★「カワサキの二輪事業の黎明期」とは何年ぐらいまでのことなのだろう? 私自身のことでいうと昭和36年(1961)12月に単車営業が出来てそこに異動してから、 広告宣伝課の担当が終った昭和41年(1966)までの5年間だったと言っていいのではなかろうか?
そんな時代に一緒だったメンバーも60年も経つと先に逝ってしまわれた人も多いのだが、 今もなお元気で今回のZ50年記念祭にも顔をだしてくれる仲間もいて、 その一人が「福田康秀くん」である。
彼とは私が初めて出来た「単車営業課」に異動した時に同じ課の仲間として出会たのである。 「単車営業課」と言っても生産・技術以外のことはすべてやらねばならなくて、 今でいう品証部門のサービス員3人の一人だったのである。 そんなことで、その後も結構気安く付き合った仲間なのだが、 それから4年経って彼が品証にいた時に突然私のところにやって来て、 「85J1で、品証の仲間で富士山に登りたいのだが、その費用を都合してくれないか?」と言うのである。
当時、私は広告宣伝課担当で結構な予算を持っていたので、 いろんなことで理屈をつけて「たかりに来る」人たち多かったのだが、 富士山登頂に成功したら、これは広告に使えるなと思って、 「富士山山頂での写真を撮ってきたら、その費用は全部見てあげる」と言うことにしたのである。
★ それは見事に成功して沢山の写真を撮ってきたのである。 昭和40年(1965)8月3日のことである。 そんな写真の中から
登頂には成功したがなかなか大変だったようである。 2台の85-J1はモトクロス職場でチューニングして タイヤも特別にモトクロスタイヤを装着したのだが、 戻ってきたマシンのタイヤのヤマはすり減って殆どなかった状態だった。
勿論、広告宣伝にも大いに利用させていただいて、 当時のバイク雑誌2誌、オートバイ誌とモーターサイクリスト誌に 派手な広告を打ったのである。
その中のサイクリスト誌の記事を「二輪文化を伝える会」さんが 探し当ててくれたのが、この写真である。
★ この時期は映画界とも繋がっていて、 特に日活映画とはいろんな繋がりがあって、 当時のトップスター浜田光夫と吉永小百合とカワサキのこんな写真もあるのだが、
その浜田光夫が明石日活に挨拶来た時には、 飛び込みで「明石工場まで来ませんか」と「ダメ元」で言ってみたら、「 浜田光夫が明石工場ま来てくれたのである。 事業部長と対談し、そのあとテストコースでバイクに乗ったりしたのである。 昭和39年(1964)7月14日のことで、 浜田光夫が来たというニュースが流れて、 テストコース横の発動機工場の女工さんたちが浜田光夫を見に飛び出してきて、一時ラインが止まってしまったりしたのである
日活とはホントにいろいろ密接に繋がっていて 花咲く乙女たちのロケが岐阜であった時にも バイクを貸したのだが、サービスが出来る人を出して欲しいという要求で、 「福田康秀」クンんと二人で岐阜まで行ったのだが、 立派な旅館に泊めて頂いて最高のおもてなしをして頂いたのもいい思い出である。 別にバイクも問題なかったので、仕事は何にもなくて いいご馳走を食い、映画館での舞台挨拶などを見てただけの楽な出張だったのである。
この映画には堺正章も出てたのだが、 まだ有名ではない駆け出し時代で「堺駿二 の息子」さんと言うことで紹介されていた。
★当時のテレビの人気番組「源平芸能合戦」にも川崎航空機と三洋電機の対戦として出場したのだが、これも昭和39年8月のことで、これには明石工場だけでなく本社も岐阜工場も巻き込んで頑張ったのである。 結果は107:105点と言う稀に見る高得点での接戦だったのだが、結果は三洋に名を成さしめたのである。
この時には後に単車の事業本部長をされた岩城常務がまだ本社総務部長の頃だったが、熱心に応援して頂いて、 「芸人を養っている訳ではないから、応援だけは負けるな」と連日応援団の練習を熱心にやって、番組を担当されてた方が、「こんな熱心な会社は見たことが無い」と感心されていたのである。
★ 単車事業もまだスタートしたばかりで若かったが 私もまだ30歳そこそこの若さで広告宣伝課を担当したお陰で、 一般サラリーマンでは経験できないような面白いことばかりだった時代なのである。
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