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カワサキ・モトクロスの始まり と その意義

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★来る7月7日に『カワサキモトクロスOB有志の会』が マリンピア神戸のLOCHE MARKET STOREで開催されることになっている。

『カワサキのモトクロスの始まり と その意義』について簡単に喋って欲しいという依頼が、この会の主宰者である大津信さんから私にあったのだが、現場では簡単に話すことにして、その背景などを纏めてみることにする。

ホントにその時代を知る人が、殆ど居なくなってしまっているのである。

 

 

1.当時のカワサキ単車事業部の状況

 カワサキの単車事業は、昭和35年(1960)4月に単車準備室が出来て、当時の川﨑航空機工業の明石工場での一貫生産を計画し、10月からモペットの生産が始まったのである。 その翌年125ccB7が発売されたのだが、フレームに欠陥があって返却が相次ぎ、私はこの年の11月に発動機事業部の中に初めてできた単車営業課に異動したのだが、ものを売るはずの営業なのに、毎日毎日、明石工場に返却されるB7の物品税の戻入手続きが主たる業務で、昭和38年1月の生産台数は出荷より返却台数が上回ってマイナスを記録したりしたのである。

そんな単車事業を今後も進めるべきかどうか? 当時の本社が日本能率協会に大掛かりな調査を依頼しその調査が進められていたのが昭和38年度(1963)のことである。

そんな状況の中で昭和38年5月19日、兵庫県青野ヶ原モトクロスが開催され、カワサキも出場することになったのだが、これは会社が進めた計画ではなくて、当時の生産部門の中村治道さん(当時課長か係長)を中心に有志が集まって、勝手に進められたものだったのである。この当時の状況を語れるはずの中村治道・髙橋鐵郎さんなどは既に他界されて、この時のことをご存じの方は本当に少なくなってしまったのである。

 非公式に生産部門が勝手に進めたプロジェクトなので、残業料も出なかったので、当時の営業の小野助治次長から『パンでも買う金を都合してやれ』という指示があって、私はちょっとしたお金を都合しただけの話なのである。

ただ、私の係からは川合寿一さんが野球部のマネージャーであった経験をかわれて、チームのマネージャー役をしていたので『何かやってるな』ということぐらいは知っていたのである。そんな関係もあって川合寿一さんが、カワサキの最初の契約ライダーの歳森康師や、山本隆の契約やカワサキコンバットとの契約を担当していたのである。

 

2.青野ヶ原モトクロスの経緯

当時の川崎航空機にはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、二輪車については全くの素人ばかりで、ましてやレースのことなど解った人は皆無だったはずなのである。

このレースの仕掛け人は、川崎航空機の人ではなくて、兵庫メグロの西海義治社長だったのだろう。西海さんはオートレースの元プロライダーだったし、カワサキがレースを正規に始めてからもいろいろと応援して頂いた方なのである。

       

 

青野ヶ原のレースのスタートは、昭和37年11月に鈴鹿サーキットで開催された日本初のロードレースに明石工場の生産関係のメンバーたちがバスを仕立てて観戦したのだが、そのメンバーの中心が中村治道・高橋鐵郎・川崎芳夫さんたちで、このレースを観て生産部門の『レース熱』は一挙に燃え上がり 青野ヶ原のレースに繋がったのである。中村治道さんをご存知の方はもう少ないと思うが、熱っぽい人の多かった単車事業部でも最右翼と言って間違いない方なのである。

『レーサーを作る』などと言っても、そんなノウハウを持っている人は、当時のカワサキの中には居なかったので、西海さんは兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の製造部門にに送り込んで、新たに生産が始まった125B8のモトクロッサーを松尾さん主導で作ったのである。青野ヶ原のレースはMFJの兵庫県大会として開催されたのだが、これを企画したのも多分当時のMFJの兵庫県支部長をされていた西海社長ではなかったのか? 

 

ちなみに、カワサキが正規にレースをやりかけてからも、レーサーのエンジンは技術部担当だが、マシンに創り上げるのは全て松尾勇さんがいた『製造部のモトクロス職場』で、それはずっと後のF21Mの時代まで続くのである。

     

 

カワサキのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、KXの称号で呼ばれるようになって以降からのことで、大槻・安藤・糠谷と3代続いたレース監督の後の、百合草三佐雄さんが監督になってからが、カワサキも本格的なファクトリー運営になって行ったのではなかろうか?

