★現役時代、カワサキで二輪の仕事をさせて頂いたのは誠にラッキーであった。
川崎重工業の中でも、二輪事業だけは飛びぬけてオモシロい。
それは受注産業ではなくて民需であり、それも末端のユーザーを相手にする量産事業であり、同じ量産事業でもテレビや洗濯機と違って、ユーザーがそれに乗って世の中を走り回っているのである。だから販売したユーザーと接触できるし、4輪と違って遊びが中心だから、お客さんの層がオモシロいのである。
特にカワサキの場合は、お客さんともバイクを売ってくれる販売店とも『仲間意識』が極端に強かったので、独特のカワサキイメージが出来上がっているのである。
そんな二輪業界の中でも、レースの世界と若い頃から関係があって繋がったのは私にとって誠に好運だったのである。
50年も前の若い頃のレース仲間はそんなに大したこともない単なるライダーだったのに、みんなそれぞれ立派になって、日本を代表する、もっと言えば世界でも名の通ったライダーに成長したのだが、例えば星野一義でも、金谷秀夫でも昔の20歳の頃と同じように付き合えたし、その先輩格の山本隆さんなどとは、レース以外でもいろいろ関係があったりするのでホントにオモシロいのである。
そんなレースの世界で、私と同い年の平井稔男さんは、また別格のユニークさで、85歳の今でも『平井道場』と称してFacebook でもこんな記事を連続してアップしているのである。
https://www.facebook.com/groups/110654005951435/?tn-str=*F
いま、平井さんが連載で書こうとしているのは、11月9日付で発刊された二輪車新聞にこのように紹介されている、
『カワサキモトクロスOB有志の会』のことなのである。
この記事を書かれた二輪車新聞の衛藤誠さんもある意味『カワサキ仲間』で今も尚現役記者だが、カワサキのレース緒戦『青野が原モトクロス』の頃も若き二輪車新聞記者さんだったのである。
私はアメリカに行っていて出席できなかったが、カワサキのレースのスタート時期は、この記事にも出ている大槻幸雄さんなどと共にレースに関わっていたし、世界の金谷と言われた金谷秀夫が初めて鈴鹿を走ったのは大槻幸雄さんがカワサキで初めてレース監督をされた『鈴鹿6時間アマチュア耐久レース』なのである。世界の金谷もその時はアマチュアだったのである。
そんなことで、衛藤さんとも平井さんとも私は今でも密接に繋がっていて、アメリカから戻ってきたら早速、お二人から電話を頂いたりしたのである。
特に平井さんは『平井道場便り』の続編を書くので、私に当時の写真を送れと仰るので、昨日こんな写真を送っているのである。
右から3番目が山本隆、左側4人は未だ未契約の若手だが、その4人目が星野一義なのである。
本田宗一郎さんと一緒に写っているのは、兵庫メグロの西海社長、私も平井さんもお世話になった。カワサキのレースを実質始めたのは西海社長、ご本人は元オートレースのプロ選手なのである。西海さんがいなかったらカワサキのレースもまた違った形になっていたのは間違いない。 この青野ヶ原のレースの仕掛け人でもある。
これはカワサキのレース25周年記念の会合を私が主宰したのだが、その時集まってくれたOBライダーと当時の現役ライダーたちである。みんな有名ライダーだけど、何人くらいお解りですか?
詳しくはまた、平井さんが書かれると思うのでこのくらいで。