★私は昭和32年(1957)に川﨑航空機工業という会社に入社した。
川﨑航空機は戦前からあった会社なのだが、戦後軍事産業ということで中断があり、それまでは川﨑機械などという社名で高槻やなどいろんなところに分散していたのだが、昭和27年(1952)にやっと再開された会社なのである。
今でもこんなに広いのだが、私が入社したころは、大袈裟に言うとこの2倍ぐらいあったのではなかろうか?
戦時中は徴用工など何万人もの従業員がいて、工場の中の道がこんなに広いのは、これくらいの広さがないと朝の通勤時に従業員がスムースに歩けなかったのだというような話を聞いた。
再開直後だったので、その経営は非常に苦しくて、爆撃で焼けた工場の鉄骨を売ったり、機械を売ったり、広かった土地を売ったりしていたのである。
★私が入社したころの昭和32年ごろからやっと本格的な新入社員を採用しだしたので、それまでの先輩たちの年次はその数も少なかったのだが、昭和32年以降は定期的に毎年多くの新入社員の採用があったのである。私の同期にはジェットスキーの開発に関わった藤川さんや村上さんがいたし、昭和33年には田崎雅元さんや、ZIのエンジン設計で有名な稲村暁一さん、昭和35年には単車事業をやるということもあったのだろう。百合草三佐雄、大前太、武本一郎、種子島経さんほか後の単車事業の中枢を担った人たちが大勢いたのである。
会社自体が再開されたばかりで、そんなにちゃんと整備されていたわけでもなくて、私が配属されたのは会社の財産物件を管理する『財産課』だったのだが、その管理台帳もちゃんとは整備されていないような状態だったのである。
戦前から明石工場はエンジン工場、岐阜工場が機体工場ということになっていて、再開後も明石工場はエンジン関係を、岐阜工場はバスの車体などを扱っていて、入社した当時は、東洋で唯一の米軍のジェットエンジンのオーバーホール工場部門と、小型エンジンや歯車ミッションなどを生産していて、ジェットエンジン部門は米軍が駐在していて、アメリカ式の生産管理システムや、管理体形はこの時代にIBM管理がなされていたのだが、ジェット以外の部門は井関農機の小型エンジンや歯車ミッションなど、エンジン関連をやっていたのだが、その中のひとつにメイハツ工業への単車のエンジン供給があったのである。
今から思うと、まだまだ貧しい時代で、私は財産課で工具器具備品という机や椅子などや車輌運搬具の自転車等を担当したのだが、当時は各末端ではそんな机や椅子や自転車なども、みんな欲しがって私は新人ながらその分配権を持っていたものだから、いろんな形で明石工場の各課の財産管理担当者を管理統括するような不思議な立場だったのである。 新しい机や、イスなどを今では考えられないような熱心さで欲しがったりするのである。自転車なども少なかったので、その配分権を持っていたので、大袈裟に言えば中央官庁のような職権を持っていたのである。
私の担当ではなかったが、土地や機械の売り食いもしばしばで、特に機械の売り食いは毎月定期的にあって、それは財産課の仕事のひとつでもあったのである。
初任給は12000円で、それも15日と月末の2回の分割支給だったのである。給与と言えば財産課の隣に給与係がいて、給与計算に女子社員がいっぱいいたのだが、その中の一人が『今の家内』なのである。配属されてすぐ『目についた』し、その年の夏には付き合い始めているので、家内とのお付き合いもそこから数えると、2019-1957=62 50年など優に超えて62年目になるのである。
★財産課というところは管理している財産物件の償却計算を毎期やらなければならないのだが、当時は考えられないことだが、ジェットエンジン部門などは通常1万円以上のものが財産物件なのだが、新規工場の場合は300円以上が財産物件に計上できるとあって、机も椅子も極端に言うとバケツもすだれも財産物件に計上されていて、償却計算する数は、財産課の中で私が一番多くて一年中手回しのタイガー計算機を回し続けていないと『償却計算』が完成しないのである。
1年間、女子と二人でそんな償却計算をやっていたのだが、何とか機械化ができないかと2年目からはその機械化の検討に入り、ちょうどジェットエンジンのIBMがあったものだから、これが使えないかとその検討に入ったのである。
これは間違いなくできるのだが、そのためには『物品名のコード化』がMUST条件で、そのコード化に取り掛かったのだが、そんなことをした経験者は皆無ですべて自分でやらないと誰も教えてはくれないのである。IBM室にいた久森さんと二人で1年半ほど掛かって、川﨑航空機のジェット以外でのIBM化が完成したのである。
