★1965年(昭和40年)
いろんな意味で、新しいスタートの年だったような気がする。年号は未だ昭和で呼ぶのが普通で西暦で年を言う人などいなかったころである。昭和30年代が終わって昭和の年号は40年が始まった。
入社8年目、戦後20年目である。この年の4月1日に岩城常務がが単車事業本部長に就任された。カワサキ自動車販売は、カワサキオートバイ販売に名前を変えて岩城さんが社長を兼務された。
私を始め販売促進部のメンバー達はみんな川崎航空機からカワサキオートバイ販売に出向になったのである。そして広告宣伝課長を命じられた。それまでも実質責任者ではあったが、川崎航空機では未だ平社員で係長にもなっていない入社8年目なのである。兎に角サラリーマンになって初めて貰った職位が課長だったのである。1億2000万円の予算も持っていたし、岩城さんはちゃんと課長として扱って頂いて、広告宣伝の方針や実行状況については直に呼ばれて、直々の指示を頂いたりしたのである。
二輪事業の方は待望の中間機種85-J1の発売などもあり、広告宣伝の実務の方も多忙を極めたのである。さらに、レース関係は青野ケ原以来、ライダーなどチームの面倒を見てきた川合寿一さんが4月に明石営業所長で転出することになり、ライダー契約などを含め、より近いところでのレース対応を余儀なくされたのである。レースの実務運営については、従来通り大西君が担当してくれたのである。
前年度がモトクロスの充実強化であったとすれば、この年はカワサキにとって全く未経験の『ロードレースへの挑戦の年』であったと言えるのだろう。
この年の2月6日、ロードレースに対するマル秘の会議が行われたのである。技術部の山田部長、大槻、渡辺係長の3人で、今期からの5年間のGP開発予算申請の話なのである。その3人の秘密会議の中に、なぜか呼ばれたのである。山田さんは、旧制中学の先輩で何かと目を懸けて頂いていたが、大槻さんも渡辺さんもまだ、モトクロスレースには直接関係しておられなかった時期である。私が持っている広告宣伝費が開発費であったのでそんな関係だったのかも知れない。『GPマシンもそんなに大した金額ではないなと思った』とその日の日記には書いているが、どんな話だったのかは全然覚えていないのである。人間の記憶などホントに当てにならない。もし日記がなかったら、そんな話は覚えていないのである。
同じ、2月にレ―ス関連で、ちょっとした事件が発生したのである。神戸木の実の歳森康師と山本隆の二人から辞表が出て、BSと仮契約を結んだというのである。契約担当の川合さんが大変だ大変だと大騒ぎで、この話の中に引きずり込まれたのである。そして神戸木の実の主宰者片山義美さんと、話をすることになったのである。ライダーと言われる人と、ちゃんと話をしたのはこの時の片山義美さんが実は初めてだったのである。
非常に厳しい話も出たが、その指摘は尤もと思われるなことも多かったのである。結論はレースマネージメントを私が直接みるということでほぼ解決し、そのあと西海義治さんと片山義美さんが二人を呼んで『カワサキ残留』が決まったのである。
後で聞いた話だが、BSの契約条件の中にロードレースがあったようで、山本隆君は、ロードレースへの魅力、関心があったのか、5月に開催される鈴鹿ジュニアロードレースに個人で車を買ってでも出場したいと言いだしたのである。当時はレースはモトクロスだけでロードレースについては会社も正規には認めていなかったのだが、レース職場の松尾勇さんにマシンが造れるか?と聞いたら『大丈夫』というのである。
当時、鈴鹿ではしょっちゅうモトクロスが開催されていたので、『モトクロスに出場ということにするか』と出場だけは決めたのである。車は山本が自分で買うと言ったら、当時製造部に居た田崎さんが都合してくれたのである。モトクロスの山本だけでは頼りないとロードを既にやっているのを探したら、後UKに行って、ケン鈴木などとGPレースも手掛けた元UK社長の内田君が当時は北陸にいて、塩本くんを出してくれたのである。そんなことで、山本、塩本の2台でエントリーして、カワサキで初めてのロードレースに挑戦したのである。
