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カワサキ単車物語50年  その15 コーヒーブレイク

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★カワサキの単車事業の激動期は、1982年ごろから始まり、約3年でほぼ収まり、その後数年間で最も問題児であったアメリカのKMCが、38百万ドルもあった累損を見ごとに消去してその後の安定成長期に繋がっていくのだが、

その時期のKMCの社長を務めたのが百合草三佐雄さん、百合ちゃんである。

会社に40年も務めると、いろんな人と繋がるのだが、

振り返って考えてみても、『仕事で付き合いのあった人』は何百人も居ても、『一緒に仕事をした』と言える人はそんなに多くは居ないことに気付くのである。

 

川崎航空機に入社し、その後合併して川崎重工業となりいろんな仕事をやってきたのだが、『一緒に仕事をした人』を書きあげてみたのだが、なかなか50人に届かないのである。

まず一緒に仕事をする機会に巡り合わない のである。

私自身は、会社の仕事上は、全て『八方美人』で、『好き嫌い』は一切なく、むしろ性格的には合わない人たちと一緒に仕事をした機会の方が多いのかも知れない。

私は専門分野、技術とか、法律とか、経理知識など専門分野はどうしても苦手で、幾ら勉強してみても専門家の域に達するのは、不可能だから、そんな人と一緒に上手に仕事をする方がいいと思っている。

 

★現役を卒業して、遊んでいる身だが、『異種、異質、異地域をみんな繋いで、楽しくいい時を過ごそう』となどと言っているのも、そんな発想からである。

あまり同種ばかりが群れると、いい結果は出ないと思っているのだが、

ホントに気の合うと思える人と、組んで仕事が出来ると、それは『最高に気分がいい』のである。

でも、そんな人とは、現実には滅多に出会えないし、仮に出会えても一緒に『仕事をする機会』などには巡り合えないのが普通なのである。

カワサキの激動期の最中1982年から1987年ぐらいの間でも、いろんな人と組んでの仕事だったが、

この人と組めてよかったと心からそう思い、気分よく仕事をさせて頂いた方は誰なのかな?

 

山田煕明さん、当時の副社長、

私をこのややこしい時期に企画に持ってきた張本人なのだが、山田さんとは、山田さんがまだなりたての部長のころから、レース関連で一緒に仕事をさせて頂いて、気心が解っている中学校の先輩でもある。 当時は副社長で単車事業の最高責任者であったが、山田さんのためにちゃんとやらねばと思っていた。

特に副社長を意識したことは一度もなかった。そんなことを感じさせないのが、山田さんの良さだと思う

何度も直筆の手紙を自宅にも頂いたし、言いたいことは殆ど100%言えた上司だった。

 

武本一郎さん、当時の企画部長、

この期間ずっと私を援けてくれた。私の初めての企画時代も直ぐ下にいて手伝ってくれた。

山田さんもそうだが彼も東京大学の秀才である。でもそんなところが全然見えない。この時期私に企画をやれと言われて真っ先に決めた人事が武本一郎さんたった。

彼がいていろんなことをやってくれたから、何とかなったと思っている。単なるサービス部門であった電算部門を、今後はこのような部門こそ企画に必要と企画部門に持ってきたのも彼である。

大庭浩本部長からのムツカシイ宿題を次々に片づけてくれたのも彼である。

なぜか彼とも私は100%合ったので何の問題もなく仕事が出来たと思っている。間違いなく『一緒に仕事をした』し、気分的にもぴったり合っていた人である。

当時は発動機事業部からリンカーン工場にエンジンを提供し、そこでジェットスキーに仕上げてKMCだけで販売していたジェットスキーを、ちゃんとした単車事業本部の製品にしなければ、単車の事業にしなければと提言してくれたのも武本一郎さんである。

そんな山田さんも、武本さんももうこの世にはおられない。寂しいことである。

 

★当時は明石の単車事業部の中には誰ひとりジェットスキーのことが解る人も、勿論乗れる人もいなかったのである。 部門がないのでやりようがなく、企画室企画部企画課の中にオーストラリアから戻ってきた鶴谷将俊くんを一人あてがって、発動機事業部で趣味でジェットスキーのレースに出ていたりした福井昇君を引っこ抜いて、ホントに数人で、企画の中でその事業展開を始めたのである。

当時はまだ400、500ccのエンジンの時代で、これを440、550ccにボアアップしようと言うことになり、それを手伝ってくれたのが、

百合草三佐雄、百合ちゃんなのである。

 

百合草三佐雄さん、武本一郎さんも百合草さんも、いずれも昭和35年入社の同期生で、二人とも非常に息があっていた。

私は正直百合草さんはよく知っていたが、それこそ『一緒に仕事をした』のはこの時が初めてである。

エンジン改良のための開発予算がなくて、確か武本一郎さんが『忍術を使って』製造部の費用か何かをごまかして数千万円の開発予算を捻出したりしたのである。

その440、550がなぜかアメリカでめちゃめちゃ売れて、KMCも事業部も大助かりだったのである。

その時の百合ちゃんと、別に直接細かい仕事をしたわけではなかったのだが、いたく『トーン』があって、田崎さんの後のKMC社長は『百合ちゃん』と勝手に決めてしまったようなところがあったのである。

1985年の4月に、百合草三佐雄さんは、企画に異動してその年の夏、KMCに出向したのだと思う。

 

 

 

左から高橋鉄郎さん(元川重副社長)田崎雅元さん(元川重社長) 平井稔男さん(元チームグリーン監督) 百合草三佐雄さん(元川重常務)稲村暁一さん(Z1エンジン開発責任者)

後の写真もみんな、『カワサキの想い出、そして未来』の時のものである。みんなカワサキの単車事業を背負ってきた連中で、みんな40年前のままでのお付き合いだから、平井さんが錚々たる人たちを左右に侍らしているのである。

 

 

和田将宏と一緒に喋っているが、大槻幸雄さんも、百合ちゃんも、レース監督経験者で、ちょうど和田の時代が百合草さんだったはずである。

 

★そんな百合草三佐雄さんだが、彼のKMC社長時代は、私はホントに彼と『一緒に仕事をした』  販売会社の社長経験など全くなかった百合草さんだが、歴代のKMC社長の中で、最も財務状態を大幅に改善し、当時まだ残っていた累損を綺麗に消去したのな彼の社長時代なのである。

別に財務が解っていたわけではないだろうが、当時の財務を担当していた若い連中を上手に使って、見事な経営状態にしたのである。

私も当時、しょっちゅうKMCには行っていたが、特に難しいことなど言わなくても、何となく信頼関係が確立していて、ゴルフなど楽しんでいたら、上手く回って行ったのである。

そういう意味では、私にとって、百合草三佐雄さんは、一緒に仕事もしたし、お互い確りとした信頼関係の上に繫がっていたのではないかと思っている。

彼がKMCから日本に戻って、さらに航空機のジェット部門に異動したのちも、何回かお誘いがあって箱根でゴルフなどしたりしたものである。

 

それから何年も経って、Z1会のゴルフなどでは一緒になるのだが、

この7月7日、KAWASAKI THE LEGENDS & FUTURE に『カワサキZの源流と軌跡』の執筆者の一人として参加してくれることになっている。

私の片想いかも知れぬが、『百合ちゃん』はホントに数少ない、『一緒に仕事もし』かつ『気分よく付き合えた』 そんな特別の仲間のような気がする。

 

私の勝手な定義だが、

『仲間とは数多くの想い出を共有する人たち』のことを言う。

単に、知っているだけでは『共有する想い出』など生まれないのである。

 

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