター』と言っていた。これはかっての川西航空機ー新明和工業が生産していたのである。
● このほかにも『トーハツ』もいいオートバイを造っていたのだが、生産中止して技術屋さんやレース関係者が、ブリジストンに大量に移動してBSも二輪車生産をやっていた。
★戦後の二輪業界は、このような大メーカーが参画していたのだが、ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢とカワサキとBSが残っていたのだが、BSも撤退して、いまの4社体制になったのである。
それにしても、時代とともに取り扱い商品が変わるので、それに伴って社名が邪魔になるのだと思う。
冒頭の『富士重工業』は『スバル』が調子イイだけに、『富士重工業』が邪魔になるのだと思う。
世の中の末端のユーザーは、『ネーミング』でいろんなことをイメージするのである。
冒頭の記事の中にも、アメリカ市場でのホンダやトヨタの4輪車イメージは、『高級車イメージ』にはなっていないので、両社の高級車、『ホンダのアキュラ、そしてトヨタのレクサス』という商品名を敢えて『ホンダ・トヨタ』の社名を出さない『ネーミング戦略』だったのである。
『ブランド・イメージ』もアメリカ市場での末端の人たちの評価だから、敢えて高級車のイメージを別に創りだしたかったに違いない。
その時には、『ホンダ・トヨタ』と言う社名が邪魔になるというのである。
この辺りの発想と、イメージ戦略はなかなかオモシロい。
そういう意味では『スバル』はそれなりの『いいイメージ』が既に定着しているのだろう。
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