結果は、『ホンダ、ホンダ、カワサキと3位に入賞』するという大成果を挙げたのである。然しこれも青野ケ原と同じく、恵みの天の雨のお陰だと私は思っている。
マシンが未だダメだったのか、初めてのロードレースはやはり山本にとって厳しかったのか、予選でのタイムはもう一つだったのである。そんなこともあって当日の5月3日は、連休で私は田舎で野釣りを楽しんでいたら、その夜『ヤマ3、シオ8、セイコウカワ』と現地の川合さんから電報が入ったのである。ホントにビックリした。
山本隆くんの講釈によると、『当日は雨になって全体のタイムが落ちた。滑り易く、モトクロスライダーには有利になった。BSの滋野の後ろにスリップストリームでつけていて、ゴール直前で交わして3位に入賞した。』というのである。『スリップストリーム』などという言葉は初めて聞いた。何のことかも解らなかったのである。
いずれにしても、会社には黙って走った鈴鹿は『大成功』だったのである。
これはつい先月の鈴鹿50周年の山本隆くんの鈴鹿サーキットの通行証である。『カワサキが初めて鈴鹿を走らせた男』 と書いてくれている鈴鹿は流石である。
休み明けで戻ってきたら、3位のカップは、モトクロスに比べて大きく豪華だし、兎に角ホンダに次いでカワサキなのである。これで一挙にロードレースに火が付いたのである。
そしてその翌月6月13日に開催された『鈴鹿アマチュア6時間耐久レース』には、正式にマシン3台を揃えて、カワサキがレースを始めて以来監督などいなかったのだが、会社として初めて大槻幸雄監督、田崎雅元助監督という布陣を組んで出場することになったのである。(ちなみに大槻幸雄さんは後カワサキZ1開発責任者、田崎さんは川崎重工業社長などを務めたが、今でもNPO The Good Timesの会員さんとして親しくお付き合いのある仲間なのである。)
3台のマシンにはメーカーのテストライダーチームで加藤、飯原、カワサキコンバットから梅津、岡部、までは決まったのだが、神戸木の実の歳森康師の相手の山本が1か月前のジュニアロードレースでジュニアの資格を取ってしまっているので相棒がいないのである。歳森が『早いのがいるので連れてきてイイですか?』と連れてきたのが、『神戸木の実の金谷秀夫』なのである。金谷は契約も何もなしに、兎に角歳森とのコンビでカワサキで走ることになったのである。金谷は確かに速かった。3分18秒から20秒の間で走っていた。
レースの結果は、一時トップを走ったりはしたが、ダメだったのだが、ここからカワサキのロードレース参戦がスタートするのである。
8月には舟橋サーキットでのMFJロードレースに金谷が出場したがマシンがBSと10秒も違ってとても勝負にはならない状況、翌9月の鈴鹿にも歳森、山本、三橋、飯原らが出場したが金谷は1周目にエンジントラブルなどなかなかロードレースでは結果が出なかったのである。
10月の日本GPにも125ccクラスに安良岡でエントリーしたがリタイア、90ccも金谷が3位には入ったが、モトクロスのように優勝など、とても望めない1年目のカワサキロードレースだったのである。
個人的なことで恐縮だが、この年の5月に私は4輪の免許を取得したのである。ちょうロードレースを始めて、マシンの調整などでよく鈴鹿には来ていたのである。このころは金さえ払えばS600で、誰でもサーキット走行が出来たのである。免許取り立てではあったが、運転テクニックを教えてくれる先生は沢山いて、特に山本隆くんからはいっぱい理論も学んだし、サーキット走行でもヨコに乗って貰って走ったものである。この年の想い出の一つではある。
レースに関係したこともあり、MFJの運営委員にもなった。ホンダ前川、スズキ岡野、ヤマハ内藤さんという立派な先輩メンバーの中で、BSの西川さんとともにカワサキは未だ33歳の若手の私が名を連ねていたのである。そんな役をしていた関係で7月31日に開催された『鈴鹿24時間耐久レース』には現場にいて経験したのである。ヤマハの数台以外は殆どホンダ一色だった。
