★ 子供時代に『大きな影響を受けた人』と言えば、 それは『伯父と父』だと言っていい。
これは戦前の私の子供時代の伯父と父なのだが、 写している場所は、伯父がオーナーだった『明石の錦江ホテル』の庭である。
いつ、どんな時に写した写真なのか定かではないのだが、 結構な正装である。
当時、伯父にはこどもがいなくて、 伯父は私を『古谷家の跡継ぎ』として可愛がってくれて、 あちこちに連れまわされたので、 私は父以上に伯父との会話が多かったように思うのである。
こどもの頃は、朝鮮京城府に住んではいたのだが、 小学生の頃、夏・冬の休みには毎年明石に里帰りしていたので、 私は戦前の日本というか、当時は『内地』と呼んでいたのだが、 戦前の明石も、神戸の街もよく覚えているのである。
小学生だったのに、伯父に神戸花隈の夜の席や、有馬温泉での芸者さんが沢山の席などにも連れていかれて『大人の遊び』も見ているのだが、 伯父の遊び方は、結構派手であったことは間違いないのである。
そんな夜の世界だけではなくて、当時伯父が檀家総代をしていた 明石藩松平家の菩提寺・長寿院などにも連れていかれて、 こどもの頃にお上人の話なども聞かされたのである。
伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電気という今の韓国をテリトリーとする 大企業であった電力会社のオーナー副社長だったのだが、 現地に来るのは数回だけで、ずっと明石に居を構えていて、 明石では『錦江ホテル』という結構大きなホテルの経営者でもあった。
その立地は当時の『中崎海岸』に位置していて、 松並木のある素晴らしい景観で 夏休みなどそこを拠点に私は海水浴など楽しんでいて、 ホテルにいた従業員のお姉さん方にもいろいろと可愛がって頂いたのである。
アメリカ製のクルマが止まっているが、 これはリンカーンか、パッカードで伯父の自家用車だったのである。 勿論、運転手さん付だったのだが、よく乗せて貰ったし、 車にラジオがついていたりしてビックリしたのである。 車などの名前も、その当時覚えたものである。
こんなパンフレットもあったし、
装備や調度品や庭なども非常に凝ったホテルで 当時から外人客なども訪れていたのである。 ホテルにあった天婦羅やでよく天婦羅を食べたのも覚えている。
戦前のことだがクルマもあったし、 上の丸の家の庭には、私のためにプールを作ってくれたりした伯父だったのである。 神戸に行くにも『車で行く』ことが多かったし、 伯父の家には『爺や』もいて、私を明石公園の魚取りや明石川での鰻の子を採りにつれて行ってくれたりした、 そんな上流家庭の生活だったのである。 子どもの頃はそんな環境で伯父に可愛がって貰ったりはしたのだが、 少々『派手に遊ぶ』伯父を見ていて何となく子供心に、 『お金があることはあまりいいことではないな』とホントにそう思ったりもしたのである。
逆に父は一切外では遊ばなかったように思うし、 子どもの私に対して『金には厳しくて』一切小遣いなどは与えてくれなかったからかも知れない。
そんな環境で育ったからか、戦後は一転金などない生活になるのだが、 『お金が欲しい』とか『金を貯めよう』などと思ったことは一切なくて、 『給料が安い・高い』なども全く関心がない生活が続いているのである。
二人の子供たちが独立するまでは、家内は専業主婦だったし、 貯金なども一切なくて『家計は苦しい』時期が続いたのだが、 その当時もホントに『金には無関心』だった。
それは何となく『お金があることはあまりいいことではないな』と こどもの頃思ったことが、 そのまま続いているのだと思う。
★ 父は私が高校3年生の1月に亡くなってしまって、 それ以降、伯父には大学入試にも世話になったのだが、 その伯父も大学3回生の時に亡くなってしまうのだが、 大学卒業後の就職が川崎航空機に当時の社長砂野仁さんのコネで入社できたのは、伯父のお陰なのである。
前述した『錦江ホテル』は、その後大東亜戦争が始まってから、 軍の指示で明石の川崎航空機に『軍の人たちの宿舎』として接収されることになり、 その当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さんで、 そんな関係もあって伯父は砂野さんとその後も懇意にしていたのである。
