★1975年、私が企画に復職したころのカワサキの単車事業部は、岩城良三常務時代が単車再建を宣言した昭和40年(1965)から10年の歳月が流れていたのだが、この10年間の間にホントに第1線の現場を経験した川崎重工籍のメンバーはごくごく僅かだったのである。
これは国内に於いては、メイハツ、メグロのメンバーが第1線の主力であったし、海外に於いても日常活動をを担当してくれたのは現地のアメリカ人であったので、メーカー籍の人はホントに少なかったのである。
明石工場内での技術や生産部門の人たちもそれなりにいろいろな経験を積んでは行くのだが、将来のこの事業を考えるとき、単なる輸出産業ではなくて現地に販売網を創設し事業展開を行うことになるので、現地を経験し、そんなカンみたいなものが体質的に理解できないと、今後の事業展開の発想などなかなか難しい面もあるのである。
私自身の経験で言っても、広告宣伝、ファクトリーレース、代理店営業、直販会社担当、特約店制度など販売網創設、などの業務は川重そのものにとっても、全く初めてのことばかりで、そこで得た経験は明石工場の中では得られない貴重なモノだったのである。
当時の事業本部は吉田俊夫専務がその経営全般を担当、塚本事業本部長、青野副本部長、堀川運平企画室長の4人でグループのトップ陣を形成していた。
吉田さんを除く3人が東大出身という超エリート組で、事業部にはこのほかにも東大出はぞろぞろいて営業の矢野昭典さん、KMCの浜脇洋二さん、同じ企画にいた種子島経さん、私の部下の武本一郎さんと東大だらけで、会議をすると学校別では東大が一番多いなどと言う普通では考えられないメンバーだったのだが、上司の人たちは、アタマはよくても、位は高くても、単車事業については殆ど経験をお持ちではなかったのである。
そんな事業本部の中で、いろんな発想をするとき、この10年間現場やいろんな経験を積んだ若い人たちの発言が、位は低くても結構重みがあったのである。
吉田専務などは川崎重工業の専務さんで、他の事業などでは課長などは直接口もきけない存在なのだが、単車の事業部では吉田さんの仰ることでも、堂々と反論する不思議な空気があって、そんな経験をお持ちでない吉田さんはそれが結構オモシロく感じられたようなところもあった。
当時の吉田語録で
「他の事業部では俺が怒ったら卒倒したやつがおったのに、単車は素人の専務はだまっとれと言うよな雰囲気だ」とか。
「単車の連中は黒人みたいだ。飛んだり跳ねたりさせたら滅法強いが、ホントにアタマはいいのかな」
などと仰ったりしたのである。
★企画のメンバーは勿論いっぱいいたのだが、その中で現場経験者は4人だけだった。
年次の順で言うと、昭和32年入社の私、
33年入社でレース、アメリカの創成期7人の侍の一人田崎雅元さん、田崎さんは日本に戻ってからも当時は日本でも珍しい部品の自動収納倉庫を造ったりしていた。
35年組の種子島さんも いたのだが、彼はヨーロッパに出かける直前で待機中で特に担当は持っていなかった。ちょうど本を書いてたのはそのころである。
それに高校卒だが単車に限らず博学極まる岩崎茂樹くん、彼は私の後の広告宣伝、レース、さらには九州事務所で代理店営業、さらには直営所関連などの業務をこなしていて、当時は田崎さんと組んで、アメリカとリンカーン市場を担当していたのである。
そういう意味では年次から言っても、私と田崎さんが単車については若手の中心で二人とも人一倍いろんなことを言うものだから、課長ではあったが発言にはみんな一目置いて頂いて頂いたように思う。
そのほかにも後川重や単車を支えた人たちはいっぱいいた。
大庭さん時代の企画部長として支え、アメリカ以外の市場へのジェットスキー導入や、電算室を明石事務所のサービス部門から企画室の中枢に持ってきた武本一郎さん
後ドイツの社長など務めた佐藤強さん、
あと本社の財務に戻ったが田崎社長時代単車の本部長も務めた森田進一さん、関連事業部やKMJ の専務やKLCの社長を務めた繁治登さんなど多士済々だったのである。
前述の岩崎茂樹さんは、私とはそのあとも密接に関係があっていろんなことを一緒にやっている。岩崎茂樹はこの物語にも今後何度も登場するだろう。
そしてこの企画グループを纏めていたのが、高橋宏部長であった。
この時点では、アメリカKMCは、まだ浜脇洋二社長であった時期である。
★そんななかで、田崎雅元さんとは年次は私が一つ上、年齢は二つ上で、私は昭和一桁だが彼は昭和二桁なのである。
田崎雅元さんとは、川崎重工業の社長を務めた田崎さんである。
ちょっと彼のことに触れておくと、
なぜかご縁があって、10数年前には、私は単車だったが、彼は未だジェットにいて組合の常任幹事で同じ会議によく出ていた。私も喋る方だが、組合の事項のような解らぬことは発言できないのだが、田崎さんはどんな議題でも発言するし、なかなかいことを仰るのである。てっきり事務屋だと思っていたら、技術屋だと聞いてびっくりした。
その後単車にやってきて一緒にファクトリーレースを支えたレース仲間なのである。
創成期のファクトリ―チームは技術部と製造部と広告宣伝課の3部門の協働体制だった。
