★ 『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 2』 は、小林茂くんの講演会での発表がどんなものだったかの紹介から入りたい。
スライドを使っての話だったのだが、彼の話の切り出しは、こんな女性の裸を大きく扱った広告の話から始まっている。
固い会社のイメージしかない『カワサキらしくない』ビックリするような広告なのである。こんな写真を冒頭に持ってきたことで、川重の部課長さんはびっくりしたであろうし、彼の話を聞く気になったに違いないのである。
話の入り方が、やはり広報の専門家だなと思うところがある。
この時期の基本コンセプトが『新しいカワサキのイメージ創造』なのである。
『イメージ』とは『他人の評価』なのだから、 まず最初に、周囲の人たちに『関心を持ってもらう』 ことがない限り、 『イメージそのものが湧かない』のである。
小林くんが語っているように、ホンダさんが『やりましたね』と言ってくれたり、 販売店など業界の話題に自然になるように仕組まれた戦術展開なのである。
当時、二輪業界の目は間違いなくカワサキに向いていて、自工会の会合などでも『1強3弱』などと言われたりしてたのだが、HY戦争の時などと違ってKawasakiの動きは、
Kawasaki .Let the Good Times roll !
『Kawasakiに出会う人がハッピーになるようにカワサキは行動する』というコンセプトの通り、二輪業界全体がハッピーになる、そんな動き方をしていたので、結構好意的に受け止めて頂いていたのである。
カワサキの二輪の長い歴史の中で、私ほどホンダさん、ヤマハさんスズキさんと仲が良かった人はいないのではと思ったりしている。現役時代、社内ではいろいろ言う人がいたが私は車はホンダアコードだったし、娘のバイクはスズキ、ゴルフのクラブはヤマハだった。特にヤマハさんとは、ジェットスキー関連で同じ協会だったこともあって、ホントによくして頂いたのである。
★1980年代のカワサキオートバイ販売の社長は大庭浩さんが兼務されていた。数ある世界の販売会社の中でも、カワサキオートバイ販売の社長は常に事業本部長が兼務されていたのである。これはずっと昔、トヨタ自販・トヨタ自工があった時代、カワサキもカワサキ自販があってその社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、当時は事業部(明石工場)の上位に位置していた会社だったのである。トヨタは合併したが、川崎航空機はその後川崎重工業と合併したこともあって、その後は事業本部長兼務となったのである。
今の現役諸君は、多分そんな経緯はご存じないと思う。
そんなことで、大庭本部長も社長を兼務されて、大庭さんにとっては、はじめての『社長職』だったこともあって大いに乗り気で『7万台』などと言う数字も大庭さんが言われたのだが、それは途方もない台数だったので、長期目標だけで現実には何の動きもなかったし、堅実な黒字経営に拘る会社として『カワ販』は存在していたのである。
大庭さんが川重に戻られてからは髙橋鐵郎本部長が社長を兼務されていたのだが、1988年10月に突然、『7万台の販売目標』と共に私に国内を担当するよう指示があったのである。
当時のカワ販も事業本部長の高橋さんが社長だったし、私自身も専務職で出向はしたのだが、未だ川重籍だったし、事業本部にとっても当時は事業部への利益貢献度もアメリカを抜いてTOPを走っていたから、事業部に対するリーダーシップも相当に持っていた、そんな時代だったのである。
★ 『7万台』という数字は途方もないもので、二輪だけではとても無理だと思ったので、ジェットスキーを加えて『何とか挑戦しましょう』と、『7万台、売上高400億円』を数値目標として、このプロジェクトはスタートしたのである。
約束した限りは、少なくとも『実現するようは方策』を採らねばならないのだが、従来のカワサキのイメージを変えない限り、7万台はとても無理だと思ったので、従来のような販売店への販促対策ではなく、『イメージ創造の主役である末端の二輪ユーザー』に直接働きかける方策を模索したのである。
その具体的な施策として、SPA直入という日本ではじめて一般ユーザーが走れるサーキットの建設や、二輪ユーザーの組織KAZEなどの展開を本格的な『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)』を設立して本格的に対応したのである。
従ってこの時期の主役は、販売会社や営業ではなくて、KSSであったと言っていい。そこを中心に『遊んでいても自然に売れるそんな仕組み創造』を目指したのである。
★これは私が担当した直後、博報堂が調査した『1988年の二輪4社のイメージ』なのである。
余談だが、こんな調査は結構高くて何十万の単位ではなくて『何百万円』の単位なのだが、こんなことから入るのは私ぐらいで、普通は金額を聞いて止めてしまうだろうと思う。
ただ、本気で『7万台に挑戦』するのなら、現在の自らの実力をちゃんと知った上での対策がない限り、闇雲に突進では、目標が実現したりはしないのである。 そのあたりは『マーケッテングの基本』の分野なのである。
これを見て頂くとお分かりのように、 当時のカワサキは『個性的なデザイン』で『玄人受けはする』が、 『広告のセンスがなく』『レースに弱く』『常にチャレンジしない』 そんな固いイメージで、これを変えない限り、 『7万台など夢のまた夢』だと思って 『新しいイメージの創造』を基本コンセプトにしたのである。
この時点では、それぞれのイメージ項目もさることながら、『イメージ総量』が小さすぎて、『イメージがない』に近いのである。そんなカワサキのイメージを向上させるためには、よほど変わったことをやらない限り、他人に関心を持たせることなど難しいので、例えば広告でも小林くんの『カワサキらしくない広告』がMUST なのである。
1年経って、いろんな活動の結果幾らか『レースにも強く』『常にチャレンジする』カワサキになっているが、特筆出来るのは『広告センス』が大きく伸びたことと、全体の『イメージ総量』が大きくなって、この1年間の活動は大いに評価すべきものであった。
そんなカワサキの採った方向を3年続けて、漸く販売台数にもその実績が現われた時期でのこの講演会だったのである。
★そんな意味で、講師に選んだのは『常にチャレンジするソフト会社のKSS』『レースの強いカワサキを目指すスポーツ推進部』『イメージ創りの根幹である広告宣伝課』の担当の3人のメンバーを講演会の講師として選んだのである。
私の発想は、常に普通の方とはちょっと違っていて、●レースサーキットの『SPA直入』や、●新しいソフト会社『ケイスポーツシステム』や、●本格的な『ユーザー組織KAZE』など当時は全く世の中にない新しい存在で、『世の中にないことの説明』はムツカシいのだが、それをやるためには、川崎重工業の決裁は必要なのである。
それが何となくそれが出来たのは、当時の川重の大庭浩社長に絶大な信頼があって、何となくそれらしい説明をすると、そんなに確りご理解はなくても、『古谷がやるならいいか』ぐらいで通ったのだと思うのである。
私の直接の上司は髙橋鐵郎さんという当時でも10年以上一緒に仕事をした方がおられたし、そんな環境に恵まれていたのである。
★ ただ、『成功する・実現する』ことが信頼の基盤になるのだが、7万台という目標が実現しそうな段階での、この講演会だったのである。
もう一度、小林茂くんの講演の内容をこの冊子から一部をコピーしてみます。沢山喋った中での最後の部分なのだが、なかなかいいことを言ってるので、時間のある方は是非お読みになって頂きたいと思います。
ざっと、こんな感じの講演会だったのだが、 今回のテーマは、この時期カワサキがどんな発想でどのように動いていたのかが本題なので、今後そう言った課題を中心ご紹介を続けていきたいと思っています。
ご期待ください。
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