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カワサキ単車物語50年 その11 小型市場開発プロジェクトー2

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★この小型市場開発プロジェクトは1976年の5月から6月に亘って、インドネシア、タイ、イランの3カ国を中心に約1ヶ月の現地調査を行って、その報告対策を纏めたことにより具体的に大きな展開となるのである。

 

その調査団のメンバーは次のような構成だった。

 団長  高橋鉄郎   技術本部長

     安藤佶朗    製造部部長

     川崎芳夫    技術部 商品企画  部長

     山辺 昂    営業部 東南アジア担当  課長

     古谷錬太郎  企画室 企画グループ  課長

     松田与市    カワサキオートバイ販売部長

     の6人で、東南アジア担当の多賀井係長が案内役を務めたのである。

 

高橋鉄郎さんは、後単車事業本部長、川崎重工副社長も務められ、私とはこの10年前のファクトリーレースチーム時代からの関係だが、このプロジェクト以来ずっと直接的に関係があって、今現在もNPO The Good Times の相談役もお願いしたりしているのである。

安藤佶朗 さんは、ファクトリーレース、F21Mを造られた当時の監督、アメリカリンカーン工場経営やカワサキ独自の生産方式を造られたりした。

川崎芳夫さんは、川崎重工業の祖、川崎正蔵さんのお孫さんに当たる方である。青野ケ原のモトクロスなどは川崎さんなどが実質の活動舞台であった。この時期は商品企画を担当されていた。

山辺昂さん、 私と同期入社、当時は東南アジアの営業担当であった。不思議なご縁で入社試験は隣の席だった。

松田与市さん、 当時はカワサキオートバイ販売の第1線担当、カワサキ九州出身のマーケッテング専門家で、国内営業では長い経験をお持ちだった。

このような当時のカワサキの各部門を代表するいいメンバーであったと思う。 

 

5月17日に日本を出発し、台湾ーインドネシア―タイーイランーマレーシア と現地で―ラ―を始め末端市場までを実際に見て回った。

この調査団の報告と、その後の対策提案によって、具体的に「市場開発プロジェクト室」と言う新しい職制が11月にスタートすることになるのである。

 

 

★インドネシア、タイ、イランそれぞれ末端の市場まで足を伸ばした強行軍だったし、仏教国のタイはともかく、回教徒主体のインドネシア、イランなどの考え方の相違なども顕著で、初めて体験することも多く、世界は広いなと思ったものである。

タイ、インドネシアでも、いろんな見聞をしたのだが、特に回教国イランの習慣や考え方の違いには驚いた。

話をしていてもお祈りの時間になるとお構いなくお祈りに没頭だし、長期計画など、それは神様の分野だと仰るのである。文字はともかく数字が違うのにはビックリした。領収書を貰っても幾らなのか解らない。ハートの模様が確か5で、ゼロは・ なのである。

イランのイスファーハーンの近くのカワサキの工場からテヘランに戻ろうとしたら飛行機が飛ばないという。『いつ飛ぶのですか』と聞いても返事はただ『解らない』と言うだけで、テヘランまで600キロの砂漠の中の道をタクシーに分乗してテヘランまで戻ってきたりした。

市場調査などみんな初めての経験であったが、私は特に各地のデ―ラ―の経営姿勢や販売網のコンセプト、具体的な商売の仕方、ユーザー体質などなど、各地独特のモノがあって得るところ非常に大きかった。

一言で言うと 商売は、「いろんな形」があって、どれが正しいなどとは言えないものだ と言うことを実感した。

 

★この調査団ほど真面目な海外出張は、あまり例がないのではと思ったりする。普通ではないような真面目さと熱っぽさで、観光地見学などは一切なかったのである。

特に副団長格の安藤さんと川崎さんはまさに熱心で、夜飯を食った後で、その日の検討、反省会などをやろうなどと言うものだから、営業関係の私や松田さん、山辺さんなどは少々辟易したようなところもあったのである。現地の商社やデ―ラ―の人たちも、従来のカワサキの人たちの態度とは一変した真面目で熱っぽい調査団の行動に、半ばビックリしたような感さえあったのである。

