ずっと以前に自分史で『私の人生川の中で始まった』をアップしたことがる。
その時にも大田電気のことなど検索から見つけて記述しているのだが、
最近になってSnippinng Tool
を覚えたのでその部分だけを、具体的に写して記録に残しておきたいと思って纏めている。
生まれた時にはもうなくなっていた祖父のことや写真が載っているのである。
だから、勿論話したこともないし、銅像はあったのだが、写真で見るのもこの時が初めてだったのである。
★祖父は大正13年に亡くなっているのだから、私が生まれるずっと前である。
古谷修一は伯父なのだが、未だ早稲田の学生だったか、卒業したばかりのころだったとか、父は未だ早稲田の学生だったはずである。
私は昭和8年生まれで、出生地は明石の上の丸なのだが朝鮮大田には、生まれてすぐ行ったのだと思う。伯父は社長はしていたがずっと明石にいて大田にいたわけではない。
大田のころは父も太田電気で何かしていたのだと思う。会社の社宅に住んでいたし、隣りが竹内さん宅だったのである。
川で魚をとってくれたお兄ちゃんは、竹内清次郎さんの息子さんで、後確か阪大の教授になられたとか聞いているがその後お会いしたこともない。
大田での記憶は、そんなにぼんやりしたものだが、なぜか川での魚だけが鮮明に記憶のなかにある。
そんなことで『私の人生川の中で始まった』と書いている。
★太田電気が南鮮合同電気に統合されたのが昭和12年とあるので、私が4歳のころである。
小学校に入る前に、太田から京城(今のソウル)に移ったのである。
多分、南鮮合同電気に統合されたので京城に移ったのだろうが、、京城では父は会社勤めはしていなかった。
★この記事によると南鮮合同電気の本社は釜山となっているが、 私が覚えている限り南鮮合同電気の本社は京城の半島ホテルのビルの中にあり、副社長をしていた伯父はの年に何回か京城に訪れて、その時は我が家に泊まったりしていた。
この資料によると伯父は15000株も持っていたようだが、多分父も株は持っていて、その配当などで暮らしていたのかも知れない。
この記録が正しいのかどうかはよく解らないが、大田電気と検索すると、ネットの中にちゃんと現れるのである。
私の記憶では、終戦時南朝鮮の電力会社は一つだったような気がするのだが、戦後に記述のような3社になったのだろうか?
本社が京城だったのはこれは間違いない。それに結構大きな会社だったはずである。伯父が明石から京城に来るときは新聞に人事往来が出たりしていたのである。