 

 

3.青野ヶ原のレース結果

 昭和38年5月19日に行われたモトクロスレースの結果は、カワサキが1位から6位までを独占した完璧な勝利だったのである。

  長くこのような形で、神戸のカワサキワールドに展示されていたので、ご存じの方も多いと思う。

 ライダーは当時の社員の人たちなのである。

  左から中村・髙橋・秋原・多賀井・加藤・藤森・飯原・藤井・武藤

 

      

 

青野ヶ原モトクロスに関してのこんな記事なども残されていて、その勝利だけがあたかもマシンもライダーも完璧だったように書かれているのだが、これは雨で出来た水溜りのために他車はみんなエンジンが止まってしまったのだが、カワサキだけは西海さんの指示の『防水対策』が完璧で、独り走り続けた結果だったのである。

 このレースにヤマハで出ていて、ご自身もマシンが止まってしまった山本隆さんんもそう言ってるので間違いないのである。

 私は、モトクロスの写真を初めて見た時、どれも水しぶきを上げて走っているので、『モトクロスとはそんな水溜りを走る競技だ』とホントにそう思ったのである。

 

     

 

カワサキの長いレースの歴史の中でも、1位から6位まで独占というのは、この緒戦だけであとはそんな実績は皆無なのである。

まさに『天祐』というべきなのだが、このレース結果に明石工場中が湧きかえって、意気盛んになったのは間違いない事実なのである。

 

 

4.日本能率協会の調査結論

 たまたま日本能率協会の市場調査中の最中で、その結論は『この事業継続すべし』ということになるのだが、青野が原での結果が齎した現場末端の意気の高さと共に、その年新発売された125㏄B8が、堅調な販売を静かに続けていたということもあったのである。

  

    

 

 その前の125ccB7が散々な状況で、当時の『技術部の真価が問われる製品』であっただけに、ホントに良かったと思っている。

そんなこともあって、カワサキの二輪事業は継続という結論がなされるのだが、日本能率協会が事業継続の条件の中に『広告宣伝課を創ること』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになって、その中でカワサキのレースは展開されることに成るのである。

 

 

5.広告宣伝課とレース

ここから先の話は、カワサキの中で『当事者の私にしか語れない分野』で、あまり知られてはいないことも多いので確りと書き残しておきたいのである。

 当時のカワサキの販売分野は、『カワサキ自動車販売』(今のKMJの前身)が担当していて、昭和36年(1961)にメグロと業務提携して社長には川崎航空機工業の土崎英利専務が直接担当されることになり、翌昭和37年(1962)にはメイハツ・メグロを吸収合併して、販売を総括することになったのである。 私が営業に異動したのもこの年のことなのである。当時は未だ国内市場だけで、海外市場は未開拓の時代なのである。

現在とは全く違って、販売会社が工場よりは圧倒的に強かった時代で、世の中もトヨタ自販・トヨタ自工の時代なのである。

そのカワサキ自販で、『総務並びに広告宣伝』を担当されていたのが、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで小野田滋郎さんなのである。 (当時の小野田さんの写真がないので・・)

        

 

現役時代、『この人にはとても敵わない』と思った人の一人が小野田滋郎さんで、陸士出身の『戦略・戦術・戦闘論』など確りとたたみこまれたのである。小野田さんが広告宣伝の後継者に私を選び、立ち上がりの何ヶ月だけを親身に手伝ってくださったのである。

その広告宣伝の担当業務の中に『レース』もあったし『レース運営の経験』のある人など社内に皆無の状況だったので、自然に広告宣伝課担当という形になって行ったのである。

カワサキのレースは、青野ヶ原のモトクロスが最初だと言われているのだが、実は125B7時代に既にカワサキ自販の方でMCFAJの全日本などにも、ライダー三吉一行で出場しているのだが、このレースを担当していたのが小野田滋郎さんで、青野ヶ原のあった昭和38年(1963)には、ヤマハから強引に三橋実を引っこ抜いて厚木に『カワサキコンバット』なるチームを作らせているのである。

 

  

ヤマハの本橋明泰さんにお会いした時、こんな話が飛び出したのである。『カワサキB7のエンジンを何台か貰って、レースに出た』と仰るのである。そして『井手さんという方がおられましたね』とも。