一番この東南アジアを「気に入られた」のは、高橋鉄郎団長で、このプロジェクトの推進役の私としては、これは間違いなく成功したと、思ったものである。

 1ヶ月に亘る現地調査を終わって、

『将来性のある有望な市場なので、市場参入すべし』と言う方向で纏めて、吉田専務、塚本事業部長などへの報告を行ったのである。

その結果、 「市場開発プロジェクト室」の組織を造り、その室長には高橋技術本部長が兼務することまでは直ぐ決まって、その陣容や基本コンセプトまでは、お手伝いをしたのだが、最後まで決まらなかったのが、私自身の去就であった。

自分自身のことではあるし、一切意見を言わずに上の判断に任していたのだが、高橋さんからは貰いが掛ったのだが、企画がなかなか「うん」と言わなかったのだと思う。それが最終的にはプロジェクト室への異動となり、復職後企画室勤務はちょうど1年でまた、現場復帰となったのである。

 

現地展開の特別プロジェクトは

● 「イランプロジェクト」 総括 山辺昂    現地駐在がテヘラン岩崎茂樹、現地工場佐伯武彦さん(後リンカーン社長、川重副社長)、明石での管理キャッチャー役が鶴谷将俊さん(後アメリカ、ヨーロッパの現地販社社長、川重常務)。今思うと大モノが担当したのだが、こんな経験をしたので大モノになったのかも知れない。

● 「インドネシアプロジェクト」 総括 石井三代治  現地駐在が 資材から参加した大竹国雄さんらの実力者で、国内販社から久後淳一郎君らが参加した。

● 「タイプロジェクト」 総括 私が兼務で担当   私は『市場開発プロジェクト室』の総合的な企画、管理を主務としながら、『タイプロジェクト』を担当して、タイに初めてのカワサキとの合弁会社が出来るまで、現地に出向した小池博信君や国内販社からタイに出向した耕守正昭君などを手伝ったのである。

● これら3つの主要プロジェクトのほかに、開発途上国市場の台湾、フィリッピン、マレーシア、パキスタンなどの一般市場は山辺さんと佐藤君が担当し、この地域の技術サービスなどを担当したのは、後単車の製造部門や建機部門を統括した藤浦堯士さんなどもいて、ホントに単車事業のいいメンバーが集められたものだと思うのである。

 

 

★この時期1976年からの4,5年は

オイルショック、ハ―レ―のダンピング訴訟、さらにはHY戦争などと続いて、二輪業界にとっては激動の時代だった。

カワサキにとってもその中心のアメリカ市場でカワサキ独自のスノ―モービルが雪不足での在庫過剰問題やら、ダンピング訴訟などの対策で、その対策に追われた時期でもあったのである。

この開発途上国の新市場対策もそんな一環ではあったのだが、過去10年は、実質的にはアメリカに本部があったようなもので、Zの開発など新機種の開発もアメリカ主導であったし、アメリカKMCの浜脇洋二社長の基本戦略通りに明石の事業本部がフォローすればいいというような状況であった。

そういうカワサキ独特の事業環境が一変して、アメリカKMCの経営に陰りが見え始め、さらには経営も悪化し、事業部も1975年には大きな赤字を計上するそんな状況に変わっていたのである。

 

1976年から数年の事業本部内の職制変更の動きを見ても、それがどのようなものだったのか、想像頂けると思う。

その最初が「市場開発プロジェクト室」なのである。

 

●1976年10月  市場開発プロジェクト室 発足   

高橋鉄郎室長が技術本部長の兼務として担当、事業部各部から人材を異動し、タイ、イラン、インドネシアプロジェクトをそれぞれ現地で立ちあげ活動に入った。

 

