★ 運動部の指導者の体罰を苦にして、キャプテンが自殺した事件が取り上げられている。
これは悲劇である。
あってはならない出来事だと思う。
私は今79歳、小学校は所謂軍国主義の戦時中、中学1年生以降が戦後で、ずっと運動部にいた。
中学校の時も、高校も、どちらも甲子園に出場するという、強豪校、名門校の中での運動部生活であったが、練習は厳しかったが体罰などは一切なかったし、見たこともない。
最近、普通のように言われる『いじめ』なども、全然なかったように思う。
『いじめ』などホントにあったのだろうか?と思ってしまうのである。
たまたま、私たちが過ごした時代がよかったのか?
他ではいじめも体罰もあったのだが、それを知らなかっただけなのか?
★特に『体罰』については、昔はそれが当たり前のことのように言われることが多いが、
『その昔』は、私が若いころの昔ではなくて、戦後の民主主義の、日教組の下で育った昔の人たちではないのか?と思ったりする。
昔ではなくて、今の時代に『体罰』は起こっているのである。
私たちの時代の教育がよかったか悪かったかは別にして、
その基盤には修身とか道徳というようなものが全ての行動のベースにあったような気がする。
体罰をする先生など、小学校にも、中学校にも、高校にも、いなかったし、野球部の指導に来られた先輩たちも戦争帰りで厳しく怖かったが、殴ったりする人などは皆無だったし、見たこともないのである。
耄碌したおじんの戯言とは思わずに、戦前に教育を受けた人の生き方や、意見などにもう少し耳を傾ける必要があるように思う。
この際冷静に人の教育のあり方について、一度考え直す時期に来ているのではないか?
昨今起こる事件など見ていると、みんな戦後の教育で育った人たちばかりで、その発想の基本がおかしいのである。
個人の人権や幸せを求めるのはいい。然しそればかりになり過ぎていないか?
人は社会の中でみんなと一緒に生きているのである。
『体罰』で画像検索したら、こんな写真が出てきた。
こんな写真が多すぎる昨今である。アタマを下げている人たちはみんな社会のリーダーと言われる人たちである。
こんなみっともない姿を見せることをもっと恥じなければならない。こんなに謝らねばならぬことをなぜやるのか?
大体誰に対してアタマを下げているのか?この前にいるのは新聞記者かマスコミなのだろう。説明はしてもマスコミに頭を下げる必要などないのでは?
今回の体罰を行った先生も、その報告を受けて具体的に処置をした教育委員会の委員たちもみんなおかしい。
とりわけ、投書を受けて具体的に処置を指示した教育委員会の委員も、それに従って報告をした校長先生以下学校の先生たちも、ちゃんと仕事をしていないのである。
この人たちは多分戦後教育を受けた年代に違いない。
要領よく、上辺のことしかしないのである。並んでアタマを下げるのも、形を整えているだけの話なのである。
『国のために死ね』などとは言わないが、どのような行動を取ることが自らの責任を果たせるのか?
人間としてどのような行動を取るべきかは、
少なくとも戦前の教育を受けた連中のほうが確りしていると思うのは私だけであろうか。
学力もいいが、もっと人間として、ちゃんと生きれるような教育を考えねばならない。
いじめはダメ、体罰はダメ、それはどうすれば防げるのか?
そんな方法論の問題ではナイように思う。
今一番欠けているのは個人の権利や幸せの追求ばかりで、
もっと団体や、社会や、国に対して自分を犠牲にしても尽くすそんな気持ちだと思う。
グループやチームを強くする、そのために必要なのは厳しさであったとしても、それは体罰ではないのだと、思える判断力に欠けているように思う。
戦前の教育を受けた人たちが次々に亡くなっていく。
みんなそれなりに今の人たちより、修身、道徳などの面でいいものを持っていたような気がする。
そんな人たちが、未だこの世にいる間に、
一度戦前の教育のよかった面も真剣に考えてみる必要があるのではなかろうか?