★ カワサキオートバイ販売と名称変更があって、 その通称カワ販へ出向となったのは、私が33歳の時で、 その出向は10年間続いたのである。
いろんな経験をさせて頂いたのだが、 その1年目の昭和40年(1965)はいろいろなことのあった年だった。 私も若かったが、カワサキの二輪事業も若かったのである。 当時はまだ国内市場中心で、アメリカ市場はやっとその販売がスタートしたばかりの時期だった。
こんな年表に纏めてある。
★ 昭和35年(1960)に単車の一貫生産が始まったのだが、スタート以降の5年間はまだ事業も安定していなかったのだが、この年の4月に単車事業本部長に岩城良三常務が就任されて、国内販社は従来の『カワサキ自動車販売』から『カワサキオートバイ販売』に名称変更され、それまでの川崎航空機工業営業部からカワ販へ全員が出向となったのである。
『隣国の兵は大なり、その武勇は優れたり、その武器は豊なり、然れども指揮の一点譲るべからず』ということから常に話が始まる岩城良三本部長が『カワ販社長』も兼務され、社名も変更されたのである。
私は未だ川航では係長にもなっていない平社員だったのだが、子会社ということもあったのだが、『カワ販』ではいきなり『広告宣伝課長』と一挙に課長になったりしたのである。
★ 当時の広告宣伝課では、年に1億2000万円という膨大な予算が、本社開発費で3年間、二輪事業を育てるために投入されていて、広告の他ライダー契約金他レース運営費をすべて広告宣伝課で担当していたのである。
今の金に換算すると10億円ぐらいのそんな膨大な予算だったので、その管理は私がやっていたのだが、報告先は上司ではなくて、直接岩城本部長に報告していたのである。
ライダー契約金なども大いに張り込んで、当時のレース界では最高のレベルにあったのだが、それでも年間100万円ぐらいで、契約金を払ったライダーは6人ほどだったので1000万円にもならないのである。私の年俸が45万円ぐらいの時だから、20歳ぐらいの若いライダーに100万円を超える契約金は相当な額だったのである。因みに星野一義・金谷秀夫の初年度契約金は20万円だった。
★ 4月の朝霧でのMCFAJ全日本では90ccノービスで星野一義が優勝、これが星野一義の初優勝なのである。
その頃のライダーたちである。左から 岡部能夫・山本隆・星野一義・歳森康師当たり前の話だが、みんな若い。
5月にはMFJ鈴鹿ジュニアロードレースに山本隆が出場し3位入賞を果たしているのである。このレースはモトクロスライダー山本隆が是非出たいということで、まだ会社ではロードレースの出場許可などなかったのだが、黙ってロードレーサーを造って出場したらホンダ・ホンダ・カワサキとまさかの3位入賞だったのである。 この時のレーサーにした車を都合してくれたのが田崎雅元さんで、モトクロス予算を使っての出場だった。現場に行ってた川合寿一さんから『ヤマ3、シオ8、セイコウ カワ』という電報が我が家に届いたのは、5月3日のことだった。『ヤマ』は山本隆、『シオ』は北陸の塩本選手なのである。
このレースが『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』となったのである。
★非公式ながらロードレースで『3位入賞』となってカワサキのロードレースに火がついて、翌月6月にあった『鈴鹿アマチュア6時間耐久レース』には90㏄3台のマシンを正規に造って『大槻幸雄監督・田崎雅元助監督』で、カワサキが初めてレースに『監督』が出現したのである。山本隆は前月のジュニアロードレースに出場したために出場できないので、神戸木の実の歳森康師が相棒にと連れてきたのが金谷秀夫なのである。このレースが金谷秀夫の初レースだったのだが、正規の契約などなしに走ったのである。 流石に金谷秀夫は速かったが、それでも90㏄で3分20秒ぐらいだったから、当時のマシンはその程度だったのである。
★この年の7月には一緒にレースをやっていた大槻さんはドイツ留学となり田崎さんは明石工場から初めてアメリカ市場にサービス担当として渡米することになりお二人の送別会を一緒にレースチーム関係者でやっている。
この年のGPレースには安良岡健の個人参加ということでの出場だったが、本番には出走出来なかったのである。125ccのGPレーサーの開発や試験走行が始まったばかりの年で、鈴鹿のタイムが2分50秒という程度のものであった。
当時のMFJのGP準備委員会は各メーカーの部長さんが出席なのだが、カワサキからは若い私が出席したりしているのである。その年の11月のMFJ運営委員会で、スズキの岡野さんから『藤井敏雄が辞表を出した。引き抜きは止めて欲しい』との発言があったりしたのだが、その時は私はホントに何にも知らなかったので、『どこのことかな?』と思ったりしてたのだが、実はそれはカワサキだったのである。
そんな色々なことがあった昭和40年だったのだが、藤井敏雄のことは技術部の方でいろいろやってたようで、翌年初出の日に藤井敏雄は契約関係のことで私を訪ねて来たのである。
カワサキがGPレースに参戦するのは翌年の1966年からで、藤井敏雄がヨーロッパGPを転戦するのだが、マン島のプラクテイスで転倒、不慮の死を遂げるのである。本当にいい男だったのに残念である。
★カワサキオートバイ販売出向の1年目は、ざっとこのようにスタートしているのである。個人的には結婚間もない頃で長男・長女が生まれたばかりの頃である。『運転免許取得』とあるが、当時はまだ免許を持っている人は少なかったが、ライダーたちは勿論みんな4輪免許を持っているので、長女が生まれるために家内が里帰りしている間に、私は免許を取ったりしたのである。勿論、まだ個人では車を持ってる人など少ない時代だから、会社の社用車の運転をしたのだが、全国のレース場を駆け巡っていたので、最初から箱根や富士山麓などまでの長距離ドライブをやったりしたのである。
そんな初心者の私に『運転技術』を教えてくれたのはライダーたちで、当時は鈴鹿サーキットを1周だけだがホンダのスポーツカーで走れたので、『アウト・イン・アウト』や『ヒール&トウ』などのレーステクニックをいろいろと教えてくれたのである。お蔭様で結構運転には自信があって、後、カワサキの安全運転本部長なども長くやったものだから、免許取得以来『無違反』とは言わぬが『無事故』なのである。
この『カワ販出向の10年間』は、主として末端市場を担当して、川崎航空機や川崎重工業の人たちが経験しなかった分野を経験できて、末端の販売店の人たちや業界の方たちと密接に繋がって、それは今でも生きていると思っている。
そんな貴重な10年間のこれは主として1年目の話だが、この10年間のいろんな話をシリーズでお届けしようと思っている。
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