★1979年から82年までの4年間、カワサキにとってこの4年間は大変な事業存亡に関わるような大問題を含んだ時期だったのだが、
商品的にはFX400の大ヒットやロードレースの世界ではKR250/350などの華々しい成果を挙げるなど活気のあるいい時代に見えたのだろうと思う。
多分、当時事業部におられた技術や製造関係の方たちでもこの事実をご存じない方が殆どだろう。
この事実を知っている人は、むしろ本社財務の人たちや、本社の中枢部の方たち、そして事業本部の中では塚本事業本部長、高橋鉄郎事業部長そして極端に言えば、その渦中に巻き込まれた私と田崎雅元さん(元川重社長)とそれに関与された数人ぐらいと言ってもいいのかも知れない。
まず、アメリカで起こったハ―レ―のダンピング訴訟問題が、国内市場の日本独特の多段階の流通機構からくる経費率問題を解決しないと、KMCでのダンピングが成立してしまって、KMCが成り立たないのである。
そのダンピング問題を担当していたのが田崎さんで、それに基づいて国内の販売会社の構造改革案を本社財務や単車の企画部門などで立案したのだが、なかなか成案にならずに本社との間でもめてしまって、突如塚本本部長から私に『やれ』と指示を頂いたのが1978年の9月半ばのことだったのである。
★この年の6月あたりから、いろいろと検討がなされていて、カワサキだけがカワサキオートバイ販売会社の本社と言う一段階多い構造なので、その本社を無くそうと言う単純な発想からスタートしていたのだが、なかなかうまく行かないのである。
その案は6月には川重の常務会も通っていたのだが、私が担当して全てひっ繰り返して、小さな本社だが『カワ販を残す』案を策定し、本社の財務担当の堀川さんに説明したら『古谷君が1ヶ月も検討したというのならその案に乗りましょう』と言って頂いて、財務部門も財務担当の大西常務も、当時の財務担当の今井副社長の承認もいただいて、そのままの案で、常務会の承認が取れたのである。
これは常務会の承認と言うことになっているが、堀川運平さんがGOと言って頂いた時点で、事実上承認されたようなものだったのである。
この案で『カワ販』は残ることになり、現在のKMJに繋がっているのだが・・・・・
以下は当時の川重常務会の資料の一部である。
従来の川重の役員レベルの田中社長以下のカワ販本社経営陣を極端に小さくして役員を含めて10名程度にしたことと、部品会社を分離することにより二輪車の商品販売からの経費率を除去することで国内の経費比率を圧縮し、アメリカのダンピングに対応出来るように仕組んだのである。
社長、専務、常務、取締役など大先輩がいっぱいいたカワ販本社を無くしてしまって、当時はまだ課長の職位でしかなかった私一人が常務と言う常勤役員で、カワ販グループ約400名の指揮を取ることになったのである。それを実務的に手伝ってくれたのは前田祐作君である。この当時のカワ販経営は、財務対策や資金対策が中心だったのだが、『古谷―前田コンビ』でやったと言っていい。それにカワ販グループのメンバー達は昔からの仲間だったので、万全の協力体制だったのである。
当時のカワ販の田中社長、苧野専務、清水屋常務、加茂常務を始め大きな組織だったカワ販本社を実質的に解体してしまったドラスチックなものだったのである。この案をかっての上司の田中社長以下に説明し、ご納得いただいたのだが、そうしないと『KMC アメリカ市場が成り立たない』と言うことで、仕方がなかったのである。
グループの役員構成は下表の通りであった。
KMSの苧野社長を除いて、どの会社も川重常務の塚本本部長が社長を兼務されてはいるが、実際は非常勤だから★印の常勤役員が実質責任者なのである。
各社の責任者の方は石原専務(川重同期)を除いて全て私より年長者の方ばかりだったが、やるしか仕方がなかったのである。
当時のカワ販グループは、販売台数は約2万台、グループ全体で含み損を入れると10億に近い赤字で、銀行借入金は26億円ほどもある赤字グループだったのだが、この健全化計画をベースにこの新体制がスタートすることになるのである。
これらは本社の財務の管理下に入れられてしまって、毎月私は本社の財務担当大西常務に月次で報告することが義務付けられたのである。
★ずっと若いころの仙台時代から、会社経営については、代理店関係を担当していたし、国内の直営部時代も全て経営を担当していたので、全くの素人ではないのだが、全国の販社を統括するのは、初めての経験だったのである。
大体、人間半分は運で、販社の経営などいい商品の時に担当したら、まず間違いなくウマく行くのである。
カワサキの国内のヒット商品と言うと、Z2-400FX-ZEPHYRなどがその代表格だが、3度の国内担当したのだが、この3機種は全て私の担当時の商品なのである。
400FXが発売されたのが1979年の春であった。
このヒットぶりはすさまじかった。400ccと言うこともあってZ2とは売れる台数のレベルが違うのである。400ccの分野ではホンダさんを抜いてトップになったりした。
そして1979年度のグループのトータル利益は930百万円にもなって、たった1年で、グループの含み損も消去して綺麗な会社になったのである。銀行借入金も1年で半減し、取引銀行も沢山あったのを2行に絞ってしまったり、借入金ゼロの販社を作ったりしたのである。
このカワ販グループを実質3年9カ月ほど担当したのだが、この期間ずっと順調に推移したので、本社の大西常務などからの信頼も大いに得たのだが、半分以上は『ツキ』だと思う。
