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カワサキの単車事業のスタート時代 その1  自分史

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★ カワサキの単車事業の明石工場での一貫生産が始まったのは昭和35年(1960)なのだが、 その年は私は未だ業務部財産課所属だった。 実はその年の10月から肺結核で三田療養所に入院しているのである。 ちょうど1年程で退院できたのだが、 10月頃の話では退院後の異動先は企画ではないかと専らの噂だったのである。
新しく単車生産一貫工場がスタートしたのは昭和35年だが、その単車を売る単車営業課が新しく出来たのは昭和36年(1961)12月で、ちょうど退院時期ともがっちして、その単車営業課への異動となったのである。
この単車の営業部門を新しく担当されたのが小野助治次長で、小野さんも12月に業務部総務課から異動されたばかりで、私を指名されたのは『小野さん』だったようである。 小野さんとは同じ業務部所属でお互いよく知っていたし、入社以来いろいろと目を掛けて頂いていたのである。若し小野さんの単車への異動がなければ、私の単車異動もなかったのではないかと思っている。そういう意味では不思議なご縁である。

★単車事業がスタートしてからの5年間はこんなことがあったのだが、
●昭和35年(60) 財産課・三田療養所入院(10月)・単車一貫生産スタート       28歳●昭和36年(61) 12月10日退院・営業部単車課に異動  29歳●昭和37年(62) 鈴鹿サーキット開場・鈴鹿ロードレース・結婚(12月)  30歳●昭和38年(63) 青野ヶ原モトクロス・日本能率協会調査  31歳●昭和39年(64) 単車再建決定・広告宣伝課に異動・レースも担当  32歳
 ざっとこの5年間がどんなものだったのかを粗っぽく纏めてみる。

★新しく出来た単車営業課で、一番先に小野さんから言われたのは、『物品税を研究してくれるか』だったのである。
カワサキが一番最初に発売した125ccはこんなB7というバイクだった。このバイクはフレームに欠陥があって、私が営業に異動した昭和35年の年末ごろには、毎日毎日、返却が相次いでいたのである。
当時の二輪車の125cc以上には確か15.5%の物品税が掛かっていて、掛ける時には工場をでるバイクの台数にその税率を掛ければいいのだが、その二輪車が戻ってきて『払った物品税』を返してもらう『戻入手続き』は至極ムツカシイのである。



いろんな規定があって、『工場をでた時のまま』でないとダメで、1台1台税務署員の立ち合い検査などもあって、例えばメーターが回っていたらダメなのである。
だから製造部の人たちとメーターの巻き戻しなどもやったりしていたのだが、返却される台数が半端ではなく、出荷台数より返却台数の方が多かったりしたのである。
 こんな状態で、販売するより『返却台数』の処理が仕事の殆どと言っていい大変な営業課だったのである。


★ 当時はカワサキ自動車販売という会社が東京の神田岩本町にあって、そのカワサキ自販の社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、明石工場のTOPよりはずっと偉かったし、更にその『カワサキ自販』からは全国の『自前の代理店』への卸なのだが、自前の代理店の社長さんはまさに『お客様』だからめちゃエライのである。
明石工場は『カワサキ自販』からはボロカスに言われるし、それ以上に地方の代理店の社長はうるさい存在で、大変だった時代なのである。今の『メーカの人たち』は末端の販社が子会社だから、根元のメーカーの方がエライような関係になってるので、こんな時代のことを言っても理解して貰えないと思うのだが、ホントはこんな形の方がいいのかも知れない。そんなメーカーの営業課の窓口担当が私のスタートなのである。

★さらに、最初に発売したB7が散々な状態だったから、単車事業の経営状況は大赤字で、当時の川崎航空機本社は『この事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会に調査依頼をしていたのが、昭和37年から38年にかけての時代だったのである。
その昭和37年(1962)には鈴鹿サーキットが開場して、日本で初めての本格的なロードレースが開催され、そのレースを単車製造部の人たちがバスを仕立てて見学に行ったのだが、レースなるものを初めて見て燃え上がってしまったのである。 そのグループはカワサキの中でも最も血気盛んだった中村治道・髙橋鐵郎さんたちで、レースを観たあと『カワサキも』とモトクロスレース出場を目指すのだが、この一連のことを仕掛けた張本人は兵庫メグロの西海義治社長で 西海さんは元オートレースのプロライダーでレースには詳しく、後には兵庫県のMFJの会長などもされたのだが、この写真はずっと後の神鍋で行われたMFJ全日本モトクロスの時の写真なのである。
         
   その西海さんが、実際にはバスを仕立てて 『カワサキもモトクロスを』という雰囲気を盛り上げ カワサキの中にはレースのことなど解る人はいなかったので、 兵庫メグロの子飼いの『松尾勇さん』を製造部に送りこみ モトクロッサーは全て『松尾勇・作』なのである。

そして昭和38年の青野ヶ原モトクロス1位~6位独占という快挙に繋がるのである。

  

  こんな結果が事業部内の雰囲気を高め、日本能率協会は『末端の意気は盛ん』と感じて『この事業やるべし』という結論を出す一つのきっかけになったのは確かなのである。

 この写真の後列の真ん中の大きな方が『小野助治』さんである。 このレース出場は、会社が正規に認めたものではなかったので、 製造部のこのレースに関わった人たちは、定時後自主的に集まってレーサー制作などに当たったのである。 勿論、残業料なども出なかったので、小野さんが私に営業の経費から『なにがしか都合してやれ』と言われて幾らかの『パン代』ぐらいのお金を私が都合したので、何かレースらしきことをやってるということだけは知っていたのである。

★ そんなこともあって、昭和39年(1964)度には 日本能率協会の『この事業続けるべし』との結論から『単車事業再建』が決定され、 その条件の一つになっていた『広告宣伝課を創るべし』ということから、 私は川崎航空機で初めて出来た『広告宣伝課』を担当することになり、 レースも含めて『はじめての仕事』を担当することになったのである。

 この5年間には結婚もしているし長男も生まれている。 今回はざっとこの5年間を総括したのだが、 この時以降一生のお付き合いとなった単車事業や家内のことなど、 シリーズで別途取り上げてみたいと思っている。
 まずは『その1』である。
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