● アメリカ市場に進出した時代
★1960年に単車事業に進出したカワサキだが、当初はその市場は国内市場だけであった。カワサキ明発が前身の『カワサキ自動車販売(現在のKMJ)』を通じて全国の代理店に対しての販売を続けていて、車種で言えば、M5ーB7ーB8ーB1-J1など、50cc~125ccの実用車がが中心で『実用車のカワサキ』の時代だったのである。
当時、ホンダは既にアメリカ市場に進出を果たしていて、あのスーパーカブで『NICEST PEOPLE ON A HONDA』という一大キャンペーンを実施して、アメリカ市場での二輪のイメージ転換を図ったりしていたのである。
★明石の単車事業本部ではこの時期、国内市場への開発・生産・に集中し、前回取り上げた『レース運営委員会』でのレース対策などに集中していたのだが、1965年にはそのレースも、モトクロスからロードレースへとその範囲を広げ、GPレーサーの開発も山田熙明技術部長を中心に大槻さんなども担当してその開発が進められていたのである。
その時期、川崎航空機本社企画の浜脇洋二さんを中心にしたアメリカ市場の調査が始まり、1965年7月には田崎雅元さんが明石事業本部サイドからの初めてのアメリカ市場派遣となり『サービス分野の担当』となるのである。
その間も『レース分野の活動』は推進されて、1966年10月16日にFISCOで開催された日本GPがカワサキとしては初めての『GP参加』となるのだが、この時のチーム編成は以下の通りだったのである。 チーム総責任者 山田熙明 レース総監督 中村治道 GPチーム監督 大槻幸雄 ジュニアチーム監督 安藤佶郎 チームマネジャー 古谷錬太郎
★この1966年度あたりまでが、カワサキの単車事業創生期と言える時期で、この日本GPを終わって『レース運営委員会』は解散することになるのだが、その後も、カワサキの単車事業の中枢をこのメンバーたちが担っていくことになるのである。
従来からの国内市場は、岩城本部長ご自身が販売会社社長を兼務され、社名も『カワサキ自動車販売』から『カワサキオートバイ販売』「通称カワ販)となり、実質、苧野専務が担当されて、川崎航空機籍の人たちは全員『カワ販出向』となって、私なども未だ係長にもなっていない時代に、広告宣伝課長になったりしていたのだが、1967年からは国内最大市場であった東北6県の代理店を担当する『仙台事務所』の新設を命じられて、仙台事務所長として異動することになるのである。
この2年間、アメリカ駐在であった田崎雅元さんは、1966年3月に部品センターAKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)をシカゴに設立されて、その後のアメリカの基盤を創られたのだが、1967年からは安藤佶郎さんに引き継ぐことになるのである。
大槻さんは技術部に戻られて『市販車開発』に当たられるのだが、最初に開発責任者として開発されたのが『マッハⅢ』だったのである。
★1965年から始まったカワサキのアメリカ市場対策は、66年のAKMという部品会社の設立から、68年には販売会社KMC設立となり、そのカワサキ独特の『現地主義』というバイクに精通したアメリカ人達のノウハウと明石サイドの開発陣との協働から生まれた『250A1・マッハⅢ』など独特のスポーツマシンの投入が功を奏して、アメリカ市場でのシェア獲得が続いていくのである。
当時の山田さん
当時のKMCからの要求で新しくスポーツ車の開発に当たったのは、山田技術部長や大槻幸雄さんだったし、その生産を担当したのが中村治道・髙橋鐵郎さんだったので、この時期アメリカ市場を支えた人たちは、かっての『レース運営委員会』の方たちだったと言っていい。
★この時期、私自身は国内の東北市場を担当していたので、直接はアメリカ市場とは関係はなかったのだが、『アメリカ市場対策』をされた方々が、かっての『レース委員会』の方たちだったので、その情報だけはいろいろと入っていたが、
ごく最近この1,2年に、田崎さんとのメールのやり取りがあって、アメリカ市場スタートの頃の話と写真が送られてきているので、一度このブログにもアップしたのだが、再度抜粋してご紹介してみよう。
当時のアメリカ市場でのスタートの状況が生々しく再現されている。田崎さんの最初のアメリカ行きが決まったのは、1965年7月のことで、その時は『レースチーム』から大槻幸雄さんがドイツに留学されるということもあって、お二人の送別会を明石デパートの屋上のビアホール行っている。
アメリカ市場開拓の旗を上げたのは当時の本社企画にいた浜脇洋二さんで、アメリカ市場のトーハツにいた杉沼浩さんが加わっているのだが、田崎さんは日本人としては4番目、明石工場の単車事業部としては、初めての人材派遣だったのである。
以下は田﨑さんから送られてきた、写真とメールの抜粋である。
