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カワサキの長いレースの歴史の中で・・・・

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★平井稔男さんが精力的に綴られている『Team Green』と言うブログがある。

現在は1984年ごろのカワサキのレース中断の頃のことが書かれている

そのまま引用すると次のような書き出しからスタートしている。

 

1984年にKHI(川崎重工業(株))がレース活動を凍結した時、私はコリャイカン、オートバイメーカがレースを忘れたらアカン、せめてJAPANだけでもと当時のカワ販古谷常務とKHI実験研究部武本部長(ル・マン24時間の総監督故武本 晃)に食い下がったのである。

 ここで少々TEAM38の生い立ちを思い出して見よう、1975年にテストライダーと実験研究部が第38工場に陣取っており、テストライダーたちが自らの技量研鑽を掲げレースを提案(アトで昇チャンが詳しく書いている)ネーミングを神宮??がTEAM38(38工場だから)と名付けの親、たまり場は溶接場(藤原真澄氏が居た)隣のチチャナ・スペースを枡田 明(実験研究部所属神戸スーパースポーツレーシングのライダーでもあった)が調達してスタートしたのであった。

 

平井さんがお持ちの写真やその記録は驚異的で、よくこんなに持っているなと感心するほどのものである。

そして、カワサキのレースの歴史の生き字引みたいなところもある。ただ人の記憶はあいまいなもので、全体の流れは間違いないのだと思うが、細かい一つ一つの出来事などについては、少々錯覚があるところもあるのだろう。

 

★まず1984年と言う時代は、カワサキの二輪事業が大変な時期だったのである。1982年の9月までは、私は確かにカワ販の常務をしていたのだが、10月からは川重の単車事業本部の企画に呼び戻されていた。

私が企画、田崎さんがKMCの社長、技術本部は故安藤さんそこにレースなども管轄していた百合草さんや故武本晃さんなどが部長でいた時代なのである。

1983年には事業本部再建に故大庭浩さんが本部長に就任されて、単車事業本部のみならず川重本社財務部門が何百億もの資金を放り込んで事業再建を目指していたそんな時代だったのである。

カワサキのレースを凍結したのは間違いなくこの時期のことである。

『レース凍結』を言いだしたのは私自身だったのでよく覚えている。その相談をした相手がKMCの田崎さんだったし、ちょうどアメリカに出張で来ていた百合草さんだった。この時期、もし再建がかなわなかったら、カワサキの二輪事業の存続はなかったそんな時期であったので、膨大な金のかかるファクトリーレースの凍結は、仕方がナイと判断したのである。

田崎さんは賛成をしてくれたが、百合ちゃんは猛烈に反対したのをよく覚えている。百合草さんの反対もよく解ったが、『ファクトリレースの凍結』を決断することになったのである。膨大な再建資金を出してくれている本社に対しても、そのままレースを続けてゆくことは、少なくとも表面上は難しかった、そんな時期だったのである。

 

★そんな時期だったので、平井さんの記述の『カワ販の古谷常務』は、明らかに間違いなのだが、Team GreenやTEAM 38など、ファクトリーがレースを凍結した後も平井さんたちの熱意で、レースの火を消さずに続けた努力が、その後のカワサキのレースにつながったことは間違いない事実なのである。

ファクトリのレースは凍結はしたが、末端ではこんな活躍だったのである。

平井さんのブログは次のように続いている。


 前記のお二人に縋りメーカーの凍結との重なりもあり、TEAM GREENとTEAM38のコラボがロードレースに立ち上がったのである。

 時まさに1985年ロードレースを加えNEW TEAM GREENが誕生したのである。

 


 

 


 この’85 RACER PROFILEはKHIロード凍結忘れるがごとくに「カワサキはレースをやりまっぜ〜」をアピールした記念に制作したものである。
この時にはA版三つ折りワークス世界のモトクロスTEAMの紹介、カワ販レースの組織図、そうしてTEAM GREENに所属するライダーの紹介だった。

 1985年TEAM GREENはソレハソレハ大活躍をしたのである、カワサキの誇るロードのマシンは・・・ と続いている

 

★さらにはカワサキの社内チーム、TEAM 38 の話も出てくる。

こんな当時のTeam Green やTEAM 38 を支えた人たちの熱い思いが、カワサキのレースを支えてきたのだと思う。

平井さんはそのあたりのことをこのように書いている。

 

今回はTEAM38の悲しい’85年しかしカワサキの名誉を掛けて走った時の思い出を回顧しよう・・・

武本部長の説得、当時の監督吉川章平の説得もあってシブシブ統合へ・・・・・

そうしてメーカーがロードレースを凍結した時も、ライムグリーンの火を消さないためにも皆で頑張ってロードレース継続させる意気込みで走らせてきたが、明石にTeam38とTeam Greenの二つを運営することは厳しく、それよりTeam38は資金も乏しく、この頃のマシンでは全日本に打って出て他社と戦えるマシンも無く、TeamGreenにゆだねることにした。・・・・

・・・・ロードレースの火を消したらアカン・・・オートバイを製造しているメーカーが技術革新の場、レースを凍結して世界の名車を作ることは出来ない、レースの火を完全に消してしまうと復活に時間が掛るとの思いがあったんだ・・・

それが証拠に’87年迷監督がコーク・バリントン&ロブ・フリス組、宗和孝宏&多田喜代一組を配し戦った、いま尚残っている4時間30分があり、ZXR750Rゼッケン7、’93年の伊藤ハムの優勝もあるやんか、皆の努力で現在のカワサキがあるんやで〜

 

  

★1993年8耐で初めてカワサキが優勝を遂げたころには、私も再びレースの世界に戻ってはいた。

長いカワサキのレースの歴史の中で、一番つらい時期を繋いでくれたのが、平井稔男さんだと思う。

まだまだ今でも、ビックリするほどのレースに対する情熱をお持ちなのである。

少しぐらい記憶違いはあっても、平井さんのカワサキのレースに対する熱い想いは少しも変わってはいないのである。

 

そんな平井さん、私と同い年である。

そして、今でも身近にお付き合いがあるのがいい。いつも元気を頂いている。

 

 

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