結構な遊び人であった伯父だが、『人の面倒見』は非常に良かったようで、 戦後の食糧難の時代に、酒などもなかったのになぜか伯父の家には酒などもあって、砂野さんともよく家で飲んでたし、 後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんは京都の方なのだが、 戦後明石の相生町で工作所を始められた際、伯父がその場所を提供したのだと思う。 その土地は伯父や父の妹夫婦が住んでいた場所なのだが、 二人とも戦災で亡くなってしまって、戦災で焼失したままになっていた場所なのである。 私は戦後1945年12月に、引き揚げてきて翌年4月神戸一中に入学するまでの3か月間、伯父に連れられてしょっちゅう、相生町のその場所に来ていたので知っているのである。
戦災で亡くなった叔父は『錦江ホテルの支配人』をしていてその家にはお稲荷さんがあったのをよく覚えているのだが、 そのお稲荷さんは今でも残っているのである。
かっての錦江ホテル跡は、今では『明石勤労福祉会館』となっていて、 この写真の左上にあるのがその『お稲荷さん』なのである。
私の小学生時代の懐かしい想い出『錦江ホテル』の辺りは、 今は海の方に大きく埋め立てられてしまって陸地になり、明石市役所などがあるが、 私の子供の頃は、そこは海だったのである。
★ 夏冬明石に里帰りをしていた小学生低学年の時代の想い出は 朝鮮京城よりはむしろ内地の想い出の方が懐かしいように思うのである。
ただ、当時の内地の印象は『旧くて小さい家が多いな』と思っていたのが正直な感想で、 当時の京城の家はみんな、内地の家に比べると新しくて、敷地が大きい家ばかりだったように思ったし、 神戸の市電や、神戸の三越よりも、京城の市電や京城三越の方が綺麗で大きいと思ったりしたのである。
内地の小学校は木造だったが、京城の小学校は鉄筋コンクリートで冬はスチームが通っていたし、学校に当時からプールもあったりして、 全般に近代的だったなと思っているのである。
そんな朝鮮・京城の当時の外地の想い出は次回に。
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これは戦前の私の子供時代の伯父と父なのだが、 写している場所は、伯父がオーナーだった『明石の錦江ホテル』の庭である。
いつ、どんな時に写した写真なのか定かではないのだが、 結構な正装である。
当時、伯父にはこどもがいなくて、 伯父は私を『古谷家の跡継ぎ』として可愛がってくれて、 あちこちに連れまわされたので、 私は父以上に伯父との会話が多かったように思うのである。
こどもの頃は、朝鮮京城府に住んではいたのだが、 小学生の頃、夏・冬の休みには毎年明石に里帰りしていたので、 私は戦前の日本というか、当時は『内地』と呼んでいたのだが、 戦前の明石も、神戸の街もよく覚えているのである。
小学生だったのに、伯父に神戸花隈の夜の席や、有馬温泉での芸者さんが沢山の席などにも連れていかれて『大人の遊び』も見ているのだが、 伯父の遊び方は、結構派手であったことは間違いないのである。
そんな夜の世界だけではなくて、当時伯父が檀家総代をしていた 明石藩松平家の菩提寺・長寿院などにも連れていかれて、 こどもの頃にお上人の話なども聞かされたのである。
伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電気という今の韓国をテリトリーとする 大企業であった電力会社のオーナー副社長だったのだが、 現地に来るのは数回だけで、ずっと明石に居を構えていて、 明石では『錦江ホテル』という結構大きなホテルの経営者でもあった。
その立地は当時の『中崎海岸』に位置していて、 松並木のある素晴らしい景観で 夏休みなどそこを拠点に私は海水浴など楽しんでいて、 ホテルにいた従業員のお姉さん方にもいろいろと可愛がって頂いたのである。
アメリカ製のクルマが止まっているが、 これはリンカーンか、パッカードで伯父の自家用車だったのである。 勿論、運転手さん付だったのだが、よく乗せて貰ったし、 車にラジオがついていたりしてビックリしたのである。 車などの名前も、その当時覚えたものである。
こんなパンフレットもあったし、
