★人それぞれ、何か運とか、ツキを持って生きているように思う。
自分自身のことを言って恐縮だが、私自身も非常にいい運命を背負っていると自分自身でそう思っている。
実際に生きてきた時代の変化や境遇など悪いように見たら、無茶苦茶運が悪いのかも知れぬが、そんな波乱万丈の人生を経験できたことを運が良かったと思っているのである。
会社の事業などを見てもそれを取り巻く環境、一緒に仕事が出来たメンバーなどなど、何ごとも一人では出来ないので、巡り合わせがよくないと事業の結果もそんなによくはならないのである。
1983年7月から1986年の4月までが、所謂『再建屋』と社内で言われていた大庭浩本部長が単車事業を担当された時代である。
その3年間の番頭役みたいなことをやっていたのだが、一言で言って大庭さんは最高にツイテいたと思われる。そんな運をお持ちであった。
● まず、大庭さんを支えた周囲のメンバーがよかったと思う。 高橋鉄郎さんが企画の綜合担当として、本当によく大庭さんを支えられたと思うし、技術安藤、製造酒井の両理事も大庭さんの意を戴してよく頑張られたと思うし、私も含めて田崎、北村、百合草、武本、大前と当時の若手がよく頑張った結果だと思う。
●さらに、本社の財務部門や、技術研究部門など、従来単車には無関係であった部門が、精力的に単車事業に応援体制を敷いてくれた。これは従来の単車事業経営にはなかったことである。
●経営環境は、アメリカのPL問題や、白バイのリコール問題など、いずれも100億円単位の非常に危険なリスクだったのだが、
PL問題は本社法務班から専門メンバーがKMCに出向し、自ら保険会社を設立したりして対応、白バイリコール問題は、品証の田村一郎、清原明彦コンビがアメリカに長く滞在して、見ごとに対応しきったのである。
●商品はちょうどNinjaの発売時期で、アメリカ側が提案した『Ninja』のネーミングは、日本側では、黒装束の暗いイメージが強く不評で、大庭本部長もその意見に乗って、なかなかYesとは仰らなかったのだが、
KMCの田崎社長が『アメリカではNinjaはそんな暗いイメージではありません。ジェームスボンドの007のようなカッコいいイメージです』と説得して、大庭さんを口説き落としたのである。 私はその席に同席していたので、その経緯はよく承知している。Ninja が命名されて、もう30年になろうとしているのだが、今やKawasakiのスポーツモデルの代名詞のようなネーミングになっている。
●当時の第1目標は、海外販社の経営安定化だったので、その目標は幾多の困難はあったのだが、ほぼ2年でその目的は達成し、全海外販社の期間損益黒字化が達成できたのである。もう一つの大きな目標KMCの累積損失38百万ドルの消去は、もう少し長くは掛ったが、田崎―百合草KMC社長時代に達成できたのである。
●この期間の最中に大幅な円高が進行して、海外販社の経営は安定したが、日本の事業本部には400億円近い累損がたまってしまったたのである。私は当時の企画を担当していて、事業経営の数値を任されていたのだが、本社財務の副社長から言われていた指示は、あくまでも海外販社の経営健全化で、日本側の事業部の管理損益的な数値は造船をはじめとする各事業部の黒字で相殺すると言う約束でスタートしていたのである。
思わぬ円高で、大きな管理損失が出たのだが、この400億円近い累損を、本社財務は造船などの黒字と相殺して0スタートにしてくれたのである。
これがその後の単車事業の安定的な経営に一番大きく効いた本社財務の処置だったと思うが、この事実をご存じの方は、多分事業部でも数人で殆どの方がご存じない事実なのである。
★こんな3年間の単車事業部の成果をお土産に、常務で単車に来られた大庭さんは、副社長で本社に戻られて、単車事業部は初めて単車出身の高橋鉄郎事業本部長の時代に入っていくのである。
この間、川重の中で一番変わったのは、本社中枢の方たちの単車に対する『信頼』だと思う。
それを勝ち得たのは、単車育ちの人たちの努力もあるだろうが、この時期本社からKMCへの出向やら、単車事業部への転籍など本社のメンバーが単車事業の中に身を投じて、単車事業そのものを体感されたことが大きいと思う。
当時の財務担当のトップ松本新さんは、毎月の川重役員会の席上で単車の経営状況を自ら説明される時期が続いたのである。そのための報告に私は毎月本社に松本さんを訪ねたし、当時の最大の課題KMCの経営報告もKMC田崎社長に代わって私が報告するそんな状況だったのである。
そのKMCには本社から高田、小里、奥寺、松岡さんなどが出向して援けてくれたし、事業本部側には小川、中村さんなどのメンバーが単車の仲間として活躍してくれたのである。
そんなことで川崎重工業の体質の中に、自然に民需量産事業の単車事業の体質みたいなものが徐々に注入されたことは、単車にとっても、川重にとってもよかったのではと思う。
そんな本社側の当時の財務担当部長が私と同期の川崎航空機出身の横山昌行さんであったことなどが、単車と本社を近づけたと思うし、本社との関係改善では私自身も大いに貢献できたと思っている。
★これが当時の大庭本部長2年目と3年目の動きなのである。
いろんな出来事があったのだが、その中での幾つかをご紹介しよう。
まず1984年
●この年の9月ごろまでは、為替の円安246円もあって絶好調、販社も事業部も大幅な黒字が見込まれて、10月ごろにはアメリカKMCの新社屋建設の話が持ち上がっている。当時は何か所にも社屋が別れていて、当時の本社社屋を売ることによりIrvineに広大な土地の取得が可能で、そこに社屋を建てることで全社統合を目指したのである。川重監査役からはまだ累損のある子会社がと反対の指摘もあったが、本社サイドの賛成もあってそれは実現し現在のKMCとなっているのである。
今は立派な町になっているが、当時は見渡す限りただ広大な土地が広がっていたのである。
● この年の11月に国内のジェットスキーのレース組織を固めるためにアメリカのIJSBAから日本にJJSBAというレース組織を導入する認可を取りに苧野豊秋さんと一緒にKMCに出張している。ちょうどデーラーミーテングもあってそれにも出席した。ここから日本のJJSBAはスタートし、初代苧野豊秋会長で日本に組織的なジェットスキーレースが始まったのである。
1985年
● この3月期が最高だったかも知れない。単車に関係する全事業が黒字になり、大庭さんは常務から専務に、高橋さんは取締役に、私は企画部長から企画室長にそれぞれ昇格したのである。
この時点の為替が253円なのである。そんな為替の円安状況も受けて、計画の数値はいずれも大幅な黒字を計画していたのだが、前述したように一転の円高で年末には200円、年が明けると200円を切ってしまうのである。この急激な20%から25%の円高の事業部経営に与える影響は強烈極まるものであった。
当時の事業部の規模でも1円の動きが8億円ぐらいだったから、単純計算で300億から400億円の利益が吹っ飛んでしまうのである。
この急激な円高対策は簡単には手の打ちようはなく、そんな環境下でもKMCの経営を最優先に考えて対応をした結果最後には何とかなったのだと思っている。
●この年の12月に『クライスラー』と言う記述があるが、
これは単車のエンジンを使った、クライスラーとの4輪プロジェクトのことである。
KMCの百合草さんの担当で、大庭本部長も大乗り気のプロジェクトであったが、実現せずに終わってしまった。
『カワサキZの源流と軌跡』(三樹書房)の中で百合草三佐雄さんが詳しく記述されているので、ご関心のある方はぜひお読み頂きたい。
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