●1977年7月  営業本部としてヨーロッパを含めて、高橋鉄郎本部長が担当  

実質は、『市場開発プロジェクト室』に従来のヨーロッパ営業部を吸収して、名前は営業本部とし、高橋鉄郎さん管轄となったのである。ヨーロッパにについては佐野部長が、CKDビジネスと営業本部のトータル管理は私が担当した。 

この時点ではまだ、アメリカ、国内については企画室で田崎雅元さんなどが担当していた。

 

●1978年4月 発動機事業本部の中に単車事業部を組織し、高橋鉄郎事業部長 

この事業部の中に管理部が出来て、田崎雅元、野田浩志、坪井孝之課長と私の4課長体制となった。

私は開発途上国に加え、ヨーロッパも含め、トータルの管理面では担当し、アメリカ、国内の直販会社は田崎、野田さんの担当だった。そして、この時点でアメリカのハ―レ―ダンピング訴訟が起こり、これは田崎さんが担当したのである。

この時期は国内、アメリカ、ヨーロッパとも、多くの経営的な課題を含んでいて、その結果が事業部の損益を圧迫し大変な時代であった。

 

 

 

 

★この時期、順調に進んでいたのは、新しくスタートした開発途上国ぐらいで、新開発のKH110 GTOが売れだしていたのである。 

CKDなのでカワサキの明石工場の生産台数にはカウントされていないが、カワサキの車種の中で最も大量に販売したのは、FX400でもZEPHYR でもZでもなくKH110 GTO ではなかったかと思っている。

私自身は殆ど、車種開発などには関与したことはないのだが、ただ1機種だけ間違いなく私が技術部に開発をお願いしたクルマがこのGTOなのである。

当時のタイ市場では首都バンコックでは、カワサキの車は見ることが出来なかった。カワサキは全くの実用車でタイの田舎でしか売れていなかったのである。そのバンコックの市場開拓をする上で都会向きの車がいると、当時のタイプロジェクトの現地責任者のチャンチャイさんが『兎に角110キロ以上スピードが出る高馬力スポーツ車』 を開発して欲しいと言うのである。

 このコンセプトを当時の大槻幸雄技術部長主催のの技術部の課長会議に乗りこんで、『こんな車を造って欲しい』と頼んだのだが、肝心の大槻さんが『そんなのやれるか』と猛反対なのである。

大槻さんは『Mrホースパワー』とあだ名されてはいたが関心は大型スポーツ車で、こんな125ccなどは、関心がなかったのである。大槻さんとは昔のレース仲間なので、言いたいことは言える仲なので、粘っていたら、『カワサキの2サイクルなら松本』と言われている松本博之さんが、『私がやりましょう』と助け船を出してくれて、この開発が決定したのである。この話、つい2,3日前当の大槻幸雄さんにお会いした時言ったのだが、ちゃんと覚えてもおられなかった。

私が、最初に頼んだ時は『馬力さえ出て、スピードが110キロ以上でたら、少々音などやかましくてもいい』などと、チャンチャイさんが言った通りに伝えたのだが、この開発プロジェクトを引き継いでくれた石井三代治さんが、、その後丁寧に音などの問題も全て解決したイイものに仕上げてくれたのである。

 それにしても、めちゃくちゃ売れた車で、GTOが売りたいからと、バンコックの大手デーラーがカワサキに次々に訪れて、バンコックのまちの交差点は『カワサキのGTOであふれる』ほど売れたし、インドネシアでも大ヒットになったのである。

 

 

 

当時のタイの広告写真。 『カワサキGTO』 で画像検索したら、こんな写真が現れたのである。

いずれにしても当時先進国市場が軒並み問題があった時期に、カワサキでヒットした商品は東南アジアではこのGTO 、そして国内ではFX400が大ヒットするのだが、その台数ではGTOに確か遠く及ばなかったように記憶している。

 

 

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