★ カワサキのZ1/Z2が世に出たのは1972・73年のことだから、もう50年も前のことなのに、未だに世の中で絶大な人気を保っているのはなぜなのだろう?
このZの開発責任者であったのが大槻幸雄さんで、今回の日本自動車工業会の殿堂入りもこの功績によるものなのである。
そんな大槻幸雄さんとは、何故かご縁があって、最初にお会いした1965年以来延々と54年にもなるのである。一番近々にお会いしたのは、この12月11日の『Z1会の忘年会』で、この忘年会に豊岡から愛車に乗って参加された『青木隆』さんがFacebook に載せられたものをお借りしたのだが、なかなかよく撮れている。
Z1会として今回の受賞のお祝いの記念の楯を、副会長の丹波さんから大槻会長に贈った時のものである。
会が終わって、店の前で撮った記念写真には私も、東京からやってきた藤木さんも、右端はKAWASAKI Z1 FAN CLUB の事務局長登山道夫さんである。
★確か来年は90歳におなりになる大槻さんは、昨今はまさに『好々爺』そのもので温和な紳士なのだが、
あのマッハやZを開発されたころの若い頃の大槻さんは、何事も『世界一を目指す』と言って、微塵の妥協も許さない厳しい方で、常に自らの信念通りに行動されていて、近寄り難い存在だったし、大槻さんにズケズケものを言ったりした方は、技術屋さんではおられないのではなかろうか? などと思ってしまうのである。
★そんな大槻さんなのだが、私はなぜか大槻さんに『気兼ね』などしたことは一度もなく、最初にお会いした時から『いい関係』が続いているのだが、その出会いが『レースチーム』であったからかも知れない。
『カワサキが鈴鹿サーキットを初めて走った』のは、1965年5月3日のジュニア・ロードレースで、ライダーは山本隆だったが、このレースにカワサキはホンダに続いて3位入賞を果たしたのである。
実はこのレースは会社の許可などは受けておらず、山本がどうしても走りたいというものだから、こっそりと勝手に出場したレースなのである。ところがホンダに次いで3位に入賞したものだから、『ロードレース熱』は一気に高まって、このレースの1か月後にあった『アマチュア6時間耐久レース』には、3台のマシンを正規に出場させることになるのだが、この時初めてカワサキのレース・チームに監督が誕生して、それが『大槻幸雄』さんなのである。
その契機となった、ジュニア・ロードレースのマシンを都合したのは田崎雅元さん、金を出したのは広告宣伝課の私なのだが、ひょっとしたら、大槻幸雄さんも陰で関わっておられたかも知れないのである。
この話を一度、大槻さんに聞かないとと思っているのだが、山本隆はその後大槻さんに『開発中のGPマシンに乗れ』と何度か勧められたという話は何度も聞いているのだが、どうも大槻さんは「1965年5月3日の鈴鹿のレース」を現地でご覧になっていたようなのである。
★カワサキの公式な初のロードレースは、6月13日の『アマチュア6時間耐久レース』で、その監督は大槻さん、助監督が田崎さん、そしてマネージメントを担当したのが私、だったのである。
そんな大槻さんとのレース・チームでのお付き合いは、1966年10月16日のFISCOで行われた日本GPまで続くのだが、いろんなご縁があって、先日このブログにアップした『藤井敏雄さん』については、マン島の現地から『ご遺体』を送り出して頂いたのが大槻さんで、羽田でお迎えしたのが私なのである。デグナーが事故で入院した時も、いろいろと関係したのは、『大槻さんと私』だったのである。
★その後、大槻さんは技術部の市販車開発担当に戻られるのだが、開発を担当されたマシンは、大型の高いレベルのマシンばかりで、小型車については全く興味をお持ちでなかったように私は思っている。 カワサキが大型車の開発が一段落して、『小型車分野』を目指した時期に