大西さんからは累損も含み損も消えた時点で『君は、1年前に計画を出した時にこうなると解っていたのか?』 などと質問されたが、そんなこと解っている訳はないので、『何とかなるだろう』と思っていただけのことなのである。
★こんな具合に、国内市場は商品に恵まれて順調に推移したのだが、
この期間中海外販社はオーストラリアを除いて非常に厳しい状況が続き、特に主力のアメリカのKMCの経営状況が、年々赤字幅が増大し、その累損が日本円換算で百億円近くにもなる状況が続いたのである。
その理由はいろいろあるのだろうが、
●一つにはHY戦争がアメリカまで飛び火してスズキもカワサキも安売り競争に巻き込まれてしまったこと、
●カワサキ独自のスノーモビル事業が足を引っ張ったことなどが表面の理由とされている。
海外子会社の赤字は川崎重工の損益に連結されるものだから、本社財務も放置することも出来ずに資金的にいろいろ手を打ったりするのだが、なかなかままならなかったのである。
この時期アメリカを明石で担当していたのが田崎さんで、私は国内に掛りきりだったのだが、いろいろ相談は受けたりしていたのである。
1980年ごろから経営がさらに悪化し81年の10月からは、高橋鉄郎さんが会長、田崎さんが社長の二人のコンビで経営を立て直すべくアメリカに渡られたのだが、82年になっても悪い流れは止まらず、このままでは単車事業からの撤退を考えねばならぬところまで追いつめられてしまったのである。
この当時の単車事業の最高責任者はかっての単車事業部長、山田熙明専務だった。山田さんは中学校の先輩でもあり、創成期のレースを一緒にやったりデグナ―の契約書などは二人で作ったりして、その後も何かと目を掛けていただいた方である。
★私は、当時は国内のグループを担当していて、ヨコから眺めていただけなのだが、
このKMC問題は、いろいろな理由は言われてはいるが、ひとことで言うと『トータルの経営の仕組みが出来ていないこと』が最大の理由で、
具体的に対応出来る『トータルシステムさえ構築すれば』 間違いなく解決すると思ってっていたのである。
1982年の7月1日の早朝本社の山田専務から電話が掛り、本社に呼び出されて『意見を聞かれた』のである。
アメリカKMCの経営内容を改善することについて、いろいろ聞かれたのだが、『それは直ぐ解決出来る』と思いますと答えたら、『お前が企画をやれ』と仰るのである。
従来、自分の異動について、条件を付けたりしたことはないのだが、この時だけは条件をつけさせて頂いたのである。
● 一つは、『技術のよく解るメンバーを一人付けて欲しい』 これは前回企画を担当した時に、技術オンチの私は技術屋さんの諸要求の中身が解らなくて『それがなければ出来ない』などと言われると困ってしまったのである。こんな部類の仕事をやってくれる人が欲しかったのである。これは山田専務は直ぐOK と言って頂いたのである。
● もう一つは、『KMCに行っておられる高橋鉄郎会長を企画室長で明石に戻して欲しい』
これについては、山田専務が最初に言われたのは明らかに『NO』だった。『KMCを田崎だけで出来るか?』と仰るのである。『私と田崎さんは1年違いだけだから、田崎さんがKMCが出来なければ、私が企画など出来るわけがナイ』などと言ったら、『考える』という方向でその日は終わったのである。
★そんなことから、私は1982年の10月1日からまた単車事業本部の企画部に戻ることになったのである。
そして高橋鉄郎さんも企画室長でKMCから戻られて、KMCは田崎雅元さんが独りで担当することになったのである。
結論から言うと、1982年10月から約2年でKMCは勿論、海外全販社が黒字化して、さらにその数年後100億円近くあったKMCの累損は全て消去されて、健全販社として生まれ変わったのである。
どのような新しい総合的なシステムを構築したのか?
当時の単車事業本部の世界の販社を含めた『経営のトータルシステム』は82年10月から6ヶ月でほぼその枠組みは完成したのだが、それが具体的にどんなものだったのか?
その詳細については、次回に詳しく述べたいと思ううが、
基本的に単車事業は、全て自らの意思で、開発機種も、生産台数も、販売先も、販売台数も計画出来る、非常に自由極まる事業なのである。
注文者は基本的にいないので、自らが決めねば誰も決めてはくれないのである。
4輪に比べてはるかに小型だが結構値段も張り1台あたりの粗利も10万円の単位だから、1000台で1億円になったりする。
頑張れば10億円などの利益は直ぐ出てしまうのだが、逆に頑張り過ぎて売れなかったりすると、在庫金利も値引き額もそのレベルで発生する。
事業のベースの台数などを、現地に聞いたりするから間違ってしまうのだと、私は今でも思っている。
世界の事業展開を経営次元では中央でコントロール出来る仕組みでない限り、安定した経営はムツカシイと思っている。
1982年からの数年間、世界の販社の事業計画なども全て明石の中央で全体最適地を求めて策定し、現地販社はその計画に基づいた実行部隊であることに専念したのである。
個別最適値の集積が=全体最適値にはならないのである。
こんな綜合的な計画は、数人おれば組めるのだが、それを全軍に指揮命令するのには、結構位も要るのである。
私には、計画は組めても全軍を指揮する力は、新米部長では難しかったのである。
その旗を振って頂いたのが、高橋鉄郎さんなのである。
そのために高橋鉄郎さんには明石に戻って頂くことが、MUST 条件だと思ったのである。
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