この年はホントにいろいろあった。6月6時間耐久を一緒にやった大槻幸雄さんはドイツ留学に、田崎雅元さんはアメリカ市場に行くことになって8月10日にレースチームのメンバーで、送別会をやっている。そして技術部の大槻さんのレースの後任には安藤さんが担当されることになるのである。翌年F21Mを開発されたのは安藤吉郎さんなのである。(吉郎の吉には人べんがついているのだが)
いま私がFacebookの背景に使っている写真である。 『カワサキの想い出そして未来』という平井稔男さんが主宰したNPO The Good Times のイベントに集まってくれたメンバー達である。一番右のホンダの渡辺さん以外は、昭和40年当時からお付き合いで、その時はレース界の新人だったライダーたちである。ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキ、BS 全てのメーカーに関係のあった人たち、みんなNPO The Good Timesの会員さんである。敢えて名前を記すこともない有名人ばかりである。
この年モトクロスは、可もなく不可もなく、まず順調に推移した。
三橋実、安良岡健、金谷秀夫の3人がロード部門で、モトクロスには山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫にノ―ビスではあったが星野一義が契約ライダーとして加わわった。前年11月にデビューした星野は4月のMFJ 全日本モトクロスではトップを走りながらパンクでリタイアしたがMCFAJの全日本では見事優勝を飾っている。栗山、西、木村、金子など全国から集まった有望新人がいっぱいで、何人いたのか解らないほどだった。そんなモトクロスだが、安定していてロードレースのような新鮮さはなかったのである。
カワサキにとってロードレース以外に特筆することがあるとすれば、『星野一義 と 金谷秀夫 がカワサキでデビュー』したということだろう。
二人のデビューの仕方も、なかなかオモシロいのだが、未だそんなに有名にならぬ新人の頃から『いいもの』を持っていた。二人とも、チームの中で特に年配の人たちに可愛がられていた。何かそんなものを持っている。
二人とも、世の中で有名になったのは、カワサキを出てからだが、二人の故郷は間違いなくカワサキである。星野は東京なのでなかなか会えないのだが、当時カワサキコンバットに居た金子豊と星野インパルで成功しているが、2年ほど前にやったカワサキファクトリーのOB会などでは先輩の岡部などと同部屋になって、先輩の布団を上げたりするようなところは昔のままである。
金谷も今でもカワサキのZ1会のゴルフには顔を出しているし、ヤマハに関係にあったときもSPA直入のオープンや当時のカワサキのレ―スミーテングには顔を出してくれたのである。恩師片山義美の引退パ―テ―の司会を務めたのは金谷だったが、その主賓の冒頭の挨拶を頼まれたのは私である。片山義美さんも金谷もどちらかと言うと、カワサキなど関係ないと思われているのだが、2年前のカワサキのファクトリーOB会にはお二人とも堂々と出席されて全然異和感がないのである。
上の写真で紹介した吉村太一、田中隆造たちがようやく名前が出かかったころだった。特に太一ちゃんは星野のよきライバルなのである。木村夏也はこの年は未だ全くの新人で大阪の赤タンク会に所属していて、翌年四国であった第3回MFJ 全日本モトクロスにノ―ビス部門でいきなり優勝したりしたのである。この会合でホントに久しぶりにお会いできた。
そんな雰囲気が、今記述しているこの1,2年の中で生まれているのである。当時はMCFAJのクラブマンレースが盛んだったからか、メーカーの枠を超えて、レース界に一体感みたいな温かいものがあったような気がする。
★1966年(昭和41年)
この年までで私の広告宣伝課担当、レース担当も終わった。同時に本社からの広告宣伝費の開発費での支援も最後の年となったのである。最も豊かに予算のあった4年間だったのである。
その最後の1年間は、いい年だったのか、悪かったのか?
