★今年も年賀状を頂いたのだが、私はこの数年前から、永年続けてきた年賀状をやめてしまったのである。
ネットも盛んになった現在、年賀状はどんな推移になっているのか調べてみた。
この推移をみると、年賀状が一般化していくのは戦後のことだということが解る。そして急激に増えて、2000年代の初めにピークとなりその後減少の傾向にあるのだが、これはネットの普及に原因があるのだろう。
不思議なことに一人の人が出す枚数も、同じような傾向なので、日本の人口減少の影響ではなくて、全体に衰退傾向なのだろう。
★私自身は、年賀状を出すことが一般化した現役時代の1980年ごろから毎年100枚ほどの年賀状を出すようになったのだが、私の生き方のベースが『差別化』なので、年賀状に関しても一般の方とはちょっと変わっていて、独特のものだったのである。
まず、私が頂く年賀状の多くが親戚や学生時代からのお付き合いのあった方のほかは『会社での後輩・部下の方』のものが多かったので私が発信する相手も一番多かったのはそんな『会社の後輩たち』で、年賀状を頂く上司以外の『上司の方には一切出さなかった』のである。
毎年ほぼ『100枚を目途』に出していたのだが、それは全て毛筆で書いたもので、一切印刷などはしなかったのである。
そんな私独特の年賀状をやめるきっかけになったのは、もう5年以上も前にもなるのだろうか、母が亡くなって『喪中はがき』を出したときに、当然年賀状は出せなかったし、『喪中はがき』を手書きで書くこともムツカシク、初めて『葉書の印刷』をしたのだが、この『喪中葉書の印刷』に大いに違和感を感じたのである。
現役時代にはよく異動もあったが、『個人的な異動通知』も葉書を印刷して出すことも一切なかったしその間お世話になった方へのお礼状は全て自筆でそれぞれの内容で差し上げたので、そんなこともあって、
● 喪中はがきを出したので、年賀状が出せなかった
● それまで一切『葉書のの印刷の挨拶状』はし出さなかったのに、それが途切れてしまった
● ネットをやりかけて、多くの方とネットで繋がって、その中に年賀状を出す方も多く入っていた
● 今までずっと年賀状を出していた方が亡くなって、出す相手が年々少なくなる
などの理由から年賀状を出すのを止めてしまったのだが、ネットの世界でも『活字だけの新年おめでとう』では、何となく気が済まないので、書初めのようなつもりで毛筆でいろいろ書いて、ネットの世界にもアップしているのである。
★この数年、私は1枚も年賀状を出さなかったのだが、今年も50人近い方から年賀状を頂いたのである。
★ 残念ながら、ずっと頂いていた野球部の球友からのものは、今は1枚も無くなってしまったし、同年代の方々は年賀状自体を止めてしまわれた方も多くて、いま年賀状を頂いている方の殆どはかっての『カワ販関係の後輩』と同じく『川重の後輩』たちで、みんな一緒に『ホントに仕事をしたな』と思える想い出いっぱいの仲間たちなのである。
全国の特約店制を実施した時の仲間たち、レース関係、東京対策、ジェットスキーのスタート時代に協働した人たちなどなど、川重企画時代の仲間や東南アジアプロジェクトを一緒に推進した仲間たち、さらに最後の2年間北海道川重建機の人たちも入っている。
そんな中にカワサキの販売店の人たちが今でも入っているのは嬉しいし、多分誰もその消息を詳しくはご存じない『古石喜代司くん』が年賀状だけは必ず送ってくれるのである。住所が書いていないのだが、郵便番号はあるので、 『 堺市南区 茶山台』までは解るのである。住所まで書いていないのは、彼らしい配慮だと思っている。
ちょっと変わったところでは、川重副社長をして今は加西市の副市長の佐伯武彦さんが、『地元有志でキクラゲ栽培会社』を4月に立ち上げるそうである。多分もう80歳になってるのではと思うが、昨年はエージシュート2回を達成したとか、今でも一途に前向きなのは、『如何にも彼らしいな』と思うのである。
年賀状は出さなかったが、近いうちに何人かの方にはハガキで『お礼と近況』などお知らせしておこうと思っているのだが、この中の半分ほどは、Facebook で繋がっているので、このブログで大丈夫ご返事になっているのである。
殆ど同じ年の藤浦尭士さんを除いては、みんな後輩の方ばかりで、年賀状からも流石に歳をとったなと感じる新春なのである。