★カワサキのジェットスキーのスタートは、1971年。発動機事業部内で、マリンレジャーの分野に進出すべしとの経営方針のもと、マリンプロジェクトチームが結成されたのである。
カワサキモータースジャパンのホームページにも、
『1971年 "エキサイティングでニュータイプのレクリエーショナル・ウォータークラフト"アメリカ人発明家ジャコブスのアイデアとカワサキの技術力がコラボレート。これがジェットスキーのルーツとなった。』
との記述があるのだが、どうもジャコブスという名前がちょっとだけ違うような気がして、福井昇さんなどにも聞いて調べて貰ったら、
『アリゾナ州に住む元銀行員クレイトン ジェイコブソンが「エキサイティングでニュータイプのレクリエーショナル・ウォータークラフトを商品化してほしい」とアメリカのKMCにアプローチがあったのがはじまりで・・・』
と書かれたカワサキOBと思われる方のブログが見つかって、私が記憶しているヤコブセンという名前にも合うのだが、英文のスペルが解らないかと聞いたが『そこまでは解らない』という返事だったのである。
★昨日になって、田崎雅元さんにも聞いてみたら、今朝こんなメールが戻ってきたのである。ネットでいろいろ調べて頂いたようである。
カワサキ のホームページには、次の記載があります。1971年 "エキサイティングでニュータイプのレクリエーショナル・ウォータークラフト"アメリカ人発明家ジャコブスのアイデアとカワサキの技術力がコラボレート。これがジェットスキーのルーツとなった。
その後WIKIPEDIAで『Clayton JacobsonⅡ』の伝記を見つけました。
●1933年10月12日生まれ、ノルエー系アメリカ人、JetSkiの発明家 などと書かれていて
『彼の名前は クレイトン ジェイコブセン 2世 です。』ということで正確な名前が解ったのである。
この特許を購入してジェットスキーの導入を目論んだのは、当時の発動機事業部のメンバーの山田晴二・田中秋夫さん、その開発メンバーとしては藤川哲三さんや藤浦堯士さんなどで、アメリカのKMCは関係したのだが、明石の単車関係の人たちではなかったのである。
母体となったエンジンは発動機事業部のものなのだが、それがKMCのリンカーン工場に送られ、1972年から生産を開始し、73年度からアメリカのKMCだけで販売がスタートしたのである。
最初に世に出たのは1973年でそれはJS400で、『ジェットスキー』と名付けられたのである。
★こんな Jet Ski なのだが、日本でも 西部自動車が逆輸入したものを、当時のカワサキオートバイ販売の孫会社であったKATという会社が少量だが同じ1973年から取り扱いを始めているのである。
そしてその年早々に岡山の海水浴場で、砂浜で海水浴客と接触事故が起きたりして問題となり、当時の国会でその事故のことが取り上げられたのだが、『ジェットスキー』とは『カワサキの商品名』でこの商品を呼ぶ『一般名称』がないものだから、『エンジン付き海洋浮遊物』などという不思議な名前で呼ばれたりしたのである。
実はその年の1973年8月に琵琶湖のマキノ町で開催した二輪車の『カワサキジャンボリー』にジェットスキー2台のデモンストレーションを行ったのである。このイベントは当時の大阪・名古屋の母店関係の協働イベントとして、私が主宰者、平井稔男さんなども神戸営業所から参加してくれたのである。2000名の二輪愛好者が集まった大きなイベントで、その後マキノ町で毎年開催されることになるのである。
この時このジェットスキーを走行してくれたのは、当時マリン担当の栗本くんと、もう一人は当時はカワ販でジェットスキーを担当していた現姫路カワサキの社長さん島津龍さんだったのである。
2000人もの二輪車ユーザーの前で、ジェットスキーの初めての公開走行は、大変な人気で大成功だったのである。
★そんな1973年のジェットスキーの販売のスタートなのだが、主たる市場はアメリカのKMCだけで、日本では西武自動車がアメリカからの逆輸入で仕入れたものを、カワサキの国内販売会社の孫会社であったKATが僅かに販売に当たってはいたのだが、年に200台にも満たないようなレベルで細々とした販売が限られた愛好者の中で続いていたのである。
アメリカではその後2000台から5000台ぐらいのレベルの販売は続いていたのだが、特筆されるのはこんな全くの新商品なのにアメリカ人は独特の乗り方を編み出したり、1978年にはIJSBAというレース協会もできて、新しくレースをやり出したりしたのである。
アメリカ人は、動くものなら何でも競争の道具にしてしまう習性があって、ジェットスキーのレースも非常に活発に動き出したりしているのである。
こんな写真を見ても、どうすればこんな乗り方を編み出すのか?
