★1966年(昭和41年)が私のレース担当の最後の年となったのだが、この年はいろんな意味で大変な年だったのである。 この1年のことを日記をめくりながら振り返ってみたい。
そんなきっかけになったのが、Facebook に『忠孝松本』さんがアップされた、『藤井敏雄さんのこんな写真』なのである。
藤井敏雄さんの経歴など写真と共にこのように松本さんは紹介されている。
トーハツのライダー・組立工を経て鈴木誠一さん・久保和夫さんの率いる名門「城北ライダース」に移籍。1962年スズキに入社し、メカニック・車両開発ライダーとして活躍。1966年川崎航空機工業へ移籍。エースライダー・メカニックとして第2戦西ドイツGPから125ccクラスで単身世界選手権へ参戦する。1966年世界選手権第8戦のマン島TTレースに、カワサキ125ccで出場。
問題を抱えながらマン島初出走するも、予選前の義務周回1周目、北部の避難港ラムゼイのコーナーで塀に激突し、将来を有望されたレーサー人生の幕を25歳で閉じる。
いろんなレースの想い出のある中で『一番悲しい想い出』が藤井敏雄さんのマン島での突然の事故死なのである。
『素晴らしい好青年だった』という印象を持っているのだが、悲しい結末だったので、ブログにアップするのも・・・と思っていたのだが、この写真を見て藤井敏雄さんのことと共に1996年の出来事を振り返ってみたい。
★ この年の1月5日、初出の日に藤井敏雄はやってきた。 日記にはこのように書いている。
前年あたりからカワサキもGPレースに参加しようということになって、ロードレースライダーの契約なども検討されていたのだが、藤井敏雄との契約交渉は技術部がやっていて私は詳しくは知らなかった。 具体的な契約内容のみ、他のライダーと共に私が担当していたのである。
そんなことで初出の日に出社すると、藤井敏雄さんが既に来ていて、びっくりした。『古谷さんに会って具体的な契約をするように』技術部から言われたのでやってきたと仰るのである。たまたまだが、前年のモータショーの時に久保和夫さんと一緒にカワサキのブースにやってきたので、知ってはいたのだが初対面みたいなものだった。契約交渉が、なかなかムツカシかったのは、彼は『ライダー契約ではなくてマシンの貸与契約』にして欲しいという希望で、その貸与マシンでヨーロッパを転戦するので、その結果を見て日本GP前に『ライダー契約』をして欲しいという、ライダー契約としては異例の内容となったのである。
★初出の日にこんな藤井敏雄さんとの異例の契約で始まった1年だったのだが、いろんなことがあったが8月末までは至極順調に推移していたのである。
● 日記にも書いているように、藤井と契約する代わりに安良岡を切れと言うのが上の指示だったのだが、金谷秀夫が鈴鹿から帰りの車の中で『何時壊れるかもわからないようなマシンの危険なテストをやらしておいて、それはない』というのである。そんなことで私の独断で安良岡健さんとの契約だけは秘かに繋いでおいたのである。 これは藤井・三橋・金谷で鈴鹿テストをした1週間後のことだが、これはその後安良岡にとってもカワサキにとっても良かったと思っている。
● 2月末には山本隆が結婚し、私はその仲人を引き受けたりしているし、4月にはちょっと問題があった金谷秀夫のことも、片山義美さんに頼まれて、いろいろやったら上手くいったし、
●5月末には、西ドイツGPで初出場したのだが、他メーカーとのマシンと遜色なく走れたという報告を受けたし、
●7月にはモトクロスのニューマシンF21Mが世に出て、連戦連勝を重ねたし250A1のレーサーも開発されることになって、この辺りまでは順風満帆だったのである。
★それが8月27日、レース出場のためFISCOにいた私のところに明石から電話が入ったのである。 『マン島で藤井敏雄が転倒して死亡した』と、それからすぐレースの総責任者であった山田熙明部長(後川重副社長)から『藤井宅に報告に行くように』と指示があり、赤羽の自宅まで報告に伺ったのである。
8月29日には『緊急事故対策会議』が開催され、会社としても初めての経験だったし、『レース』に関しても解る方は限られていて、『マシン貸与契約』ということで、事後対策についても補償についてもいろんな意見が出たのだが、契約担当者としては、『マシン貸与契約』だと言っても、『そこらの市販車を貸した』のとは訳が違うと頑張って、事後対策も、補償も会社側がやるという結論にはなったのである。
マン島からの『ご遺体』は、現地でスズキの方々のお世話にもなり、たまたまドイツ留学中の大槻幸雄さんがマン島に行かれていて、大槻さんが送りだし、私が羽田でお迎えしたのが、9月1日で、2日にお通夜、3日にご葬儀と続いたのである。
★そんな中で9月5日にはデグナーとライダー契約する方針が決まり山田熙明部長と私とで担当することになるのだが、外人ライダーとの契約は初めてのことだし、社内には聞ける人もいなくて、MFJの運営委員をしておられたホンダの前川さんに9月10日に、鈴鹿まで出向いていろいろお聞きし、日本語の原案は私が創ってその英訳は山田部長が全ておやりになったのである。
そのデグナーは9月26日に来日し、9月29日にはFISCOでのマシンテスト走行をしたのだが、チェン切れで転倒し頭を打って入院してしまうのである。マン島で藤井敏雄さんを亡くして1か月後のことで、心配したし大変だったのだが、本番には出場は出来ずに『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。
10月16日にFISCOで開催された日本GPはカワサキは安良岡が7位に入賞し、同時に行われたジュニア250では、ガリー・ニクソンと金谷秀夫が同じベストラップタイムを記録するという大接戦となったのだが、惜しくも2位になってしまった。 このレースで歳森康師が転倒し『鎖骨骨折』するのだが、私が歳森に掛けた言葉は『よかったな』だったのである。 これはいま思っても、その時の私の正直な気持ちだったのだと思う。
★このレースの後、大槻幸雄さんは、技術部の市販車の開発担当に戻られたし、安藤佶郎さんはアメリカのリンカーン工場に、私は東北6県の代理店担当で、仙台に異動することになるのである。
いろんなことがあったが、最後の1年は大変な1年だったと言っていい。
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