IBM というシステムは、米軍がいたので川﨑航空機にだけあったシステムで、当時は日本にIBM社もない時代なのである。IBMが日本に入ってきたのは、約10年後の東京オリンピック以降のことなので、川﨑航空機の中でもジェットエンジン部門以外では使っていなかった時代なのである。そんな時代に償却計算のIBM化をやり出して、同じやるなら本社部門も岐阜工場もと手を広げたものだから大変だったのだが、多分この時代、IBMを使って民需の計算などやったのは、『日本で初めて』だったかも知れない。当時の川﨑航空機では「初めて』のことで、続いて「手形」や「給与計算」のIBM化が始まるのだが、その頃は新人ながら私は『先生役』を務めたりしたのである。
償却計算のIBM化が完成してしまうと、財産課で償却計算する課員など要らなくなって私は新しくできた単車の営業課に異動することになるのである。
★そんな新人社員時代だったので、結果的に私は上司から教えて貰ったことなど殆どなかったし、自分の思う通りのやり方で会社の仕事ができたのは非常に幸せだったのである。
新しくできた単車の営業課も、この単車事業そのものが川﨑航空機にとってみると全く新しい事業で、エンジン開発や生産は兎も角、二輪車という完成商品は扱った経験もなく、ましてやそれを自ら売るということなど全くの未経験で当時のメイハツ工業や、メグロの人たちに頼ってのスタートだったのである。
私が単車の営業に異動になったのも、『全く新しいこと』だが『アイツなら出来るかも』と思われたに違いないのである。
発動機営業部の中に『単車営業課』ができると同時の異動だったのである。
そんなことだから、『引継ぎなど』は一切なくて、明石工場で生産されるオートバイを『カワサキ自動車販売』という新しくできた会社に売るという手続きからスタートしたのである。
その『カワサキ自動車販売』という会社は当時の川﨑航空機の土崎専務が社長を兼務されていて、当時は国内が唯一の市場だったから、カワサキの二輪事業は、カワサキ自販が明石工場を傘下に置いてその展開をしていたのである。
当時は『トヨタ自販』が『トヨタ自工』を動かしていたそんな時代だったのである。
『カワサキ自販のトップ』は川﨑航空機の専務だったのだが、そこにいる方は元メイハツや元メグロの方たちばかりで、私は新人ながら川﨑航空機籍だったので、カワサキ自販の方たちもそれなりに扱って頂いたのである。
私自身が新しいことには興味があったし、当時のカワサキ自販の本社のあった神田岩本町にもしょっちゅう出張して、メイハツやメグロの方ともすぐ仲良くなったので、この当時の単車営業もなかなか面白かったのである。
★当時のカワサキ自販には小野田滋郎さんという、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんがおられて総務課長兼広告宣伝課長として、カワサキ自販を統括されていて、私はこの小野田さんから、いろんな陸軍士官学校の戦略・戦術・戦闘論などを教わったりしたのだが、この方はホントに凄い方だった。後、フィリッピンの小野田寛郎さんの現地調査にも行かれたりするのだが、カワサキにおられたころも、小野田さんのお兄さんなら必ず「生きている」と私は信じて疑わなかったのである。
この頃が昭和36年のことで、昭和35年に明石で単車の一貫生産工場がスタートしたのだが、それを受けて営業部門に単車営業が出来たのが昭和36年末、実際に動きかけたのは昭和37年(1962)からなのである。ただ、最初に生産した125B7は、車体に欠陥があって散々だったのである。私が営業に異動した昭和36年末には。B7の返却対策で大変だったのである。昭和37年1月度は生産台数より返却台数が多くて生産台数がマイナス17台と記録されたりしたのである。
鈴鹿サーキットが完成したのが1962年9月で、11月にあった日本で初めての本格的ロードレースをカワサキの生産部門の人たちが見に行って、翌63年の5月に青野ヶ原モトクロスがあるのだが、このレースがカワサキの初のモトクロスレースと言われているのだが、このレースに出場したのは、125B8なのである。
実はもっと以前にカワサキ125B7で、モトクロスに出場しているのだが、そのチームを扱っていたのが小野田滋郎さんで、鈴鹿のロードレース250㏄優勝者の三橋実をヤマハから引っこ抜いて、厚木に『カワサキコンバット』を創ったのも小野田さんなのである。このカワサキコンバットから後、安良岡健や星野一義などが育つことになるのである。
★そして、この時期、ジェットエンジン部門の縮小があって、その関係でジェット部門から大勢の人たちが新しい単車事業部に移動してくるのである。
髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちなどなどはみんなジェットから単車に異動してきた人たちなのである。技術屋さんはその殆どがジェット部門からの異動だったのだが、事務屋関連は私が第1陣だったのだが、その後本社や勤労部門から当時の事務屋のトップレベルの人たちが異動してくるのである。
そんな新しい単車事業部と、本来の親元だった発動機事業本部との関係などは次回に譲ることにする。