★昭和28年(1953)11月8日から突然私の日記はスタートして、今も尚、『60年以上も続いている』いる。
その動機については何度かこのブログにも書いたが、朝日新聞に『台湾の蒋介石は30年も日記を書いているのがエライ』というような記事があって、『そんなことなら自分にもできるだろう』とこの年は大学ノートにその日から日記を書き出したのである。
何となく続いて、蒋介石を抜いたことで、大いに自己満足しているのである。
60年もの日記帳は、このような形で保管されている。
最初の頃は、1年1冊だったのだが、そのうち3年連続になり、今は5年連続のものになっている。
振り返って読んでみたりするときには、連続ものの方がいろんな関連が解って重宝なのである。
2006年9月からは、殆ど毎日、ブログ雑感日記 https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1 をアップしているし、私自身の人生がどんなものだったのかは、結構ちゃんと解るようになっている。
というのも『人の記憶』は頼りないもので、『思い違い』がいっぱいあるのが現実なのである。
★何をいまさら『日記の話?』と思われるかも知れぬが、
ごく最近、田崎雅元さんや、福井昇さんと『カワサキジェットスキー物語』をスタートさせたのだが、大体のことは覚えているのだが、その年次が『頼りない』ので、日記や、日記を集約してノートに記録した『記録帳』をひっくり返して、チェックしているのである。
日記を集約して、特に現役時代の会社の出来事を時系列に纏めているのが、ノートの記録帳なのである。
一応、昭和28年(1953)から今のところ現役引退の2000年ぐらいまでの50年間は、4冊の記録ノートに纏まっている。
いっぱい付箋がついているのは、この数日読んでみて、ジェットスキーに関連があるところに貼り付けたばかりなのである。
これくらいネタがあれば、何とかジェットスキー物語も、ある程度正確に書けるだろうと思っている。
メモ書きみたいなものだが、日記からの抜粋で、これくらいのレベルで書かれている。
ご覧になれば解るように、結構詳しいのである。たった一行でもそれがどんなことだったのかは、『私には解る』のである。
『苧野さんとKMCへ』 苧野さんとは私にも、田崎さんにも共通の上司の苧野豊秋さんなのだが、この時は国内のレース協会JJSBAの立ち上げのために、アメリカのIJSBAの承認を得るべく渡米して、当時のKMC社長・田崎さんにいろいろ仲介などお願いしたのである。
その時の写真は、田崎さんから送って頂いているのだが、それが何時だったのかは、『結構正確に』解るのである。
このページの一番上、10月18日に『ホテルオークラ、スイートに泊る』などの記述があるが、当時いつも『スイート』などに泊まる贅沢な出張をしていたわけではないのである。
川崎重工業の大西副社長が来られていて、田崎さんと二人でKMCを、そのあとKMMは私がお伴してのご案内出張だったのである。『ホテルオークラ』とはロスのホテルオークラである。田崎さんも覚えておられると思うが、ホテルに着くと「部屋が取れていない」とホテル側は言うのだが、事情を話すと、すぐに『スイート』を特別価格で手配して頂いて、私と田崎さんはアメリカのホテルで『畳の部屋』に泊まることができたのである。
この大西副社長との写真も、田崎さんが私に送って頂いたものである。
★私は、何故か文章を書くのは『苦にならない』ので現役の頃から、文章はいっぱい残っているのだが、当時はカメラも持たなかったしので、そのあたりを田崎さんが援けてくれているのである。
ひょんなことで、スタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、こんな作業でなかなか忙しいのだが、この数日のうちに『カワサキジェットスキー物語 5』アップしようと頑張っているのである。