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カワサキの創成期のレースの話

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★朝早く、平井稔男さんから電話、今書いているブログTeam Greenの中でのレース話なのである。

平井さんの話はなかなかオモシロいのだが・・・・・・・・

平井さんはカワサキで彼より旧い人はいないと思われるほど旧い。旧明発時代から既に担当されていた。

レースの世界でも、そのド真ん中にいて活躍されたのだが、この世界に入って来られたのが、ちょっとあとなのである。

そんなことで最初の頃のことになると、私に電話が掛ったりするのである。

 

来月には東京で『二輪文化を伝える会』で、山本隆くんとカワサキの創成期のレースを語ることになっている。

日本でレースが何となく形に見え始めたのは昭和33年(1958)のMCFAJの浅間火山のアサマクラブマンレースあたりからだと思うが、そのころは未だカワサキは二輪の一貫生産にも入っていない。

カワサキのレースという記録があるのは昭和36年(1961)からである。小関和夫著カワサキ モーターサイクルズストーリーの中にその記述があることと、私自身の耳学問の結果なのである。

カワサキのレースについて、カワサキの中の人たちでこの時期のことを、耳学問でも喋れる人も少ないと思う。100%正しいとは言わぬが、記憶なども辿って年次ごとに纏めてみたい。

私自身は昭和36年12月(1961)から、単車事業部に異動があって、それ以降のことは日記が残っているので、結構正確に記録が辿れるのである。昭和41年末(1966)までの6年間、レース担当の最後の年次まで、カワサキの黎明期のレースについて語ることとする。

何日かに分けての記述になるが、あとで読み難いだろうからずっと続けての記述とする。不詳の部分などあとから解れば修正していきたい。

 

★1961年(昭和36年)

カワサキが二輪事業に本格的に参入したのは、この年からと言ってもいい。この年に明発とメグロを統合した販売部門、『カワサキ自動車販売』が東京神田岩本町でスタートしたのである。メグロの烏山。明発の金町は私は知らないが、神田岩本町の本社はよく知っている。カワサキの人でこの神田岩本町を知っている人は今は殆どいないと言ってもいい。

その年の朝霧高原でのMCFAJ第5回全日本モトクロスに、『東京スリ―ホ―クスの三吉一行、横浜カ―クの三橋実などがカワサキB7で6台、メグロで2台の改造モトクロッサ―を駆り125ccでは予選1組で2位、3組では堂々1位でゴールし、関係者を驚かせた』と小関さんの本に記述がある。

これはまず間違いない。明石の川崎航空機の所謂工場サイドでは、未だレース関係者はいなかったのだろうが、当時のカワサキ自販では広告宣伝を担当されていた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの弟さん)や明石工場では井手哲也さんなどが個人的に、三吉や三橋と接触してレースをやっていたのだと思う。

今年7月、浅間火山レースを語る会が東京で行われた際、ヤマハの本橋さんから『カワサキのB7のモトクロッサ―に乗りました』とも『井手さん』のお名前も聞いたのである。井手哲也さん、今でもお元気でZ1会のゴルフでもお会いする。私の知っている限り、川崎航空機で最初にレースに関わられたのは、井手哲也さんだと思う。初期のレースには必ず顔を出されていたし、三吉一行くんなどとも懇意だったのである。

小野田滋郎さんとは、私は特別いろんな形でお世話になった。私が広告宣伝を担当することになったのも、多分に小野田滋郎さんに引っ張りこまれたようなところがある。その小野田さんから『三橋を50万でヤマハから引っこ抜いた』などという話も聞いていたのである。ただそのころはレースのレの字も解らない門外漢だったのである。

 

★1962年(昭和37年)

62年のMCFAJ の第6回大会では『三吉一行が決勝で2位に入って、カワサキ初の表彰台となった』と本の記述にある。この時のマシンもB7であったはずである。川崎航空機の営業部門にはレースのことなど殆ど聞こえてはこなかったのである。

B7のクレームなどもあって、単車事業はいつ止めるのか?などとも囁かれていた時期である。レースどころではなかったのである。この年あたりは、単車営業と言ってもほんの数人、今でいう品証のサービスマン3人を入れて、6人ほどの陣容であった。従って何でも担当していて、8月には、B8の発売準備などもやっているし、9月にはオープンしたばかりの鈴鹿サーキットに広告の看板の件で行っている。未だスタンドは土で、半ば完成という時期であった。少なくともカワサキでは一番乗りであったと思う。