装備や調度品や庭なども非常に凝ったホテルで 当時から外人客なども訪れていたのである。 ホテルにあった天婦羅やでよく天婦羅を食べたのも覚えている。
戦前のことだがクルマもあったし、 上の丸の家の庭には、私のためにプールを作ってくれたりした伯父だったのである。 神戸に行くにも『車で行く』ことが多かったし、 伯父の家には『爺や』もいて、私を明石公園の魚取りや明石川での鰻の子を採りにつれて行ってくれたりした、 そんな上流家庭の生活だったのである。 子どもの頃はそんな環境で伯父に可愛がって貰ったりはしたのだが、 少々『派手に遊ぶ』伯父を見ていて何となく子供心に、 『お金があることはあまりいいことではないな』とホントにそう思ったりもしたのである。
逆に父は一切外では遊ばなかったように思うし、 子どもの私に対して『金には厳しくて』一切小遣いなどは与えてくれなかったからかも知れない。
そんな環境で育ったからか、戦後は一転金などない生活になるのだが、 『お金が欲しい』とか『金を貯めよう』などと思ったことは一切なくて、 『給料が安い・高い』なども全く関心がない生活が続いているのである。
二人の子供たちが独立するまでは、家内は専業主婦だったし、 貯金なども一切なくて『家計は苦しい』時期が続いたのだが、 その当時もホントに『金には無関心』だった。
それは何となく『お金があることはあまりいいことではないな』と こどもの頃思ったことが、 そのまま続いているのだと思う。
★ 父は私が高校3年生の1月に亡くなってしまって、 それ以降、伯父には大学入試にも世話になったのだが、 その伯父も大学3回生の時に亡くなってしまうのだが、 大学卒業後の就職が川崎航空機に当時の社長砂野仁さんのコネで入社できたのは、伯父のお陰なのである。
前述した『錦江ホテル』は、その後大東亜戦争が始まってから、 軍の指示で明石の川崎航空機に『軍の人たちの宿舎』として接収されることになり、 その当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さんで、 そんな関係もあって伯父は砂野さんとその後も懇意にしていたのである。
結構な遊び人であった伯父だが、『人の面倒見』は非常に良かったようで、 戦後の食糧難の時代に、酒などもなかったのになぜか伯父の家には酒などもあって、砂野さんともよく家で飲んでたし、 後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんは京都の方なのだが、 戦後明石の相生町で工作所を始められた際、伯父がその場所を提供したのだと思う。 その土地は伯父や父の妹夫婦が住んでいた場所なのだが、 二人とも戦災で亡くなってしまって、戦災で焼失したままになっていた場所なのである。 私は戦後1945年12月に、引き揚げてきて翌年4月神戸一中に入学するまでの3か月間、伯父に連れられてしょっちゅう、相生町のその場所に来ていたので知っているのである。
戦災で亡くなった叔父は『錦江ホテルの支配人』をしていてその家にはお稲荷さんがあったのをよく覚えているのだが、 そのお稲荷さんは今でも残っているのである。
かっての錦江ホテル跡は、今では『明石勤労福祉会館』となっていて、 この写真の左上にあるのがその『お稲荷さん』なのである。
私の小学生時代の懐かしい想い出『錦江ホテル』の辺りは、 今は海の方に大きく埋め立てられてしまって陸地になり、明石市役所などがあるが、 私の子供の頃は、そこは海だったのである。
★ 夏冬明石に里帰りをしていた小学生低学年の時代の想い出は 朝鮮京城よりはむしろ内地の想い出の方が懐かしいように思うのである。
ただ、当時の内地の印象は『旧くて小さい家が多いな』と思っていたのが正直な感想で、 当時の京城の家はみんな、内地の家に比べると新しくて、敷地が大きい家ばかりだったように思ったし、 神戸の市電や、神戸の三越よりも、京城の市電や京城三越の方が綺麗で大きいと思ったりしたのである。
内地の小学校は木造だったが、京城の小学校は鉄筋コンクリートで冬はスチームが通っていたし、学校に当時からプールもあったりして、 全般に近代的だったなと思っているのである。
そんな朝鮮・京城の当時の外地の想い出は次回に。
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