ずっとレースのことを書き綴ってきたので、会社の仕事の大部分がレ―スだったのかという印象を持たれるであろうが、この年までの3年間は仕事の70%は本務の広告宣伝の仕事だったのである。新しいマーケッテングという分野を覚えるだけでも大変だったし、各代理店の本社スタッフという英知の塊みたいな人たちに伍していろんな交渉事も含めやっていくのは、傍で見ているよりは大変な仕事であったと思っている。そういう意味ではレースが、いい気分転換の場になっていたと言ってもいいのである。
そんな3年間だったのだが、この年は1年間逆にレースに集中というか、そうせざるを得ないようなことばかりが続いたのである。この1年80%レースのことをやっていた。 大変な1年であったことは間違いない。
★年明けの1月5日、初出の日に藤井敏雄くんが突然現れたのである。
何のことかと思ったら契約締結は『古谷のところに行け』と言われたというのである。藤井君とGP関連の契約の話が進んでいるなど全然知らなかったのである。前年度からGPに関しては技術部で開発費の予算は取ってマシン開発は進めていたが、まさかライダー契約が進んでいるとはまさに「寝耳に水」だったのである。
前年暮れのMFJの運営委員会の席上でスズキの岡野さんから『うちの藤井から辞表が出た。藤井は社員ライダーだから・・・』とクレームらしき発言があったのだが『BSさんかな?』と聞き流していたのである。それがカワサキだったのである。
正月早々藤井君との契約交渉に入った。彼は9月まで自分でヨーロッパを転戦しその結果を見てから、日本GPでのライダー契約をして欲しいというのである。本人の希望を入れて、『GPマシンの貸与契約』を結んだのである。マシンの貸与ではあったが、保険などはちゃんと掛けたりもした。
★そんな藤井との契約が済むと、前年度はGPテストに専ら従事し日本GPにはエントリーした安良岡健さんを藤井が来たので要らないというのである。
そんなことに殆どなりかけていた。2月12日鈴鹿でのGPのマシンテストに技術部が呼んだライダーは藤井、三橋、金谷で、安良岡は呼ばれなかったのである。鈴鹿からの帰りの車の中で、金谷が『いつ壊れるかも解らないマシンテストに1年間も使っておいて、もう要りません』は、あまりにもふざけていると言うのである。『確かにそうだ』と思った。安良岡健さんとの契約を広告宣伝課で勝手に結んで、1年間延長することにしたのである。
その後、カワサキのロードレースでその初期一番貢献度の高かったのは、安良岡健なのである。あの時金谷がああ言わなかったら、健さんもどうなっていたか解らない。この年の日本GPで外人ライダーも含め一番成績が良かったのは安良岡健だったのである。
★その2月には、山本隆が突如結婚するというのである。
それだけなら『おめでとう』だけで済むのだが、、『仲人をやって欲しい』というのである。これには流石にたまげたし困った。わたし自身が34歳、結婚したばかりみたいなものである。大体、格式ばったことは嫌いだし断ったが、どうしても断り切れずにやることになったのである。
山本隆がその後全日本チャンピオンを3年連続でとるような選手になるとも解っていなかったのだが、結果そんなことになって、最近は山本はエラそうに言っても『俺はその仲人だから』としょっちゅう言わして貰っているのである。
★そんなことをやってたら、4月には金谷秀夫がずっとずっと以前のちょっとしたことで葺合署に捕まってしまったのである。大したことではなかったのだが、主犯の男はその後もいろいろあって捕まったものだから、金谷も引っ張られてしまったのである。
この時の私の対応は誠に常識はずれもいいところで、神戸地検に検事さんを訪ねて、『いまはいい奴だから何とか助けてくれませんか』と言いに行ったのである。『君はどこに来て、何を言ってるのか解ってるのか』と検事さんには無茶苦茶オコラレて、『ダメですか』と帰ろうとしたら、一言『嘆願書を出せ』とささやいて頂いたのである。