1965年8月日本出発時の為替レートは、360円、9月に最初の渡米地シカゴで、渡邊さん、と二人の出張所を設けた。その後、種子島さんがやってきた。全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要だという事になって、その後、黒田さんもやってきて翌年1966年3月に部品センターを設立した。AKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)で、KMCの前身である。
『会社である以上、税務のこともあり経理屋さんが必要だと要請したら、久保勝平掛長がやってきた』 久保勝平さんは、私と同期だから田崎さんより1期上、この年係長になったばかりである。
車で言うと、WIやA1 の時代だが、W1はアメリカ市場では通用しなかった。アメリカで、カワサキが認知されだした最初のマシンはA1なのだろう。
A1のテストは、百合草三佐雄さんが担当していたのだが、シカゴから南部へ向けてプロのライダーに走行して貰い、私が車のチェックをしたものです。1966年1月の事で百合草さん、種子島さんも居たのですが、二人ともまだ車の運転ができなかったので、杉沼さんがライダーと契約し私が伴走車を運転しながらのテストだったと思います。
★当時のことを百合草さんは、『カワサキZの源流と軌跡』の中で、次のように書いている。 『1965年、A1のテストをアメリカで実施した。各代理店を訪ねた時最大の要望は『故障しない』ことであった。広大なアメリカ大陸では『故障で止まること』は日本では想像もできない危険に遭遇する。砂漠の真ん中のハイウエイで故障したら大変である。夏では40度を超す猛暑、冬は零下になる。いずれの場合も生命に影響する。・・・・』
百合草さんは、昭和35年(1960)年入社で種子島さんとも同期、未だ入社5年目の若手だったのである。
★AKM はシカゴで、部品会社として設立されたのだが、これをベースに1968年にはカリフォルニアでKMCがスタートすることになるのである。
KMCの経営は、浜脇洋二さんが掲げた『現地主義』というカワサキ独特の方針から、現地アメリカ人のバイクに通じた優秀な人たちが多数参加することになるのだが、『アラン・マセック筆頭副社長との出逢い』を田崎さんはこのように書かれている。
1966年に種子島さんと一緒にネブラスカ、スコッツブラフのMASEK・AUTOを訪問した。オーナーの息子のALAN・MASEKに カリフルニアで働かないかと打診した。たまたま、フランスのソルボンヌ大卒のエリートの奥さんがこんなド田舎の生活はもう嫌だといって、喜んでカリフルニアに行きたい、と言っていたので、それを浜脇さんに伝えた。このヘッドハンティングの成功が、後の浜脇社長ーALAN・MASEK販売担当筆頭副社長コンビのKMC長期政権の誕生となった。ちなみに、ALANもハーバード大卒のエリートである。 カリフルニアにもAKM支社が出来、安藤佶郎さんも出向してきた。
などと、当時のアメリカ市場開拓の状況を書かれている。
この写真は、いま現在制作中の『カワサキアーカイブス』の中で、現在のアラン・マセックが当時を語っているのだが、大槻幸雄さんは、常に『世界一』を目指していると言われているのである。
シカゴで部品会社を創られた田崎さんは、日本に戻られてからも、部品部門を担当されたのだが、当時では珍しい『部品の自動無人倉庫』など大きな仕事をされている。
髙橋鐵郎さんは69年には、カワサキオートバイ販売に出向され、『営業の第一線分野』を経験されて、この経験がその後の髙橋鐵郎さんの発想の原点になって、『カワサキ単車の経営を支えた』と言ってもいいと思っている。
★1968年には、アメリカ市場に販売会社KMCが設立されその初代社長は、 岩城良三常務が兼務されて、スタートすることになるのである。
KMCスタート時のメンバ^-右から3人目が岩城さん、その隣が浜脇さん、一番左が杉沼さん。
同時に日本では、1969年に川崎重工業・川崎航空機・川崎車両の3社合併で、『川崎重工業』がスタートし、その単車事業本部の経営方針も『中大型スポーツのカワサキ』を指向して、国内市場も『実用車市場の地方』から『東京・大阪などを中心市場』とするなどその販売方針も抜本的に変わって、1970年代の新時代展開へと入っていくのである。
戦後の日本の二輪事業は、1950年代には100社を超えるメーカーが存在したのだが、1960年代に入り、ホンダ・スズキ・ヤマハの浜松勢が業界をリードし、東発・富士重・三菱などの大企業もこの業界から撤退し、ブリジストンとカワサキの5社体制となるのだが、そのBSも撤退して、ひとりカワサキだけが浜松勢に伍してこの業界に留まることになるのだが、それを可能にしたのが『アメリカ市場の好調』と、大量生産の50ccの小型車市場を捨てて『中大型スポーツ市場』に絞った経営・市場戦略にあったのだと思う。
『カワサキの単車事業』は、経営的にも非常に厳しい時期のあった1960年代を乗り切って、次の10年に歩を進めることが出来たのである。
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