この年の10月4日、鈴鹿サーキットで行われた日本で初めてのサーキットレースに、明石工場の生産部門の人たち中心の『レ―ス見学バス』が出たのである。この企画は中村治道、高橋鉄郎さんら生産部門の若手課長、係長で行われ、このレースを見て、カワサキのレース熱に一気に火がついたのだと思う。

これは私の想像だが、この企画を後ろで糸を引いたのは、兵庫メグロの西海義治社長に違いない。カワサキの影のレース推進者は間違いなく西海さんである。後レース職場をひっぱった松尾勇さんは元兵庫メグロの出身だし、エンジン以外カワサキの初期のマシンは全て松尾勇さんの手造りだったのである。

私は現場には行ってはいないのだが、この時のレースで250cc優勝者が三橋実、350cc優勝者が片山義美と、後カワサキのレースと特にご縁があったお二人だったのである。

このことが翌年、兵庫県青野ケ原でのMFJ兵庫県支部主催のモトクロス出場に繋がる契機となったことは間違いない。

 

★1963年(昭和38年)

この年が、カワサキの単車事業の命運を分けた年だと思う。

B7のクレームなどもあって、この年の前半は、むしろ二輪事業からの撤退の方が雰囲気としては強かった。ト―ハツや富士重あたりもいろいろあったのは多分この時期なのである。二輪事業に進むべきかどうか? 川崎航空機本社はその判断を『日本能率協会』に調査依頼して委ねたのである。これは販売網を中心に非常に大がかりな調査であった。

その最中に行われたのが、『青野ヶ原のモトクロス』なのである。

これは会社が企画したものではない。鈴鹿のレースを観に行った製造部を中心の有志、中村治道、高橋鉄郎さんなどが勝手に時間外にボランテイァでやり始めたレースなのである。車をどのように都合したのか知らぬが、松尾勇さんや何人かで作り上げ、ライダーも工場のテストライダーなど素人なのである。勿論予算などなくて、その時点では勤労部門や企画部門はヨコから難しい顔をして眺めていたのである。

営業部門の小野助治次長だけは応援のスタンスで、かって野球部のマネージャーの経験がある川合寿一さんをマネージャーに、営業部の金の管理などしていた私には『忍術を使って金を都合するように』指示されたのである。そんなに大金を出したわけではないが、残業のパン代ぐらいは捻出したと思う。私のこのレースに関する関係はこの程度なのである。

MFJ兵庫県支部主催になっているが、支部長は確か西海義治さんだったから、レースそのものも創りだしたのだと思う。当時の兵庫県のレ―ス関連は西海さんと確か新明和の○○さんとが仕切っておられたと思う。それに神戸木の実の片山義美さん。

 

 

 

カワサキワールドに飾られている青野ケ原の記念写真である。

その時のメンバーの一部だろう。私の解る範囲でいえば、左から

中村治道さん 当時は生産技術部の課長か? この方がカワサキのレースを引っ張った熱血漢だった。青野ケ原のレースの当日は体調不良で現場監督は高橋鉄郎さんが務められたと高橋さんご自身から聞いいている。このレース後もレース運営委員会で委員を務められたし、1966年のFISCOでのカワサキGP&ジュニアチームが出場の際の総監督でもあった。

高橋鉄郎さん 当時は未だ製造部門の掛長だったと思う。これ以降もカワサキのレースをいろんな形で引っ張った。当初はレース職場が製造部に属していたので、実質的なレース部門の責任者のような立場にあった。

秋原くん  社内従業員のライダーでテストライダーではナイ。当時はB7がクレームで大量の工場への返却があり、その物品税の戻入対策が大変だったのだが、その技術関連の担当でもあり、私とは物品税でコンビを組んでいた。バイクに乗せたら速かったのか?