レース職場のあった製造部を中心に何百人もの署名を集めその代表を塚本事業部長にお願いしたのである。塚本さんは快く引き受けて頂いて、この年の11月裁判の法廷には証人で立ったりもした。結果が良くて本当によかったと思っている。
『金谷がいい奴だ』と心底思っていなかったら、幾ら私でもそんな非常識なことはしない。カワサキにいるときはそんなことで海外にも行けなかったのだが、ヤマハに行って『世界の金谷秀夫』なって本当によかったと思っている。
★モトクロスの分野では、スズキがRHを新しく造って、小島松久や久保和夫がヨーロッパに挑戦しているそんな時期だったのである。
カワサキも250ccクラスに本格的なマシンを造らねば、置いていかれるという危機感を抱いていた。そんなとき安藤さんがエンジンは238ccまで大きくして対応することになったのである。それを積む車体が造れるか?当時はモトクロスの車体など技術部はノータッチの時代で、全て製造部のレース職場が対応していたのである。所属は製造部管轄だが製造部は無関係で、松尾勇、福田弘美、藤原良弘などのメカニックが、もっと言うなら松尾勇さんが対応していたのである。
大体が技術オンチオでマシンのことなど無関係な私なのだが、この時のことだけはよく覚えている。ヘリコプターでクロームモリブデン」、通称クロモリのパイプを貰ってきて、海岸で砂を取ってきてパイプにつめて曲げ、設計図などなしにべニアに釘みたいなのを打って、松尾さんが1台ずつフレームを造っていったのである。フロントフォークはセリア―二タイプで、車重は90キロを切ったのでは?兎に角軽くカッコいいF21Mが出来あがったのである。
スズキのように2台だけというようなケチなことではなくて、契約ライダーには全員当たるように7台ほど造って、青森も岩木山であったMCFAJの全日本にデビューさせたのである。衝撃的なデビューでそれ以来モトクロスは敵なしの状況が続いたのである。
★続いて8月15日には、250ccA1のロードレーサーの制作を決定し、FISCO での日本GPに備えていたのである。
この年の日本GPを新しく出来たFISCOでやる計画が進んでいた。MFJ の運営委員会ではずっとこの議題の検討が進められていた。スズキ、ヤマハは賛成に対してホンダは第1コーナーのカーブの構造が危険と断固反対だったのである。いろいろあったが6月にホンダはこの年の日本GPの不参加を表明したのである。ロードレースに経験のないカワサキとしてはあまり意見も言わずに付いていっただけだが、あの第1コーナーはMFJの運営委員たちが4輪で体験走行もしたのだが、すり鉢の底に吸い込まれるような感じでこわかった。
そんなことで日本GPに備えてのFISCOIでの練習やマシン調整が続いたのだが、8月27日その富士の現場に電話が入ったのである。レースグループの総括責任者のような立場の中村治道さんからだった。
『藤井が死んだ』マン島のプラクティスで転倒し大丈夫のようだったのに容態が急変して亡くなったのである。それからが大変だった。その日のうちに藤井くんのお母さんのところに報告に行きその後の対策に奔走した。
具体的な事項が『待ったなし』の状況である。葬儀をどうするか?保険の処理は?一存で決めるわけにも行かず会議になった。管理畑の方が契約書を見て車を貸してるだけだから『会社は何も関係ない』『保険など払うこともない』『葬式も特に関係ない』などとレースの世界が解らぬ人たちが言われるのを、『そんな対応は出来ない』と強引に押し切って、『カワサキとしての対応』を決めたのである。
