70代の最後の1ヶ月が始まった。
結構充実した70代であったような気がする。改めて自分の一生を振り返ったみる。
★ 10代 (1943〜1952、昭和18年〜27年) 激動の経験 野球
1945年が終戦である。それまでは朝鮮京城で育った。その年の12月に明石に引き揚げてきた。
生活はまさに一転した。こんな変わり方はなかなか経験できないような変わり方だった。
生活を支える父母は大変だったのだろうが、自分自身は別にそれを苦労とも思わず変化を楽しんでいた節がある。
勉強をしたのは前半の5年間、あとは野球に熱中していた。
昭和27年1月、父がなくなって、4月大学に入学した。一切勉強はしなかった。毎日学校には行ったが教室には入らず食堂とグランドだけにいた。
学生だったのは15歳までかも知れない。それまではよく学んだ。
★ 20代(1953〜1962、昭和28年〜昭和37年) 野球 勉強期間
大学には5年いた。母子家庭ということで4年間は授業料免除、最高の奨学金、給料をもらって学校に行っていたような生活だった。
野球に熱中、最後の1年はわざわざ留年して野球部監督をしていた。単位は全てとっていて何にもすることはなかったのに、授業料は払ったし、奨学金は貰えなかった。金銭的には苦しい1年を経験した。
昭和32年、川崎航空機にコネで入社、財産課に配属、2年目からIBMによる償却計算のシステムを本社も岐阜製作所も巻き込んで完成、これは大仕事だった。川崎航空機で米空軍のジェットエンジン以外の民需で初めてのIBM使用であった。
現役の殆どを全く新しいシステム創りで過ごしたようなものだが、このIBMの償却計算システムがその最初である。日本にIBM社が未だなかった時代なのである
そのあと肺結核で1年間入院。退院してきたら、償却計算のためにいたような人員は不要になって昭和36年に単車営業に異動になった。
入社以来付き合っていた家内と昭和37年12月に結婚、所帯持ちとなった。
★30代(1963〜1972、昭和38年〜昭和47年) 広告&レース 新しい経験
昭和38年はカワサキのB8が出て、青野ケ原のモトクロスがあり、カワサキの二輪事業の再建が決定された年である。
事業再建の条件にもなった広告宣伝課が初めて作られ、そこを任された。未だ係長にもなっていなかったが、部長が課長を兼務、完全に任せて貰えた。これも社内では誰も経験のない教えてくれる人のいない分野であった。
年間120百万円が本社の事業開発費として3年間予算が付いた。当時の私の年収(月収ではナイ)が40万円の頃だったから、幾ら使っても使いきれないような額だった。その3年間、広告宣伝とレースという、会社としても未経験の分野を担当した。オモシロかった時代である。
そのあと仙台に東北6県の代理店管理の事務所を創るところから担当、これも全く白紙に絵を画いた。仙台に異動した時は事務所も人もいないただ一人だけ、仙台の宮城カワサキに机を一つおかして貰ってスタートした。
実用車のカワサキ時代で、東北6県が全国でダントツの販売台数、最後の1年は北海道も合わせて担当した。この4年間で販社の経営、特に資金繰りが解った。
昭和45年大阪万博の年に、ようやくカワサキもスポーツ車が揃って大都市へ進出、一転スポーツ車のカワサキで大阪母店長(近畿2府4県)を担当した。
★40代(1973〜1982、昭和48年〜昭和57年) 新しいシステム構築 経営再建
昭和48年Z2が発売になり、カワサキ特約店制度がスタートした。二輪業界で初めての二輪専門店による販売網というこの制度を一から全て創り上げ東京、名古屋、大阪の大都市圏から実施し、東海道メガロポリスと言われた大市場を担当した。
川重の資格でで言うと課長のころである。その他の地区を担当されたのが、加茂常務と清水屋常務だったが、販売量は勿論東名販の直営部が圧倒的に多かったのである。全くの新しいシステムだったので、従来の経験の常務さん方では難しかったのだと思う。不思議な組み合わせであった
そして昭和51年に10年ぶりに川重単車事業部企画室課長として復帰した。企画には1年だけいたがすぐ、CKDの開発途上国の『市場開発室』を立ち上げ高橋鉄郎さんを担いで新市場開拓に取り組んだのである。40年経った今、この市場が花開いている。
アメリカでダンピング問題が起こり国内市場対策が浮上した。そんな対策の起案を担当していたら、『お前がやれ』ということになり、カワサキオートバイ販売常務という実質国内市場全般の責任者をやらされた。従来は川重の役員さんが担当した市場で、背伸びもいいところだったが、FX400が出た時期で、飛ぶように売れて、国内市場は大きな累損も1年半で消えてしまった。そういう意味ではめちゃ『ツイテいた』と言えるだろう。
一番大きかったのは『ツキ』なのだが、この4年間、世界の販社で国内だけが健全経営が続いて、川重本社から、特に大西副社長など財務の方たちから絶大の信頼を寄せられたのである。
★50代(1983〜1992、昭和58年〜平成4年) 事業経営 二輪事業の仕組み構築
ダンピングから、さらに続いて国内のHY戦争はアメリカ市場まで飛び火して、当時のカワサキの主力市場アメリカの販社KMCが危機的状況に陥った。このままではカワサキの二輪事業が壊滅という状況だったのである。その桁はずれの何百億円という単位は事業部での対策ではどうにもならずに川重本社財務部が直接担当してその対策にあたったのだが、販売会社の実務対策が解らないのである。