多賀井くん 生産技術部、中村さんの部下である。 その後はレースには関係していない。後高橋さんが長を務められた東南アジアの市場開発室のメンバーとして活躍した。

加藤さん  だと思う。若過ぎて解らない。当時のテストライダー、一番上ではなかったか?飯原とともにロードレ―ス鈴鹿6時間耐久にも出場、もう現役引退されたが、最後はカワサキの記念車の管理をやられていた。

藤森保さん  名前ど忘れした(フジモリさん?)  後スタート時点のレース職場のメンバーの一員でもあった。と書いていたのだが甥ごさんから「藤森保です』とコメントがあった。

飯原武志くん  加藤さんとともに当時のテストライダー、その後カワサキ当初のロードレースにも数多く出場した。清原明彦くんの先輩でキヨさんも飯さんはちゃんと立てている。現在二人とも、Z1会でご一緒である。私をZ1会に紹介してくれたのが飯さんである。

藤井くん   青野ケ原に関係していたのは、この写真が出るまで知らなかった。当時は生産部門だが後販売部門に転出し、滋賀や明石営業所長を歴任した。その当時は直接関係があった。

???   名前を忘れた。

青野ケ原のレースで関係された方は、生産技術部の川崎さんと営業部門の川合寿一さんのお二人が実質的にチームを纏められたのだと思っている。

 

5月19日当日はカワサキにとって天から恵みの雨が降った。水たまりがいっぱいで他メーカーの早いライダーやマシンはみんな水をかぶって止まってしまったようである。完全な防水対策を施したカワサキのB8だけが完走して、1位から6位までを独占した完全優勝を果たしたのである。

 これがカワサキのレースのスタートとして、語られている。

確かに、明石工場の人たちが中心になってやったレース、これを『ファクトリー』のレースというのなら、このレースがスタートなのである。

これを機に、工場サイドの士気は一気に上がったことは間違いない。日本能率協会のレポートにも末端の士気は衰えていないと、二輪事業再建の方にその舵が切られたのは間違いないのである。

一時は批判的であった企画や勤労部門の長まで一緒に記念撮影に収まる様を見て、カワサキ自販の小野田滋郎さんが『有頂天になって』と漏らした不満を私はよく覚えている。

 

これを契機に、カワサキのレース活動が一気に活発になった。レースマネージャーを務めた川合寿一さんがそのままレースマネージャーとしてライダー契約などがスタートしたのである。

カワサキのレースファクトリーとしてその中心となったのは、三橋実が主宰した『カワサキコンバット』で厚木基地を中心梅津、岡部、加藤などのメンバーが集まり、関西では神戸木の実から、歳森康師、山本隆がファクトリーライダーとして契約し、カワサキのチームとして活動を開始したのである。

そしてこの動きが本格的になっていくのは、日本能率協会が単車再建のための条件として『広告宣伝課』の専門組織を創ることを明示したことである。

単車再建を決心した川崎航空機本社は、本社開発費として年間120百万円の広告宣伝費を3年間二輪事業に投じてくれたのである。当時のサラリーマンの年収が50万円程度の時代だから、その金額がどのくらい大きいか想像してみて欲しい。

その広告宣伝課を係長にもなっていない私が担当することになったのである。普通ではとても遣いきれないような金額なので、そのうちの一部でレース費用やライダー契約の金額に充てたのである。その後も含めて最も潤沢なレース予算があった3年間であったことは間違いない。1年目は7000万円しか使えずに『君らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。

この年がカワサキのレ―スの本格的なスタートになった年であることは間違いない。以降昭和41年までの3年間、私は黎明期のカワサキのレースマネージメントと広告宣伝担当となったのである。

 

★1964年(昭和39年)

カワサキが本格的にレースに取り組んだのも、単車事業に本腰を入れたのも、昭和39年度からだと言っていい。

発動機事業部から分離独立して、単車最優先の基本方針の下、1月早々に新単車事業部がスタートしたのである。日本能率協会の調査結果を受けて、当時の永野社長が決断されたものだが、その対応にはそれなりの覚悟が随所に見られたのである。

神武事業部長がJETの出身ということもあって苧野部長以下桑畑、田村、田崎さんなど後単車を背負った技術屋さんたちが大量に異動してきた。特に生産、品質保証などの分野では、当時非常に先進的であったアメリカ空軍のJETエンジンの生産管理方式などが単車の生産管理システムに持ち込まれたりしたのである。

事務屋は、本社からこれも大量に異動があった。東京からは浜脇洋二、渡辺さんらが直接アメリカ新市場の開拓を始めたし、神戸本社からは矢野部長以下、上路、前田、岩崎、潤井さんなどの本社の精鋭たちが単車の仲間入りをしたのである。明石の各部門からも企画から山下、黒河内、藤田、高橋、山辺、福井、井川、鍋島さんなど大量に異動があったし勤労部門からは藤田孝明、種子島、富岡さんなど、営業部門からは西、野田、川合、大西さんなど、その後カワサキの二輪部門の中枢を支えた人たちが続々と新単車事業部に参集したのである。カワサキの二輪事業に関係のあった方には懐かしい名前もいっぱいだと思う