マン島で遺体を送りだしてくれたのは、ドイツに留学していた大槻幸雄さんで、私が羽田でお引き受けをした。遺体はCargo扱いで通関があったして直ぐには引き渡されないし飛行場には霊柩車は入れないのもこの時解った。
通夜、葬儀も4メーカーすべてが出席されて行われて、カワサキも面目がたったのである。
★それが終わる直ぐ、デグナ―との契約が待っていた。スズキにいた、鈴鹿サーキットに「デグナ―カーブ」とその名を残すあのデグナ―である。
外人ライダーとの契約などやった経験は誰もない。どんな契約内容にするのかも解らない。仕方がないのでホンダのMFJ 運営委員の前川さんに『教えてくれますか?』と電話をしたら『鈴鹿まで来てくれるなら』と仰るので鈴鹿まで教えを乞いに行ってきたのである。いろんなことを教えて頂いた。そしてその英訳は山田部長自らがやられたのである。
デグナ―は9月26日にやってきて直ぐ契約、29日にFISCOで練習中に切れたチェンが巻きついて転倒アタマを打って、最初はどうもなかったのだが、明石まで連れ戻してくると容態急変なのである。藤井くんを失くした直後だから大変だった。神戸医大に移して手術ことなきを得て退院したが、カワサキのデグナ―は実現しなかったのである。
未だ続きがある。デグナ―の契約金を円で渡したのだが、当時は円は持ち出せないのである。日銀に行って『知らなかった』と言ったら『川崎航空機が知らなかったという訳にはいかない』とオコラレタが何とかして頂いたのである。
★日本GPは10月16日、FISCOで行われた、GP125には、シモンズ、や谷口尚巳などもカワサキに乗ったが、一番成績gよかったのは7位の安良岡健だったのである。ジュニア250では金谷秀夫がガリーニクソンと二人が同タイムでベストラップを記録するという大接戦であったが惜しくも2位となった。
このレースで歳森康師が転倒し鎖骨を折ったのだが、私が彼に最初に発した言葉は『よかったな』だったのである。鎖骨を折っていいはずはないが、ホントに『鎖骨でよかった』は実感だったのである。
この4年間の最後のレースは10月23日、同じFISCOのモトクロス場で開催されたMCFAJ全日本であった。
250 ノ―ビス 優勝 星野一義
セニア 優勝 山本隆
オープン 優勝 山本隆 最優秀選手 山本隆 だったのである。
この年を最後に、翌年からは初めての営業経験で仙台事務所長として東北6県を担当することになるのだが、当時モトクロスが一番盛んな地区が東北で、これ以降何年間かはレースの世界とあまり縁が切れずに居たのである。
★この創成期から20年以上も過ぎて、25周年記念に行ったファクトリーのOB会である。この4年間の中に名前が出たかたばかりである。
この時既に亡くなっておられた方もいるし、それ以降亡くなられた方も何人かいらっしゃる。
文中では何も書かずにきたが、改めて故人のご冥福を祈りたい。
間違いなく、カワサキのレースの伝統を築いた方たちばかりである。
さらに20年以上も過ぎて、一昨年(2010年)有馬の泉卿荘に集まったカワサキファクトリーOBの関係者である。少しは年代も若返っているが、青野ケ原の高橋鉄郎さんも、特別に神戸木の実の片山義美さんも出席してくれた。
世界の・・日本の・・もいっぱいだし、ライダー以外もなかなかのOBたちである。
いまKAWASAKI Z1 FAN CLUB 受け継げられようとしている。
(一応これで終わりますが、あとで当時の写真などありましたら、追加します。
山本隆くんと一緒にスピーカーを務める、11月10,11日の『二輪文化を伝える会』の資料の一部にしたいと思っていますので、これから山本隆くんに言って、写真や文章を追加したいと思っています。)
★最後に、山本隆くんから送られてきた、当時の写真の数々を。
これは1988年カワサキファクトリーOB会での写真である。