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山田煕明さんを想う

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★ 川崎重工業の元副社長の山田煕明さんの訃報の知らせを頂いた。

 

会社の先輩にもいろんな方がおられるが、山田煕明さんには現役時代ホントにいろいろとお世話になった。

私に限らずいろんな方の面倒をよくみておられたが、私は特別目を掛けて頂いたような気がする。

もし山田さんがおられなかったら、私の会社での人生はまた変わった道を歩いていたかも知れない。

 

山田煕明さん、神戸一中、一高、東大航空機科、のまさに秀才である。 

神戸一中の先輩たちはなぜか神戸高校でなく神戸一中でないといけないようなところがあって、私は旧制神戸一中の兎に角一番最後の卒業なものだから、

『君は神戸一中か』ということでまず可愛がって頂いたのである。

 

● 私が入社間もないころ、山田さんは川崎航空機時代の技術部長をされていて、なぜかレースにものすごく熱心だったのである。

当時のレース運営委員会の委員長をされていて、私がその事務局など担当していたものだから、直接いろいろと関係があった。

山田さんは、会社以外の方ともすぐ懇意になられる性格で、レース関係では当時の兵庫メグロの西海義治社長や、神戸木の実を主宰していた片山義美さんとも親交があって、片山さんなどは当時はスズキとの契約だったのだが、カワサキのGPレーサーの開発などには大いにその知恵を貸して頂いたりしたのである。私もそんな関係で西海さんや片山さんとは懇意なのである。

デグナ―の契約に関しては、山田さんが中心ですすめられたのだが、カワサキでは初めての外人ライダーとの契約で、そのやり方すらも解らず私が本田の前川さんに教えて貰って日本語の契約書を作り、山田さんが英文に直されたのである。

当時のGPレースの現場では、あまり英語など話す人はいなかった時代だが、山田さんだけは英語で喋れた珍しい存在だったのである。

 

● その後山田さんは、単車から航空機に行かれたりしたが、川崎重工の副社長時代に単車事業が危機的な状況になり、本社サイドで構成されたプロジェクトチームの中心として単車再建に尽力されたのである。

その時、私は本社に直接呼びだされて、山田さんから突如『単車の企画をやれ』と指示されたのである。

当時の状況は単車事業の枠を超えて、本社の財務部門が中心で何百億もの対策に動かぬとどうにもならないそんな状態だった。

この単車企画をやったことが、私のその後に大きく影響したと思うし、単車再建という大きなプロジェクトが、軌道に乗るまで山田さんは単車事業に専念されたのである。

当時山田さんに一番大きく影響を受けたのは、私と、当時アメリカを担当していた田崎さんだったと思う。

大庭本部長が来られて何とか恰好が付きだしたそれまでの1年半は、ホントに大変な時期だったのである。

そのころ頂いた山田さんからの直筆の手紙が何通か今でも手元にある。 非常に筆まめで直ぐ文章にしてご自身の想いを書かれていた。

 

● とても川崎重工業の副社長とは思えない『気さく』なところがあって、みんな『えんめいさん』と呼んでいた。英語は流暢だし、海外出張など秘書に任せず切符の手配などご自身で勝手にされたり、イタリヤなどではデ―ラ―の自家用機で移動されたりするものだから、秘書はその動向を抑えるのに大変だったようである。

普通川重の副社長など単身で海外出張などされなくて、ちゃんとお付きもつくし、スケジュールなど出発する前に完璧なのが普通である。

秘書の方から『今、山田副社長はどうなっていますか?』などと私に問い合わせの電話が入ったりした。秘書さんは常に役員さんの動向を抑えていないと困るのだが、そういう意味では神出鬼没なところがあって、突如現れたりされるのである。

当時のカワサキフランスの社長をしていた伊藤忠の遠藤治一さんなどもお気に入りで、フランスでは一緒にレースに行ったり、ゴルフをしたり、酒を飲んだり、仕事のほかでも楽しい出張であった。

気さくで、お酒が好きで、ただ、お酒が入ると親しい仲間内ではちょっと飲み過ぎたりして、いろいろオモシロイ話はいっぱいなのである。

 

 

★そんな山田煕明さんだが、4年ほど前から体調が思わしくなく、川重のOB会などにもお顔を見せなくなってしまわれたが、

90歳の人生の幕を閉じられた。

単車におられた時は、ちょうどZ1 が開発されたそんな時期で、直接の担当をされていた。

でも、山田煕明さんが、ホントに二輪事業に貢献されたのは副社長になられて、単車再建プロジェクトの実質的な責任者として動かれた時期だと思う。

大庭本部長が単車に来られたのも当時の財務の大西副社長と山田副社長と相談されて決められたことである。

その時単車生え抜きの高橋鉄郎さんと私は、本社の大西副社長にわざわざ呼ばれて『大庭くんをよろしく頼む』と言われたのである。

高橋さんは、ホントに大庭さんをたてられて、大庭さんも初めて経験する民需事業が気に入られて、本社の財務部門の絶大な支援もあって、カワサキの二輪事業の今があるのだと思っている。

 

そんな単車の再建に、直接関係された大西さん、山田さん、大庭さん、3人の恩人たちも、みんな故人になってしまわれた。

心からご冥福を祈りたい。

 


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