そんなアメリカ人たちを満足させる何かを持っていて、ジェットスキーはなかなか『いい商品』だったのである。
これは2018年、今年のIJSBAのレース風景である。
★ 日本でも西武自動車の関係者の間で静かにレースなどもスタートしていたのだが、川崎重工業の事業としては 発動機事業部の400・500ccのエンジンがアメリカに年3000台から5000台程度出荷されるだけのものなので、単車事業部は全く関係がないビジネスで1982年までは静かに推移していたのである。
そんなビジネスが、1983年に突然アメリカで大きく動き出したのである。
1980年頃からはレースも始まって馬力不足が言われるようになって、改めて550ccへのボアアップチームが編成され藤川哲三部長、西田宏係長以下4名体制で開発が進められ、JS550が出たのが82年で、そのチームの一員に福井昇さんもいたのである。
私は今までは『JS550が開発されて、急に売れ出した』とばかり思っていたのである。
然しよく考えてみると、二輪車もジェットスキーもいずれも民需量産商品で、別に受注数など決まっていない商品だから、造った台数以上には売れないのである。83年に突然アメリカで『それまでの何倍も売れだした』ということは、『それまでの何倍もの生産をした』ということでないと、一挙に2万台近くのジェットスキーが売れるわけはないのである。
これに気付いたのは、今月になって私に頂いた田﨑雅元さんからのメールなのである。
前回ご紹介したが、もう一度要点だけ再掲すると、
もう不必用な工場とまで言われているリンカーン工場、 孤軍奮闘の佐伯さんの姿を想い浮かべながら、再建のシナリオには無かった、私の判断で実行した対策が ジェットスキー販売の一挙格上げだった。 2000隻/年 規模の販売計画を、一挙に 20000隻/年に引き上げた。
山田さんから無謀であるとブレーキがかけられたが、このプランを強行し、翌年に完売するという成果をあげ、以後ジェットスキーはリンカーン工場の製品でもあり操業度アップに大きく貢献し、KMCの主力商品となった。
『リンカーン工場の活性化』のために一挙に年2万台の生産を行った『大博打』がジェットスキーに火をつけたのである。
★別に当時の田崎さんと相談したわけではないのだが、明石の単車企画室にいた武本一郎さんが『ジェットスキーを川崎重工業の正規の製品にするべきだ』と熱心に言いだしたのは、間違いなくKMCの販売台数が一挙に倍増したからだと思う。
当時明石の単車事業本部には一人のジェットスキー担当者も居なかったし、担当する部門もなかったのだが、彼の熱意に押されて、企画室内で担当しようと、私も動き出すことを決心するのである。
その時点では単車事業本部はジェットスキーについては何の関係もないので書類も残っていないし、何時のことだったのか定かではないのだが、突然の台数アップしだした後の83年の半ば頃ではなかったかと思うのである。
武本一郎さんは東大卒のエリートで、百合草三佐雄さんなど技術部などにもいっぱい同期がいて、その後彼なりの動きを秘かにやったのだと思う。何故か単車事業部内にジェットスキーに関する動きが出始めて、85年8月 鶴谷将俊さんがオーストラリア社長から戻って、企画でジェットスキーを担当してくれるころには、何となく『やろう』という雰囲気が事業本部内にもあったのである。
それ以降は、『新しいものを立ち上げる』私なりの独自の方法で『新しいジェットスキープロジェクト』が立ち上がり順調に進展してゆくのだが、翌86年3月、福井昇さんを、発動機から単車企画に貰い受けてから、鶴谷さんを中心に具体的に動き出すのである。
そういう意味では、83年から85年は静かな動きなのだが、86年度からは『ジェットスキー・プロジェクト』は一気に動き出すのである。
★このプロジェクトを立ち上げる決裁書などは全く存在しない。企画部門を任されている私の権限の中で独自に推進していったのである。
『権限とは、その人に与えられた誤りの量である』
私は自らの権限も、部下の権限も常にこのように考えていたのである。
当時の上司にも恵まれて、大庭浩本部長も、髙橋鐵郎副本部長も、財務関連・マーケッテング関連については、ほぼ100%任して頂いていて、具体的な指示などは一切ないそんな状況だったし、KMCを担当していた田崎さんに対しても、細かい指示などは一切なかった そんな体制だったのである。リンカーン工場の生産大幅増など、別に稟議など一切なしに田崎さんの独断で進められたものだと思うし、私もそんな計画だったとは、今月まで知らなかったのである。