★昨日は久しぶりに明石のまちを訪ねた。
明石市役所と明石年金事務所に用事があったので、その近くを訪ねてみた。
子どもの頃の思い出もいっぱいである。戦後そこで育った。
本籍も生まれ故郷の『明石上の丸』にそのまま置いているので、『戸籍謄本』を貰いに行ったのである。
まず明石市役所に戸籍謄本など貰いに行った。
今市役所が建っているところは昔は海の上なのである。
市役所の南から眺めた明石海峡。 向こうの島が淡路島である。
二つの鉄塔、右の方が川崎重工、左は三菱重工が造ったのだとか。
海水がこんなに綺麗だったのは意外だった。
この通りが昔の『中崎海岸』 この右手は直ぐ砂浜だったのだが、今はそこは道路になっていて市役所はさらにその向こうにある。
この中崎公園の直ぐヨコに今は明石勤労福祉会館がある。この建物は新しく建てられているが、
小学生のころ戦前伯父がオーナー叔父が支配人をやっていた『錦江ホテル』があったのだが、
戦時中に軍の宿舎として川崎航空機に接収された。
それが私と川崎のご縁の始まりなのである。
伯父と当時の総務部長砂野仁さんとの間で売買契約書が交わされている。
当時の金で100万円だった。その契約書を川崎航空機に入社し財産課にいたので知っているのである。
小学生のころ夏、冬の休みには、朝鮮から戻ってきて、特に夏はホテルから海へ泳ぎに行ったものである。
外人の人たちも来たりする結構カッコいいホテルであった。
その向こうにあるお稲荷さんのある敷地は、叔父の家だった。 お稲荷さんは子どもの頃からそこにあった。
戦時中叔父も叔母も爆撃で亡くなった。
その屋敷跡は戦後、宇治から明石に来られた辻勝一さんにお譲りしたのだと思う。戦後ここで辻さんは建築業をスタートされた。
昭和20年末、毎日のように伯父と一緒にここを訪ねていた。引き揚げてきて中学校に入学するまでの、数ヶ月のことである。
辻さんは後明石の商工会所の会頭をされたり、砂野仁さんは川重の社長をされたりしたのだが、
私にとっては中学に入るころ、伯父と一緒によくお会いした『おっちゃん』のイメージが今でも一番濃く残っている。
表にはまだ『辻勝一』の自筆の表札がそのまま残っている。
伯父は長寿院の檀家総代をしていたのだが、そのあとを継いで頂いたのが辻勝一さんである。
その辻さんももういらっしゃらない。
市役所を訪ねた帰り、そんな思い出の地を通ってみた。
明石年金事務所の直ぐヨコが明石公園である。
このあたりは南側だが、私の生まれたところも。伯父がいたところも、今本家が残っているところも。この明石公園の東北あたりで、明石公園は子どものころの遊び場で、学生時代の野球の練習をしていたのも明石公園の球場なのである。
今はこんなに綺麗に復活したが、
戦時中この明石公園には、明石の人たちが空襲のたびに避難したのだが、そこに爆弾と焼夷弾が無数に落ちて、戦後は木々も見る影もなかったのである。
伯父の屋敷内にも爆弾は3発、焼夷弾は無数に落ちていて、ここは安全と神戸の知人から預かった荷物も含めて全焼し、叔母はそこで亡くなったのである。
川崎航空機があったので、明石のまちは空襲を受けたのだろうとは思っている。
そんな思い出いっぱいの明石のまちである。
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