当時のライダーとしてはは三吉一行、それに三室や本橋さんなども関係したという話で、その中に三橋実もいたのだと思う。

当時は、三橋実もヤマハにいて、青野ヶ原のスタートとなった鈴鹿の日本初のロードレースでは、250㏄の優勝者が三橋、350ccの優勝者が同じくヤマハの片山義美なのである。

この二人のチャンピオンは、その後のカワサキのレースに色濃く関係しているので不思議なご縁なのである。

 

これがカワサキ創成期のカワサキライダーたちである。

      

 

 『カワサキコンバット』の三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫と『神戸木の実』の山本隆・歳森康師の二人の6人が契約ライダー。

 左から4人は未契約の若手ライダーで、4人目が星野一義である。

 

そんな経緯から、『カワサキのレース』は広告宣伝課がそのままライダー契約などを直接担当することになったのだが、当時は本社から『事業開発費』として毎年1億2000万円の広告予算が3年間頂けたので、レース予算もライダー契約なども悠々と出来た3年間だったのである。私の年収が50万円に達しない、そんな時代の1億2000万円だったので、それは相当な額だったのである。

ライダー育成費として三橋実のカワサキコンバットに月額20万円を渡していたので、厚木にライダーの宿舎を借りて全国から若手の有望ライダーがいっぱい集まっていて、その中に星野一義・金子豊などもいたし、ひょっとしたら増田耕司などもいたかも知れないのである。

レース場に行くのも、最初は会社の運輸課のトラックで運んでいたのだが、この費用の中から三橋が中古のトラックを買ってきて、それでレース運営をするようになったのである。

星野一義が最初に出場した和歌山の紀の川モトクロスには、彼はライダーで来ていたのではなくて、トラックの運転手で来ていたのだが、朝の練習で岡部が小指を骨折したので、『岡部の代わりに』『岡部の名前で』出場したのが星野の初めてのレースなのである。

ちょっと余談だが、なぜそんな勝手なことが出来たのか?

実はこのレースはカワサキが仕掛けて『スポーツニッポンが主催』した『カワサキ主催』のようなレースで、その第1回大会だった。

当時はモトクロスをやって優勝しても、どこにも報道されないし、モトクロスを知っている人も少なかったのである。広告宣伝課が担当しているレースだから「広報活動」も確りとやりたかったのである。このスポニチ主催のモトクロスはこのあと5回ほど続くのだが、毎回スポニチに大きく報道されたのである。多分最後の5回目は山本隆くんの当時の練習場だった加古川の河原で開催されたのである。

豊かな広告宣伝費のお蔭で、いろんなことが可能で、レースの広報もできたし、有望ライダーも育っていったのである。

 

★青野ヶ原の勝利からカワサキの二輪事業の継続は決まり、その中での『レースの位置づけ』は非常に大きなものだったのである。

50年以上も経った今は、競合メーカーに比して、カワサキも優れている分野が幾つもあるのだろうが、この1960年代はには『レース』以外に競合他社に優位に立てるものは『何一つない』そんな時代だったのである。

 

  

 

そんな時代のレースを支えていた技術屋さんたちの中に山田煕明・髙橋鐵郎の後川崎重工業の副社長になられたお二人もおられる。

左から4人目が、B7時代からレースに関係された井出哲哉さんである。

ちなみに、この写真を私に送ってくれたのは、当時のレース仲間、元川崎重工業社長の田崎雅元さんなのである。

当時のレースは、いろいろあったが事業の中枢を担う人たちが担当していたことは間違いないのである。

 

もし、『西海義治さんや松尾勇さん』がいなかったら、青野ヶ原は無かったかも知れない。

もし 『青野ヶ原のレース』がなかったら、カワサキの二輪事業の継続はひょっとしたらなかったかも知れない。

もし、『鈴鹿サーキット』で昭和37年11月にレースがなかったら、『カワサキの二輪事業』はなかったかも知れない。

もし、『膨大な広告宣伝費』がなかったらカワサキのレース運営も、こんなことにはなってはいない。

もし、『小野田滋郎』さんが厚木に『カワサキコンバット』を創っていなかったら、こんなライダーが集まっていなかったかも知れない。

 

その後のカワサキのブランドイメージ創造などを見ても、『レースが果たした役割』は非常に大きなものだった。

そんなレースの世界に色濃く関わりを持ったことが、『私の人生を豊かなもの』にしてくれたのは間違いないのである。

 


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