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カワサキ単車物語50年  その18 コーヒーブレイク 

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★ カワサキ単車物語50年  その18 コーヒーブレイク  カワサキコンバット のこと

 

1963年と言えば、カワサキがB8で青野ケ原のモトクロスで1位〜6位を独占して、一般にはそれがカワサキのレースのスタートだと言われている。

神戸のカワサキワールドにもその時の写真が飾られていて、そのように説明されている。

 

私自身は当時すでに単車事業部の営業にはいたので、直接レースには関わっていなかったが、いろんな情報だけは持っていた。

カワサキとしてのモトクロスレースは、もう一つ以前の機種、B7でも行われていたのは間違いないのである。

昨年7月、ヤマハの本橋さんから『カワサキのB7に乗ったことがあります。井手さんと言う方がおられました』と言う話を聞いて、本橋さんがB7に乗ったとは意外だったのある。井手哲也さんは確かに当時レースに関係されていて、三吉一行などとの関係も深かった。

その時代は、まだ川崎航空機ではレースなどやっていなくて、カワサキ自動車販売関係でレースらしきことに取り組んでいたのである。

 

●カワサキ自販でレースに関係していたのは、当時の企画、宣伝課長の小野田滋郎さんであったことは間違いない。

●ライだ―としては、三吉一行も関係があったのだと思うが、小野田滋郎さんが直接接触したのが三橋実で、彼を50万円でヤマハからひっこ抜いたと言う話は、私は小野田さんから直接聞いている。

●三橋実は1962年の日本初の鈴鹿のロードレースの250ccのチャンピオンである。ちなみに350ccは片山義美が優勝していて、この二人のライダーが後カワサキのレースに色濃く関係するのである。

●翌年5月に青野ケ原のレースに工場の人たちが出場しようと思ったのは、前年度の鈴鹿ロードレースをバスを仕立てて見学に行ってレースに感動したのがそのきっかけなのである。

●カワサキのレースが具体的には、営業部門の中でスタートしていくのだが、その最初の時期、東は三橋実が主宰するカワサキコンバット、そして西は片山義美が主宰する神戸木の実クラブのライダーたちで、カワサキのレースチームが構成されたのである。

●当時私のグループの中にいた川合寿一さんが、そのレースチームらしきものの面倒を見ていたが、ライダ―との契約がどんな形で、どのような額で行われたのか、よく解っていない。契約第1号は神戸木の実の歳森康師であったことは間違いない。

●そして東では、小野田滋郎さんが三橋との関係で『カワサキコンバット』をスタートさせていたのだと思う。

 

 

★小野田滋郎さんは、あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実の弟さんなのである。

雁の巣や厚木や八戸など米軍の基地の近くから、日本のレースはスタートしているようにも思うのだが、三橋がいたのが厚木で、私が気が付いた時は、既に『カワサキコンバット』と言うカワサキのレースチームは出来ていたのである。

『コンバット』と言うテレビか映画の番組があって、そのヘルメットには縦に?の字が入っていて、それと同じ?の字の入ったヘルメットだったのである。

三橋実、梅津次郎、岡部能夫、加藤清丸などでスタートしていたのがカワサキコンバットだったのである。

 

1963年秋ごろのことである。

 

神戸木の実からは、は歳森康師に次いで山本隆が契約した。

川崎航空機の単車事業部に広告宣伝課が創られて、動き出したのがちょうどこの時期、1964年からのことで、ファクトリーチームと呼べるのは、この年開催されたMFJの第1回全日本モトクロス相馬ヶ原への出場からだと言うべきだろうと思っている。

その広告宣伝課が私の担当であったし、同僚の川合寿一さんがその中のレースを直接担当していたのである。

 

★当時のカワサキのレースチーム運営は、『カワサキコンバット』が主体で、現地でのチーム監督的な役割は、三橋実君が果たしていたのである。

そして、そのチーム運営のために月間20万円の運営費で全国から有望ライダーを集め、厚木にアパートも準備して練習費なども一切含めて三橋実君に任せていたのである。

副将格で安良岡健もメンバーに入り三橋、安良岡、梅津、岡部が最初の契約選手で星野一義、三橋弟、栗山、野島、金子など最盛期には何人ライダーがいたのか解らぬほどの大所帯だったのである。

 

 

 

1965年富士の裾野の朝霧高原でのMCFAJ 全日本モトクロスの時の写真である。

 

山本隆、歳森康師(右から3,4番目神戸木の実クラブ)以外は全員がカワサキコンバットのメンバーで、

右から梅津次郎、岡部能夫、三橋実、安良岡健、星野一義、そして野島、栗山、三橋弟だと思う。

 

 

これは昨年11月、『二輪文化を伝える会』の第1回トークショーの時に集まったメンバーで、

星野一義、岡部能夫、山本隆、金子豊なのである。

 

金子豊は今は星野インパルの経営を担当しているのだが、当時は秋田から厚木までやってきて、カワサキコンバットの一員として活躍していたのである。

 

 

 

★つい先日、7月21日には東京品川で、

『二輪文化を伝える会』が 主宰して

全日本MX Legend Riders 記念パーティ―が行われたのだが、その時集まった中にもカワサキコンバットの懐かしいメンバーがいた。

これは開会前の顔合わせの時の写真だが、

 

 

これはカワサキコンバットのメンバー

星野、野島、金子、栗山なのである。

もう40年以上も会っていなかったのだが、昔のままに喋れるレース仲間は懐かしいものである。

 

カワサキコンバットは、1966年までは存続したのだが、三橋実との契約が切れて、世のレースもMCFAJからMFJにその主力が移るようになって、だんだんとその存在が薄れて行くのである。

梅津、岡部がレース界から引退した時でカワサキコンバットが無くなり、

星野一義も神戸木の実クラブへ移籍して、カワサキとの契約を続けた時代へと移っていくのである。

 

 

 

 

この二人とも、7月21日に久しぶりに会った。

増田耕二と従野孝司君である。

カワサキコンバットではなく、神戸木の実のメンバーであった。

従野はモトクロスでカワサキとファクトリー契約まで結んだのだが、増田耕二がカワサキからレースをスタートさせたことを知っている人は少ないかも知れない。

 

カワサキのレースの主力は、『カワサキコンバット』から『神戸木の実』にその中心が移っていくのである。

モトクロスのだけではなくてロードレースの世界で、金谷秀夫、和田将宏、清原明彦なども、神戸木の実からカワサキとのライダー契約を結んでいたのである。

 

カワサキコンバットと神戸木の実レーシング、そのクラブを主宰した三橋実と片山義美、その二人が日本で最初に開催された鈴鹿ロードレースのxチャンピオンであることも、ご縁なのである。

 

 

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