その対策案を訊ねられたので、『これは人災だから、仕組みを変えたらすぐよくなる』と回答したら、『単車事業部企画をやれ』と昭和57年10月にまた川重に呼びもどされたのである。
大庭本部長が来られた翌年の7月には、関連事業部の創設など、既に新しい仕組みは完成していて、ほぼその回復の目途は立っていて、その後2年ほどでカワサキ単車事業は完全に回復した。
この時期Ninja 900や、ジェットスキーも売れたりはしたが、トータルシステムを新しく創り上げたことで解決した。
私はその仕組みを創っただけで、それぞれの担当部門が実際には動いたのである。仕組みを創らずに頑張るから効果が上がらないことは多いのである。
仕組みとは、その中で動けば『自然に目指す目標が解決する』ものでなければならない。
二輪事業の再建は、そんな仕組みの上で、本社財務のトップや当時の若手諸君が二輪事業に本当に愛情を持って接してくれたおかげなのである。その代わり本社財務が望んだ海外販社の黒字化、並びに累損消去という本来の目的は100%達成出来たのである。
カワサキの二輪事業の目途がついて、昭和が終わり平成の世になって、4度目の国内担当となった。高橋鉄郎さんの下で、『7万台への挑戦』などを目標に掲げ、国内販売というよりも国内の二輪事業展開の仕組み構築、カワサキのイメージ向上などがメインのテーマであった。
当時注目されて日経ビジネスなどにも何度も取り上げられた、ソフト会社、株)ケイ・スポーツ・システムのソフトノウハウは、現在のNPO The Good Timesに引き継がれて、そのころよりは数段高いレベルで展開されているのである。
★60代(1993〜2002 平成5年〜平成13年) 事業経営総括 マーケッテング
現役最後の10年間は、最初の5年間は国内担当で、これが1996年まで、これで二輪事業の担当は終わった。
その後、北海道川重建機の経営を頼まれて、2年間という約束で引き受けた。名前は『川重建機』だが、川崎重工の子会社ではなく地元資本の優良会社なのである。
このような会社形態は独特のものがあって、大企業の事業部経営のように資金繰りもない管理経営とは全く異なるものである。株主もそこにいる役員さんたちも、メーカーの人とは全く違う人たちで、ホントの意味の『信頼関係』がナイとどうにもならない難しい舵取りだった。若いころの東北の4年間の経験が多いに生きた。
建機のことは一切覚えないようにして、経営だけに集中した。いい会社が『よりいい会社になった』と自負している。
約束通り2年で戻ったが、それ以上長い3年の顧問時代で非常に手厚く処遇して頂いたので、私は70歳まで勤めさせていただいたと錯覚してしまうのである。
タダこの10年間は、体力的には最低の10年間だったような気がする。
★70代(2003〜2012、平成15年〜24年) パソコン、ネットとの出会い NPO The Good Times
70代に入って始めて、完全な年金生活に入った。そんなに大した年金ではないが、特に贅沢をしなければ十分やっていける。
ストレスが全くなくなった。自分のやりたいことだけやればいい。現役時代も結構自分のやりたいようにやってはきたが、自分で自分の進路を画策したようなことは一度もない。全て会社が指示されたことを、その中で好きなようにやっただけである。
特に健康になったと思う。多分この10年間一度も風邪をひいていない。寝込んだこともない。68歳から続けているストレッチで柔軟性は20才代が続いている。お陰さまでゴルフの飛距離も昔のまま、むしろもっと飛ぶかも解らない。
70代になって始めたパソコンでいろんな新しいことに巡り会えた。そして4年ほど前からはNPO The Good Times を立ち上げてそれが昨今の生活の中心になっている。
70年代の最後の半年は現役に戻った積りで頑張ると宣言した。そしてその通りに歩んできた。
あと1ヶ月である。そんな2月が始まった。
★振り返ってみて、人生で指示を受けて動いた上司みたいな人がいたのは高校時代の野球部の時だけである。
会社に入ってからは、上司はいたが、仕事のことで上司の指示で動いたことは殆どない。会社の指示で動いたのは『異動』だけだが、これは断ったことも条件などつけたことも一切ない。
ただ実質は『やってくれるか?』と頼まれたような異動ばかりであった。
だから、一生自分の好きなように動けたと言えるのかもしれない。
そんなことなので、上司は先輩として尊敬はしたが、『偉い人』などとと思ったこともないし、ペコペコしたこともない。
そんな癖が付いてしまたのか、市長や知事さんや社長さん代議士先生など、どなたともみんな普通の方と同じように、同じ言葉同じ態度で対応出来る。
同じように若い人たちにも同じ対応なのである。
どちらが難しいかと言えば、若い人への対応の方が、気を遣うしなかなか難しいのである。
総じて『いい人生だったな』と思っている。
この1カ月間かけて、来るべき80代の生き方を考えてみたいと思っている。
★NPO The Good Times のホ―ムページです。
★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。