そして、何と言っても年間1億2000万円という広告予算の威力は絶大極まるものであった。その担当を任されたのだが、広告宣伝など経験のある人は当時は誰もいなかったのである。その予算金額から電通、大広、博報堂など全て本社担当となったのである。広告代理店の本社と付き合われた方はそう多くはないと思うが、これは『広告代』などの金額などのことよりは、『知恵、システム』や『イメージ創造』のソフト戦略分野が中心なのである。マーケッテングやユーザーの心理分析などその高度なレベルに付いていくだけで大変だったのである。ある意味私のちょっと違った発想の原点はこの3年間に身に付いたものだと言っていい。その原点は『差別化』なのである。

『カワサキのブランドイメージの創造』が最大の課題で、レース活動も、そうした一貫した総合戦略の中で位置づけられていたのである。

レースがそんな中で明確にきっちりとした形で位置付けされていたのは、カワサキにとってもこの3年間だけだったかも知れない。ホンネでいうとそのような広告戦略を理解できる上司も数少なくて、みんな関心があるのは金の額の方だったのである。当時のカワサキは、未だ『実用車のカワサキ』の時代で、車の特徴もその登坂力だとか、主として性能面ばかりで、確かに耐久性はあったが、ユーザーを惹きつけるオモシロミなどは皆無だったのである。

そんな中で、レースはスポーツの分野だし競争の世界だから、非常に解り易かったのである。どんな勝ちでも優勝は優勝だから説得力もある。他社と差別化したカワサキの独自のイメージ創造のための戦略的素材として、レースは大いに効果があったと言っていい。現実に青野ヶ原のレースに勝ってから以降、カワサキは連戦連勝だったのである。別に強かったわけでもなくて、そんな結果が出るように戦術的にそのように仕組まれていたのである。

営業からの地方レースへの参戦依頼を受けて、勝てそうなところを選んで、ドサ廻りに徹したのである。

当時はそんなにクラス分けが明確でなかったので、地方のライダーとの戦いは幾らでも勝てたのである。城北ライダースが参加するようなレースは避けていたと言っていい。そしてその結果は、地方紙を通じてどんどん広報したのである。そんなことでホントに短い期間にカワサキのモトクロスは強いのだというイメージが定着したのである。さらにカワサキの特徴としてタンクを赤にしたものだから『赤タンクのカワサキ』として一挙に有名になったのである。広告宣伝課の『イメージ戦略』としてのレースはその目的を僅か半年で達成したような結果になったのである。

ただ、この年の4月にはMFJの第1回全日本モトクロスが群馬県の相馬ヶ原で行われたが、カワサキチームは、スズキ、ヤマハのファクトリー相手では入賞すらできなかったのである。

そんな結果にも落胆せず、その実力アップに専念した。三橋実が主宰した『カワサキコンバット』に対しては月間20万円の運営費を渡して、『兎に角チームを強化する』目標を与えたのである。カワサキコンバットには全国から優秀なライダーたちが集まって、その中に静岡の星野一義や栗山、秋田の金子豊などもいたのである。そんな意気込みが通じたのか6月のMCFAJの朝霧での全日本には125ccで2、5,6,7位、

オープンで山本隆が念願の全日本優勝を果たしたのである。

 

 

これはアメリカのKMCのMuseumに飾られていた写真だが、先月Z1発売40周年の記念Reunionの際写してきたものである。朝霧高原でのMCFAJ全日本モトクロス時のライダーたちの写真なのだが、素人写真ではなくて大広のプロが綜合カタログを作るべく撮影した写真の中の1枚なのである。

左から安良岡健、三橋実、歳森康師、山本隆、岡部能夫、梅津次郎の契約選手達でヘルメットに「いちの字」があるのはカワサキコンバット、歳森、山本は神戸木の実クラブ所属であった。クラブマンレースだから、所属クラブが優先されたのである。この時期はカワサキは未だモトクロスだけの時代なので、安良岡健、三橋実もモトクロスのみの契約だったのである。ちなみにMFJよりはMCFAJのレースが主流であった時代である。

 

 

