★『カワサキジェットスキー物語』も8回目になった。
前回は、1988年9月の ソウル・オリンピックの開会式でのデモンストレーションのお話などを紹介したのだが、このころのジェットスキーの展開は、考えられないほど、ホントに急テンポで進んだし、元々当時は、私が担当していた企画室内で勝手に動き出したプロジェクトであったので、初期段階には全く正規の資料が残っていなくて、なかなか時系列に思い出さないのである。
そんなところに松口久美子さんが、こんなに確りと写されている写真を送って来られて、次のような説明が添付されていたのである。
この写真は平成元年(1989)だと思います。男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰と苧野さんがカワサキがバックアップしてくださっている日頃のお礼を言っていたような気がします。左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手(2位)・小河選手(3位)・苧野さん松口(1位)・前田選手(3位)・斎藤選手(4位)レース運営レースディレクターの日高さん
ここからは、私の勝手な想像や類推も入っているのだが、これは平成元年(1989)ではなくて、多分その1年前の、1988年のソウル・オリンピック前の5月頃、前年度の87年度のJJSBA成績の表賞ではなかろうか?
場所は間違いなく、明石工場である。 そして後列に 並んでいる人たちは、左から天野・武本・安藤・古谷・鶴谷・黒田の川重メンバーなのである。
特に、武本一郎・安藤佶郎・古谷・鶴谷将俊とこの4人が揃って並んでいるのが、ある意味不思議なのである。
この4人は、間違いなく創成期のカワサキのジェットスキーに色濃く関わったことは間違いないのだが、こんなJJSBAの選手たちの表彰式に顔を揃えているのは、松口さんの言われる平成元年(1989)ではなくて、4人が一緒に並んでいるその可能性から言って1987年の5月から1988年9月までの間だと思うのである。
★まず武本一郎さんは、私が単車事業本部の企画室を担当した時期に、企画部長としてずっと支えてくれた人で、このジェットスキープロジェクトを川崎重工の正規の事業にしようと言いだした『言いだしべえ』なのである。彼の熱っぽい進言に乗って、私は動き出し、85年8月にオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんを口説いて、『ジェットスキー・プロジェクト』が動きかけたと云うことは前回お話した通りなのである。
従ってこの3人が並んでいるのは、そんなに不思議ではないのだが、問題は安藤佶郎さんが一緒に並んでいるのが、不思議なのである。
安藤佶郎さんとは、私はずっと昔から密接に関係があったので、ちょっと安藤さんのご紹介をすると、
最初に出会ったのは、もうずっと以前、カワサキの単車事業スタートの頃の1965年頃のレース仲間からのスタートで、初代監督は大槻幸雄さんだったのだが大槻さんがドイツ留学に行かれた後を、安藤さんが引き継がれたのである。そのあと田崎雅元さんと交代でKMCに出向され、その後はカワサキの新生産管理システムや、アメリカのリンカーン工場などの生産部門も担当された技術屋さんなのである。
レース時代には、監督をされていたと同時に、あのモトクロッサーF21Mのエンジン提供をされたのが安藤さんなのである。 連戦連勝のF21Mだったので、その頃広告宣伝を担当していた私が、モータショーに出品すると言ったら『そんなことやめてくれ』と仰るのである。『なぜ?』というと『元々125ccの実用車のエンジンとして設計して、それを150ccにボアアップし、さらに175ccにした上に、今度は238㏄のモトクロスのエンジンにして、それでも持っているというのは、如何に過剰設計か』ということで「技術屋としてはカッコ悪い」と仰るそんな一面もお持ちであったのである。
レースでお付き合いした若いころの大槻さんも、安藤さんも怒ると無茶苦茶『怖かった』のだが、私とは何故か非常に親しくおつきあいをさせて頂いて、私はお二人からダダの1回も怒られたことはないのである。
★『ジェットスキ―物語』としては、ちょっと脱線気味だが、そんなことでもないのである。
そんな安藤佶郎さんなのだが、私が企画時代は、武本一郎さんが当時の技術部をそそのかして、新ジェットスキーのJS300の開発が始まった当時の技術本部長なのである。安藤さんがGoを掛けなければ、単車事業本部でのジェットスキー開発は始まっていないのである。
そして、その初めて単車が開発したJS300は、二輪で言えばモペットのような初心者用の導入製品を目指したのだが、水の上を走る乗り物は陸とは違って、小型では浮力が足りずにムツカシイのである。そんなこともあって、ヒット商品には残念ながら『なりえなかった』のだが、間違いなく単車事業部が独自に開発したジェットスキーの第1号はJS300なのである。
その開発時代に明石サイドで試乗したのが、当時企画室に異動して来ていた『福井昇くん』なのである。 当時の明石工場の単車事業本部内にはジェットスキーに乗れる人などいなくて、発動機から企画に貰い受けていた『福井昇くん』が加古川で試乗することになったのである。
そして、福井くんの提出した『試乗レポート』は酷評に近い内容であったようで、その検討のあった技術部のジェットスキー委員会では担当者が安藤さんの逆鱗に触れたりするのだが、同じ時期アメリカに送った試乗艇の評価ももう一つで、田崎さんなどはとても『私には乗れない』とアメリカ市場への導入は行わないというような決定になるのである。
その当時の写真を田崎さんから送って頂いたのである。
そして、それにはおまけがついて、『開発製品に文句をつけるのなら、企画ではなしに品証に行ってから言え』ということになって、福井昇くんは企画から品証に異動することになるのだが、その結果単車事業本部の中に、ジェットスキーの品証機能が生まれることにもなるのである。
★ そんな一連の事件のあったスタートだったのだが、1987年の5月に、単車と発動機の合併があって、大幅な職制変更があり、営業総括本部ができて、安藤さんが長、私が副で、武本・鶴谷さんも営業総括部に異動した時期が88年の9月まで続いたので、最初の写真は、その期間中のものだと思うのである。
安藤さんはその期間カワ販の専務もされるのだが、1988年10月には私がカワ販専務に異動するので、この写真に写っているのは、安藤さんの営業部門時代だったに違いないのである。
そんな安藤佶郎さんも、もうこの世にはおられないのだが、現役時代はホントに親しくお付き合いをさせて頂いたのに、一緒に写っている写真など皆無なので、これは貴重な写真なのである。
★ カワサキのジェットスキーの歴史は、いま振り返ってみると、アメリカで田崎雅元さんが無茶苦茶なジェットスキーの大増産をしたことがその『きっかけ』ではあるのだが、明石サイドでもこの4人、武本一郎・安藤佶郎・古谷錬太郎・鶴谷将俊 が動かなかったら、カワサキのジェットスキー事業は、果たしてどんなことになったのだろう。
この年、1988年10月には安藤さんの後を受けて、私はカワサキオートバイ販売の専務となり、89年1月からはジェットスキーの販売会社KJSの社長も兼務することになり、JJSBA会長に就任した鶴谷将俊さんとの文字通り二人三脚で、国内のジェットスキーの最盛期を迎えることになるのである。
何にもない白紙の上に絵を描くことは、いろいろとムツカシイ面もあるのだが、こんな新しいプロジェクトを担当できることは、滅多にないチャンスなのである。
そんな、新しいジェットスキー・プロジェクトがどんな展開を見せるのか?
次回以降を、お楽しみにお待ちください・