元々明石工場はエンジン工場だからエンジン開発は専門家がいっぱいなのだが、車体、特にレーサーの車体については、当時は兵庫メグロからカワサキに転じた松尾勇さん個人のノウハウで持っていたところがあって、松尾さんが製造部の所属だったのでレース職場は製造部管轄で、その担当が田崎さんだったのである。
カワサキが初めて鈴鹿の6時間耐久レースに出場したときの監督は、あのZの開発者の大槻幸雄さんだし、その助監督を務めたのが田崎さんなのである。
彼はその後、アメリカに渡り、創成期のシカゴ事務所を担当したホントにアメリカ市場の先達なのである。
何となくご縁があって、その後も、特に1976年から1986年までの10年間、カワサキの単車事業のど真ん中で、二人協力していろんなことをやることになるのである。
★前編で、企画室長の堀川運平さん のことをちょっと書いたが、堀川さんは本社財務の超エリートで、特に大きなウエイトを占めていたアメリカKMCの財務、資金に対してのお目付け役みたいな感じで事業本部に派遣されたのは間違いない。
非常にオモシロイ独特の発想をされる方なのである。
どうせ、今から単車のことを覚えても、解る筈はないから、具体的な案件については「誰か人を決めてその人の発言に乗る」と仰るのである。例えば特に生産のことなど解らぬから、『私は安藤佶郎さんに乗るんです』とよく仰っていた。
その堀川さんには私も田崎さんもそこそこの信用があったように思う。
堀川さんが本社財務に戻られてから、国内販社の問題で、川重全体でもめにもめていた時に、私の立案について、「古谷君が1ヶ月も考えた案ならそれで行きましょう」と言って頂いて、現在のKMJの前身のカワ販改組案が通ったり、さらにその数年後、ホントに単車の存続が危なかったその時に、『何百億円の資金を単車に注いで頂いた』のは、経営会議の判断とはなっているが、実際は当時の財務担当常務であった堀川運平さんの判断によるところが大きかったのである。
カワサキの単車を支えてきたのは、ベースには極めてユニークなヒット商品があるのは事実なのだだが、カワサキの単車がここまで続いたのは、川崎重工業の『資金力』 金の力が大きかったのである。
そういう意味で、カワサキの単車事業部の現在があるのは、堀川運平さんの判断に負うところも多いのだが、そのあたりの具体的なことはまたの機会にしたいと思っている。
★突然、ゴルフの優勝カップだが、これは『企営会』と言うゴルフコンペがあって、
堀川さんが単車におられた期間続いた企画と営業関係の人たちが参加したコンペだが14回ほど続いて取切り戦で私が優勝したので、私の手元にあるのである。
その第1回の優勝者が田崎雅元さんで、昭和50年12月20日なのである。
実はこの12月20日(土)に長計の検討会を須磨の翆山荘で幹部でやろうと堀川さんのところに吉田専務から電話が掛ったのだが、堀川さんは『その日はゴルフのコンペですから』と断られたようなのである。このあたりが堀川さんらしいのだが、吉田さんからはそれでは企画の若手でもということなので、『私がゴルフは止めて専務のお付き合いをする』ことになったのである。私よりさらに若い未だ係長の森田進一くんなど全くの若手と吉田専務と5人ほどでの会議をやったのである。
吉田専務は至極ご機嫌で、当日は絶好の天気で『雨でも降ればいいのに』などと言われていたが、終始和やかに若手相手にいろんな話をされたのである。
昭和50年から55年まで続いているのだが、当時のこんなメンバーが優勝している。当時の事業のキーパーソンばかりなのである。
第1回 50−12−20 田崎雅元 (企画部、課長)
第2回 51−4−24 田中誠 (カワ販社長)
第3回 51−10−20 橋本賢 (資材、部長)
第4回 51−12−4 宮田敬三 (IKS社長)
第5回 52−3−19 那波義治 (営業課長)
第6回 52−6−18 土井榮三 (資材、課長)
第7回 52ー9ー17 古谷錬太郎 (市場開発室、課長)
第8回 52−12−3 堀川運平 (企画室長)
第9回 53−3−18 苧野豊秋 (カワ販専務)
第10回 53−7−15 野田浩志 (管理、課長)
第11回 54−3−17 若山禎一郎 (IKS部長)
第12回 54−7−14 酒井勉 (企画室長)
第13回 55−5−13 前田佑作 (新カワ販、部長)
第14回 取り切り戦 古谷錬太郎 (新カワ販、常務)
流石にゴルフの翌日は日曜日だったが青野副本部長以下 幹部の人たちが翆山荘に集まって、終日会議が行われたのである。
前編でご紹介した、堀川さんの自筆の事業計画は、その日付が昭和50年12月19日とあるように、翆山荘会議の前日の金曜日に経営会議が行われていて、その会議のの続きが行われたのである。
★1975年10月に企画室企画グループに復職した私だったが、その3カ月間で一応長期計画を形の上では纏めたのだが、
年が明けてからは、開発途上国向けの小型車に関しての具体的な活動展開に入っていくのである。
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