この年本職の広告宣伝業務もいろいろなことがあった。私が広告宣伝担当になったのはカワサキで最も早くレースに手をつけた小野田滋郎さん(当時カワサキ自販広告宣伝課長兼総務課長=実質カワサキ自販を動かしていた)が引っ張っていったものだと思う。広告宣伝課の立ち上がりは実質カワサキ自販の広告宣伝課自体の川崎航空機への業務引き継ぎのようなところもあったのである。

その小野田滋郎さんは、この時点でご自身はお辞めになることを決めていたのである。私が40年の会社生活で一番影響を受けた方は、小野田滋郎さんである。『この人だけには敵わない』と思った人など、そんなにはいないのだが、その一人が小野田滋郎さんである。お兄さんの小野田寛郎さんの捜索にフィリッピンに立たれる小野田さんに『あなたのお兄さんなら必ず生きている』と本当にそう思ったほどの人だった。

その小野田さんから広告宣伝とレースを引き継いでこの年新しい仕事に入ったのである。3月30日に小野田滋郎さんの送別会をしたのだが、その時小野田さんが私にくれた言葉、それは『雑音に耳を貸すな』であった。それはそれ以降ちゃんと守っている。カワサキを離れた小野田滋郎さんともその後もお付き合いはあったが、今はもういない。カワサキのレースの仕事、それは小野田滋郎さんの置き土産でもあったのである。

詳しくは知らぬが、『カワサキコンバット』を創ったのは小野田滋郎さんに違いない。三橋実にそんなことをさせることが出来る人は、そんなにいないはずである。神戸木の実の歳森康師も、山本隆も個人的なライダ―としては頑張ったが、カワサキの黎明期のレースを支えた主力は『カワサキコンバット』であり、三橋実だったのである。事実この年のレース活動の現場での実戦の事実上の監督は三橋実君であった。

 

 

この年の9月13日に山梨モトクロスが行われた。このレースは私が初めてレースチームのマネージメントを現場で行ったレースである。

いつもその役をやっていた、川合寿一さんがこのレースは『私に行け』というのである。今から思うとなかなか大変なレースであったことはよく解る。山梨は当時の全国カワサキ会の会長荻原さんの地元でこのレースも荻原さんが絡んでおられた。なかなか大変な大物だったから、話をするだけでも大変だったのだと思う。それに90ccJ1のデビュー戦でもあった。さらに三橋実とは、あまり仲がよろしくないと言われていた三吉一行くんが1種目はカワサキで乗るというのである。もう1種目はヤマハでエントリーするという。そんなことが可能な時代であった。そんなややこしいレースは川合さんも行きたくなかったのだと思う。

私は、何でもそんなに大したこととは思わぬのんびりしたところがあって、直ぐ引き受けたのである。それをお聞きになったのだろう。製造部の高橋鉄郎さんが『技術オンチの古谷では頼りない』と思われたのだろう。メカニック担当で、田崎雅元さんをつけてくれたのである。田崎さんと二人切りのコンビででレースに行ったのは、これが最初でで、最後になった。その時の田崎さんのツナギ姿の写真を5年ほど前にネットで送ってくれたのだが、どこかにいってしまった。

結果は、至ってよかったのである。三吉一行と三橋実は同宿させたが、何の問題も起こらず花札などに興じていた。そしてデビューの90ccJ1は三吉一行がアタマをとって、1〜3いまでカワサキが独占する快挙だったのである。125ccは久保和夫と日記に記録がある。三吉一行くんと直接話をしたのはこの時だけかも知れない。カワサキのレースに最初から関わった人と繋がってよかったと思っている。この山梨のモトクロス、荻原さんも大満足で、確かみんなに武田信玄の兜など頂いたのではなかったか?

 

この年の秋、10月10日、東京オリンピックの開会式の当日、伊豆丸の山高原でのMCFAJ全日本モトクロスはカワサキにとって記念すべき日となったのである。

当時の広告宣伝課は私が責任者で、レース関連は川合さんが契約、大西健治くんがレース実務をこなし、マシン制作は『レ―ス職場』で松尾勇さんを中心に福田弘美、藤原良弘くん達が当たっていた。技術部門からは水町さんが担当だった。広告宣伝課は宣伝用のヘリコプターも持っていたのである。下取りの中古のヘリだから大した額ではなかったのだが、パイロットや燃料代などはその都度航空機部門にお願いしてその運営費は広告宣伝費で負担していたのである。この一戦に掛ける意気込みは大きく、現地にヘリコプターも持ち込んで、開会式に空から花束贈呈なども行ったのである。他社のライダーたちにもヘリコプターに乗せてあげたりして、大いにカワサキの顔は売れて行った。当時の城北ライダースの久保和夫君などと仲良くなったのも、こんなことが大いに寄与しているのである。(この時の写真など多分山本隆くんはお持ちなので、何らかの形で送ってください)