●『開発途上国市場』のCKD分野への進出を目指す提案をしたのは私なのだが、当時の塚本本部長が、その調査チームの長に大槻さんを指名されるのだが、大槻さんが断られたので、髙橋鐵郎さんがその長をされることになったのである。逆に、髙橋鐵郎さんはこの分野に非常に興味を持たれて、技術開発本部長から、『市場開発プロジェクト室長』になられたりしたのである。
●その後、髙橋さんの後の、技術本部長となられた大槻さんに、私がCKD市場用の110ccの車の開発を、技術本部会議でお願いしたことがあるのだが、大槻さんはなかなか首を縦に振って頂けないのである。普通は大槻さんがNOと言ったら、みんなそこで諦めてしまうのだが、お構いなしに粘っていたら、『松本博之』さんが『私がやりましょう』と助け船を出してくれたのである。
その車がカワサキの車の中で圧倒的な数の売れたGTOなのだが、CKDの部品輸出のため、日本サイドにはその台数記録がないのである。
★大槻幸雄さんが関わられたカワサキのマシンの第1号はあのマッハⅢで、その後はあの名車Zと続いて行くのだが、当時のカワサキの主力市場はアメリカだったのである。
いま、カワサキの単車関係の旧い歴史を昔の人たちが語る『カワサキアーカイブス』という企画が進行中で大槻さんも、私もそれを語ったりしているのだが、
これはそのアメリカ版で、当時のアメリカでの数々のマシンの開発の想い出などをアラン・マセックなどが語っているのだが、その中にも大槻幸雄さんがいろいろと登場するのである。
そんな画面の中の一部をご紹介してみる。
当時のKMCの副社長がアラン・マセック語っている。
『世界一を目指していますね?』と言ってるのは、それなら明石側は『出来ない』などと言わずに『挑戦すべきだ』と言っているのである。
これはZ ではなくてマッハⅢ の話なのだが、 3気筒は素晴らしいと思うが、『CDI』を採用すべきだとアメリカ側の主張に対し、 日本サイドは、『その部品を作る業者がない』という理由で断っていたのだが、
いろいろと言っていたら、『大槻さんがそれをやってくれた』と言っているのである。
こんな話は、私も初耳なのだが、大槻さんらしいなと思うのである。『HP大槻』とは当時馬力を出すことに猛烈な関心のある大槻さんのことを、アメリカ人達は『Mr.HP』と呼んでいたのである。
この動画はまだ製作途上だが、Zに関しては、 別の当時の担当者が、
『これは疑いもなく、これまでに創られた二輪車で最高のものだった』と語っている。
★振り返ってみると、カワサキの単車事業の創生期は、いろいろと自由な雰囲気があったし、アメリカサイドのアメリカ人が開発に対しても、細部の要求をしていたと思うし、『ムツカシイ』ことでもそれを受け入れて、挑戦しようという雰囲気があったのかなと思う。
いろんな方がおられたが、間違いなく『大槻幸雄』さんも、そんな中のお一人で、今は、考えられないほど温厚になられて、若い頃の面影はなかなか見られない。
私は実は『ゴルフ』を始めたのは結構遅くて、42歳になってからなのだが、それは、髙橋鐵郎さん・大槻幸雄さんの先輩お二人が『ゴルフ大反対』で、何となく『やり難かった』のである。いつ頃からか、なぜそうなったのかもよく解らないのだが、お二人とも『ゴルフ大好き』になられて、大槻さんなどはZ1会の会長をずっと務められて、来年は第71回~74回まで、4回のコンペが既に日程まで決まっているのである。
ひょっとしたら『公私』共に一番密接に長い間、お世話になったのは、大槻幸雄さんなのかも知れない。
来年、4月18・19日には、大槻さんの故郷・綾部で、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の『Zをこよなく愛する』ユーザーたちと一緒に、大槻さんを迎えて、今回の受賞のお祝いをしようと企画中なのである。
来年もまた、大槻さんとのお付き合いは続きそうである。
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