★昨日、David L de Bottn さんがFacebook のコメントで、 このように言ってこられたのだが、 このご返事を書くのは簡単ではないので、 当時のカワサキのレースについてブログに纏めてみることにする。
カワサキがGPに参戦したのはこの前年の1966年のことなのだが、 それは大変なスタートだったのである。
★1966年がカワサキが初めて世界GPに参戦した年で、 GPレースが大槻幸雄監督 ジュニア・ロードレースが 安藤吉朗監督 マネージャーが私・古谷錬太郎でライダー契約担当だった。 この年1966年の日本グランプリは、10月15日から16日にかけて、この年開業した静岡県の富士スピードウェイで開催されたのだが、ホンダのワークスチームは、FISCOの30度バンクが危険という理由で欠場したが、この年からカワサキとブリヂストンが参加することとなったのである。
★この年からカワサキは世界GPに参戦したのだが、それは大変な年だったのである。
この年の1月に藤井敏雄と契約し欧州GPの転戦からスタートしたのだが、 8月27日マン島でのプラクティスで転倒死亡するという事故に出会うのである。
10月に行われる日本GPには、シモンズ・安良岡に加え デグナーと契約する方向で決まったのが9月の初めのことである。
カワサキにとってはGP参戦も初めてだが、 外人ライダーとの契約も初めてで、どんな契約内容にすべきか全く解らないので、契約担当の私は困ってしまって、 外人関係の契約についいてホンダの前川さんに教えて貰いに、 鈴鹿まで伺ったのが9月10日のことなのである。
契約書の最後に書く「疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・・」という日本式は絶対ダメで、「疑義を生じた場合は甲の判断に基づくものとする」と明確に書くことと教えられたりした。
そしてデグナーとの契約も無事完了したのだが、 9月29日のFISCOでのプラクテイスでデグナーは転倒し、 頭を打って、入院してしまうのである。
10月16日のGPレースには、 シモンズ・谷口尚己・安良岡健の3人で出場するのだが その時のマシンである。
結果は安良岡健が7位だった。
★ 翌1967年はマシンもこのように変わって、
金谷秀夫が見事3位に入賞するのである。 下表では車両スズキとなっているが、カワサキの間違いである。
金谷秀夫は「神戸木の実レーシング」からカワサキに加入し 1967年の日本GPで世界GPでは125ccクラスで3位入でし、 1969年の全日本セニア250ccクラスチャンピオンになるが、 カワサキがレース活動を縮小したため、 1970年にヤマハに移籍するのだが、 彼の故郷はカワサキであることは間違いない。
晩年、カワサキの催しにも必ず出席していたのだが・・ これは星野一義と神戸木の実の新田さんと。
金谷秀夫はカワサキのGPレースの草分けと言ってもいい。 私個人とは特にいろいろと親しい関係がって、 カワサキのゴルフ会・Z1会のメンバーでもあったのだが、 ほんとに早く逝ってしまった。
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