ライダーたちの練習の成果も、レース職場でのたゆまぬ性能向上の成果も出て、このレースでは全4種目のうち3種目を制覇し、山本隆が日本選手権か何かの最優秀選手に輝いて、モトクロスにおけるカワサキの地位を確固としたものにしたのである。

山本隆の左右は当時のモトクロス界の両雄久保和夫と荒井市次、一番右は梅津次郎、左は三吉弟?だろう。この写真は、『二輪文化を伝える会』のホームページからだが、写真の提供者は山本隆ご本人のはずである。

 

 

 

この丸の山高原のレースから1カ月後、舞台を和歌山紀の川に移して、『スポーツニッポン主催の西日本モトクロス』が開催されたのである。

これは広告宣伝課がレースの主管部門であったがゆえに日本で初めて実現したスポーツ新聞主催のレースなのである。当時未だモトクロスの何たるかは、世に浸透していなかったし、幾ら大きなレースで優勝しても、殆ど記事にはならないのである。毎日広告を通じてスポニチ主催のモトクロスの実現を画策したのである。その結果この企画は成功してスポニチ主催の西日本モトクロスはシリーズで開催されたのである。自社の主催だから当然大きな記事になり、モトクロスの記事としても、カワサキの広報としても大成功だったのである。シリーズ第3戦の加古川モトクロスには、スズキなどもその影響力を考えてか、主力城北ライダースが遠く東京から参加するまでになったのである。

この西日本モトクロスでは、90ccは1〜3位を独占、その他の種目でも好成績を残したのだが、何と言っても特筆すべきは、『星野一義のレースデビュー戦』となったのである。星野は安良岡を慕ってカワサキコンバットに参加したのだが、未だ実戦は走っていなかった全くの新人だったのである。このレースもコンバットのトラックの運転手として、現地に来ていたのだが、この日の朝の練習でコンバットの岡部能夫が荒井市次と接触して小指を折って走れなくなってしまったのである。スポニチ主催というか、カワサキ主催のようなレースでもあったので、岡部能夫に代わって星野が岡部の名前のままで出場することになったのである。

ところがである。星野は何周目かのジャンプでアタマから落ちて、救急車で病院に運ばれてしまったのである。全くのぺいぺいのことだから、みんなそのことも忘れてしまっていたら、午後戻ってきて、『オープンに走らせて下さい』というのである。それで走ったら6位か7位になった。それが星野一義が初めてレース場を走った日の出来事なのある。

そして翌週の広島モトクロスには、カワサキは出場全種目に優勝をしているが、初めて星野一義の名前でデビューを果たしたのである。星野インパルのホームページにも、『和歌山のデビュー戦は転倒、脳震盪で入院』とだけ記述されているのはこんな事情なのである。

 

 

この年の最後の頃には、カワサキは堂々と先発のスズキ、ヤマハに互角に戦えるまでに成長したのである。

そして常に広告宣伝課のカワサキブランドのイメージ構築と密接に絡めたレース活動だったので、その派手さは他の追随を許さず、『戦略目標』であった『カワサキのイメージ創造』にも大いに貢献したと思っていいのである。

私の本務、広告宣伝の業務の中でも、『モトクロスレース』は大きな比重を占めていた。金額的にも相当の額ではあったが、総額1億2000万円の中では大したことでもなかったのである。ライダーたちはみんな広告宣伝課の嘱託にして、その給料という形で契約金を払っていたのだが、当時のサラリーマンの平均年収50万円の倍払っても100万円の時代だったし、すべての選手にそんなに払うこともなかったので、当時トップ選手は10人ほどだったから、全部カワサキでとったら間違いなく日本一は保てるなど、本気でそう思ったこともあったりした。カワサキコンバットには月間20万円を払っていたので、そこに集まったライダーたちの数はよく解っていなかったのである。

各地方には『赤タンククラブ』が出来出して、だんだんとその底辺も広がっていくのである。

 

 

(今日はここまでにする。明日はそのまま引き続いて、昭和41年度まで記述していくことにする)

 

 


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