★私の本籍は明石上の丸である。
戦時中は今のソウル朝鮮京城にいたので、戦時中の経験はあるのだが、空襲の経験というか爆弾や焼夷弾を落とされた経験は皆無である。
ただ、明石の空襲で伯父の家の敷地内に3発の爆弾が落ちて叔母が亡くなったし、焼夷弾で家は全焼してしまった。
明石公園の外堀の直ぐヨコだったから、神戸などに比べて安全だと、知人の疎開の荷物なども沢山預かったりしていたようだが、みんな焼失してしまったようである。
これは戦後、引き揚げて来て伯父などから聞かされた話で、自分の経験談ではない。
★先日、ひょんことで『明石空襲』というサイトを見つけたのである。
空襲の記録
昭和20年1月19日
明石への最初の空襲は兵庫県下への最初の本格的空襲でもあり、川崎航空機明石工場が標的とされた。
B29爆撃機63機が川崎航空機明石工場に610発・154トンの爆弾を投下、当時の川崎航空機には全国から
学徒勤労報国隊や女子挺身隊が動員されており、この空襲で263人(内、学徒16名、女子挺身隊8名)の犠牲
者を出した。川崎航空機明石工場の被害は甚大で、発動機・組立工場の38%が損害を受けた。
多分この時の空襲で叔父は、工場内で亡くなったのだと思う。
それが、終戦の年の1月だったということは、このサイトで初めて知ったのである。
昭和20年6月9日
午前9時54分、B29爆撃機25機が来襲、500〜100キロ爆弾60個を川崎航空機工場及び明石東部付近に投下。
川崎航空機では殆ど損害がなかったが明石公園に避難した市民269名を含む死者644名、行方不明者12名、重傷者248名、軽傷者345名、家屋全滅1221戸、半壊634戸、罹災者9,426名に及んだ。
この時の爆撃で、上の丸の家には、3発の爆弾が落ち、叔母が亡くなったのだと思う。
明石市民は明石公園は安全だと思ってみんな公園に避難したところに爆弾が投下されたようである。
伯父の家は明石公園の外堀に面していて、公園側から見るとこんな位置にあった。
当時は敷地は2000坪以上もあって、全て伯父に家だったから、下の写真の全景が屋敷だったと思ったらいい。
今でもここが本籍だし私はここで生まれたのである。
戦後もしばらくはそのままで残っていた。
母屋があったのは写真の一番左側あたりで、あとは全て庭で家は建っていなかった。
空襲の状況を非難した人に知らせるべくラジオの拡声器を庭に設置しておいたのだと言う。
それを聞くためにちょうど公園の対面はこんな形になっていて、そこに避難していた人が集まっていたのだと言う。
家の方から見るとこんな形の池なのだが、この石垣の上にいた人など、爆撃の後この池は屍で埋まったというのが、伯父から聞いた話なのである。
伯母はこちら側にいたのだが、この爆撃で亡くなった。
防空壕にしていた築山の下のガレージの中に祖母と、伯母と叔母の3人がいたのだがその周囲に落ちた3発の爆弾で叔母だけが亡くなったのである。
これは6月の話だが、その年の暮れ 朝鮮から引き揚げてきたときは、爆弾のあとの一つは逆円錐形の池になっていて水が溜まっていたりしたのを覚えている。
昭和20年7月7日
午前0時15分から約1時間にわたり、1,045トンの500ポンド油脂焼夷弾が投下された。市街地は火の海と
なり焦土と化し、367人の犠牲者を出した。
合計
死者・不明 1,560人、負傷者 1,159人
家屋の全焼 11,108棟、半壊 2,614棟
<colgroup> <col span="8" width="85" /></colgroup> 1月19日 6月 9日 6月22日 6月26日 7月 7日 7月28日 計 攻撃機数 62 24 26 21 124 3 260 投下爆弾 154 144 155 184 2 639 〃焼夷弾 975 975 計 154 144 155 184 975 2 1,614 <colgroup> <col span="8" width="85" /></colgroup> 死 者 327 656 61 149 367 1,560 重軽傷者 141 600 21 207 190 1,159 全壊戸数 274 1,227 175 357 9,075 11,108 半壊戸数 410 634 373 1,093 104 2,614 計 684 1,861 548 1,450 9,179 0 13,722 罹災者数 3,355 9,458 1,364 6,384 36,410 56,971
そして、さらに7月7日に焼夷弾攻撃があって、残っていた家も家財なども消滅してしまったのだと思う。
戦後、庭に突き刺さっていた焼夷弾の数など 2,3メートルの間隔で一面を覆っており、これではどう仕様もなかったのではないかと思った。
戦後、伯父から口頭で何度も説明は受けたのだが、こんな記録を見たのは初めてのことである。
公園に逃げ込んだ人が沢山亡くなってしまったのは、この記録を見ても真実である。
もし、川崎航空機が明石に無かったら、明石など空襲をうけることはなかったのかも知れないし、明石公園と川崎航空機は同じ明石でも大分離れているのである。
川崎航空機は危ないが、明石公園は安全と思うのは常識である。
伯父の家など全焼してしまって、それは川航があったからだとも言えるのだが、そのカワサキに私はお世話になって生きてきた。
これも、仕方のないことで、川崎航空機を恨みに思ったりしたことは、これっぽちもないのは、自分でも不思議に思う。
何となく不思議なご縁なのである。
そんなご縁で、二輪の世界と出会えて、最高の人生が送れたと思っている。
明石公園にはこんな碑が
川崎重工業の明石工場の中には、こんなお地蔵さんがあると記録されているが、
実は私は、二つとも知らないのである。
明石公園の直ぐヨコの上の丸で生まれて、今でもそこが本籍で、空襲のあった昭和20年の12月に朝鮮から引き揚げてきて、中学1年生であった私。
その生々しい現場を知っている私にも、初めて聞く知らない話がいっぱいなのである。
戦後もホントに遠くなってしまったものである。
もう 68年も前の話 なのである。
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